ボスヤスフォート vs シックス   作:ギアっちょ

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選ばれない星

 

帝都の夜は、いつも光に満ちている。

 

塔の上に灯る魔導灯。

城壁を巡る警戒の光線。

遠く軍港に並ぶ艦影の標識灯。

それらが複雑に重なり合い、夜でありながらどこか白々しいほどの明るさを街に落としていた。

 

だが、その白い光の下でこそ、人はかえって己の影を濃くする。

 

暁星機動団本部の高楼、その最上階の回廊に、クラヴィス・ヴェルナーは立っていた。

 

金の髪が夜気に揺れる。

細面に切れ長の吊り目。

端正な顔立ちには疲労の色があるが、それでも崩れない華があった。

実戦に出れば兵が目で追う。

会議に入れば視線が集まる。

若くして機動団次官。

誰が見ても、有望な男だった。

 

「……また、あいつか」

 

彼は低く呟き、視線を下ろした。

 

中庭を横切っていく一団の中央に、ユリウス・ハルトマンがいる。

 

地味だった。

 

華やかさはない。

眼鏡こそかけていないが、いかにも理知的な面立ち。

服装も仕草も無駄がなく、よく言えば端正、悪く言えば面白みがない。

だが、その地味な男の周囲には、自然と道が空く。

誰もが彼に声をかけるわけではない。

けれど誰もが、彼の通過を妨げない。

 

あれがユリウスの力だ。

 

目立たず、騒がず、しかし確実に上へ通っていく。

昔からそうだった。

 

「クラヴィス次官」

 

背後から声がかかる。

 

振り向けば、副官の一人が一礼していた。

 

「首相府より通達です。東外縁区での攪乱事案につき、暁星機動団は即応体制へ移行。次官ご自身の出動が求められています」

 

クラヴィスはわずかに口元を歪めた。

 

「また俺か」

 

「はい。首相閣下直々の指定と」

 

「……そうだろうな」

 

副官は不思議そうな顔をしたが、何も言わない。

 

クラヴィスは歩き出した。

軽い足取りだった。

周囲から見れば、自分が必要とされることに不満があるようには見えなかっただろう。

 

だが内側では、別の感情がゆっくりと渦を巻いていた。

 

また俺だ。

 

いつもそうだ。

即応が要る時、前線で血が流れる時、混乱を即座に鎮める必要がある時、ボスヤスフォートはクラヴィスを使う。

それは信頼だ。

評価だ。

若くして次官に据えられたこと自体、その証明でもある。

 

だが同時に、クラヴィスにはずっとわかっていた。

 

“使う”ことと、“選ぶ”ことは違う。

 

彼が呼ばれるのは、鋭く、速く、実戦映えするからだ。

しかし“任せる”となると、最後には別の名が上がる。

 

ユリウス・ハルトマン。

 

幼い頃から、何度も並べられてきた名だ。

 

クラヴィスは幼少期の座学試験を思い出す。

剣術演習では自分が一番だった。

騎馬競技でも勝った。

体術でも、模擬戦でも、人目を惹くのはいつも自分だった。

 

だが成績表が戻れば、総合順位の上にはユリウスがいる。

 

教官は言う。

 

「クラヴィスは華がある。反応もいい。現場向きだ」

「ユリウスは読みが深い。全体を見ている。任せやすい」

 

その言い方が、ずっと嫌いだった。

 

褒められている。

きちんと評価もされている。

なのに最後だけ、手の中から抜けていく。

 

学生時代の一族の集まりでもそうだった。

親族たちは笑いながら言う。

 

「クラヴィスは本当に眩しいな」

「いや、だが家を回すならユリウスのような男だ」

 

あの頃から、言葉は同じだった。

眩しい。華がある。強い。

けれど最後の札は、決してこちらに落ちてこない。

 

「次官」

 

副官が恐る恐る呼ぶ。

 

「車列の用意が整っています」

 

「わかっている」

 

クラヴィスは意識を引き戻し、外套を翻した。

 

夜の帝都を駆ける軍用車列は速い。

東外縁区まではあっという間だった。

 

報告によれば、旧工業区画で魔導供給の異常と、それに伴う小規模騒乱が発生している。

規模自体は大きくない。

だが最近の帝都では、その“小ささ”がかえって不穏だった。

シックスの手口は、いつも大火の前に小さな裂け目を作る。

 

現場に到着したクラヴィスは、車が止まるより早く飛び降りた。

 

魔導灯の明滅。

逃げ惑う工員。

怒号。

暴走しかけた搬送機。

火ではない。

だが火になる寸前の混乱が、あちこちで噴き出していた。

 

「散らすな! 南側から切れ!」

 

クラヴィスの声が飛ぶ。

 

一瞬で場の空気が変わる。

暁星機動団の兵が動き出す。

彼は前へ出ながら感応野を広げた。

 

ダイバー・パワーが脈打つ。

周囲の速度が、わずかに遅く見える。

人の動き。

機械の軋み。

飛び交う怒声の向き。

どこを断てば流れが変わるか、それが一瞬でわかる。

 

「あれを止める!」

 

暴走搬送機の前へ、クラヴィスは自ら飛び込んだ。

並の人間なら潰される。

だが彼は違う。

 

踏み込み。

腰。

力の流れ。

重心。

 

瞬間、彼の動きが人の反応速度を超える。

 

横から飛び込んだ機動団兵が息を呑む。

クラヴィスは魔導補助をまとった手で搬送機の軸へ力を叩き込み、そのまま強引に流れを変えた。

鈍い音を立てて鉄塊が横へ滑り、壁にぶつかって止まる。

 

歓声が上がる。

 

クラヴィスは息をつきもせず振り向いた。

 

「見てるだけか! 残りを片付けろ!」

 

その声で兵たちは我に返る。

 

――こういう時だ。

 

こういう時、自分は誰よりも速い。

誰よりも場を変えられる。

誰よりも目に見える形で、人を救える。

 

それなのに。

 

「さすがですね、次官」

 

後方から静かな声がした。

 

振り向けば、現場の後詰めへ回ってきたユリウス・ハルトマンがいた。

随伴官を従え、手元の記録板に何かを書き込みながら歩いてくる。

 

彼は現場の埃にまみれたクラヴィスを見て、わずかに目を細めた。

 

「初動は完璧です。こちらで経路遮断と再配置を行います。次官は北側の残存不安定域へ」

 

クラヴィスは舌打ちしたくなるのをこらえた。

 

「指図するな」

 

「提案です」

 

「同じだ」

 

ユリウスはそれでも平然としている。

 

昔からそうだ。

この男は、こちらの棘を正面から受けない。

受け止めるでも、跳ね返すでもない。

最初から棘ごと計算の外に置いているような顔をする。

 

クラヴィスは短く息を吐いた。

 

「北側だな。わかった」

 

「助かります」

 

その言い方すら、少し癪に障る。

 

だが仕事は仕事だ。

クラヴィスは踵を返し、北区画へ走った。

 

騒乱は程なく収まった。

 

残されたのは、いつも通りの後処理だ。

記録。

報告。

検証。

原因分析。

 

そして、上へ上がるのはたいてい、そちらの方だった。

 

夜も更けた頃、簡易指揮所に戻ったクラヴィスは、机上に並ぶ報告資料を見て眉をひそめた。

 

「……原因推定、もう出したのか」

 

「ユリウス次官補が」

 

副官が答える。

 

「魔導供給異常は事故ではなく誘導型の攪乱と。工員動線の偏り、供給系統のタイムラグ、扇動文言の散布位置から見て、外部干渉が濃厚とのことです」

 

クラヴィスは資料を乱暴にめくった。

 

そこに並ぶ分析は、いちいち正確だった。

嫌になるほどに。

 

現場で何が起きたか。

どこが起点か。

どうすれば再発を防げるか。

それらが、整然と、無駄なく書かれている。

 

「……ちっ」

 

彼は紙束を机へ戻した。

 

「次官補はどこだ」

 

「外です。まだ確認を」

 

クラヴィスは無言で指揮所を出た。

 

外気は冷えていた。

遠くで警戒灯が回っている。

その下に、ユリウスが立っていた。

護衛もつけず、一人で。

 

「何をしている」

 

声をかけると、ユリウスは振り向いた。

 

「現場の余熱を見ています」

 

「余熱?」

 

「人の動きの残滓です。今夜は少し妙だ」

 

クラヴィスは苛立ちを押し殺したまま近づいた。

 

「妙なのは今に始まったことじゃない。

首相府に上げる報告は済ませたのか」

 

「ええ。一次報告はもう」

 

「早いな」

 

「次官が初動でほぼ片づけたので」

 

その言葉は素直な称賛だった。

嫌味ではない。

だからなおさら腹が立つ。

 

クラヴィスはしばし黙り、それから低く言った。

 

「お前は昔からそうだな」

 

ユリウスが少しだけ首を傾げる。

 

「何がです」

 

「全部わかっているような顔をする」

 

「……そう見えるなら、損をしていますね」

 

「損?」

 

「実際には、わからないことの方が多いので」

 

クラヴィスは鼻で笑った。

 

「学業でも、解析でも、報告でも、いつも上を取っておいてよく言う」

 

ユリウスは黙った。

 

夜の風が二人の間を抜ける。

 

ややあって、彼は静かに言った。

 

「私は、実技で貴方に勝てたことが一度もありません」

 

クラヴィスの目が細くなる。

 

「だから何だ」

 

「だから、得意不得意の話でしょう」

 

「それで済むなら苦労しない」

 

ユリウスはそこで、ようやくクラヴィスの目をまっすぐ見た。

 

「……まだ、そんなふうに思っているのですか」

 

その一言が、妙に引っかかった。

 

まだ。

 

まるで昔のことだと言うように。

まるでもう済んだ話だと言うように。

 

クラヴィスは口を開きかけ――その瞬間、嫌な気配に気づいた。

 

遅れてユリウスも顔を上げる。

 

暗がりのさらに向こう、工場区画の廃塔の上に、人影があった。

 

細い。

女だ。

 

黒い装束。

長い髪。

夜気に揺れる輪郭。

こちらを見下ろしている。

 

クラヴィスの全身が、瞬時に強張った。

 

その立ち方を、知っている。

重心の置き方。

左肩のわずかな癖。

相手との間合いを測る時の静けさ。

 

そんなはずはない。

 

だが、目が先にそう認識した。

 

「……巴先輩」

 

声にならない声が漏れた。

 

隣でユリウスが鋭く言う。

 

「クラヴィス、待っ――」

 

だがもう遅い。

 

クラヴィスは駆けていた。

 

廃塔まで一直線に飛ぶ。

石段を蹴り、手すりを越え、崩れかけた外壁を踏みしめる。

ダイバー・パワーが全身を駆け抜ける。

 

速い。

だが塔の上の女は、それを見ても逃げる素振りを見せない。

 

月光が雲間から差した。

 

その横顔が、わずかに見えた。

 

美しい輪郭。

静かな目元。

だがどこかで、昔見上げたあの巴先輩よりも、冷たく尖っている。

 

女は薄く笑ったように見えた。

 

次の瞬間、身を翻して闇へ消える。

 

「待てッ!!」

 

クラヴィスは跳んだ。

 

だが追いつかない。

 

追える距離にいたはずなのに、影は建物の間をすり抜けるように移動し、次の瞬間には気配だけが遠くへ薄れていく。

 

その動きは、騎士のものというより、もっと別種の暗器じみたしなやかさを持っていた。

 

くのいち。

 

そんなくだらない言葉が脳裏をよぎる。

 

クラヴィスは歯を食いしばった。

 

背後からユリウスが追いついてくる。

 

「クラヴィス!」

 

「見ただろう」

 

振り返らずに言う。

 

「……何を、です」

 

「見ただろうと聞いている」

 

ユリウスはすぐには答えなかった。

そして、その逡巡がかえってクラヴィスを苛立たせる。

 

「俺には、巴先輩に見えた」

 

長い沈黙の後、ユリウスは低く言った。

 

「似ていました」

 

似ていた。

 

その言い方が、ひどく嫌だった。

 

だがユリウスは慎重だ。

そう断言するだけの材料がない以上、あの男はそう言うしかないのだろう。

 

「報告は」

 

「まだ待ってください」

 

「なぜだ」

 

「今ここで上げれば、事実未確認の混乱を招く」

 

クラヴィスは振り返った。

思わず掴みかかりそうになるのをこらえる。

 

「お前はいつもそうだ。

冷静で、正しくて、遅い」

 

ユリウスの表情がわずかに曇る。

 

「……それは」

 

「俺は見た」

 

クラヴィスは低く言い切った。

 

「俺はあの人を見た」

 

その瞬間、背後の暗がりから声が落ちた。

 

「今でも会いたいだろう?」

 

二人が同時に振り向く。

 

そこに立っていたのは、黒衣の青年。

夜に溶けるような姿。

穏やかな笑み。

冷たい目。

 

シックス。

 

ユリウスが一歩前に出る。

だがその肩を、クラヴィスが無意識に押しのけていた。

 

シックスはそれを面白そうに見ている。

 

「予想以上に反応がいい。

さすがだね、クラヴィス・ヴェルナー次官」

 

「……貴様」

 

「気になるかい?」

 

その問いに、クラヴィスは答えない。

 

だが答えなくても、もう十分だった。

 

シックスは笑う。

 

「首相閣下が怪物なのは、君も理解している。

だからまだ飲み込める。

でも、ユリウス・ハルトマンが“本命”として扱われるのは、どうしても飲み込めない。

……違うかい?」

 

ユリウスが息を呑む。

 

クラヴィスのこめかみが、ぴくりと跳ねた。

 

「黙れ」

 

「黙らないよ」

 

シックスの声は優しい。

だから余計に質が悪い。

 

「君は強い。

華もある。

現場で人を動かせる。

ダイバー・パワーだけなら、誰にも引けを取らない。

それでも最後に選ばれるのは、いつも別の誰かだ」

 

一歩、影が近づく。

 

「昔からそうだったね」

 

クラヴィスの喉がひどく乾く。

 

シックスは、過去を知っている声で言った。

 

「実技では勝てる。

模擬戦でも目立てる。

人も君の方へ集まる。

……でも座学と解析では、どうしてもユリウスに勝てなかった」

 

ユリウスの顔から血の気が引く。

 

クラヴィスは動けなかった。

 

なぜそこまで知っている。

 

知っているはずがない。

知っていてほしくない。

ずっと笑って流してきた、あの薄暗い棘を。

 

シックスはさらに言う。

 

「面白いよね。

君はずっと、結果より“評価”で負けてきたんだ」

 

その一言は、あまりにも正確だった。

 

クラヴィスの指先が震える。

 

シックスは視線をわずかにずらし、遠く闇の向こうへ目を向けた。

まるで、そこに見えない誰かが立っているかのように。

 

「そして、巴先輩のことも」

 

クラヴィスの呼吸が止まる。

 

「今でも会いたいだろう?」

 

今度ははっきりと、名前を出した。

 

ユリウスが低く言う。

 

「……シックス」

 

「怒るなよ。

別に悪いことを言っているわけじゃない」

 

シックスはくすりと笑った。

 

「彼女は君たちにとって、ずっと未完のままだった。

行方不明。

生死不明。

好きだったのか、尊敬だったのか、その区別すら曖昧なまま終わった」

 

クラヴィスは一歩、踏み出した。

 

「生きているのか」

 

シックスは答えない。

 

ただ、少しだけ首を傾げる。

 

その仕草が、肯定よりも残酷だった。

 

「知りたいかい?」

 

クラヴィスの顔がこわばる。

 

「……貴様」

 

「君はずっと、手前までは届く。

賞賛もされる。

好かれもする。

だが最後に“選ばれる”ところまでは届かない。

巴先輩もそう。

地位もそう。

評価もそう」

 

シックスの目が細くなる。

 

「だからこそ、今ここで聞こう。

いつまで君は、“選ばれない側”でいるつもりだい?」

 

空気が張りつめた。

 

ユリウスが前に出る。

 

「クラヴィス、聞くな」

 

「おや」

 

シックスが楽しそうに言う。

 

「君はやっぱり優秀だね、ユリウス。

彼が今いちばん聞いてはいけない言葉が何か、ちゃんとわかっている」

 

ユリウスはシックスを睨み返す。

 

「お前の狙いは彼ではない。

暁星機動団そのものだ」

 

「半分正解」

 

シックスは悪びれず頷いた。

 

「でも人は、組織から崩すより、一人の飢えから崩す方が早い」

 

その言葉に、クラヴィスの中で何かがひどく軋んだ。

 

飢え。

そうだ。

自分は飢えている。

 

ユリウスより上だと認められたい。

ボスヤスフォートの道具ではなく、唯一として選ばれたい。

そしてもし巴先輩が本当に生きているなら――。

 

「クラヴィス」

 

ユリウスの声がした。

 

それは静かだった。

だが、昔から変わらない響きだった。

 

「聞くな」

 

「……お前は」

 

クラヴィスは自分でも驚くほど掠れた声で言った。

 

「お前は、見たのか」

 

ユリウスは少し黙り、そして言う。

 

「似ていた」

 

またその言い方だ。

 

はっきりしない。

断言しない。

いつもこいつはそうだ。

慎重で、正確で、正しい。

 

だが今この瞬間、クラヴィスはその正しさがたまらなく憎かった。

 

「お前はいつだってそうだ」

 

「クラヴィス」

 

「わからないなら黙っていろ」

 

ユリウスの表情が初めて揺れた。

 

シックスはその揺れを見て、満足そうに笑う。

 

「そう、それだ」

 

囁くような声。

 

「君が欲しいのは賞賛じゃない。

正しい理解ですらない。

欲しいのは、ただ一人として選ばれることだろう?」

 

クラヴィスは息を呑む。

 

その瞬間、遠くから足音が響いた。

 

規則正しい。

無駄がない。

静かなのに、場の温度を一瞬で変える足音。

 

シックスが目を細める。

 

「早いな」

 

「当然だ」

 

闇の向こうから現れたのは、ボスヤスフォートだった。

 

外套を翻し、まっすぐこちらへ歩いてくる。

怒気はない。

焦りもない。

ただ、冷たい。

 

彼はまずクラヴィスを見た。

その一瞥だけで、クラヴィスは妙に身が強張る。

 

「次官」

 

「……閣下」

 

「そこまで揺らぐか」

 

その一言が痛かった。

 

だがボスヤスフォートは慰めない。

いつものように、最短で斬ってくる。

 

「巴が生きているかもしれん。

結構。

ユリウスより自分が下に見られていると感じる。

それも結構」

 

クラヴィスの眉が動く。

 

「だが――」

 

ボスヤスフォートの視線が鋭くなる。

 

「選ばれたいという飢えに、国家を食わせるな。」

 

静寂が落ちる。

 

シックスは笑みを消さない。

 

「冷たいね」

 

「事実だ」

 

ボスヤスフォートはクラヴィスから目を逸らさない。

 

「お前は優秀だ。

それは知っている。

だから使う。

重用もする」

 

クラヴィスの胸がわずかに揺れる。

 

だが次の言葉は甘くない。

 

「だが“お前だけを選ぶ”などという安い慰めはくれてやらん」

 

その断定に、クラヴィスは一瞬言葉を失った。

 

ボスヤスフォートは続ける。

 

「唯一になりたいか。

結構。

不満か。

それも結構。

だが、不満を理由に組織を売るなら、それは才能ではなく虚栄だ」

 

シックスが口元を歪める。

 

「君はいつも、欲しがる者に厳しい」

 

「欲しがることは否定せん。

だが飢え方を誤るなと言っている」

 

ボスヤスフォートはそこで初めてユリウスを一瞥し、再びクラヴィスへ戻る。

 

「ユリウスに劣る扱いが不満か。

ならば問う。

お前は一度でも、あいつの強みを正面から認めた上で、なお自分を磨いたか」

 

クラヴィスの喉が詰まる。

 

「実技で勝ち、学理で負けた。

それだけの話だ。

なのにお前は、負けた方ばかりを抱えてここまで来たのか」

 

痛いほど、図星だった。

 

クラヴィスは今まで、何度も自分に言い聞かせてきた。

自分は現場向きだ。

ユリウスは頭脳労働向きだ。

役割が違うだけだ、と。

 

だが本音では、その“違うだけ”を受け入れていなかった。

認められたい。

勝ちたい。

最後には自分が選ばれたい。

 

その飢えが、今まさに剥き出しになっている。

 

シックスがやわらかく言う。

 

「でも、それで何が悪い?

選ばれたいと願うのは自然なことだ。

彼が欲しいのは、ただ一度、自分の人生の主役になることだよ」

 

「そうだろうな」

 

ボスヤスフォートはそれすら認めた。

 

「だが、主役になりたさのために舞台を焼くな」

 

その言葉の重さに、クラヴィスの胸が軋む。

 

シックスはふっと肩をすくめた。

 

「やれやれ。

やはり君はつまらないところで本当に君主だ」

 

「お前こそ病原体の分際で、ずいぶん人の心を知っている顔をする」

 

「知っているさ」

 

シックスの目が細くなる。

 

「人は飢える。

君の国家は、その飢えを抱え込んだまま働かせる。

僕はそこへ名前を与えるだけだ」

 

「なら私は、そこへ責任を与えるだけだ」

 

二人の声は静かだった。

だが、その静けさがかえって場を支配する。

 

クラヴィスは、二人のあいだに立ちながら、呼吸の仕方すら忘れそうだった。

 

巴先輩は生きているのか。

本当に敵側にいるのか。

それともただの罠か。

 

ユリウスへの劣等感。

ボスヤスフォートの下で“使われる側”に留まる不満。

自分が唯一にはなれないという飢え。

 

それら全部が、今夜一気に突きつけられていた。

 

シックスは最後に、クラヴィスだけを見る。

 

「答えは急がなくていい」

 

その声は、甘い。

 

「でも覚えておくといい。

君はまだ、自分が何に飢えているのかを、正しく言葉にできていない」

 

そして薄く笑う。

 

「巴も、その答えを知っているかもしれないね」

 

その一言を残し、彼の気配は夜へ溶けた。

 

残されたのは冷たい沈黙だけだ。

 

ボスヤスフォートはしばらく動かず、やがてクラヴィスへ言った。

 

「次官」

 

「……はい」

 

「報告書はお前が上げろ」

 

クラヴィスが顔を上げる。

 

「私が?」

 

「そうだ。

今夜見たもの、感じたこと、判断不能なことも含めて、全部書け。

自分の飢えまで書けとは言わん。

だがそれに引きずられた事実は、消すな」

 

言っていることは冷酷だった。

だが、それは同時に逃がさないということでもあった。

 

ボスヤスフォートは続ける。

 

「ユリウス」

 

「は」

 

「お前は補足をつけろ。

ただし、クラヴィスの報告を潰すな」

 

ユリウスが一礼する。

 

クラヴィスはその横顔を見た。

昔から変わらない、落ち着いた表情。

だが今夜ばかりは、その横顔すら少し遠く見えた。

 

ボスヤスフォートは踵を返しかけ、最後に一度だけクラヴィスへ言った。

 

「選ばれないことが不満か。

結構。

ならば、その不満を持ったまま役に立て。

それができぬなら、お前は最初から大した星ではない」

 

言葉は苛烈だった。

だが、なぜか胸に残る。

 

去っていく首相の背を見送りながら、クラヴィスは拳を握った。

 

巴先輩。

ユリウス。

自分。

そして選ばれないという感覚。

 

何一つ片づいていない。

むしろ今夜、全部がいっそう混ざり合ってしまった。

 

ユリウスが静かに言う。

 

「クラヴィス」

 

「何だ」

 

「……報告書は、一緒にまとめます」

 

その言葉に、クラヴィスは一瞬だけ笑いそうになった。

 

「お前はそういうところが、余計に気に食わない」

 

「でしょうね」

 

「だが助かる」

 

「ええ」

 

短いやりとりだった。

昔から何も変わらないようでいて、やはり何かが変わってしまった気もした。

 

夜空を見上げれば、帝都の光にかき消され、それでもかすかに星が見える。

 

暁星機動団。

その名を持つ部隊の次官でありながら、クラヴィスは思う。

 

自分はずっと、選ばれない星のままなのかもしれないと。

 

そしてその答えを、最悪の形で知っている者が、闇の向こうで笑っている。




その夜更け、クラヴィスの机上に、差出人不明の封書が置かれていた。

施錠したはずの執務室。
見回りもいる。
それでも、そこにある。

嫌な汗が背を伝う。

クラヴィスはしばらく封書を見つめ、それからゆっくりと手に取った。
軽い。
だが、中に入っているものの重さだけは、触れた瞬間にわかった気がした。

封を切る。

中に入っていたのは、古い学生時代の徽章だった。

巴先輩が教導役補佐を務めていた時期にだけ使われていた、訓練課程上級生の識別章。
今では廃された意匠。
だが見間違えるはずがない。
一度だけ、彼女が笑いながら胸元から外し、
「落としたら拾って返しなさい」
と冗談めかして見せたことがある。

喉が鳴った。

もう一枚、細く折られた紙片が入っている。

開く。

そこに記されていたのは、たった一行だけだった。

――今でも、会いたい?

筆跡はない。
癖もない。
ただ、それだけにかえって悪意だけが濃かった。

クラヴィスの指先が、目に見えて震えた。

その頃、帝都の外れ。
人の住まぬ石造りの回廊で、シックスは小さく笑っていた。

「届いたようだね」

闇の奥、柱にもたれるようにして立つ女は答えない。
細い輪郭。
静かな目。
夜の中に溶けるような気配。

シックスは振り返らないまま続ける。

「まだ会わせないよ、巴」

女はわずかに目を細めただけだった。

「今でも会いたいだろう?
……その問いだけで、あの男はまだ揺れる」

シックスの声には、愉悦しかなかった。

「再会は、もっと壊れやすくなってからでいい」
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