ボスヤスフォート vs シックス   作:ギアっちょ

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名簿の外

町外れのショットバーは、雨の匂いがした。

 

本当に雨が降っているわけではない。

だが、古い木の床に染みついた酒と煙草と湿気が混ざると、どうしてもそういう匂いになる。

客層も似たようなものだった。

酔い切れない男、帰る場所へ帰りたくない女、勝ちそこなった賭博師、半端な護衛、半端なならず者。

誰もが少しだけ余っていて、だからこそ、この店の薄暗さに収まりが良かった。

 

店の隅で、ヒゲ面の男が床を掃いている。

 

無愛想で、口数が少なく、客に愛想もしない。

店主は彼を「アリノ」と呼ぶ。

どこから流れてきたのかも、前に何をしていたのかも、深く聞いた者はいない。

聞いても、たぶん答えないだろう。

 

それで充分だった。

 

喧嘩は止める。

酔客の腕も折らない。

刃物が出ても騒がず収める。

給金は安くていいと言う。

店主にとっては、それだけで使える男だった。

 

「おい、“アリノ”。あそこのテーブルの灰皿、片づけてくれ」

 

カウンターの奥から店主が声を飛ばす。

 

ヒゲ面の男は、振り向きもせずに答えた。

 

「……はい」

 

短い。

それきり。

 

彼――ルカ・アルノは、もはや自分の名を口にする習慣すらほとんど失っていた。

“アリノ”でいい。

“おい”でもいい。

どう呼ばれようと、別に困らない。

 

困ることは、もうだいたい一度終わっていた。

 

灰皿を下げようとした、その時だった。

 

入口の扉が開いた。

 

外の冷たい夜気と一緒に、五人の男女が入ってくる。

旅装に見えた。

だが旅人にしては、空気が揃いすぎていた。

歩幅も、視線の配り方も、扉をくぐる順序も。

素人の連れ立ちではない。

 

先頭にいたのは、女だった。

 

年齢は若く見える。

いや、若いのだろう。

だが、場の空気へ滑り込むのではなく、最初から半歩上から撫でるような入り方をする。

黒髪。

静かな艶。

笑っているようで、何も許していない目。

 

ルカは目を上げなかった。

見ないふりは、こういう場所で生きる基本だ。

 

女はカウンターへ寄りかかるように立つと、店を軽く見回した。

一緒に入ってきた連中は、騎士風の男が二人、ダイバー風が一人、他に若い実働が一人。

五人。

少人数だが、妙に場慣れしている。

 

店主が愛想笑いを貼りつける。

 

「いらっしゃい。何にします?」

 

「強いのを」

 

女が答えた。

 

「あと、氷はいらない」

 

その声は、耳に残った。

柔らかい。

だが、柔らかいからこそ質が悪い。

 

ルカは黙って灰皿を回収する。

そこへ、女の視線がふと落ちてきた。

 

「……あら」

 

軽い声だった。

 

「ヒゲがなきゃ、いい男でしょうに。もったいない」

 

ルカは聞こえているはずなのに、顔も上げずに灰皿を重ねる。

床の吸い殻を拾い、汚れたテーブルを拭き、また次の灰皿へ手を伸ばした。

 

女の隣にいた血の気の多そうな男が、露骨に眉を吊り上げる。

 

「聞こえなかったのか?」

 

ルカは答えない。

 

女は面白そうにグラスのない指先を遊ばせた。

 

「アリノ、ねえ」

 

店主が注文を作りながら、何気なく言う。

 

「ああ、こいつですか? この店の用心棒みたいなもんで」

 

「そう」

 

女は少しだけ首を傾けた。

 

「……ねぇ、一杯どうだい?」

 

やっとルカが顔を上げた。

ヒゲで半分隠れた顔。

くたびれた目。

だが、その奥に一瞬だけ出た光は、酒場の掃除係のものではなかった。

 

それでも声は淡々としている。

 

「仕事中なんで」

 

ぶっきらぼう。

それだけ。

 

女の部下が、そこで完全に切れた。

 

「おい! 姉さんが誘ってんだぞ!」

 

ショットグラスが飛ぶ。

 

速い。

酔客の投げ方ではない。

腕の乗った、真っ直ぐな投擲。

 

だがルカは振り向かない。

 

灰皿を片手に持ったまま、空いている方の手だけをわずかに上げる。

透明なグラスは、何事もなかったかのようにその掌に収まった。

中身もほとんどこぼれない。

 

そのまま彼は一拍遅れて振り向き、グラスを静かにカウンターへ戻す。

 

「割れると掃除が面倒なんで」

 

場が、少しだけ静まった。

 

女が小さく笑う。

 

「……へぇ」

 

それから、さっきより少し低い声で言った。

 

「掃除は上手でも、隠れるのは下手みたい」

 

ルカは返さない。

ただ、グラスを投げた男を一度だけ見る。

 

怒ってはいない。

凄んでもいない。

ただ、次があるなら止める、とだけわかる視線だった。

 

それを見て、男の方がむしろ一瞬たじろぐ。

 

女はその微細なやり取りごと、愉快そうに眺めていた。

 

「座っても?」

 

「勝手にどうぞ」

 

「優しくない」

 

「接客係じゃないんで」

 

「それは知ってる」

 

女は笑いながら席についた。

部下たちも散るように座る。

だが、誰も本当に気は抜いていなかった。

 

ルカはまた掃除へ戻る。

その背中を、女は飽きもせず見ている。

 

しばらくして、店主が酒を並べた。

 

濃い蒸留酒。

安いが、喉だけは焼ける。

 

「姉さん、あいつ知ってるのか?」

 

グラスを投げた男が低く聞く。

 

女は肩をすくめる。

 

「まさか」

 

「じゃあ何だよ」

 

「別に」

 

琥珀色の液体を傾けながら、女は目だけでルカを追う。

 

「昔どこかで見たような気がしただけ」

 

それは嘘ではないかもしれなかった。

彼女――巴は、人の傷や隠し方を、たいてい一度見れば覚える。

 

隣の若いダイバーが、少し目を細めた。

 

「姉さん、あれ……」

 

「ええ」

 

巴は笑う。

 

「ただの用心棒じゃない」

 

ルカはまだ何も言わない。

だが、その沈黙そのものが、すでに正体の輪郭を浮かべていた。

 

バーの空気が少しずつ緩み、別の客がまた笑い始める。

一見すると、いつもの夜に戻ったようだった。

 

だが巴は、そこで焦らなかった。

こういう手合いは、正面から剥くより、周りから少しずつ崩した方がいい。

 

「ねぇ、アリノ」

 

また声をかける。

 

「今度は何です」

 

「この町、退屈じゃない?」

 

「退屈なくらいがちょうどいいです」

 

「ふうん」

 

「平和なのは良いことだ」

 

「平和、ねえ」

 

巴はグラスを回しながら笑う。

 

「あなたみたいな人がそう言うと、ちょっと冗談みたい」

 

ルカの手が、ほんの少しだけ止まる。

だが、それだけだ。

 

巴は続ける。

 

「昔、ビスマス公の傑作ファティマを持ってた騎士がいたって聞いたことある」

 

そこで、ルカはまた動き出した。

床を掃く。

吸い殻を拾う。

何も聞こえていないように。

 

「名前は忘れたけど」

 

巴はわざと軽く言う。

 

「ずいぶん派手に負けたらしいじゃない?」

 

ルカは答えない。

 

「ジル、だったかしら」

 

その名が落ちた瞬間だけ、空気の温度が変わった。

 

ほとんど誰にもわからない程度の変化。

だが巴には十分だった。

 

ヒゲ面の男の背中が、ほんのわずかに強張る。

持っていた布巾が、指の中で少しだけ捩れた。

 

巴の部下がにやりと笑う。

 

「ジルか。あれだけ出来のいいファティマでも、主が悪いとどうにもならねえんだな」

 

その瞬間、ルカが振り向いた。

 

動きは速くない。

だが静かだった。

静かな分だけ、余計に怖い。

 

「……その名を軽く口にするな」

 

初めて、声の底が変わった。

 

店の空気がまた止まる。

酔客たちも、遅れてただならぬ気配に気づく。

 

巴はグラスを置いた。

 

「やっとこっちを見た」

 

ルカは何も言わない。

だが、もう“アリノ”の顔はしていなかった。

ヒゲも、くたびれた服も、酒場の薄暗さも、全部その男の本質を隠しきれていない。

 

巴は椅子に座ったまま、微笑む。

 

「ごめんなさい。

でも、ほら」

 

そしてゆっくりと顎を上げる。

 

「あなた、自分の名前は捨てても、あの子の名前までは捨てられないのね」

 

ルカの目が細くなる。

 

「誰だ、お前」

 

「ただの客」

 

「嘘をつけ」

 

「そうね」

 

巴はあっさり認めた。

 

「ただの客なら、そんな顔しない」

 

彼女は立ち上がる。

ヒールの音が、安っぽい床板に妙に乾いて響いた。

 

「巴」

 

名乗ったのは、礼儀からではない。

相手の反応を見るためだ。

 

「『新しい血族』で、

 今夜はちょっと飲みに来ただけ」

 

その瞬間、店主の顔色が変わる。

他の客も、ざわりと動く。

 

だがルカは逃げない。

逃げるより先に、目の前の名へ反応していた。

 

「……新しい血族」

 

「そう」

 

「帰れ」

 

「冷たい」

 

「ここはお前らみたいなのが来る場所じゃない」

 

巴はくすりと笑う。

 

「逆でしょう?

こういう場所だから、私たちは来るの」

 

その言葉は真実だった。

 

零れ落ちた人間。

使い切られた人間。

逃げた人間。

忘れられた人間。

そういう者ほど、血族の目にはよく映る。

 

ルカの後ろで、店主が青ざめた声を出す。

 

「お、おい、アリノ……」

 

ルカは店主を見ない。

 

「今日は閉店だ」

 

店主は一瞬迷い、それから巴たちを見て、反論を飲み込んだ。

他の客もざわざわと立ち上がる。

金を置き、視線を合わせないようにして、足早に出ていく。

 

巴は止めなかった。

むしろ歓迎するように見送った。

 

数分後、店には店主とルカ、そして血族の五人だけが残る。

 

ルカが言う。

 

「おやじ、奥へ」

 

「……けど」

 

「いい」

 

店主は迷った末に、奥へ引っ込んだ。

店の裏口へ逃げたのかもしれない。

それでも、ルカは咎めなかった。

 

巴はそれを見て、小さく言う。

 

「優しいのね」

 

「違う」

 

「じゃあ何?」

 

「巻き込みたくないだけだ」

 

「ふうん」

 

巴は一歩近づいた。

 

「ルカ・アルノ」

 

その名を口にした瞬間、部下たちの空気がわずかに変わる。

やはり当たりか、と。

 

ルカは表情を動かさない。

だが、もう否定もしなかった。

 

「名簿の外にいるなんて、もったいない」

 

「……名簿?」

 

「いろいろあるのよ」

 

巴は軽く笑った。

 

「帝国にも。私たちにも」

 

ルカは鼻で笑う。

 

「勧誘か」

 

「半分」

 

「もう半分は」

 

「観察」

 

巴はあっさり言う。

 

「あなたが本当に終わってるのか、終わったふりが上手いだけか」

 

部下の一人が肩を揺らす。

 

「姉さん、もう十分だろ。

こいつ、まだ動ける」

 

「ええ」

 

巴はルカを見たまま答える。

 

「問題は、動けるかじゃない。

何のためなら動くか、よ」

 

その問いに、ルカは少しだけ顔を背けた。

 

ジル。

 

その名だけが、胸の奥に残る。

何年経っても、古傷のままで。

 

巴はその沈黙を見て、満足そうに微笑んだ。

 

「ねえ、ルカ。

忘れられないのは立派よ」

 

ルカの目が、冷たく細くなる。

 

「忘れる必要がない」

 

「そうかもね」

 

「ジルのことを、軽く言うな」

 

「軽くなんて言ってないわ」

 

巴は言う。

 

「むしろ重いのは、あなたの方」

 

一歩だけ、間合いを詰める。

 

「彼女を喪ったことが重いんじゃない。

喪ったあと、自分を保てなかったことが重いのよ」

 

店の空気が凍る。

 

部下たちでさえ、一瞬だけ黙った。

 

ルカの手が、近くの椅子の背を掴む。

握力だけで、古い木が嫌な音を立てた。

 

「黙れ」

 

「図星?」

 

「黙れ」

 

「どうして?」

 

巴は残酷なほど穏やかだった。

 

「あなた、自分が逃げたことを誰より自分で知ってるじゃない。

だから名前を捨てた。

髭を伸ばした。

酒場の隅に沈んだ。

でも、あの子の名前だけは捨てられなかった」

 

ルカが、初めて本気で前へ出かける。

その瞬間、血族の騎士二人が反射的に構え、ダイバーが気配を尖らせる。

 

だが巴は動かない。

 

ただ、ルカの目を見る。

 

その目の奥にあるものを、見逃さずに。

 

長い沈黙ののち、ルカは一歩手前で止まった。

それ以上行けば、店ごと壊れる。

自分がそういう人間だったことを、まだ体が覚えている。

 

それが余計に苦かった。

 

「……帰れ」

 

絞り出すように言う。

 

「今日はそれしか言えないの?」

 

「帰れ」

 

「そう」

 

巴は軽く肩をすくめた。

 

「今日はここまでにしてあげる」

 

部下の一人が驚いた顔をする。

 

「姉さん?」

 

「まだ早い」

 

巴は店の出口へ向かいながら答える。

 

「この人、今は傷口しか開いてないもの。

ここで引きずったら、ただ壊れるだけ」

 

それから、扉の前で振り向いた。

 

「でも次は、もっと上手い人が来るわよ」

 

ルカの背筋が、ほんのわずかに硬くなる。

 

巴は笑う。

その笑い方が、どこかで誰かを思わせそうでいて、でも決して一致しないのが、余計に質が悪かった。

 

「掃除は上手でも、隠れるのは下手。

忘れないことと、止まってることの違いくらい、次までに考えておいて」

 

扉が開き、夜気が流れ込む。

 

五人はそのまま闇へ溶けるように去った。

残されたのは、酒と煙草と、開いた傷の匂いだけだ。

 

しばらくしてから、店主が奥から顔を出す。

 

「……行ったか」

 

ルカは答えない。

ただ、さっきまで自分が握っていた椅子の背を見ている。

木は、指の形に浅く食い込んでいた。

 

「おい、アリノ」

 

店主が不安そうに呼ぶ。

 

「やめますか」

 

ルカはゆっくりと首を振った。

 

「今日は、まだ」

 

それだけ言って、床に落ちたグラスの雫を拭き始める。

 

掃除は慣れている。

割れたもの、こぼれたもの、酔客の残した汚れ。

そういうものを片づけるのは、もう日常だ。

 

だが今夜ばかりは、いくら拭いても残るものがあった。

 

ジル。

 

名を軽く口にするな、と自分は言った。

その一言だけで、あの女には十分だったのだろう。

 

自分の名は隠せても、

自分が逃げたことは誤魔化せても、

あの子の名だけは捨てられない。

 

「……くそ」

 

小さく漏らした声は、誰にも聞かれなかった。

 

店主が気まずそうにグラスを磨いている。

夜はまだ長い。

でも、さっきまでと同じ夜ではもうなかった。

 

場末の酒場の隅で、死んだふりをしていた騎士は、

その夜ようやく、自分の傷がまだ生きていることを思い知らされたのだった。

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