一方その頃、首相府の地下書庫では、ボスヤスフォートが数枚の人事記録を無言で見下ろしていた。
クラヴィス・ヴェルナー。
ユリウス・ハルトマン。
ゼルク。
未契約騎士一覧。
潜在適性者名簿。
離反危険度再評価表。
騎士家系ごとの保有MHと、現在の接続状況。
どの紙片にも、共通して欠けているものがあった。
埋まるべきところに、接続がない。
剣はある。
血はある。
才もある。
機体もある。
だが最後の一つがない。
ファティマ。
役割。
指名。
唯一として選ばれる感覚。
その欠損を、これまで国家は「不運」や「個々の事情」として処理してきた。
騎士制度とはそういうものだと。
適性とはそういうものだと。
選ばれぬ者は選ばれぬなりに役目を得て働け、と。
だが、その放置された空白こそが、シックスの餌になっていた。
ボスヤスフォートは一枚の紙を抜き取る。
そこには、ゼルクの名とともに、家伝MHラクリモーサの登録番号が記されていた。
別の束には、クラヴィスの名。
その横に、暁星機動団次官、即応案件投入率、上層部評価、離反危険度――低。
低、ではある。
だがゼロではない。
彼は紙束を机上へ置いた。
「……遅いが、遅すぎるほどでもないか」
側近が控えたまま問う。
「命令を」
ボスヤスフォートは別の紙片を引き抜いた。
記されている名は、ビスマス・ガレナ。
「車を回せ」
「はい」
「今夜は工房へ行く」
側近が一瞬だけ目を見開く。
首相自ら動くには、あまりに地味で、あまりに異質な行き先だったからだ。
だがボスヤスフォートはもう次の書類を見ていなかった。
視線はもっと先――国家のほころびの、その継ぎ目へ向いていた。
帝都外縁、旧市街のさらに奥。
人の流れから外れた石畳の坂を下りきった先に、その工房はあった。
外見だけ見れば、半ば放棄された古い研究施設にしか見えない。
石造りの壁には幾度も補修の跡があり、煤けた排気塔が夜空に突き刺さっている。
扉は重く、看板もない。
だが、低く唸る機関音と、薄く漏れる魔導光だけが、そこがまだ死んでいないことを示していた。
案内もなく入った首相一行を迎えたのは、薬品とも金属ともつかぬ匂いだった。
中は広い。
清潔ではある。
だが新しくはない。
古い調整槽。
傷だらけの記録机。
金属棚に並ぶガラス瓶。
後付けで繋ぎ足された最新式の演算端末。
古風な医療器具と、今の星団では滅多に見ない旧式の精神測定機が、同じ部屋に雑然と並んでいる。
研究所というより、何代も手術と改造を重ねてきた執刀室だった。
その奥、長机を囲んで三人のマイトがいた。
一人は年嵩の男。
灰色がかった長髪を無造作に後ろで束ね、重い外套の下に古びた作業着を着ている。
顔は険しく、目だけが異様に澄んでいた。
ビスマス・ガレナ。通称、ビスマス公。
一人は中立的な笑みを浮かべた長身の男。
痩せぎすで、目元だけが妙に生き生きとしている。
ルチル・アゲート。
そしてもう一人。
端正な家柄を思わせる立ち姿の女。
背筋を伸ばし、夜会にでも出るように整った衣装を纏いながら、その目には露骨な警戒が宿っていた。
コバルト・ガーネット。
三人は、首相の来訪に驚いた顔をしたわけではなかった。
むしろ、「やっと来たか」と言わんばかりに静かにこちらを見た。
最初に口を開いたのはビスマス公だった。
「首相自ら、こんな古びた工房へ何の用です」
彼は椅子に座ったまま言う。
「ファティマを鑑賞しに来た顔ではない」
ボスヤスフォートは一歩も引かない。
「鑑賞には来ていない」
工房の奥まで視線を走らせてから、短く答える。
「欠けた接続を埋めに来た」
ルチルが小さく笑った。
コバルトは表情を硬くしたまま、何も言わない。
ビスマス公だけが、わずかに眉を上げる。
「ようやくですか」
その声には歓迎よりも皮肉が多かった。
「騎士の飢えが病になると、やっと理解したらしい」
「理解はしていた」
ボスヤスフォートは平然と言う。
「放置していた。
そのツケを払いに来た」
沈黙が落ちた。
ビスマス公はそこで椅子から立ち上がり、ゆっくりと首相の前まで歩み寄る。
老いを感じさせる動作ではない。
むしろ蓄積された時間そのものが歩いてくるような、重たい足取りだった。
「で、何を望む」
「未契約騎士への候補再選定。潜在適性者の洗い直し。
そして、必要なら制度外接続の検討」
コバルトの眉が鋭く跳ねる。
「制度外……?」
ビスマス公は半眼のまま続きを促した。
「それとも、もっと下品な話ですか」
ボスヤスフォートは答える。
「両方だ」
そして一歩、踏み込む。
「選定をやり直す。
足りなければ、結ばせる」
工房の空気が変わった。
ルチルだけが興味深そうに目を細め、コバルトは露骨に息を呑む。
ビスマス公はしばらく黙っていたが、やがて低く繰り返した。
「……結ばせる?」
「ファティマが選ぶのを待たん」
ボスヤスフォートの声は冷たい。
「必要な騎士に、必要な接続を与える。
意志が障害なら、越える」
コバルトが堪えきれず前に出た。
「それは星団法の否定です」
「承知の上だ」
「法だけではありません!」
彼女の声が強くなる。
「マイトが編み上げた精神設計そのものへの冒涜です。
ファティマは自らマスターを選ぶ。
その自由と選択を守るために、我々はダムゲート・コントロールを設計しているのです」
ボスヤスフォートはコバルトを見た。
「ならば、その設計が今の現実に追いついていない」
「何ですって」
「選ばぬ自由の結果として、飢えた騎士が病原体に食われるのなら、設計思想の方を疑え」
コバルトの顔色が変わる。
だがそれ以上に、ビスマス公の目が少しだけ鋭くなった。
「……具体的には?」
首相は答えた。
「必要ならば、私のハイブレン・コントロールで上書きする」
それは、工房の空気を一瞬で凍らせる言葉だった。
ルチルは初めてはっきりと笑い、コバルトは一歩後退る。
ビスマス公だけが沈黙したまま、首相をまっすぐ見返している。
「ダムゲートを飛び越えて、強制接続する気か」
「そうだ」
「それは調整ではない」
ビスマス公の声が低くなる。
「蹂躙だ」
「蹂躙で結構」
ボスヤスフォートは言い切った。
「飢えた人材をシックスにくれてやる方が、高尚だとでも言うか」
コバルトが険しく返す。
「ファティマは部品ではありません」
「だろうな」
「ならば!」
「だが今は、芸術品として棚に飾っておけるほど帝国は静かではない」
その声には一切の熱がなかった。
それがなおさら、言葉を重くした。
ルチルが愉快そうに指を鳴らす。
「私は嫌いじゃありませんよ、その割り切り。
芸術で飢えは埋まりません。
動くものを増やす方が先でしょう」
「黙りなさい、ルチル」
コバルトが鋭く言う。
「あなたはいつもそうやって、魂を計測値へ落とし込もうとする」
「だって実際、動くか動かないかは大事でしょう?」
「だからといって!」
ルチルとコバルトの応酬を、ビスマス公は片手で制した。
「ファティマは、こちらにとっては子であり作品です。
少なくとも、数合わせの接続部品ではない」
「知っている」
ボスヤスフォートは即答した。
「だが私は、子の幸福を守りに来たのではない。
国家の縫合に来た」
その一言に、ルチルの笑みが深くなる。
コバルトは露骨に顔をしかめ、ビスマス公は目を閉じた。
ややあって、彼はため息のように言う。
「できるかできないかで言えば、できるでしょうな」
コバルトが振り向く。
「ビスマス公!」
「だが、やるべきかどうかで言えば、反吐が出る」
それは首相への反論であり、同時に認識の共有でもあった。
ビスマス公はゆっくりと長机へ戻り、そこに散らばる記録板の一枚を持ち上げる。
「私は今のファティマ育成論に、とうに行き詰まりを感じています。
相性、選定、精神安定、自由選択。
理想としては美しい。
だがその理想の外側で、接続を持てぬ騎士が腐り、使われすぎたファティマが摩耗し、挙げ句に病原体がそこへ入り込む」
彼は首相を見た。
「あなたはそこへ、乱暴すぎる外科手術を持ち込もうとしている」
「正確には、遅すぎた手術だ」
ボスヤスフォートの返答は短かった。
「私はずっと、傷口を見ながら包帯だけを替えていた。
その間に病が入った」
その言葉に、工房の空気がわずかに沈む。
ビスマス公は首相の顔を見つめたまま、しばらく黙った。
そして、低く言う。
「具体名は」
「未契約騎士の洗い直しをしている」
「その中で、本命にしたい人材は?」
ボスヤスフォートは答えなかった。
だが視線だけが、机上の記録板のある一点へ落ちる。
ビスマス公はそれを見て、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……なるほど」
コバルトが訝しげに言う。
「誰です」
首相は黙ったままだった。
代わりにビスマス公が、まるで名を出したくないものを無理に口へ乗せるように言う。
「ツァイス家の男ですな」
コバルトの目が細くなる。
ルチルは「ああ」と短く笑った。
「ラクリモーサ」
「そうだ」
ビスマス公は頷く。
「機体だけが長く眠り、騎士だけが年を取り、接続だけが来なかった」
ボスヤスフォートはそこで初めて明言した。
「ゼルクだ」
名前が落ちる。
コバルトは複雑な表情になった。
「……腕は本物ですが、今さらです」
「今さらだからだ」
首相は冷たく返した。
「今さら届かなかった者ほど、病に食われる」
ビスマス公が、ゆっくりと別の記録板へ手を伸ばした。
「ちょうど一体、戻ってきた個体があります」
その瞬間、ルチルが笑みを引っ込める。
コバルトは唇を結ぶ。
ボスヤスフォートは黙っている。
ビスマス公は記録板を持ったまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙だけで、安易に名を出したくないことが伝わってくる。
「ノクターン」
低い声だった。
工房の古い壁に吸われるように、その名が落ちる。
「前のマスターを戦で喪い、現在は再調整中。
……もっとも、欠員の穴埋めに回してよい代物ではありません」
ボスヤスフォートの目がわずかに細くなった。
「なぜだ」
「優秀だからです」
ビスマス公は平然と答える。
「優秀すぎる。
夜戦に出せば、必ず働く。
殺すべき標的を見失わず、連携の遅れも許さず、主が迷えば先に夜を読んでしまう。
だから何人もの騎士があれを求め、何人もの騎士があれと夜へ出た」
彼はそこで一度言葉を切った。
「そして、何人もの騎士が戻らなかった」
ルチルが小さく肩をすくめる。
「高性能機というのは、だいたいそういうものですよ」
「軽く言うな」
ビスマス公の一喝で、ルチルもさすがに黙る。
「ノクターンは壊れていない。
ただ、夜に使われすぎただけです」
その言葉には、ファティママイトとしての冷静さと、作り手としての重さが両方あった。
ボスヤスフォートは記録板を見ず、工房のさらに奥――幾重にも扉の閉ざされた調整区画の暗がりへ視線を向けた。
そこに姿は見えない。
だが、確かに気配がある。
静かで、冷たく、どこか物悲しい。
まるで夜そのものが、呼吸を止めて沈んでいるような気配だった。
「……ノクターンか」
彼は短く呟く。
ビスマス公がその横顔を見た。
「言っておきますが、あれを雑に回す気なら私は降ります」
「雑には回さん」
「強制接続を口にしておいて、よく言う」
「強制する場合でも、相手は選ぶ」
コバルトが眉をひそめる。
「それでも選ぶ自由はない」
「自由を守って国家が裂けるなら、その自由は今は贅沢だ」
またしても冷酷な断定。
だが首相はそこで、初めてほんのわずかに言葉を和らげた。
「……ただし、私は壊れた接続を欲しているのではない。
放置された欠損同士を、ようやく接ぎ直したいだけだ」
ビスマス公は首相をじっと見つめた。
長い沈黙が流れる。
やがて彼は、記録板を机上へ戻す。
「接ぎ直せるかどうかは、まだわかりません」
「だろうな」
「ノクターンが頷く保証もない。
ツァイス家の男が受け取る保証もない」
「それでも、名を知るだけで十分だ」
ボスヤスフォートは答えた。
「次に切る札としてはな」
ルチルが、口元に指を当てながら楽しそうに言う。
「ずいぶん人間らしいですね、首相閣下。
希望のある札を探すなんて」
「違う」
ボスヤスフォートは彼女を見ずに言う。
「希望ではない。
先回りだ」
その言葉に、コバルトは小さく息を吐いた。
ビスマス公は何も言わない。
だが、その沈黙は拒絶だけではなかった。
工房の奥、閉ざされた調整区画の向こうで、誰かが静かに目を開けた気配がした。
夜を連れてくる名を持つファティマ。
まだ自分の次の主を知らない、静かな夜。
ボスヤスフォートはその姿を見ないまま踵を返す。
「名簿を寄越せ」
「どの範囲まで」
「未契約騎士。
潜在適性者。
再調整可能個体。
それと――」
彼はわずかに振り向いた。
「飢えたまま放置すれば、病に食われる人材の一覧をだ」
ビスマス公の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
それは笑いではない。
だが、ようやく話が始まると知った技術者の顔だった。
「……遅いですよ、ディス・ヒフツェン」
そこで初めて、首相の長い名が出た。
ただの敬称ではない。
“帝位を自称する怪物”への呼びかけとして。
ボスヤスフォートは立ち止まりもしない。
「承知している」
短く答える。
「だから、今から縫う」
その背が工房の暗がりへ消えていく。
残されたマイトたちは、それぞれ違う顔で沈黙した。
反発。
興味。
不快。
理解。
どれ一つ同じではない。
だがただ一つ、共通していたことがある。
帝国はもう、病を見ているだけの段階では終わらない。
次からは、病が食う前に、欠けた接続を塞ぎに来る。
その最初の名として、夜のファティマはすでに選ばれていた。
ノクターン。
だがまだ、ゼルクとは会わない。
夜はまだ工房の奥に沈み、
涙の機体もまた、どこか別の格納庫で眠ったままだった。
二つの欠損が接続されるには、もう少しだけ時間がいる。
そして、その時間こそが、次の戦いの猶予でもあった。