ボスヤスフォート vs シックス   作:ギアっちょ

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君に合うファティマ

夕暮れのツァイス家は、静かだった。

 

没落したとまでは言わない。

だが栄えているとも、とうてい言えない。

広い庭は手入れこそ続いているものの、かつて大勢の使用人がいた時代の面影をそのまま持て余している。

石造りの母屋も、壁の白さより先に、時間の古色を見せるようになって久しい。

 

そして屋敷の奥、格納庫の中で、ラクリモーサは今日も眠っていた。

 

重い胸郭。

分厚い肩。

古い時代の力をそのまま封じ込めたような、無骨で威圧的な巨体。

その姿の前に立つと、ゼルクは毎度のように、自分がまだこの機体の主ではないことを思い知らされる。

 

今夜、その眠りを見に来たのはゼルクだけではなかった。

 

ビスマス公。

そしてノクターン。

 

二人を伴って格納庫へ足を踏み入れた時、ゼルクは自分でも驚くほど口数が少なくなっていることに気づいていた。

いや、もともと多くはない。

だが今夜は、余計な言葉を足せば足すほど、この場が軽くなる気がした。

 

ノクターンは、ラクリモーサの前で足を止める。

 

しばらく何も言わず、ただその巨体を見上げていた。

黒い髪が格納庫の薄明かりを吸い、青白い横顔だけが静かに浮かぶ。

彼女の纏う空気は、工房にいた時と同じだった。

静かで、暗く、どこかで夜を連れている。

 

やがて彼女は、ごく低く呟いた。

 

「……大きいのですね」

 

「古い機体だ」

 

ゼルクが答える。

 

「大きくもなる」

 

「いいえ」

 

ノクターンはラクリモーサから目を離さないまま、静かに言った。

 

「古いから、ではなく。

誰かの誇りが長く眠っている時の大きさです」

 

ゼルクは返す言葉を失った。

 

ビスマス公だけが、鼻を鳴らした。

 

「感傷に流されるな、ノクターン。

機体は機体だ」

 

「はい、父様」

 

素直な返答だった。

だが、そのあともノクターンはラクリモーサを見上げ続けていた。

 

ゼルクはその横顔を盗み見る。

彼女は浮かれていない。

ようやく得るかもしれない新しい接続に期待して目を輝かせるような、そういう種類の存在ではなかった。

それがむしろ、ゼルクには少しだけ救いだった。

 

「前回も言ったが」

 

ビスマス公が口を開く。

 

「まだ決めたわけじゃない。

今日ここへ来たのも、あくまでお互いが何を抱えているかを見るためだ」

 

「わかっています」

 

ゼルクは短く答える。

 

「俺も、すぐにどうこうなるとは思っていません」

 

「そうだろうな」

 

「……期待していないわけじゃない」

 

そこで一度、ゼルクは言葉を切った。

ラクリモーサを見上げる。

眠ったままの巨体は、相変わらず何も言わない。

 

「だが、期待の仕方はもう、若い頃とは違う」

 

ビスマス公がちらりとゼルクを見る。

ノクターンもまた、初めてはっきりと彼の方を見た。

 

その視線を受けて、ゼルクは少しだけ苦く笑う。

 

「いまさら“ようやく全部が元通りになる”なんて、そんな都合のいいことは思っていない」

 

ノクターンの目が、わずかに細まった。

 

「元通り、ですか」

 

「そうだ」

 

「……それは、良いことなのでしょうか」

 

意外な問いだった。

 

ゼルクは答えに詰まる。

 

元通り。

自分は本当にそれを望んでいるのか。

失ったものが全部戻ってきて、初めから接続があったかのように、何もかもが帳尻の合う未来を。

 

そんなものは、きっともうない。

 

「どうでしょうねえ」

 

横からルチルの声がした時、ゼルクは思わず振り返った。

 

いつの間にか格納庫の入口付近に、ルチルとコバルトの姿があった。

ビスマス公は露骨に嫌そうな顔をする。

 

「ついて来るなと言ったはずだが」

 

「面白そうだったので」

 

ルチルは悪びれない。

 

コバルトはやや呆れたようにため息をついた。

 

「私がついていなければ、あなた一人で余計なことを言うでしょう」

 

「余計なことしか言わないのはお互い様ですよ」

 

軽口のようなやり取り。

それでも空気はどこか張っていた。

 

ノクターンが静かに問う。

 

「父様。今日は皆さまで?」

 

「違う」

 

ビスマス公は短く言う。

 

「静かに済ませたかった。

だが、そうはいかんらしい」

 

その一言と同時に、格納庫の奥の空気が変わった。

 

気配。

 

人の気配というより、場そのものの重心が、別の方向へわずかに引かれるような感覚。

ゼルクの全身が一瞬で強張る。

ノクターンもまた、ごくわずかに顔を上げた。

 

ビスマス公が低く舌打ちする。

 

「遅いかと思えば、今度は早い」

 

闇の奥から、歩いてくる者がいる。

 

整った顔立ち。

穏やかな笑み。

若く見えるくせに、眼だけが深く古い。

シックスだった。

 

その隣に、もう一人。

 

フード付きの長い外套を深く被った、細身の女が立っている。

顔は見えない。

だが、その立ち方だけが妙に胸に引っかかった。

 

ゼルクの眉がひそまる。

 

「誰だ」

 

問いに、シックスはすぐには答えない。

むしろ愉快そうに目を細める。

 

「言っただろう?」

 

その声は柔らかい。

 

「君に合うファティマを用意できると」

 

ビスマス公が一歩前へ出る。

 

「ここへ何をしに来た、病原体」

 

「挨拶だよ」

 

シックスは平然としていた。

 

「せっかく首相閣下が素敵な札を切ってくれたんだ。

なら、こちらも一枚くらい見せないと不公平だろう?」

 

ノクターンの表情は動かない。

だが気配だけが、わずかに冷えた。

 

シックスは隣の女へ、まるで舞台の幕を上げるように柔らかく促した。

 

「ほら。挨拶してあげなよ」

 

女は、ゆっくりと手を上げた。

外套のフードを外す。

 

見覚えのある顔だった。

 

見間違えるはずがない。

昔のままの目元。

少しだけ大人びた、いや、昔よりさらに作り物めいた微笑。

それが格納庫の灯りの中へ現れた瞬間、ゼルクの時間は一瞬で後ろへ引きずり戻された。

 

「お久しぶりですね、若」

 

その呼び方だけで、胸の奥の古傷が開く。

 

女は口元だけで笑う。

 

「……いいえ。もうそうお呼びする歳でもありませんね。

ゼルク坊っちゃん。

それとも、ゼルク・ツァイス様とお呼びすべきかしら?」

 

「カメオ……」

 

ゼルクの喉から出たのは、それだけだった。

 

ツァイス家に代々仕えたファティマ。

ラクリモーサの傍らにいた影。

家がまだもう少しだけ家らしかった頃の記憶。

子供の自分には、少し背の高い、優しい女だった。

 

いや、本当に優しかったのか。

 

いま目の前にいる女は、あの頃と同じ顔をしている。

なのに、あの頃よりずっと鋭い。

柔らかい笑みの下に、こちらの揺れを楽しむような毒がある。

 

シックスが、横で楽しそうに言う。

 

「ほらね。

やっぱり君に合う」

 

ルチルが思わず息を呑み、コバルトは露骨に顔をしかめた。

ビスマス公だけが、石のような顔でシックスを睨んでいる。

 

カメオはゼルクから視線を外さない。

 

「ずいぶんご立派になられましたのね」

 

その声音はやわらかい。

それなのに、ひどく不快だ。

 

「でも、なんだか昔のまま」

 

ゼルクの拳がわずかに握られる。

 

「……何をしに来た」

 

「再会ですわ」

 

カメオはさらりと言う。

 

「昔のご縁にご挨拶するくらい、よろしいでしょう?」

 

「ご縁、か」

 

ビスマス公が低く言った。

 

「縁を持ち出すには、ずいぶんと毒が深くなったものだな」

 

カメオはそこで初めてビスマス公を見る。

そして薄く笑った。

 

「そちらの子ほどではありませんわ」

 

その一言で、ノクターンの気配がわずかに変わる。

怒りではない。

ただ、静かな温度が一段下がった。

 

シックスは心底楽しそうだった。

 

「いいね。

やっぱり昔から知っている相手というのは、話が早い」

 

ゼルクはカメオを見たまま動けない。

目の前にいるのは確かに過去だ。

ツァイス家にあったはずの接続。

自分が本来継ぐことのなかった家の一部。

取り戻せなかったものそのもの。

 

なのに、懐かしさより先に、ひどい違和感があった。

 

昔の記憶の中のカメオは、もっと静かに笑っていたはずだ。

もっと柔らかく、もっと家の中に馴染んだ影だった。

いま目の前の女は、それを知った上で、あえて違う笑い方をしている。

 

シックスが囁く。

 

「言っただろう、ゼルク。

君に合うファティマを用意できると」

 

「貴様……」

 

「何か間違っているかい?

彼女は元からツァイス家のものだ。

ラクリモーサを知っていて、君の家を知っていて、君の子供の頃まで知っている」

 

その声音が、どこまでも優しい。

 

「返してもらえるなら、これ以上ないくらい“合う”相手じゃないか」

 

カメオはそこで、ほんの少しだけ首を傾げた。

 

「そうですわね。

坊っちゃんが望むなら、またあの家へ戻るのも悪くないかもしれません」

 

優しい言い方だった。

けれどゼルクにはわかった。

そこにあるのは、申し出ではない。

試しだ。

 

まだ揺れるか。

まだ昔のまま、自分へ手を伸ばすか。

その反応を見ている笑みだった。

 

ノクターンは何も言わない。

ただ静かに立っている。

シックスも、カメオも、ゼルクも、ラクリモーサも、その全部を夜の底から見ているような静けさ。

 

それが逆に、ゼルクには重かった。

 

カメオは続ける。

 

「でも、どうしましょう。

いまの私はもう、昔のツァイス家のカメオではありませんの」

 

「……そうだろうな」

 

ゼルクは低く返した。

 

カメオの笑みがわずかに深くなる。

 

「まあ。

おわかりになる?」

 

「見ればわかる」

 

「ひどい方」

 

「ひどくしたのは、そっちだ」

 

その一言に、カメオは一瞬だけ目を細めた。

それは笑みを崩した、というほどではない。

だが、ほんのわずかに、昔の女の輪郭が消えた。

 

シックスが面白そうに二人を眺める。

 

「さあ、どうする?」

 

その問いは甘い。

しかし中身は刃だ。

 

「過去を返してもらうか。

それとも、首相閣下の縫い合わせた未来に賭けるか」

 

ゼルクは、初めてノクターンを見る。

 

彼女は相変わらず静かだった。

嫉妬も、不満も、焦りもない。

まるで自分が選ばれるかどうかを競っていないかのように。

その代わり、目の前の男が何を選ぶ人間なのかだけを、まっすぐ見ている。

 

その視線が、ゼルクには思いのほか重かった。

 

カメオは過去だ。

本来ツァイス家にあったはずの接続だ。

もし彼女を取れば、失われた何かを取り戻した気になれるかもしれない。

 

だが、取り戻せるのは本当に“過去”なのか。

 

違う。

 

目の前にいるカメオは、あの頃の家の影ではない。

シックスのそばで、隠していた何かを解放された女だ。

昔の優しい先輩でも、家を支えた従順なファティマでもない。

 

返されるのは過去ではない。

過去の顔をした毒だ。

 

そしてノクターンは、まだ何も始まっていない。

未来と呼ぶには静かすぎる。

けれど少なくとも、まだ自分が何を選ぶかで形の変わる余地がある。

 

ゼルクは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「カメオ」

 

「はい、坊っちゃん」

 

「その呼び方はやめろ」

 

カメオの眉がわずかに上がる。

 

ゼルクは続けた。

 

「お前はもう、ツァイス家の過去だ」

 

静寂。

 

シックスの笑みがわずかに深くなる。

カメオの表情はまだ崩れない。

 

「今さら返されても、あの家にあった頃のままではいられん」

 

「まあ」

 

「そして俺も、あの頃のガキじゃない」

 

その声には、怒鳴りも悲鳴もなかった。

ただ、苦く、遅すぎる断定だけがあった。

 

ゼルクはノクターンへ視線を移す。

 

「こっちは、まだ何も始まっていない」

 

ノクターンの目が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「返ってきた過去より、これから接続する方を選ぶ」

 

それは劇的な告白ではない。

むしろ静かで、不器用で、あまりに遅い決断だった。

 

だが、ノクターンにはそれで十分だった。

 

シックスが小さく笑う。

 

「そうか」

 

怒ってはいない。

失望もしていない。

むしろ予想通りに面白い玩具が動いた時の顔だった。

 

「では、彼女は連れて帰ろう」

 

カメオはそこで、初めて本当にゼルクを見た。

その目から、ほんのわずかにだけ笑みが消える。

 

だがシックスはそれすら見逃さない。

 

「聞いただろう?」

 

その声は優しい。

優しすぎて、残酷だ。

 

「彼は君を選ばなかった」

 

カメオの指先が、わずかに外套の裾を掴む。

ほんの一瞬だけだった。

だがその小さな反応すら、シックスには十分だった。

 

「だからもう、君はこっちにいるしかない」

 

ルチルが息を呑む。

コバルトは目を背け、ビスマス公の顔だけがさらに険しくなる。

 

カメオは一瞬だけ俯き、次の瞬間にはもう昔と同じ柔らかい笑みに戻っていた。

いや、昔よりもっと上手く作られた笑みだ。

 

「そうですわね」

 

彼女は静かに言う。

 

「では、次にお会いする時は敵として、でしょうか」

 

「そうなるだろう」

 

ゼルクは答えた。

 

「残念ですわ、若……いいえ、ゼルク様」

 

その呼び方は、先ほどより少しだけ距離があった。

そしてその少しだけが、かえって痛い。

 

シックスは満足そうに目を細める。

 

「じゃあ今日はここまでだ。

未来を選んだのなら、せいぜい大事にするといい」

 

そう言い残し、彼はカメオを伴って闇の方へ下がる。

去り際、ほんの一瞬だけ振り返って、

 

「でも忘れないでくれ、ゼルク。

過去は選ばれなくても、敵にはなれる」

 

と、楽しそうに告げた。

 

次の瞬間、気配は夜へ溶けた。

 

残された格納庫には、重い沈黙だけが降りる。

 

しばらく誰も口を開かなかった。

 

最初に息を吐いたのはビスマス公だった。

 

「……最悪の趣味だな」

 

「まったくです」

 

コバルトが低く答える。

 

ルチルは珍しく軽口を叩かなかった。

ただ面白がりと嫌悪のあいだで、妙な顔をしている。

 

ノクターンだけが、なお静かにゼルクを見ていた。

 

「過去を選ばなかったのですね」

 

その問いは確認に近かった。

 

ゼルクはラクリモーサを見上げる。

眠った巨体は相変わらず何も言わない。

カメオが戻れば、少し前の自分なら揺れたかもしれない。

いや、実際かなり揺れた。

 

だがいまは、胸の痛みより先にわかることがある。

 

あれはもう、自分が追うべき過去ではない。

追えばただ、シックスの作った傷の形に嵌められるだけだ。

 

「選ばなかったというより」

 

ゼルクは低く言う。

 

「返されたくなかった、かもしれん」

 

ノクターンは少しだけ目を細めた。

 

「そうですか」

 

「お前は」

 

ゼルクは言いかけて止まる。

何をどう言えばいいのか、まだわからない。

 

ようやく来たかもしれない新しい接続に向かって、軽々しく何かを言えるほど、今の自分は上手くできていない。

 

その沈黙を見て、ノクターンはほんのわずかに口元を和らげた。

 

「では、改めて」

 

彼女は静かに言う。

 

「私はノクターンです」

 

ゼルクは頷く。

 

「……ゼルクだ」

 

「はい。存じています」

 

その返しは前と同じなのに、なぜか今度は少し違って聞こえた。

 

ビスマス公は腕を組んだまま、二人を見た。

そこに大げさな感慨はない。

ただ、老いた技術者だけが持つ冷たい観察眼がある。

 

そしてその目は、首相が切った札が、どうやらぎりぎりで間に合ったことを認めていた。

 

「今日はもう終わりだ」

 

ビスマス公が言う。

 

「これ以上やると、余計なものまで混ざる」

 

ゼルクは短く頷いた。

ノクターンも異論はない。

 

だが去る前に、彼女は一度だけラクリモーサを見上げた。

 

眠った機体。

失われた家の接続。

選ばれなかった過去。

そして、ようやく別の形で差し出された未来。

 

「父様」

 

ノクターンが呼ぶ。

 

「何だ」

 

「この子は、まだ起きたいと思っているのでしょうか」

 

ビスマス公は鼻を鳴らした。

 

「機体は喋らん」

 

「そうですね」

 

「だが、喋らぬからといって何も持たぬわけでもない」

 

ノクターンは静かに頷いた。

それ以上は問わない。

 

ゼルクもまた、ラクリモーサを見上げる。

 

過去は敵になった。

未来はまだ、名前を名乗り直したばかりだ。

そのあいだに立つ自分が何者なのか、まだはっきりとはわからない。

 

それでも、今夜ひとつだけ決まったことがある。

 

返された過去ではなく、

これから接続するものの方へ向く。

 

その選択だけは、もう揺らがなかった。

 

格納庫の重い扉が閉じる。

夜が少しだけ深くなる。

 

そしてその夜のどこかで、カメオはまだシックスの隣に立ち、

選ばれなかった事実を新しい鎖として身につけ直しているのだろう。

 

後味は悪い。

だがそれでも、前へ進むしかない。

 

ノクターンが静かに連れてくる夜は、

きっとそういう種類の夜なのだった。

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