帝都の夜は、整いすぎていた。
街路は磨かれ、灯火は一定の間隔で並び、巡回兵の足並みは乱れず、塔の上では魔導光が静かに脈打っている。
国家が国家として機能している証。
秩序がいまなお有効である証明。
だが、その整然たる帝都の片隅で、ひとりの青年は吐き捨てるように笑った。
「……くだらない」
名を、レオードという。
若いダイバーだった。
若いと言っても、既に宮廷内では異例の速度で頭角を現している。
感応力は高く、演算は速く、戦場での予測精度は同世代を大きく上回る。
だが同時に、扱いづらい男でもあった。
優秀すぎる者にありがちなことだが、彼は周囲の遅さに耐えられなかった。
上官の判断が遅い。
同僚の理解が浅い。
古参は経験を誇るくせに鈍重で、若手は若手で彼を怖れて距離を置く。
結果として、彼は孤立していた。
命令には従う。
任務もこなす。
だが心の底では、誰も信用していない。
そんな彼が今夜呼び出されたのは、中央演算局の下層資料庫だった。
表向きの理由は、機密記録の再点検。
だが実際には、そんなものは口実にすぎなかった。
古い保管棚の間を抜け、指定された区画へ向かう。
灯りは暗く、人の気配はない。
「……誰だ」
返事はなかった。
しかし次の瞬間、背後の空気がわずかに変わった。
レオードは反射的に振り返り、感応野を広げた。
その一拍だけ遅れて、自分の喉元に冷たいものが走っていることに気づく。
刃ではない。
気配だ。
人がその気になれば、もう殺せていたという確信。
「警戒は正しい」
声がした。
若い。穏やかで、どこか柔らかい。
だが柔らかいだけに、かえって底知れなかった。
棚の影から現れた男は、黒い外套をまとっていた。
顔立ちは整っている。
年若くすら見える。
だがその目だけが、ひどく古く、そして冷たかった。
レオードは即座に後退し、感応を尖らせる。
「貴様、何者だ」
男は少しだけ笑った。
「君のような人間に、そう問われるのは嫌いじゃない」
「答えろ」
「シックス」
その名が落ちた瞬間、レオードの背筋を冷たいものが走った。
知らぬ名ではない。
いや、知らぬ者などいない。
新しい血族。
王。
病のように国家を蝕む者。
選ばれた者にだけ、別の地平を見せる災厄。
「……なぜここにいる」
「君に会いに来た」
「ふざけるな」
「ふざけていない」
シックスはまっすぐに彼を見た。
その視線に敵意はない。
むしろ、奇妙なほど理解を含んでいた。
「君は優秀だ」
レオードの眉がぴくりと動く。
「帝都中央でこの年齢、この地位、この精度。
凡人の群れに埋もれるには惜しい。
だが周囲は君を理解しない。
便利な道具としては見るが、同じ景色を見てはいない」
「……黙れ」
「違うかい?」
違わなかった。
その一言が、たちの悪いことにあまりに正確だった。
レオードは歯を食いしばる。
怒りではない。
見透かされたことへの嫌悪。
それ以上に、自分でも目を逸らしていた部分を、他人に言い当てられたことへの動揺。
シックスは続ける。
「彼らは君を褒めるだろう。
優秀だと、将来有望だと、国家の柱だと。
でも本当は恐れている。
君が自分たちとは違うことを知っているから」
「違う、だと?」
「そうだ。
君は彼らとは違う」
その声は、ささやきに近かった。
だが甘いだけではない。
ある種の冷厳さがあった。
慰めではなく、診断のような響き。
「君は壊れているんじゃない。
過剰なんだ。
進みすぎている。
見えすぎている。
考えすぎている。
凡人の尺度では収まらない」
レオードの呼吸が、わずかに乱れる。
禁句だった。
ずっと心の奥で、自分だけが思っていたこと。
口にすれば傲慢だと断じられ、表に出せば孤立が深まるとわかっていた本音。
――自分は、周囲とは違う。
シックスは、その暗い核に躊躇なく触れてきた。
「君はなぜ、まだそこにいる?」
「……」
「愚鈍な上官に従い、鈍い同僚と足並みを揃え、意味もなく擦り減っていく。
それが忠誠かい?
それとも惰性かい?」
レオードは唇を噛んだ。
「国家は必要だ」
「必要だろうね」
シックスはあっさり頷いた。
「群れには檻がいる。
だが君のような者まで、その檻に飼われる必要はない」
「黙れ……!」
「君は“人間”に失望している」
それは断言だった。
「凡人、臆病者、保身家、寄生虫。
そういう者たちを抱え込んだまま国家は動く。
だがその鈍さは、君にとっては苦痛でしかないはずだ」
レオードの感応野が震える。
否定しようとした。
だが言葉が出ない。
なぜなら、それは真実だったからだ。
戦場で何度も見た。
判断の遅れで死ぬ兵。
保身で責任をなすりつける官僚。
足を引っ張る無能。
それでも国家は、それら全部を抱えて進む。
理解はしていた。
だが、耐えがたかった。
「君は彼らと違う」
シックスは一歩も詰めないまま、なおも言う。
「だからこそ君は孤独なんだ。
そしてその孤独は、君が間違っている証拠じゃない。
むしろ逆だ」
その目が、静かに細まる。
「君は進化している」
その瞬間、レオードの胸の奥で、何かが軋んだ。
救われた気がした。
自分は異常ではない。
欠陥ではない。
周囲と合わないのは、自分が高みにいるからだ。
その危険な甘さに、彼の心は一瞬、確かに傾いた。
だが次の瞬間。
「――安いな」
別の声が、空気を切った。
重く、冷たく、よく通る声。
その場にあるだけで、空間の重心を奪うような存在感。
資料庫の奥、閉ざされていたはずの鉄扉がいつの間にか開いていた。
その向こうから、ゆっくりと歩み出てくる男がいる。
ボスヤスフォート。
レオードは息を呑んだ。
シックスは微笑を消さない。
「盗み聞きとは趣味が悪いね」
「盗みではない。
ここは私の国家だ。
私の部下に、私の許しもなく病原を撒かれては困る」
レオードははっとして片膝をついた。
「首相閣下……!」
「下がれ、と言いたいところだが」
ボスヤスフォートの視線は、まっすぐシックスへ向いていた。
「今日は聞いていろ。
お前にも関わる話だ」
レオードは動けなかった。
シックスがくつくつと笑う。
「なるほど。
君は本当に真面目に君主をしているらしい」
「お前のようなものを相手にする時だけだ」
ボスヤスフォートはレオードの方を見ない。
それでも、その声は明確に彼へ届いていた。
「選ばれた。進化した。凡人とは違う。
……なるほど、耳障りの良い言葉だ」
シックスが肩をすくめる。
「事実だからね」
「事実かどうかは問題ではない」
ボスヤスフォートは一歩、前へ出た。
「問題は、その先だ」
そこで初めて、彼はレオードを見た。
その眼差しは冷たい。
甘さはない。
だが軽蔑でもなかった。
値踏みし、見定め、その上で語りかける支配者の目だった。
「レオード。
お前は優秀だ」
直截だった。
おためごかしがない。
「同世代より見えている。読めている。届いている。
周囲が遅く見えるのも、苦痛なのも事実だろう」
レオードの喉が詰まる。
否定されない。
慰められもしない。
そのまま認められた。
ボスヤスフォートは続ける。
「そして、愚者に失望するのも当然だ。
私もしている」
レオードが目を見開く。
シックスの笑みが、ほんの少しだけ深まった。
面白がっているのがわかる。
「だが」
その一語で、場の温度が変わった。
「凡愚に失望したからといって、凡愚を捨ててよい理由にはならん」
シックスの目が細くなる。
ボスヤスフォートの声は、冷たいままだった。
「自分は選ばれた存在だ。
周囲とは違う。
だから群れの外に出る。
……それは支配者の論理ではない」
一歩。
「逃亡者の論理だ」
レオードの心臓が、強く打った。
その言葉は鋭かった。
責めている。
だがただ責めるだけではない。
彼が今まさに選びかけたものの正体を、より重い言葉で定義しなおしてしまった。
シックスが静かに言う。
「厳しいね」
「当然だ」
「彼を苦しめてきたのは国家の方だよ?」
「だろうな」
ボスヤスフォートはあっさり肯定した。
「国家は愚かで、鈍く、醜く、時に有害だ。
それでもなお必要だ」
その断言には迷いがなかった。
「優れた者が、劣った者を見捨てて選民に酔うだけなら簡単だ。
だがそれでは世界は残らん。
誰かが、愚者と臆病者と保身家を抱え込んだまま回さねばならない」
レオードは知らず、拳を握りしめていた。
ボスヤスフォートは彼を見据える。
「お前が本当に彼らより上だというなら、その証明は何だ?」
「……」
「嫌悪して離れることか?
理解されぬと嘆くことか?
違うな」
その声は低く、硬い。
「上に立つとは、下を見捨てる免罪符ではない。
下を背負う義務だ」
その瞬間、シックスの纏う空気がわずかに変わった。
面白がってはいる。
だが今の言葉は、確かに彼の福音への対抗として成立していた。
シックスはゆっくりと口を開く。
「きれいごとだ」
「違う」
「愚者に付き合い続けろと?
足を引かれ、理解されず、腐った制度に呑まれながら?」
「そうだ」
ボスヤスフォートは言い切った。
「それができぬ者は、怪物にはなれても王にはなれん」
しん、と静まり返る。
レオードは動けなかった。
さっきまでシックスの言葉に引かれていた心が、いま別の力で引き戻されていくのがわかった。
甘い救済ではない。
むしろ苦い。
重い。
しんどい。
だが、逃げ道ではないぶんだけ、奇妙な説得力があった。
シックスは嘆息するように笑う。
「相変わらず損な役回りを買うね、ボスヤスフォート。
彼のような者に“責務”を与えるのかい。
せっかく解放してやれるのに」
「解放?」
ボスヤスフォートの目に、冷たい嘲りが宿る。
「選ばれたと囁き、孤独に意味を与え、群れを捨てさせる。
見事な手口だ。
病原体らしい」
シックスはむしろ楽しげだった。
「病は時に、体に不要なものを削ぎ落とす」
「そして宿主ごと殺す」
「弱い宿主ならね」
「国家は宿主ではない」
ボスヤスフォートの声が一段低くなる。
「お前に食わせるための肉塊でもない。
ここにあるのは、私が回す世界だ」
その圧に、レオードは初めて理解した。
この男は本当に、国家を自分の責任として背負っている。
愛しているわけではない。
信じているとも限らない。
むしろ嫌悪すらしているだろう。
それでもなお、捨てない。
その異様な覚悟が、ボスヤスフォートという男の君主としての重さだった。
シックスはレオードへ視線を戻す。
「さて、どうする?」
甘い声だった。
「君はまだ選べる。
理解されないまま群れのために擦り減るか。
それとも、自分と同じ高みにある者たちの側へ来るか」
レオードは息を飲む。
心が揺れる。
どちらの言葉にも真実がある。
どちらも自分の孤独を知っている。
だが、違いもわかってしまった。
シックスは、自分の痛みを“特権”へ変えてくれる。
ボスヤスフォートは、それを“責務”へ変えようとする。
楽なのは前者だ。
甘いのも前者だ。
救われた気がするのも前者だ。
だが――
レオードはゆっくりと立ち上がった。
膝が震えている。
だが目は逸らさない。
「……俺は」
喉が渇く。
それでも絞り出す。
「まだ、答えは出ません」
シックスが目を細める。
ボスヤスフォートは無言。
「でも……少なくとも、今ここで“選ばれた”と言われて飛びつくのは、たぶん違う」
その言葉に、シックスは少しだけ残念そうに笑った。
「賢いね」
「お前ほどじゃない」
「それで十分だ」
意外にも、答えたのはボスヤスフォートだった。
彼はレオードを一瞥し、短く告げる。
「迷え。
だが、自分を特別視する酔いに逃げるな」
レオードは深く頭を下げた。
「……はっ」
その間に、シックスの気配が薄れていく。
いつの間にか、彼は棚の影へ半身を溶かしていた。
まるで最初からここにいなかったかのように、存在感が消えていく。
「今回は引こう」
その声だけが残る。
「でも安心するといい。
彼のような人材は一人じゃない。
国家が優秀な者を孤立させる限り、僕の仕事はなくならない」
「だろうな」
ボスヤスフォートは否定しなかった。
シックスは最後に、少しだけ愉快そうに言った。
「せいぜい繋ぎ止めてみせてよ、君主殿」
そして消えた。
静寂だけが戻る。
長い沈黙ののち、レオードは低く言った。
「……閣下」
「何だ」
「俺は、あいつの言葉に……少し、救われた気がしました」
ボスヤスフォートはそれを責めなかった。
「当然だ」
「ですが同時に、あまりに都合が良すぎるとも思った」
「それも当然だ」
レオードは顔を上げる。
ボスヤスフォートの表情はいつも通り冷たい。
だが、その冷たさは不思議と先ほどほど恐ろしくなかった。
「覚えておけ」
ボスヤスフォートは言う。
「お前が特別であることと、
お前が何のためにその特別さを使うかは、別の問題だ」
レオードは息を呑む。
「才能は免罪符にならん。
孤独もまた同じだ。
それを理由に世界を見捨てるなら、お前は優れているのではなく、ただ逃げただけになる」
その言葉は重かった。
だが同時に、奇妙な支えにもなった。
ただ褒めるのではない。
ただ縛るのでもない。
才能を認めた上で、その使い道を問う。
それが、この男の支配なのだとレオードは理解した。
ボスヤスフォートは踵を返す。
「持ち場へ戻れ。
そして中央演算局の人員配置を見直せ」
「は?」
「お前のような者を、凡庸な管理官の下で腐らせるほど私は甘くない。
孤立は利用される。
ならば先に配置を変える」
レオードは呆然とした。
「……閣下、それは」
「勘違いするな」
ボスヤスフォートは振り向かない。
「気遣いではない。
国家防衛だ」
そのまま外套を翻し、資料庫の闇の向こうへ消えていく。
レオードはしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥にはまだ、シックスの声が残っている。
お前は違う。
お前は進化している。
その言葉の甘さは消えない。
だが同時に、別の声も刻まれていた。
上に立つとは、下を背負う義務だ。
それは救済ではない。
祝福でもない。
むしろ呪いに近かった。
だが、その呪いを引き受けている男が、帝国の頂に実際に立っているのを見てしまった以上、レオードはもう簡単には酔えなかった。
同じ頃。
帝都の外れ、使われなくなった転移塔の残骸に腰掛け、シックスは夜空を見上げていた。
傍らには血族の一人が控えている。
「王。あの若者は取り込めませんでしたか」
「今回はね」
シックスは笑う。
「でも十分だよ。
揺れた。
そして一度揺れた人間は、次も揺れる」
「ボスヤスフォートが対処を始めています」
「うん。上出来だ」
シックスは楽しそうだった。
「彼は正しい。
人材の孤立を放置すれば、僕に食われる。
だから配置を変え、意味を与え、責務を負わせ、繋ぎ止めようとする」
血族が低く問う。
「それでも勝てると?」
「もちろん」
シックスは空を見たまま答える。
「国家はいつだって少し遅い。
一人を救えても、十人目でほころぶ。
彼が“責務”を与えられる人間ばかりならいいけれど、人はそんなにきれいじゃない」
その目に冷たい光が宿る。
「次は、もっと醜い者にしよう。
才能はあるが、責務より優越を欲する者。
孤独より承認を求める者。
そういう人間の方が、感染は早い」
血族が頷く。
シックスは、くすりと笑った。
「さあ始めよう。
国家と病の、根競べだ」
そして帝都では、ボスヤスフォートもまた同じ夜空を見上げていた。
彼は理解していた。
今夜防げたのは、一件にすぎない。
新しい血族は軍ではない。
切り崩すべき戦線もなければ、落とすべき城もない。
あるのは人の心だけだ。
孤独、傲慢、承認欲求、失望、選民意識。
そこへ病のように入り込む。
ならばこちらも変わるしかない。
ただ命令するだけでは足りない。
ただ罰するだけでも遅い。
才能ある者に位置を与え、責務を与え、国家の内に留めねばならない。
それは面倒で、非効率で、ひどく手間がかかる。
だが、それをやらなければ、この病には勝てない。
ボスヤスフォートは静かに呟いた。
「……厄介な」
それは怒りではなかった。
むしろ、同じく支配の才を持つ敵への、冷たい評価だった。
こうして、戦いは次の段階へ進んだ。
剣ではない。
軍勢でもない。
狙われるのは、国の未来を担うはずだった人材そのもの。
シックスは囁く。
「お前は選ばれている」
ボスヤスフォートは突きつける。
「ならば背負え」
甘美な特権か。
苦い責務か。
その二つの言葉のあいだで、帝国の才能たちはこれから次々に試されていくのだった。