夜の格納庫は、静かだった。
灯りは落とされ、天井近くの細い保守灯だけが、巨大な機体の輪郭をぼんやりと照らしている。
その光の中で、ラクリモーサは眠っていた。
重い胸郭。
分厚い肩装甲。
古風で威圧的な全身の線。
近代の洗練されたMHとは違う、もっと原始的で、もっと苛烈な力をそのまま形にしたような巨体。
かつてツァイス家の祖たるヴァレリウス・ツァイス公が、自らの騎体として組み上げた名機。
乗り手を選ぶ重装甲と大出力。
生半可な騎士では起動すらままならない、豪壮なる古き怪物。
そして今は、ただ沈黙している。
ゼルクは、その足元に立っていた。
三十二。
若手と言い逃れるには、もう遅い年齢だった。
それでいて老境には遠い。
剣はなお冴え、体も衰えてはいない。
むしろ白兵の技だけを言うなら、今がもっとも円熟に近い。
それでも彼は、ここにいる。
騎士団の剣術師範。
若い騎士候補を教え、近衛の白兵教導を任され、必要とあらば実戦護衛にも駆り出される。
役目としては立派だ。
信頼もされている。
腕も評価されている。
だが、それはゼルクの望んだ場所ではなかった。
「……」
彼は無言でラクリモーサを見上げる。
この機体は、一族の誇りだった。
栄光の証だった。
そして同時に、今や家の衰退を黙って見下ろす墓標でもあった。
整備は止まっていない。
最低限の維持はされている。
外装には薄く埃が積もり、関節部の露出フレームには鈍い古色が滲んでいるが、それでも捨て置かれた廃棄物ではない。
使用人たちは敬意をもって扱う。
一族の者は皆、これを“家の象徴”と呼ぶ。
だがゼルクには、それが別のものに見えていた。
――お前には届かなかった。
そう、毎夜囁いてくる、冷たい巨人に。
彼は拳を握った。
無意識だった。
血筋はある。
剣の腕もある。
実戦の覚えもある。
若い頃には何度も言われたものだ。
ツァイス家の次代は、おそらくお前だ、と。
だが、最後の一つが来なかった。
ファティマ。
幾度候補に挙がっても、縁は結ばれなかった。
一度として、最後まで届かなかった。
より若い者が先に選ばれ、より派手な者が先に契約を結び、剣では到底及ばぬような者が“MH騎士”として上に立っていった。
剣なら自分の方が上だ、と、何度思ったかわからない。
だが現実には、騎士として上なのは向こうだった。
それがこの世界の答えだった。
ゼルクは格納庫の床を見た。
磨かれた石の上に、自分の影が長く落ちている。
「……俺が、足りなかったのか」
答える者はない。
ラクリモーサは沈黙したままだ。
その沈黙が、よけいに残酷だった。
もし罵ってくれればよかった。
お前は駄目だと、届かなかったのだと、はっきり断じてくれればまだ楽だった。
だがこの機体は何も言わない。
ただそこにあるだけで、ゼルクの未達を形にしてしまう。
彼がその場を去ろうとした時だった。
「美しい機体だ」
声がした。
低くも高くもない、若い男の声。
穏やかで、どこか親しげですらある。
だが、この場にいるはずのない響きだった。
ゼルクは即座に振り向いた。
格納庫の柱影に、一人の男が立っている。
黒い外套。
整った顔立ち。
年若く見える。
だがその眼だけが、ひどく冷たく古い。
ゼルクの背筋がこわばった。
「貴様……」
男は少しだけ笑った。
「警戒はもっともだね。
だが叫ばない方がいい。
今夜、君と話をしに来たのは、兵ではなく僕だ」
ゼルクの声は自然に低くなる。
「シックス」
「正解」
新しい血族の王は、まるで招かれた客のように一歩だけ光の中へ出た。
その視線が、ラクリモーサの巨体をゆっくりと見上げる。
「なるほど。
これが君の家の遺産か」
「何の用だ」
「君に会いに来た」
「断る」
「まだ用件も聞いていないのに?」
「聞く価値がない」
シックスは笑った。
だが馬鹿にした様子はない。
むしろ、その即答を面白がっているようだった。
「実直だ。
そういうところは好ましい」
ゼルクは返事をしなかった。
剣の柄に手はかけない。
だがいつでも抜ける距離感を保つ。
シックスはそれを見て、なお楽しそうに言う。
「けれど、実直であることと、満たされていることは別だ」
「……」
「君は不満だろう?」
沈黙が落ちた。
格納庫の空気が、わずかに重くなる。
シックスはゆっくりと続けた。
「剣はある。
血もある。
機体もある。
だが最後の鍵だけが来ない。
だから君はここで足を止めたまま、他人に剣を教える側へ回された」
ゼルクの眉がぴくりと動く。
「黙れ」
「違うかい?」
「黙れ」
「剣術師範。立派な肩書だ。
若者に技を伝え、国に仕え、忠実に日々を生きる。
周囲は君を惜しい男だと言うだろう。
腕は本物だ、運がなかったのだと」
シックスはそこで、わずかに首を傾けた。
「だが、それで足りるなら、君は毎夜こんな場所には来ない」
ゼルクの手が、ほんの少しだけ強く握られる。
それだけで十分だった。
シックスは確信したのだろう。
相手の傷の深さを。
「君はまだ終わっていない。
教える側に回るには早すぎる。
本来なら、前に立つべき剣だ」
「……わかったような口を利くな」
「わかるさ」
シックスの声は静かだった。
「君のような人間は珍しくない。
制度に見捨てられたわけではない。
制度の方が、君を使い損ねているんだ」
ゼルクは無意識にラクリモーサを見上げた。
その視線を追って、シックスもまた機体を見た。
「ラクリモーサ、だったかな」
ゼルクの目が細くなる。
「なぜそれを知っている」
「知ろうと思えばね」
シックスは機体の輪郭をなぞるように見つめた。
「“涙する日”。いい名だ。
悲しんでいるのは機体か、家か、それとも君自身か」
その一言は、剣より鋭かった。
ゼルクの喉が、ひどく乾いた。
シックスはさらに言う。
「君の家のMHは、君を待っているんじゃない。
君が届かないまま老いていくのを、毎日見せつけている」
「やめろ」
「君は自分が半端者ではないと知っている。
だからこそ苦しいんだ。
本当に無能なら、もっと早く諦められた」
ゼルクの呼吸が乱れる。
その通りだった。
無能なら楽だった。
剣が鈍いなら、血が足りぬなら、何か一つでも足りぬと自分で納得できるなら、まだ救いはあった。
だが足りないわけではない。
届きうる場所の手前で、ずっと止められている。
それが地獄だった。
シックスは、まるで当然のことを告げるように言った。
「君には資格がある」
ゼルクの体が、わずかに強張る。
「君の剣は本物だ。
本来なら、あの機体に乗り、誰よりも前に立つべき騎士だった。
この国がそれを選べなかっただけだ」
「……」
「君は選ばれなかったんじゃない」
その声は、甘い。
だが、ただ甘いだけではない。
確信に満ちていた。
世界の真実を語る者のような、厄介な説得力がある。
「この国が、君を選べなかったんだ。」
ゼルクは目を伏せた。
胸の奥で、何かが疼いていた。
ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
認めてほしかったのだ。
己の未達は無価値の証ではないと。
自分の人生はどこかで誤配されたのだと、誰かに言ってほしかった。
シックスは、その核心に手を届かせていた。
「私についてくるのなら」
ゼルクの肩が、ぴくりと揺れる。
シックスは、ゆっくりと言った。
「君にふさわしい、君を『マスター』と呼ぶファティマを、私なら用意できる。
君にはその資格があるのだから。」
その瞬間、時間が止まった。
格納庫の空気も、保守灯の淡い光も、巨大なラクリモーサの影も、何もかもが遠のいたように感じた。
マスター。
その一言が、ゼルクの胸のいちばん深いところへ落ちる。
呼ばれたことのない名。
呼ばれるはずだった名。
聞きたくて、聞けなくて、諦めたふりをしてきた名。
もし本当に。
もし本当に、自分をそう呼ぶファティマが現れたなら。
もしラクリモーサが目を覚まし、自分の手であの巨体を立ち上がらせられるなら。
その時、自分の人生はようやく正しい場所へ戻るのではないか。
ゼルクの中で、何かが危うく傾いた。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
シックスは急かさなかった。
わかっているのだ。
今、自分の言葉がどれほど深く刺さったかを。
「遅すぎたんだよ、ゼルク」
その声は、限りなく優しかった。
「君は長く待ちすぎた。
家のために、国のために、忠義のために。
だが、誰も君に報いなかった」
ゼルクは目を閉じた。
脳裏に、若い騎士たちの顔が浮かぶ。
自分が教えた者たち。
剣筋の甘い者。
腰の据わらぬ者。
自分より未熟なまま、ファティマを得て、MH騎士として飛び立っていった者たち。
そのたびに彼は祝福した。
表向きは。
だが心の底で、どれほど歯を食いしばったか。
――なぜ俺ではない。
その問いに、今、初めて一つの答えが差し出されていた。
「君の剣は、こんな檻の中で朽ちるべきではない」
シックスが、さらに一歩だけ近づく。
「来るといい。
君にふさわしい座を、君にふさわしい声を、私は与えられる」
ゼルクの指先が震えた。
剣の柄に触れたまま、しかし抜けない。
その時だった。
「飢えた言葉だな」
低い声が、格納庫の奥から響いた。
シックスがゆっくりと振り返る。
ゼルクもまた、はっとして顔を上げた。
開かれるはずのない側面通路の扉が、いつの間にか開いている。
そこから歩み出てきた男の姿を見た瞬間、格納庫の空気そのものが変わった。
ボスヤスフォート。
魔道帝国首相は、いつものように飾り気なく、しかし場の中心を奪う足取りで近づいてくる。
怒りは見えない。
焦りもない。
ただ、冷たい。
シックスが口元をわずかに上げた。
「ずいぶん、足が速い」
「遅ければ、病原体が増殖する」
ボスヤスフォートの視線は真っ直ぐゼルクへ向けられた。
だがそこに哀れみはなかった。
慰めもない。
あるのはただ、見定める君主の目だけだ。
「ゼルク」
呼ばれ、ゼルクは思わず背筋を伸ばした。
「……閣下」
「そこで何を聞いた」
ゼルクは答えられない。
喉が詰まる。
ボスヤスフォートは追及しなかった。
その代わり、淡々と告げる。
「資格がある、と言われて揺らぐか。
ならばお前は、今まで資格のために剣を振っていたのか」
その一言が、シックスの甘い熱を切り裂いた。
ゼルクが目を見開く。
ボスヤスフォートはなおも冷たく言う。
「“マスター”と呼ばれたいか。
結構。
だが、その一言のために剣の行き先を売るなら、お前は騎士ではなく、飢えた子供だ」
ゼルクの顔が強張る。
きつい言葉だった。
容赦がない。
痛みの芯を、別の刃で抉ってくるような残酷さがある。
シックスが静かに笑う。
「手厳しい。
彼がどれほど長くそれを望んできたか、わかっているくせに」
「わかっているからだ」
ボスヤスフォートは即答した。
「望んだものが得られなかったことは、不運だ。
だが、得られなかったことは、剣を売る免罪符にはならん」
ゼルクは視線を落とした。
拳が震えている。
ボスヤスフォートの言葉は優しくない。
救ってはくれない。
欠けたものを埋めてもくれない。
それでも、妙に重かった。
シックスが口を開く。
「埋めもしないで、耐えろと言うのかい?」
「そうだ」
またしても即答だった。
ボスヤスフォートの声は、石のように硬い。
「騎士とは、欲しいものを得た者のことではない。
何に剣を向けるかで決まる」
一歩、前へ出る。
「ファティマを得れば騎士で、得られなければ半端者か。
愚かな話だ。
制度はそう見なすかもしれん。
現実もそう働くかもしれん。
だが、お前が自分までそう定義するなら、その時点で剣は終わる」
シックスの目が細くなる。
「きれいごとだ」
「違うな」
ボスヤスフォートはラクリモーサを一瞥した。
「乗れぬ機体があることは不運だ。
だが、乗れなかったことを理由に剣の行き先を変えるなら、お前は機体に選ばれなかったのではない。
騎士であることから逃げただけだ。」
その言葉は重く、厳しかった。
ゼルクは顔を上げられない。
痛いほど図星だったからだ。
彼は今、本当に逃げかけていた。
自分の人生を正してくれるという甘い声に乗ることで、これまでの屈辱すべてへ“正当な報酬”を与えようとしていた。
だがそれは、剣の誇りではなかった。
傷ついた自尊心の回収だ。
シックスが、わずかに声を低くした。
「彼は苦しんできた。
お前の国家の中で、ずっとな」
「だろうな」
ボスヤスフォートは認めた。
「国家は愚かで、遅く、時に有害だ。
ツァイス家の機体を前に、この男のような人材を遊ばせてきたことも、確かに国家の不備だ」
ゼルクが目を見開いた。
まさか認めるとは思わなかった。
ボスヤスフォートはなおも続ける。
「だが、その不備を理由に、お前の剣を災厄へ差し出すな」
そして初めて、真正面からゼルクを見る。
「ゼルク。
師範であることを屈辱と見るか。
結構。
だが、その屈辱を飲んだまま後進に剣を伝えてきた年月まで、自分で汚すな」
ゼルクの喉が鳴った。
その年月。
若い騎士に技を教え、未熟な者を叩き上げ、己が立てなかった場所へ送り出してきた日々。
彼にとってそれは苦く、不本意で、どこか敗北のようでもあった。
けれど、同時に確かに自分の剣で築いた時間でもあった。
それを、今ここで売り渡すのか。
シックスが、静かに囁く。
「売る、だなんて言い方はよくない。
本来あるべき場所へ戻るだけだよ」
「違う」
ボスヤスフォートが切って捨てた。
「与えられる“マスター”の一言に酔うな。
真に重いのは、呼ばれ方ではない。
その名に値するかどうかだ」
その瞬間、ゼルクの中で何かが揺らいだ。
“マスター”と呼ばれたい。
それは本音だった。
ずっと欲しかった。
自分にもその資格があるのだと、誰かに認めてほしかった。
だが今、ボスヤスフォートは別のことを言っている。
呼ばれたいかどうかではない。
その名に値する剣かどうかだ。
残酷だった。
だが、逃げ道のない言葉だった。
シックスはついに、ゼルクへ手を差し出した。
「来い、ゼルク。
君は長く奪われてきた。
今さら忠義に殉じる必要はない。
君を『マスター』と呼ぶ声を、私は与えられる」
その手は、恐ろしいほど自然だった。
まるで最初からそこへ伸びるべき道があったかのように。
ゼルクの視線が、その手へ落ちる。
もし握れば。
もしその先へ行けば。
本当に、ラクリモーサは目を覚ますかもしれない。
本当に、自分をマスターと呼ぶファティマが現れるかもしれない。
その未来は、甘かった。
痛みの回収だった。
失われた三十年への、遅すぎる報酬だった。
だが。
ゼルクは、ゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、若い騎士たちの姿だ。
自分が教えた剣。
叩き込んだ足運び。
怒鳴り、打ち、何度も立たせた日々。
それは確かに不本意だった。
だが、嘘ではなかった。
もしここでシックスの手を取れば、それらすべてを自分で踏みにじることになる。
長い沈黙ののち、ゼルクは口を開いた。
「……俺は」
掠れた声だった。
「俺は、ずっと欲しかった」
シックスの目が細くなる。
ボスヤスフォートは黙ったまま聞いている。
「誰かに認められたかった。
ファティマに。機体に。一族に。
……自分自身にさえ」
ゼルクは顔を上げた。
その目には苦しみが残っていた。
だが、もう先ほどのような危うい酔いはない。
「だが……それを与えられて受け取るなら、たぶん違う」
シックスの手が、止まる。
ゼルクは一歩、後ろへ下がった。
ラクリモーサの足元へと。
「俺はまだ、あれに乗れない。
たぶんこれからも乗れないかもしれん。
それでも」
息を吸う。
「“マスター”と呼ばれたいだけで剣を売るなら、俺は騎士じゃない。」
シックスはしばらくゼルクを見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
「惜しいね」
「そうかもしれん」
「でも君は、また揺れる」
「だろうな」
ゼルクは否定しなかった。
「だが、そのたびに今日を思い出す」
シックスはそれ以上勧めなかった。
差し出した手を下ろし、軽く肩をすくめる。
「今回は引こう。
でも覚えておくといい。
君のような人間を揺らがせるのは、いつだって世界の方だ」
そう言い残し、彼の気配は格納庫の闇へ溶けていった。
最初からそこにいなかったかのように。
静寂が戻る。
長い、重い沈黙。
ゼルクはしばらく動けなかった。
全身から力が抜ける。
膝が笑いそうになるのを、なんとか堪える。
ボスヤスフォートはその様子を見て、ただ一言だけ言った。
「弱いな」
ゼルクは苦く笑いそうになった。
「……は」
「だが、折れてはいない」
それだけだった。
慰めはない。
賞賛もない。
しかしその短い言葉が、妙に胸に残った。
ボスヤスフォートはラクリモーサを見上げる。
「見苦しい機体だ」
ゼルクが思わず顔を上げる。
「閣下」
「栄光の遺物が、今や家の未達と人間の澱を育てる温床になっている。
美しい話ではない」
それは機体そのものへの侮辱ではなかった。
状況への、冷徹な断定だった。
ボスヤスフォートは続ける。
「埃を被っているのは機体ではない。
お前の誇りの方だ、ゼルク」
その言葉に、ゼルクは何も返せなかった。
反論できない。
痛いほど、その通りだったからだ。
ボスヤスフォートは踵を返す。
「持ち場へ戻れ」
「……は」
「そして明日から、教導内容を変えろ」
ゼルクが眉をひそめる。
「何を、です」
「騎士候補どもに教え込め。
剣とは、欲しかったものが得られぬ時にこそ、どこへ向くかで価値が決まるとな」
ゼルクは息を呑んだ。
それは命令だった。
だが同時に、今夜の自分自身へ向けられた判決でもあった。
ボスヤスフォートは振り向かずに言う。
「今夜お前が踏みとどまったのは、勝利ではない。
敗北の先送りだ。
二度と揺らぐなとは言わん。
だが次に揺らぐ時は、今日よりみっともなくなるな」
「……はっ」
短く返すのが精一杯だった。
ボスヤスフォートはそのまま去っていく。
外套の裾が闇に紛れ、やがて気配も消えた。
一人残されたゼルクは、再びラクリモーサを見上げた。
機体は相変わらず沈黙している。
何も変わらない。
今夜、突然起動することもない。
自分を選んでくれるファティマが、どこかから現れるわけでもない。
それでも、ほんの少しだけ見え方が変わっていた。
それは“届かなかった座”であると同時に、
まだ自分が剣を売っていない証でもあるのだと。
ゼルクはゆっくりと頭を垂れた。
誰に向けた礼でもない。
ラクリモーサにか。
あるいは、自分の剣にか。
「……まだだ」
声は小さかった。
だが確かだった。
その頃、帝都の外れではシックスが夜風の中を歩いていた。
傍らに血族の一人が音もなく並ぶ。
「王。取り込みは失敗ですか」
「半分」
シックスは笑った。
「手は届いた。
傷の深さもわかった。
そして何より、ボスヤスフォートの返し方もね」
「厄介ですか」
「とても」
彼は楽しそうだった。
「彼は何も与えない。
埋めてもくれない。
そのくせ、与えられなかった側にさえ“売るな”と言い切る。
ああいう支配者は嫌いじゃない」
血族が問う。
「次は」
シックスは空を見上げる。
「次は、もっと悪い」
その目に冷たい光が宿る。
「ゼルクはまだ誇りが勝った。
なら次は、誇りより先に承認を欲しがる人材だ。
責務にも、忠義にも、騎士の矜持にも、最後まで寄りかかれない者。
そういう人間の方が、壊れる時は早い」
病は止まらない。
今夜ひとつ踏みとどまっても、別の裂け目を探して広がっていく。
一方で、帝都へ戻るボスヤスフォートもまた理解していた。
言葉だけでは勝てない。
だが言葉しか持たぬ場面で、言葉を捨てた瞬間に統治者は終わる。
彼は静かに呟く。
「……面倒だ」
それは疲労でも愚痴でもなく、災厄を相手にする君主の冷たい実感だった。
シックスは囁いた。
「君には資格がある」
ボスヤスフォートは斬った。
「欲しかったことと、売っていいことは別だ」
そしてゼルクの胸には、最後まで手に入らなかった言葉だけが残った。
マスター。
その甘く、危険で、美しい響きを抱えたまま、彼はなお帝国に留まる。
それが勝利か敗北かは、まだ誰にもわからない。