ゲマトロン演算にまつわる百合SF的省察 作:よよよーよ・だーだだ
「座標、という概念から始めましょう」
教壇に立ちながら、わたしは学生たちに語り掛けた。
「皆さんが今座っているその席の位置は、数字で表せます。例えばこの部屋の端を原点として、横に何メートル、縦に何メートル。それだけで、皆さんの位置は一意に定まる。座標とはそういうものです」
では、とわたしは問う。
「わたしたち自身は、数字で表せるでしょうか? 万物の意味を数値に置き換えることは?」
わたしの問い掛けに、学生たちは沈黙で応える。そんなことは出来ない、というのが一般的な回答だろう。
しかし、わたしは言った。
「表せる、というのがわたしたちゲマトロン数学者の立場です。ゲマトロン数学が扱う『ゲマトリア空間』において、万物は座標、つまり数字で表すことができます」
では、ゲマトリア空間とはなにか。黒板に板書しつつ、わたしは説明を続ける。
「ゲマトリア空間とは、簡単に言えば、無限次元の関数空間です。ヒルベルト空間の一種と言えばイメージしやすい人もいるでしょう。ここで重要なのは、この空間が物理的実在と対応しているという点です。通常の数学的空間と違って、ゲマトリア空間は純粋な抽象ではない。わたしたち人間も、この机も、窓の外を飛ぶ鳥も、宇宙のどこかの星も、万物がこの空間における座標を持っています。その座標のことを『ゲマトリア数』、そしてゲマトリア数を用いた予測計算のことを『ゲマトロン演算』と呼びます」
板書を進めながら、わたしは数学の話をするときにいつも感じる、静かな確かさを感じていた。数学の世界には揺らぎがない。定義があり、仮定があり、論理を積めば結論に至る。その手順の上に立っているとき、わたしの世界は安定しているように思えた。
それからわたしは次の話題に移った。ゲマトロン演算の意義とは、そしてゲマトリア数が分かると何ができるか。
「惑星の話をしましょう。天文学者は望遠鏡で惑星の位置を観測し、その軌道を計算します。今日の位置と速度が分かれば、一年後の位置も、百年後の位置も、原理的には計算できる。物理法則という演算規則があるからです」
惑星の喩えは好きだ。直感的でわかりやすい。あるいは遥か昔にゲマトリア空間の概念を構想した人物も、こうして惑星のことをイメージしていたのかもしれないと思う。
わたしは言った。
「わたしたちの扱うゲマトロン演算もこれと同じ発想です。あるものごとのゲマトリア数が分かれば、それがこれからどう変化するかを演算できる。ゲマトリア空間にも、惑星力学に相当する演算規則が存在します。ゲマトリア数を適切に用いて演算すれば、未来を予測計算できるというわけです」
万物を因数として計算しその未来までをも見通すゲマトロン演算の営みは、この世界そのものを解き明かすのにも等しい。有名なSFで『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』というジョークがあるが、まさにそれに答えてくれるのがゲマトロン演算なのだ。
一区切りついたとき、前列の女子学生が手を挙げた。わたしが指すと、女子学生は興味深そうに訊ねてきた。
「つまりゲマトリア数がわかれば、未来がわかるということですか? 人の行動とか事故とか、そういうものも?」
「理論上はそうなります」
ただし、とわたしは付け加えた。
「現時点では『理論上は』という但し書きが必要です。それがなぜなのか、説明できる人はいますか?」
わたしが学生たちに水を向けると、今度は別の男子学生が手を挙げて答えた。
「発見されているゲマトリア数が少ないから、ですか?」
「そのとおり」
男子学生の答えに頷きながら、わたしは答えた。
「第一の問題は、ゲマトリア数の計算コスト。一つのゲマトリア数を算出するためには、現在の最高水準の計算機を用いても膨大な時間がかかります。現在までに確認されているゲマトリア数の数は……」
そう言って、わたしは黒板に数値を書き出した。その数は、わざわざ数えるまでもなく、この指の数で足りる程度でしかない。
「……これが今日現在、人類が知っているゲマトリア数の全てです。万物に対応するはずの座標系において、わたしたちが手にしているのはこれだけ。自分の未来を計算するより前に、まず石ころ一つのゲマトリア数を正確に出す方法を考えなければならないでしょうね」
わたしのジョークに、笑いが起きた。
続いて、わたしは次の問題点を掲示する。
「次に、第二の問題は精度です。現在の手法では、ゲマトリア数の近似値は出せますが、正確な値を保証することが難しい。そしてゲマトロン演算の精度は、ゲマトリア数の精度に直接依存する。不正確な座標からは、不正確な未来しか計算できないのです」
つまるところ、ゲマトロン数学はまだ発展途上の分野だ。現時点のゲマトロン数学で遠い未来を計算しようとすると、誤差は爆発的に拡大する。完全な未来予測にはまだ遠い、いやそれどころか、どれほど遠いのかすら分かっていないのが現状なのだ。
ちなみに余談だが。わたしは言った。
「ゲマトロンという名前の由来について、もとになったゲマトリアとは古代から伝わる数秘術の一種です。ユダヤ教の神秘主義カバラに由来する慣習で、たとえばヘブライ語の『生命』という単語を数値に変換すると何が読み取れるか、といったことを研究します。文字や言葉に数値を割り当て、そこに意味を見出そうとする。占いと言えば占いですが、数千年の歴史を持っています」
一拍置いて、わたしは続けた。
「ゲマトロン数学がこの言葉を名前に借りているのは、発想の相似からです。万物を数値として記述し、運命を予測するという考え方は、古代の数秘術であったゲマトリアが夢見ていたことでもあります」
もっとも、名前の由来がどこにあれ、ゲマトロン数学の数学的な構造はそれ自体として成立しているものだ。ゲマトロン数学について門外漢からはオカルトと同列視されることも多いものの、実際のところ数秘術のゲマトリアと実際のゲマトロン数学は名前が似ているだけの別物と言っていい。
そんなことが脳裏をよぎったとき、学生の一人が手を挙げた。
「ゲマトロン数学が『エクシフの宗教』と関係がある、って本当ですか?」
……この話題か。わたしのことを知っている人なら、わたしの苦々しい反応がわかったかもしれない。
だが史実なのだから仕方ない。わたしは内心でため息をつきながら答えた。
「……ええ、ゲマトロン数学のルーツはエクシフの宗教にあります。そもそもゲマトリア数とゲマトリア空間はエクシフの宗教に由来しており、その概念は古代エクシフの宗教文献から発見されました」
『エクシフの宗教』とは、怪獣黙示録以降、世界的に急速な広がりを見せている新興宗教だ。正確には複数の派生した分派が存在するが、まとめてそう呼ばれることが多い。「他者への献身を通じて宇宙知性へ合一する」というのが中心的な教えで、信者は世界中に散らばっている。
そのルーツについては謎が多く、古代の文献にも類似した教義の痕跡が見られることから、怪獣黙示録以前から存在していたという説が有力だという。中には、古代に地球を訪れた宇宙人がこの教えをもたらしたという珍説まであるらしいが、それを真剣に論じる学者はほとんどいない。
「そして古代エクシフの宗教では、ゲマトリア空間のことを『神が万物に与えた座標系』と呼んでいたと言います。エクシフの宗教においてゲマトリア数は神の言葉であり、ゲマトロン演算はその解読だというのが宗教的な解釈です。その意味では、ゲマトロン数学とはエクシフの宗教を現代数学で解釈し、再構築したものとも言えます」
そこまで説明したとき、学生の一人が興味津々という表情で訊ねてきた。
「では、先生はエクシフの信者なんですか?」
声の方向を見ると、中ほどの席の男子学生が手を挙げている。
わたしははっきり答えた。
「違います」
「でも、研究のきっかけとかは……」
「ゲマトリア空間は数学的にユニークな構造です。宗教史との関連を考察するのも興味深いでしょう。しかし、それ以上でも以下でもない。信仰がなければ研究できないという話ではありませんし、信仰があれば数学が分かるという話でもない」
わたしの言葉に、教室に小さなざわめきが起きた。
……おほん。咳払いしつつわたしは答えた。
「そしてゲマトロン数学が対象としていることは占いや宗教ではなく、れっきとした数学です。名前は借りていますしルーツは宗教にありますが、手法は別物ですからそこは混同しないように。では、本題に入ります――」
講義が終わったあと、黒板の板書を消しながらわたしは自分の講義の内容を振り返っていた。
……エクシフの宗教の話題で少し詰まった。冒頭の導入は悪くなかったが、後半のゲマトリア数算出の説明に入ったとき、学生たちの顔つきが変わったのがわかった。ついてきていない、という顔だ。説明の速度か、それとも例示の選び方が悪かったか……。
自分なりに反省したあとチョークを置いて振り返ると、教室の後方の壁際に見知った人影があった。
「……ガブリエル」
そうやってわたしの名前を呼んだのは、デュボア教授だった。ソルボンヌ大学数学科の教授にして、わたしの恩師。七十近い年齢に見えない背筋の持ち主が、いつからそこにいたのか、杖を突きながら壁に寄りかかっていた。
「……聴いていたんですか」
半分咎めるニュアンスを籠めつつわたしが訊ねると、デュボア教授は悪戯っぽくウィンクして応じた。
「貴女がどんな教え方をしているか、一度ちゃんと見ておきたかったんだよ。私が育てた学者がどんな顔で教壇に立っているか、気にならない師匠がどこにいる」
「そうは言っても、お体が……」
「二時間、立っていられる程度には回復しているさ」
教授はそのまま教壇の方へゆっくり歩き、教室を見渡したあと、わたしに言った。
「今日の授業、悪くなかったよ。惑星の喩えはいいね。毎回使っているのかな?」
「はい、気に入っているので」
「学生には分かりやすかっただろう。エクシフの宗教についての捌き方も、あれでよかった。あのまま行くと横道に逸れてしまうからな」
「はい、先生」
わたしが素直に頷くと、続いて教授は指摘点を教えてくれた。
「ただ、後半の流れは次回修正しなさい。ゲマトリア数の一意性を先に叩き込んでから、数式の解説に入った方が良いだろうね」
「……おっしゃるとおりですね」
それから教授はこう言った。
「ガブリエル、やはり貴女には教壇が向いている。続ければ伸びるだろう」
その誉め言葉を、わたしは素直に受け入れられなかった。
……教授はわたしをずっと買いすぎている。長年の教師生活で多くの学生を見てきたはずのこの人が、なぜかわたしに対してだけ買いかぶりを続けている。わたしにはそう思えてならなかった。
とはいえ異を唱えるのも失礼なので、わたしは受け取ったふりをした。
「……ありがとうございます」
礼を返したちょうどそのとき、教室の入り口のあたりで、小さな騒ぎが起きているのが聞こえてきた。
声の方向を見ると、出入り口近くで警備員の男性が、若い女性に向かって何かを言っていた。
「学生証を提示してもらえますか。お持ちでないなら退出してください、規則ですので……」
「あの、えっと、その……」
出てゆきかけた学生が何人か、足を止めて振り返っている。女性の方はというと、抵抗するでもなく、しかし困ったように立ち尽くしているようだった。
わたしはデュボア教授と顔を見合わせてから、入り口の方へ歩いた。
「どうしました」
「あ、ブルトゥイユ教授。この方なんですが、学生証を持っていないようで……」
「学生証がない?」
警備員の男性に視線を誘導されて、わたしは初めてその女性をちゃんと見た。
……二十歳前後だろうか。アフリカ系の顔立ちをした、しかし目を引くほど明るい金髪の若い女性だった。大きなトートバッグを肩から提げ、薄手のジャケットの下に着ているのは大学の売店で売っているような安いパーカーだった。怯えているというより、どこかぼんやりとした、焦点の定まらない目でわたしたちを見ている。
「あなた、学生証は?」
わたしが訊ねると、女性は少し間を置いてから首を横に振った。
「……持っていません」
「他学部の学生ですか? 他大学からの聴講?」
女性は少し考えるような間を置いてから、どこか答えにくそうに答えた。
「その……学生じゃ、ないので」
「……はい?」
わたしは思わず聞き返した。見ると、警備員の男性も横で同じような顔をしていた。
ということは
「学生でない方が、なぜこの講義に?」
女性は淡々と答えた。
「シラバスを見て、面白そうだと思ったので」
「シラバスを……今日だけですか?」
そう訊ねると、女性の視線がわずかにそれた。
「……はい。今学期からです」
……どうやら嘘ではない。が、全部を正直に話しているわけでもないらしい。
警備員の男性がわたしの横から口を挟んだ。
「先生、こういった事案はわたしどもで対応いたしますので……」
そう言って警備員の男性は、女性の腕に手を添えて廊下の方へ促しにかかる。女性の方はというと抵抗するでもなく、しかし足をその場に残したまま、どこか不本意そうに体だけを傾けていた。
そのとき、ぱさり、と音がした。
警備員に腕を引かれた拍子に体が傾いて、女性のトートバッグから一冊のノートが廊下に落ちていた。安物のリングノートで、表紙には何も書いていない。中身がいくらか飛び出して、床の上に広がっていた。
女性が屈んでノートを拾い上げ、散らばったページを無造作にまとめてバッグに押し込もうとする。そのとき、わたしの目がページの上に走っている数式を捉えた。
「……待って!」
気づいたら、わたしは声をかけていた。
女性は動きを止めてわたしを見た。警備員の男性も、怪訝そうな顔でこちらを振り向いた。
「そのノート、見せてもらえますか」
女性はしばらく迷うような顔をしてから、無言でノートを差し出した。
受け取って、わたしは改めてページに目を落とした。
……書かれているのはゲマトリア数の算出式、それも見たことのないアプローチだ。わたしの板書を写したのではない、独自の式展開だった。
ゲマトリア空間の記述を出発点にして、何かを導こうとしている。筆跡は走り書きに近いのに、数式の構造は整然としている。まるで答えが先に見えていて、そこへ向かって書いているような書き方だ。
わたしは数式を目で追いながら、喉の奥で何かが詰まるような感覚を覚えた。この計算は。
「……教授?」
「少し待ってください」
怪訝そうに声を掛ける警備員を制して、わたしはノートの数値を目で追った。頭の中で照合する。
既知のゲマトリア数、その中の一つと数学の解が一致していた。巷で出回っている参考書の近似値を書き写したにしては、数桁ほど細かかった。
「あの……」
女性の声でわたしはようやく我に返った。見ると、女性は手を差し伸べていた。ノートを返してほしい、という意味だろうか。
わたしはノートを返さないまま、女性に訊ねた。
「これを書いたのはあなたですか?」
女性は少しためらってから、頷いた。
「……はい」
「いつ書いたものですか?」
「バイトの合間とか、授業中とかに」
「どのくらいかかりましたか」
「三日、くらいです」
「計算機は何を?」
「あの、パソコンは持っていないので……」
もう一度、ノートに目を落とす。数式の行間を、今度はゆっくりと辿った。
……見れば見るほど、これは正しい。正しいどころではない。わたしが知っているどの手法とも違う経路を通りながら、この計算は確かに答えへ向かっている。まるで地図なしに最短路を歩いているようだ。
こんな精度のゲマトロン演算を、計算機も使わず、しかも数学科の学生ですらない人間が。
「……ちょっといいかい?」
気づくと、デュボア教授がわたしの隣に立っていた。いつの間に近づいてきたのか、ノートを静かに覗き込んでいる。わたしは無言でノートを差し出した。
教授はノートをめくり、ページを一瞥した。
「ふむ……」
それだけだった。ノートをわたしに返し、眼鏡を押し上げ、それからわたしの目を見た。
それ以上は何も言わなかった。しかし、その目が言っていた。
ガブリエル、これは本物だ、と。
「……ガブリエル、貴女に任せるよ」
「わかりました、先生」
教授は女性に向かって軽く会釈し、それから踵を返した。廊下の方へゆっくりと歩いてゆく背中を見送りながら、わたしは改めて女性に向き直った。
「……このあと、時間はありますか?」
自分の口からその言葉が出るまで、ほとんど考えていなかった。
女性の方はというと、目をぱちくりさせていた。摘まみ出されそうになっていたのに、そんなことを言われるとは思っていなかっただろう。
……まあ、そこはわたしも同じなわけだが。わたしは言った。
「ちょっと、コーヒーでも飲みながら話しましょう」
「は、はあ……」
短い返事だった。警備員の男性がわたしに何か言いたそうな顔をしていたが、わたしはそちらを見なかった。
大学のカフェテリアは昼時を過ぎて、客足が落ち着いていた。窓際の二人がけのテーブルにコーヒーを二つ並べて、わたしたちは向かい合った。
「そういえば、自己紹介をしてませんでしたね。わたしはガブリエル=エミリー・ブルトゥイユ、ガブリエルで結構です。あなたは?」
わたしが訊ねると、女性はコーヒーカップに手を伸ばしかけて、一度止まった。
人差し指と中指を立てた右手で、胸の前をVの字で切る。それからカップを両手で包むようにして持ち、わたしを見ながらこう名乗った。
「ヤスミン=エル・カディ、です。でも、セラと呼んでください。セラトゥニアというのが洗礼名で、みんなそっちで呼ぶので」
「ヤスミンと呼ぶ人は?」
「もういないので」
それだけ言って、セラはコーヒーを一口飲んだ。もういない、という言葉の重さを確かめるような間もなく、さらりと言ってのけた。
……気まずいことを聞いてしまったかもしれない。わたしは話題を変えることにした。
「セラさん、あなた、エクシフの信者ですか?」
わたしが言うと、セラは少し目を丸くした。
「分かりましたか」
「ええ、さっきの仕草で」
セラは自分の手を見てから、ああ、というふうに小さく納得していた。癖になっていて、自分では気づいていなかったらしい。
胸の前でVの字に空を切るのは、エクシフの宗教における代表的な習慣だ。信者が神へ感謝をささげる聖なる印として行うと聞いたことがある。キリスト教徒が十字を切るようなものだろう。
それで、とわたしは切り出した。
「今日の講義、最初から聴いていましたか」
「はい」
「今学期から、とおっしゃっていましたね。毎回?」
「ええ、毎回です」
「ゲマトロン数学に、もともと興味があったんですか」
「いいえ」
セラは首を横に振った。
「ゲマトロン数学というものをちゃんと知ったのは最近です。きっかけは……本でした」
「本?」
「ええ、難しかったんですが、最後まで読んで」
セラはトートバッグを探って、一冊の参考書を取り出した。
「『ゲマトロン数学入門』。去年、古本屋で買いました」
見覚えのある表紙に、わたしはつい固まってしまった。見覚えがあるのは当然だ。
「……それはわたしが書いた本です」
「え」
わたしの答えに、今度はセラが固まった。
「三年前に出した入門書です。わたしが書きました」
……ゲマトロン数学入門、確かにわたしが書いた本だ。一般向けに書いたもので、そこそこ売れたと聞いていたが古本屋に流れているのか。
セラはしばらく本の表紙とわたしの顔を交互に見比べてから、ゆっくりと口を開いた。
「……ガブリエル=エミリー・ブルトゥイユ」
表紙の著者名を読み上げるような声だった。
「はい」
「先生の、名前ですね」
「そうです」
セラはまた本とわたしを見比べた。それから、ふっと息を吐くように笑みをこぼした。
「……びっくりしました」
「……わたしもです」
わたしの方も、正直なところ少し気恥ずかしかった。自分の書いた入門書をきっかけにゲマトロン数学に入ってきた人間が、ノートにあんな高度な計算をしていたという事実が、今更ながらじわじわと奇妙に感じられた。
わたしから話題を変えた。
「難しかった、とおっしゃっていましたが」
「難しかったです。でも面白かったので」
「どのあたりが難しかったですか」
「証明のところが全部」
迷いのない答えだった。わたしは少し笑った。
「この本を読んで、ゲマトロン数学に興味を持ったということですか」
「はい」
セラは頷いた。
「証明の部分はほとんど分からなかったんですが、ゲマトリア空間の説明のところを読んで、万物がこの空間の座標として記述されるというのが、すごく……腑に落ちたというか」
「腑に落ちた?」
「ええ。エクシフの教えと、言っていることが同じだと思って」
「なるほど……」
わたしはコーヒーカップを持ち上げ、一口飲んだ。
信仰心からゲマトロン数学を理解しようとした、そのきっかけになった本がよりによってわたしの著書だった。
そして日頃から宗教と数学は別だと主張しているわたし自身が、今こうしてその読者と向かい合っている。しかも彼女はエクシフの信者だという。どこか間が抜けた話だと思う。
「著者本人と話しているとは、思っていませんでしたか」
わたしが訊ねると、セラは目を瞬かせた。それからじわじわと、少し困ったような顔になった。
「全然、思っていなかったです」
その反応がおかしくて、わたしは小さく笑った。セラも、つられるように少し笑った。二人で笑い合い、その場の空気がわずかに緩んだ。
話を戻しつつわたしは訊ねた。
「証明の部分はほとんど分からなかった、と言いましたね。それで、今日の講義はどうでしたか」
「楽しかったです」
「ついてこれましたか。専門の学生向けの内容ですが」
「だいたいは」
そう言いながらセラはトートバッグに手を入れ、さっきのノートを取り出してテーブルに置いた。
「分からないところは、自分で考えながら聴いていました」
それがこのノートの計算だ、ということらしかった。わたしはノートに目を落とした。
「正規の大学教育は受けていないということでしたが、数学はどこで」
「独学です」
セラは言った。
「本を読んで。図書館で借りたり、古本屋で買ったり」
「今は何を? 仕事は?」
「Uberをやっています。配達の方です」
「学校には?」
「途中まで高校に通っていましたが、学費が払えなくて途中でやめました」
それきり、セラは何も足さなかった。説明しようとしていないわけではなく、それ以上のことをどう話せばいいか分からないような間だった。
「……ご家族は?」
訊いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。セラは視線をカップの方に落として、短く答えた。
「いません。怪獣災害で、五年前に」
「……そうですか」
それ以上は訊かなかった。怪獣災害で親を失った移民は、この街にも少なくない。セラの年齢で、五年前ということは十五かそこらの話だ。
しばらく沈黙があった。窓の外で、学生たちが芝生の上を歩いていた。
わたしは話題を変えた。
「このノートの計算式ですが、どうやって導いたのか、教えてもらえますか」
テーブルの上に開いたまま置いてあったノートを、わたしはセラの方へ向けた。
セラはノートを見、それからわたしを見てから口を開いた。
「どうやって、というのは?」
「手順です。変数の畳み込みをここで逆順にしていますね。なぜそうしようと思ったのか。それからここで中間状態を暗黙の関数として扱っている。この発想はどこから来ましたか?」
セラは視線をノートに戻した。自分の書いた式を、まるで他人のものを見るように眺めていた。
「……うまく説明できないんですが」
「できる範囲で構いません」
「いや、あの、そうじゃなくて」
セラは少し困ったような顔をした。困っているというより、自分の言葉のなさに戸惑っているような顔だった。
「説明できないんです。手順がない、というか」
「手順がない?」
「こう計算しようと思って計算したわけじゃなくて……見えたので、書いた、という感じで」
「見えた?」
「はい」
わたしは少し間を置いてから訊ねた。
「どういう意味ですか、それは」
「……。」
セラはまた黙った。今度は長かった。窓の外を一度見てから、わたしに視線を戻した。
「先生がゲマトリア空間の話をしているとき、なんとなく……こういう形をしているな、と思いながら聴いていて。その形からすると、この計算はこう動くはずだ、というのが見えたんです。だから書いた」
「数式が頭に浮かぶ、ということですか?」
「数式じゃないです。もっと……」
セラはまた言葉を探した。
「形、としか言いようがないんですが……」
わたしはしばらくその答えを手のなかで転がした。
……形が見えた。だから書いた。
それは数学の言葉ではない。直感と呼ぶにしても、あの計算の跳躍を直感の一言で片付けるのはあまりに乱暴だ。
天才的な数学者の中には、強烈な直感を持つ者がいるという。しかしそれでも、後から振り返れば必ず筋道がある。手順を踏んでいなかったとしても、踏める手順は存在する。
わたしは更に追求した。
「もう少し具体的に教えてもらえませんか。たとえば、どういうときに見えて、どういうときに見えないのか」
「どういうときに、ですか……」
セラは少し考えた。
「どういうときに見えないか、考えたことがなかったので」
「つまり、常に見えているということ? 今も?」
「はい」
セラはそう答えてから、ふと窓の方へ目をやった。視線が、外の中庭に止まった。
「あの木」
と、セラは指差した。
中庭の隅に、樹齢のありそうなプラタナスが一本立っていた。昼の光の中で、葉が白く光っている。
「あの木のゲマトリア数、なんとなく見えます」
わたしは思わず背筋を伸ばした。
「……今、見えているということですか?」
「なんとなく、ですけど。くっきりとした姿が見えているわけではないけれど、おぼろけながら浮かんできたんです。ぼんやりとした、数字みたいなものが」
セラはそのままプラタナスを眺めながら、低い声でいくつかの数値を口にした。ゲマトリア数の次元配列に対応するような、しかし断片的な数字の羅列だった。
わたしはそれを聞きながら、何かに首筋を撫でられるような感覚を覚えた。
……セラの言っていることが本当に正しいのか、確認する手段が今のわたしにはない。計算機も検証環境もここにはない。
だが、その数値の並び方には、ある種の整合性があった。ゲマトリア空間の構造から考えて、ありえない値ではない。ありえないどころか、構造的にはむしろありうる値の取り方をしていた。
「いったい、どうやって……?」
「どうやって、と言われても……」
セラはプラタナスから目を離して、わたしを見た。少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「見えているので、見えている、としか」
「……。」
わたしは黙り込むしかなかった。
証明がない。手順がない。根拠を訊いても、見えているとしか返ってこない。数学者として、それを正面から受け取る言葉をわたしは持っていなかった。
わたしは口を開いた。
「……もう少し、話を聞かせてもらえますか」
それからわたしたちはもう一杯ずつ頼んで、さらに一時間ほど話した。
わたしが質問し、セラが答えた。どうやって独学を進めてきたか。どんな本を読んだか。ゲマトリア空間のどのあたりが、どんなふうに見えているか。
セラの答えはいつも少し遅れて来た。言葉を持っていないのではなく、自分の見えているものと言葉の間にある距離を、毎回測り直しているような間だった。そして出てくる言葉は、基礎的な数学の語彙を使いながら、わたしの知っている数学の論理とは微妙にずれていた。
「……ごめんなさい。どう説明すればいいのか分からないです」
セラからそう言われるたびに、わたしは角度を変えて訊ねたが、詰まるところは同じだった。
あるいは、言葉だけで空の青さをどう説明するか、と問われている気分なのかもしれない。ただ見えているそれを、なぜと訊かれても答えようがないのだろう。
わたしはそれを、どう受け取ればいいのか最後まで分からなかった。
カフェテリアの窓に差し込む光が傾いてきた頃。
「あの、そろそろ仕事があるので……」
そう言ってセラは席を立とうとした。Uberの配達、ということだろう。
わたしが頷くと、セラは少し間を置いて、どこか遠慮がちに言った。
「……あの、先生」
「はい」
「怒っていませんか。もぐりで授業に入ったこと」
わたしは少し意外に思った。摘まみ出されかけていたときも、ずっとこのテーブルで話していたときも、そういう殊勝な様子は見せなかったのに。
たしかに規則違反だし防犯上の問題はあるだろう。しかし原理原則に則って考えるなら、実際のところは単位が認められないだけで講義を受けること自体はオープンだ。怒る理由はない。
わたしはそう思いながら答えた。
「怒っていませんよ。それより連絡先を教えてもらえますか。今日の話の続きをしたいです」
「続き、ですか……」
わたしの期待している『続き』とやらが何なのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、ここで終わりにすべきではない、それだけははっきりしていた。
「……はい」
セラは少し意外そうな顔をしてから、スマートフォンを取り出した。古い機種で、画面にひびが入っていた。連絡先を交換して、わたしたちは立ち上がった。
「それと、このノート、少し借りていいですか」
「ノート、ですか?」
「ええ。調べてみたいことがあるので」
「はあ、わかりました……」
ノートをわたしに渡してから、今日はありがとうございました、とセラは言った。
「コーヒーもごちそうさまです」
「奢った覚えはありませんよ」
「えっ……」
「だから、次の時に返してくださいね」
セラは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。さっきと同じ、遅れてやってくる笑い方だった。
「また来ますか?」
わたしの問いに、セラは少し考えてからはっきりうなずいた。
「はい」
あっさりとした返事だった。摘まみ出されかけた場所にまた来るという話を、それだけの重さで言えるのがこの人のようだった。
わたしたちはカフェテリアを出た。建物の入り口でセラは「失礼します」と一言言って、歩き出す。その背中が学生たちの流れに紛れて見えなくなるまで、わたしは何となくそこに立っていた。
「見えているので、見えている、としか……か」
その言葉に、わたしは反論できなかったわけではない。証明のない直感は数学ではない、と言うことはできたろう。
わたしはこれまで、数学に対して証明と手順で向き合ってきた。見えないものは手順を踏んで辿り着く。辿り着けないものは、まだ辿り着いていないだけだ。それがわたしの信条だった。
しかしセラは手順を持っていない。証明もないのに、答えに立っている。
それは、悔しいとか、羨ましいとか、そういう感情ではなかった。それよりもっと静かな、しかし簡単には片付けられない何かだった。
自分が持っていないものを、この人は持っている。
そのことを、どう扱えばいいのか。
答えを出せないまま、わたしはその場を離れた。窓の外のプラタナスは、まだ同じ場所に立っていた。
タイトルはクルト=ゲーデルの「不完全性定理」から。ゲマトリア数のアイデアの着想にはゲーデル数があったので引用。
・「ガブリエル」はネットだと男性名だとされていますが、実際には女性名でも使われます。「ガブリエラ」の方がわかりやすいかなとは思ったんですが、ガブリエラだとラテン系になってしまうのでフランス語風にガブリエルにしました。実際のフランス語の発音は「ガブリエーレ」に近いんだけど、それだとドイツになっちゃうしね。
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