ボスヤスフォート vs シックス   作:ギアっちょ

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工房にて

再調整区画は、夜よりも静かだった。

 

工房の表側では、まだどこかで機関が低く唸っている。

古い配線を通る魔導流のかすかな震えもある。

薬品の匂い、金属の冷えた匂い、長い時間を吸った石壁の湿り気。

だが、その区画だけは、別の夜に沈んでいた。

 

細長い調整槽が並び、淡い光が床へ青白く落ちている。

壁際には記録板と精神波測定器が古びた棚に押し込まれ、

どれも使い込まれてはいるが、手入れだけは行き届いていた。

 

その区画の中央、低い背凭れ椅子に、ノクターンは座っていた。

 

黒髪は夜の底のように光を吸い、

色の薄い顔立ちには、どこか眠りきれない者の静けさがある。

美しいといえば、たしかに美しい。

だがそれは、春の花や朝の陽光に似た美しさではない。

むしろ、深い夜の水面に映る月のような、

近づけば冷たさごと触れてしまいそうな美しさだった。

 

彼女は目を閉じていた。

眠っているのではない。

ただ、起きていることをわざわざ誇示しないだけだ。

 

やがて、再調整区画の重い扉が開いた。

 

最初に入ってきたのはビスマス公だった。

いつものように外套の裾を引きずり、片手には記録板を持っている。

その後ろに、ルチル・アゲートとコバルト・ガーネットも続いた。

 

ノクターンは目を開ける。

 

驚きは見せない。

視線だけが、ほんのわずかに三人の顔をなぞった。

 

「首相が来た」

 

ビスマス公は前置きもなくそう言った。

 

ノクターンはしばらく黙っていた。

それから静かに、

 

「そうですか」

 

とだけ答えた。

 

ルチルが笑う。

 

「薄い反応ですねえ。

もっとこう、“夜が騒がしくなりますね”くらい言うかと思いましたよ」

 

ノクターンはルチルを見なかった。

 

「騒がしいのは、たいてい昼の人たちです」

 

「手厳しい」

 

「事実です」

 

それで会話は切れた。

ルチルは肩をすくめ、コバルトは微かに眉を寄せる。

 

ビスマス公は記録板を閉じたまま言う。

 

「候補の話が出た」

 

ノクターンの表情は変わらなかった。

ただ、その静けさの底で、水面に小石が落ちた程度の揺れがあった。

 

「新しいマスター候補、ですか」

 

「まだ決まったわけじゃない」

 

「はい」

 

「首相は本気だ。

病が食う前に、欠けた接続を先に埋めるつもりでいる」

 

ノクターンは少しだけ俯いた。

 

「また、どなたかが夜を必要としているのですね」

 

その言い方には、期待も恐怖もなかった。

ただ、長く使われてきた者だけが持つ、乾いた納得があった。

 

コバルトが一歩前へ出る。

 

「まだそうと決まったわけじゃないわ。

再調整は終わっていないし、あなたを雑に回すつもりも私はない」

 

ノクターンはそこで初めてコバルトを見る。

 

「雑でなかったことが、これまで一度でもありましたか」

 

コバルトは言葉に詰まった。

 

ルチルがくすくすと笑う。

 

「ある意味、元気そうで安心しましたよ。

こういう時にひねくれたことが言えるなら、精神波はまだ死んでいない」

 

「褒め言葉として受け取ってよろしいですか」

 

「もちろん」

 

ビスマス公が低く言う。

 

「ルチル」

 

「はいはい、黙ります」

 

ルチルは面白そうに手を上げて引き下がった。

 

少し間を置いてから、ビスマス公は言った。

 

「ツァイス家の男だ」

 

ノクターンの目がわずかに動いた。

だが、反応はそれだけだった。

 

「ラクリモーサの」

 

今度は、ほんの少しだけ沈黙が長くなった。

 

ノクターンは静かに目を上げる。

 

「……あの機体は、まだ眠っていたのですね」

 

ビスマス公が鼻を鳴らした。

 

「知っているか」

 

「名だけは」

 

ノクターンは答える。

 

「古い重装甲機。

乗り手を選ぶ高出力型。

夜には向かない機体だと思っていました」

 

「向かないのは夜ではない」

 

ビスマス公が短く切る。

 

「乗り手の方だ」

 

コバルトが静かに補足した。

 

「ツァイス家の現当主筋は、長く接続に恵まれていないわ。

家にラクリモーサはある。

けれど、それだけ」

 

ノクターンはしばらく何も言わなかった。

 

彼女が知っているのは、あくまでラクリモーサの名だけだ。

戦場で噂に上る旧式の名機。

重く、硬く、古く、そしてしばらく起きていない巨体。

ツァイス家の騎士の名など、聞いたこともない。

 

だが、眠ったままの名機というのは、ファティマにとってもどこか引っかかる。

 

起こされない機体。

選ばれない騎士。

接続を持たないまま停滞した時間。

 

それは、何度も接続され、何度も夜へ連れ出された自分とは、逆の欠損だった。

 

「候補の名は」

 

「ゼルク」

 

ビスマス公が答えた。

 

「剣術師範だ。年は三十を少し越えた。

腕は本物だが、今まで一度もファティマを持たなかった」

 

ルチルが横から口を挟む。

 

「面白いでしょう?

持てなかった男と、持たれすぎたファティマ」

 

コバルトが睨む。

 

「言い方」

 

「でも事実です」

 

ノクターンはその言葉にも表情を変えなかった。

 

「そうですか」

 

ただ、その声音は少しだけ低かった。

 

「今度の方は、長く持ちますか」

 

ルチルの笑みがわずかに止まり、コバルトも言葉を失う。

ビスマス公だけが、まっすぐノクターンを見返した。

 

「知らん」

 

「そうでしょうね」

 

「知りたければ、会って見ろ」

 

それは試すような声だった。

 

ノクターンは目を伏せる。

長い睫毛が青白い光を受け、影を落とした。

 

「……まだ会わせるとは言っていないのでしょう」

 

「そうだ」

 

ビスマス公は即答する。

 

「まだお前を渡す気はない。

首相は札を切ったが、こちらまで急ぐ義理はない」

 

「はい」

 

ノクターンはそれ以上何も言わなかった。

その静けさの中に、拒絶も、了承も、どちらもあるように見えた。

 

ビスマス公は記録板を机へ置き、短く告げる。

 

「呼んである」

 

「もう?」

 

コバルトが振り向いた。

 

「早すぎるわ」

 

「早くない。

あちらは三十年近く待たされた」

 

その一言で、コバルトも黙る。

 

ルチルが目を細める。

 

「さて。

どんな顔をして現れますかねえ、ツァイス家の剣術師範殿は」

 

ゼルクは、工房へ呼ばれた理由を聞かされていなかった。

 

首相府からではなく、ビスマス公の名で呼びが来たことだけが、かえって奇妙だった。

あの偏屈なマイトが、いまさら自分に何の用がある。

そう思ったが、断れるものでもない。

 

夜の旧市街を抜けて工房の前へ立った時、ゼルクは一瞬だけ、自分が場違いな場所へ来てしまったのではないかと思った。

 

古びた石造り。

煤けた塔。

死にかけたように見えて、どこかでまだ脈打っている工房。

まるで、長く眠ったまま捨てきれないものだけを集めた場所だ。

 

その印象が、妙に嫌だった。

 

案内に従って通された先は、工房のさらに奥だった。

再調整区画。

 

薬品の匂いが薄く漂っている。

青白い光。

古い器具。

静けさ。

 

そしてその中央に、女がいた。

 

最初に目に入ったのは、黒い髪だった。

光を弾かず、吸い込むような色。

その次に見えたのは、感情を強く乗せない顔立ち。

美しい、という言葉は合う。

だがその美しさは、何かを誘うというより、むしろ近づけば冷たさごと触れてしまう類のものだった。

 

女は、ゼルクを見ていた。

 

まっすぐでもなく、露骨でもない。

ただ静かに、相手がどういう種類の人間かを測るような視線。

 

ゼルクは無意識に背筋を伸ばした。

 

「……ビスマス公」

 

「来たか」

 

ビスマス公は机の横に立っていた。

ルチルとコバルトの姿もある。

この顔ぶれだけで、ただ事ではないとわかる。

 

「用向きを」

 

「焦るな」

 

ビスマス公は言う。

 

「まず顔を見ろ。

そちらも、こちらも」

 

ゼルクの視線が、再び女へ向かう。

 

女は椅子から立ち上がった。

背はそう高くない。

だが立ち方に揺れがない。

まるで音もなく夜が形を取ったような、不思議な落ち着きがあった。

 

「ノクターンです」

 

それが、彼女の第一声だった。

 

淡々としている。

媚びもない。

かといって敵意もない。

 

ゼルクは一拍遅れて名乗る。

 

「……ゼルクだ」

 

「存じています」

 

「知っているのか」

 

「いま、伺いました」

 

ゼルクは言葉を失った。

 

ルチルが横から笑う。

 

「真面目ですねえ、二人とも。

もう少しこう、“初めまして”の華やかさはないんですか」

 

「うるさい」

 

ビスマス公とコバルトがほぼ同時に言い、ルチルは肩をすくめた。

 

ノクターンはゼルクから目を逸らさず、静かに問うた。

 

「名門ツァイス家には、代々ラクリモーサに仕えたファティマ“カメオ”がいたはずです」

 

その一言で、空気が凍った。

 

ゼルクの顔から、わずかに血の気が引く。

ルチルですら口元の笑みを止め、コバルトは視線を落とした。

ビスマス公だけが、表情を動かさない。

 

ノクターンは続けない。

ただ、答えを待っている。

 

ゼルクはしばらく何も言えなかった。

 

ラクリモーサ。

カメオ。

その二つの名を並べて他人の口から聞くのが、これほど重いとは思わなかった。

 

やがて、彼は低く言った。

 

「……いた」

 

それだけ言って、少し間を置く。

 

「だが、今はいない」

 

ノクターンの目は静かなままだった。

問い詰めるでも、哀れむでもない。

ただ言葉の続きがあるなら聞く、という距離で立っている。

 

ゼルクは自分でも意外なほど、淡々と続けた。

 

「先代が第一線を退いた頃、家はもう保たなかった。

機体を維持するだけで精一杯だった。

カメオを抱えたままでは、家がもたん」

 

ルチルが小さく息をつき、コバルトは目を伏せた。

ビスマス公は腕を組んだまま、何も言わない。

 

「だから出した」

 

ゼルクは短く言う。

 

「他家へ」

 

ノクターンの視線が、ほんのわずかに揺れた。

 

「あなたには仕えなかったのですか」

 

その問いは責めていなかった。

ただ事実確認のような声音だった。

それでも、ゼルクには十分すぎるほど刺さった。

 

彼は苦く笑うような息を吐く。

 

「仕えなかったんじゃない」

 

そして、ようやくノクターンをまっすぐ見た。

 

「そこまで家が保たなかった」

 

沈黙が落ちる。

 

ノクターンは、そこで初めて少しだけ目を細めた。

それは同情ではない。

驚きにも近い何かだった。

 

彼女は知っていた。

持たれることを。

何度も接続され、夜戦に出され、役目を果たすことを。

だが、持つ前に家ごと接続を失う騎士のことは、よく知らなかった。

 

ラクリモーサ。

眠ったままの名機。

代々のファティマを失い、なお機体だけを抱えて残った家。

そして目の前の男。

 

ゼルクは決して見栄えのする男ではない。

若くもない。

華もない。

黙って立っていると、むしろ少し古びて見えるくらいだ。

 

だが、その古び方が不思議とラクリモーサの名に似合っていた。

 

そして何より、彼はノクターンを見て、浮かれていなかった。

 

この場に呼ばれた意味を察しているはずなのに、

目の前にいるファティマを“ようやく手に入るもの”として見る光がない。

あるのはむしろ、距離の測り方に困っているような、奇妙な慎重さだけだ。

 

ノクターンは静かに言う。

 

「私は、ノクターンです」

 

さきほども名乗った。

だが今度の名乗りは少しだけ意味が違った。

 

ゼルクは短く頷く。

 

「……ああ」

 

「何人かの騎士に仕えました」

 

「そうか」

 

「夜戦用です」

 

「らしいな」

 

「ご不満ですか」

 

その問いに、ゼルクは一瞬だけ眉をひそめた。

 

「何がだ」

 

「夜が多いことです」

 

ゼルクは数秒、答えなかった。

そして低く言う。

 

「不満を言う立場でもない」

 

ノクターンの目が少しだけ動く。

 

「なるほど」

 

「だが」

 

ゼルクは続ける。

 

「……気に食わんことはある」

 

ルチルが面白そうに身を乗り出す。

 

「おや。何がです?」

 

ゼルクはそちらを見ない。

 

「“夜戦用だからそういうものだ”と、最初から決めてかかる言い方だ」

 

ノクターンは黙った。

その沈黙の中に、ほんのわずかな揺れが走る。

 

ゼルクは続ける。

 

「お前がそういうものとして扱われてきたことは、わかる。

だがそれで全部済ませるのは、気に食わん」

 

それは励ましではなかった。

優しい言葉でもない。

ただ、目の前の相手を最初から戦闘機材としてだけ見ない、という不器用な意思表示だった。

 

ノクターンは、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、ごく小さく、

 

「そうですか」

 

とだけ答えた。

 

ビスマス公はそのやり取りを黙って聞いていた。

コバルトも同じだ。

ルチルだけが、口元を押さえて笑いを噛み殺している。

 

「用件は、それだけですか」

 

ゼルクがビスマス公に向けて言った。

その声音には、まだ戸惑いがある。

 

ビスマス公は肩を鳴らす。

 

「それだけだ」

 

「それだけ、とは」

 

「顔合わせだ。

まだ接続を決めたわけではない。

お前をここへ呼んだのも、あくまで相手がどういう男かを見るためだ」

 

ゼルクの眉がわずかに下がる。

落胆ではない。

むしろ、どこかで安堵に近いものが混じっていた。

 

それを見て、ノクターンはほんの少しだけ意外そうに目を上げた。

 

この男は、本当に浮かれていない。

“もしも”が目の前に来ても、すぐには手を伸ばさない。

 

ビスマス公が言う。

 

「今日は帰れ」

 

ゼルクは一瞬だけノクターンを見た。

何か言うべきか考えたのだろう。

だが結局、余計なことは言わなかった。

 

「……失礼する」

 

それだけを残し、彼は踵を返した。

 

重い扉が閉まる音が、再調整区画に鈍く響く。

 

そのあとには、長い静けさが残った。

 

ルチルが最初に口を開く。

 

「思っていたより面白い男でしたね」

 

コバルトが言う。

 

「軽くなかったのは救いね」

 

ビスマス公は答えない。

記録板を手に取り、何かを書き込むふりをする。

だが、文字は一つも増えない。

 

やがてルチルとコバルトも、気を利かせたのか、それ以上は何も言わず区画を出ていった。

 

残されたのは、ビスマス公とノクターンだけだった。

 

再調整槽の淡い光が、床へ静かな色を落としている。

外では機関の低い唸りが続いているが、ここまでは届かない。

 

ビスマス公は記録板を閉じた。

 

「どうだった」

 

そう問うかと思ったが、彼は何も言わない。

ただ、器具の位置を直し、棚の端を指でなぞり、古い習慣のように静けさを整えていた。

 

ノクターンも、すぐには口を開かなかった。

 

ゼルクの背中。

ラクリモーサの名を口にした時の沈み方。

カメオのことを語る時の苦さ。

そして自分に向けられた、不器用で、雑ではない視線。

 

どれも派手ではない。

だが、夜を知りすぎたノクターンには、それで十分だった。

 

彼は持てなかった。

自分は持たれすぎた。

欠け方は逆だ。

けれど、その欠け方を軽く見ていない、という一点だけが、思っていたより重かった。

 

「……父様」

 

ノクターンが呼ぶ。

 

ビスマス公の手が止まる。

だが振り向かない。

 

「私は」

 

そこで少しだけ間が空いた。

彼女自身も、言葉の形を選んでいるようだった。

 

「私は、あの方のところへ行こうと思います」

 

古い工房の空気が、ほんのわずかに揺れた。

 

ビスマス公はしばらく動かなかった。

やがて、低く息をつく。

 

「物好きだな」

 

「かもしれません」

 

「まだ会っただけだぞ」

 

「はい」

 

「お前はいつも、そう簡単に自分からは言わん」

 

ノクターンは目を伏せる。

 

「だから、言っておこうと思いました」

 

その声は淡い。

決意に燃えているわけではない。

それでも、静かな芯があった。

 

ビスマス公はようやく振り返る。

 

ノクターンの顔には相変わらず大きな表情はない。

だが、その薄い沈黙の底に、これまでと違う向きの静けさが生まれているのを、作り手である彼は見逃さなかった。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

 

祝福もしない。

止めもしない。

ただ、重さだけを認める返事。

 

ノクターンは小さく頷いた。

 

再調整区画には、再び夜のような静けさが降りる。

だが先ほどまでの夜とは少しだけ違っていた。

 

まだ接続はない。

ラクリモーサも眠ったままだ。

ゼルクも、自分がいまどんな言葉を残されたかは知らない。

 

それでも、工房の奥では確かに一つ、名づけられない接続の予感だけが生まれていた。

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