ゲマトロン演算にまつわる百合SF的省察   作:よよよーよ・だーだだ

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2、相手も考えて行動する場面で、お互いに最も得をする行動を考える

 セラのノートを借りたまま、一週間が過ぎた。

 正確に言えば、返しそびれたわけではない。返す前に確かめたいことがあった。ひとつ確かめたら、また確かめたいことが出てきた。それを繰り返しているうちに一週間経っていた。

 

 検証するたびに、セラの計算は正しいことを思い知らされた。

 

 最初の二日は、どこかに綻びがあるはずだという前提で見ていた。手順のない計算には必ずどこかに飛躍がある。その飛躍を見つけて、そこを詰めれば、この計算がどういう経路で導かれたのかが分かるはずだと思っていた。

 三日目に、その前提自体を疑い始めた。綻びが見つからないのではなく、綻びがないのかもしれないと感じるようになった。

 五日目に、わたしは別のアプローチで検証した。セラの計算とはまったく異なる経路から同じ問題に当たって、結果を照合した。二つの経路は、同じ場所に着いた。

 六日目は、机の前に座ったまま、しばらく何もしなかった。

 

 問題はそこからだった。計算が正しいとして、ではこれをどう扱えばいいのか。証明がない。手順がない。見えたから書いた、という一言しか出所がない計算を、わたしはどういう顔をして扱えばいいのか。

 数学の世界では、答えそのものより証明の方が重い。どんなに正しそうな結果でも、証明がなければ数学ではない。それはわたしが学生のころから叩き込まれてきたことだ。

 だというのに。

 

 七日目の朝、わたしはスマートフォンを手に取った。

 連絡先のリストにある「セラ」という名前を開いて、少し考えてから、メッセージを打った。

 ノートを返したい、もし良ければ改めて話せないか。それだけ書いて送った。

 返信は思ったより早く来た。

 

〈いつでも大丈夫です〉

 

 その返事の気安さが、なんとなくこの人らしいと思った。もぐりで講義に潜り込んでいた相手から一週間後にメッセージが来て、いつでも大丈夫です、と返せる人間は多くない。

 

 わたしは日時を指定して、先週と同じ大学のカフェテリアを待ち合わせ場所に指定した。送信してから、机の上のノートを手に取った。

 七日間、セラのノートは何度も開いたせいで表紙の角が少し傷んでいた。

 

 

 カフェテリアには5分も滞在しなかった。

 

「わたしの研究室に来てください」

 

 そう言うと、セラは特に理由を訊かずに立ち上がった。その素直さが、あとになって少し引っかかった。警戒心というものがないのだろうか、この人は。

 わたしの研究室はキャンパスの端の古い棟にある。廊下を歩きながら、セラは周りをきょろきょろと見ていた。構内に入るのは講義室以外では初めてなのかもしれない。

 ドアを開ける前にわたしは言った。

 

「狭いですよ」

 

 部屋に入ったセラは、しかし狭さより先に壁に目がいったようだった。

 ……無理もない。四方の壁に、紙が貼られていた。数式のプリントアウト、手書きの計算用紙、図面。セロハンテープで留めたもの、画鋲で留めたもの、重ねて貼ったもの。書き込みだらけのものもあれば、一行だけ書いてあとは余白というものもある。赤や青のペンで矢印が引いてあって、別の紙の別の数式につながっている。壁全体が、一つの途中の計算になっているのだ。

 窓際の机の上も似たようなものだ。論文の束、付箋だらけの専門書、マグカップが二つ……一つは現役で、もう一つはペン立てになっている。

 セラは入り口に近い壁の前でしばらく立っていた。数式を読もうとしているわけではないようだ。ただ全体を、少し離れたところから眺めている。

 

「ここで研究してるんですか」

「ええ、ここでしか考えられないので」

「……先生、ひょっとして『片付けが苦手』って言われません?」

「……ええ、まあ」

 

 セラはゆっくりと部屋を見回して、やがて一枚の紙の前で足を止めた。他より大判の図面で、机の正面の壁に貼ってある。わたしが毎日、一番長く目が合う紙だった。

 セラが訊ねた。

 

「これは何ですか」

「ああ、それですか」

 

 わたしは隣に立って、図面を見た。

 

「いま考えているアイデアの構想図です。『ゲマトリア零点観測機』と呼んでいます」

「ゲマトリア零点観測機?」

 

 聞き返すセラに、わたしは説明する。

 

「ゲマトリア空間の実体を直接観測するための装置です。今のゲマトロン演算では、ゲマトリア数を使って間接的に空間の構造を推測するしかない。しかしもしこの装置が完成すれば、計算による推測ではなく直接見ることができる」

「そんなものが、作れるんですか」

「今は作れません」

 

 わたしはそのまま続けた。

 

「現時点で考えているものは実体そのものを見るのではなく、ゲマトリア空間の『基準座標ゼロ』を観測する装置です。『基準座標ゼロ』を観測できれば、すべてのゲマトリア数を導き出すことが出来ます、が……」

「まだ未完成だと?」

 

 ええ、とわたしは頷いた。

 

「起動させるには、基準座標ゼロの実在を割り出す公式が必要になります。空間全体を一つの基準から記述できる公式、それがあって初めてこの装置はゼロの実体を捉えられる。しかしその公式を導くには、十分な数と精度のゲマトリア数が必要で……まあ、つまり、今わたしたちが持っているものでは、土台が足りないのです」

「だから、まだ動かないと?」

「そういうことです」

 

 セラはしばらく黙っていた。図面の細部を、順番に目で辿っているようだった。わたしの説明を反芻しているのか、それとも別の何かを考えているのか、表情からは読めなかった。

 図面の右下には、わたしが最初にこれを描いたときの日付が入っていた。三年前だ。それ以来、少しずつ書き込みが増えた。鉛筆の線、赤ペンの線、一度消して上から書き直した線。最初の構想からずいぶん変わったところもあれば、最初から一ミリも動いていないところもある。

 まあ、それはともかく。

 

「……掛けてください」

 

 頃合いを見て、わたしは机の前の椅子を勧めた。自分は窓際に積んだ論文の束に腰を下ろして、向き合う形にした。セラは素直に座って、膝の上にトートバッグを置いた。

 まず、わたしから話し始めた。

 

「大学の話をさせてください。もぐりでなくとも、あなたは大学に入って正規の資格で授業を受けることが出来ます」

「大学に、入学?」

 

 セラは驚いた様子でわたしを見た。わたしは続けた。

 

「ええ。フランスには、バカロレアを持っていなくても大学に入れる制度があります。学歴の代わりに、これまでの経験や独学で身につけた知識を審査してもらう。書類を出して、委員会が審査して、通れば面接がある。あなたの場合、あのノートがあれば書類は十分書けます。わたしが推薦状を書きます」

「先生が?」

「はい。決定するのは委員会ですが、わたしが後押しできる部分はします」

 

 わたしの提案に、セラは少し戸惑った様子だった。無理もない。高校もろくに通っていない移民の二世が大学なんて、と思っているのだろう。

 

「あの、学費は?」

「入学とは別に、貧困家庭向けの奨学金制度があります。採用されれば、学費の免除と月々の生活費の補助が出る。多くはないですが、今の収入と合わせれば暮らせる額にはなるはずです。こちらの申請もわたしが手伝います」

 

 セラはコーヒーカップに視線を落とした。先ほどの、何かを頭の中で整理し直しているような間だった。高校も出ないままUberで配達の仕事をしながら独学を続けてきた人に、大学の門が開きうるという話は決して小さくはないはずだ。

 

「……考えます」

「今すぐ返事をしなくて構いません。ただ、もうひとつ、聞いてほしいことがあります」

「もうひとつ?」

 

 わたしは本題を切り出した。

 

「わたしと共同研究をしませんか」

「共同研究?」

 

 聞き返すセラに、わたしは頷いて答えた。

 

「ええ。あなたがゲマトリア数を見つける。わたしが証明する。それを論文として発表する。論文に、あなたの名前が載るんです」

 

 セラは少しの間、わたしの顔を見ていた。何かを考えているというより、言葉の意味を順番に確かめているような間だった。

 

「名前が、世に出る、ということですか?」

「そうです。ゲマトリア数の発見者として。それは名誉なことだと思いませんか?」

「それは……」

 

 セラは言った。

 

「別にいいです」

「別にいい?」

 

 いいです、という返事は短く、迷いがなかった。断っているのではない、その気持ちがそもそもない。名誉というものが、セラの中を引っかかる場所もなく通り過ぎていった。

 

「興味はありませんか、自分の研究が認められることに」

「認められたくて勉強しているわけじゃないので」

「では、何のためにゲマトロン数学を学んでいるのですか?」

 

 セラは少し考えてから、まっすぐ答えた。

 

「理解したいんです。ゲマトリア空間、わたしたちの神様の言葉を」

 

 ……エクシフの言葉だ、とわたしは思った。宗教と数学は別の話だとずっと言い続けてきたわたしにとって、その答えは少し居心地が悪い。

 しかし今はそこに踏み込む場面ではない。わたしは続けた。

 

「あなたの見たものを証明すれば、あなたが見えているものを形にして残せます。あなたの中だけにあるものを、他の人間にも伝わる言葉にできる。それには意味があると思いませんか」

「なぜ証明しないといけないのですか?」

「証明として積み上げれば、次の問いに進めます。あなたの発見が次の発見の土台になる。あなたの発見が未来に残るんです」

「未来に残す、というのがなぜ必要なのか、よくわからないです。自分で答えがわかっていればそれで充分だと思います」

「それは……」

 

 セラの素朴な疑問に、わたしは言葉を失った。

 アカデミアにおいて『自分の功績を残すこと』は自明の前提であり、そこから説明しなければならない相手と話したことがない。証明の価値をわからない人間に、証明がなぜ必要かを説くための言葉を、わたしは持っていなかった。

 ならば、と思った。

 

「理解を深めたいなら、誰かと組んでやった方が一人でやるより速く進められます。大学にはリソースがある。設備も、文献も、研究者間のネットワークも。あなたが見つけたものをより深めるためのものが、ここにはある」

「それは、ありがたいですが……」

「ゲマトリア数の発見が増えれば、ゲマトリア空間の理解は深まります。あなたが協力してくれれば、今より速く、今より深く。それはあなた自身の目的にも合うはずでは?」

 

 わたしが理屈を説く一方、セラは至極申し訳なさそうな、そして困ったような口調で言うのだった。

 

「でも、わたし一人でも、勉強はできるので……」

 

 悪意のない、しかし率直な言い方だった。

 ……実際、本音なのだろう。そしてその本音は正しい。セラの言うとおり、セラは一人でもゲマトロン数学についての学習を続けることができる。見えたものを書き留め、自分の中で理解を深めることができる。別に一人でも困らない。

 むしろ困るのはわたしの方だ。セラの才能が誰にも届かないまま過ぎ去ってしまうことを、わたしは惜しいと思っている。

 しかしそれを言葉にしようとして、止まった。あなたの才能は評価されるべきだ、そう言ったところでこの素朴な人には通じないだろうから。

 窓の外で風が吹いて、中庭のプラタナスが揺れた。先週、セラがゲマトリア数を「見た」木だった。

 

「…………。」

 

 窓の外のプラタナスを見ながら、わたしはさっきのことを思い出していた。

 セラがゲマトリア零点観測機の設計図の前に立っていたときの顔だ。図面を読もうとしているわけでも、評価しようとしているわけでもなく、ただ静かに見ていた。なにか具体的な感想を言ったわけではないが、しかし何かがあの顔にはあった。

 わたしはふと思いついたことを口にした。

 

「ゲマトリア数を解明することは、ゲマトリア空間を読み解くことです。あなた流に言えば『神様の言葉を理解すること』でしたね?」

「え、ええ、まあ……」

 

 急に論調が変わったわたしの言葉に、セラは戸惑いつつ頷いていた。

 構うことなくわたしは続けた。

 

「わたしの研究しているゲマトリア零点観測機が完成すれば、ゲマトリア空間の実体を直接観測できます。数式の上で存在するとされているものが、本当にそこにあるのかを、この目で確かめることができる」

 

 間を置いてから、わたしは言った。

 

「ゲマトリア空間の中心には『基準座標ゼロ』がある。この実在を導き出せればすべてのゲマトリア数を導き出せる、すなわち基準座標ゼロは『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』に等しいものです。エクシフの教えでは、そういうものは何だと言われていますか?」

「『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』、それはつまり……」

 

 わたしの言葉で、セラははっとしたような表情をしていた。きっとわたしと同じところに行き着いたのだろう。

 わたしをまっすぐ見つめるセラに、わたしもまっすぐ見つめ返して答えた。

 

「そう、エクシフの宗教で呼ぶところの宇宙知性、すなわち『神』です。ゲマトリア数が十分に集まれば、その実体を導く公式が見えてくるかもしれない。そしてこの装置が完成すれば、それを観測できる。ゲマトリア零点観測機が完成すれば、あなたは自分の信じている神様をその目で見ることが出来るかもしれない。それは素晴らしいことだと思いませんか?」

「…………。」

 

 わたしの言葉に、セラは答えなかった。しかし、顔が変わっていた。

 それまでと違った。わたしの話をどこか遠くで聞いていた人間が、急に足元を見るような――静かな、しかし確かな真剣さが、その目に出ていた。名誉も実績も残すことも、何も刺さらなかったセラが、初めてこちらを向いた顔だった。

 しばらく沈黙があって、やがてゆっくりと頷いた。

 

「……わかりました」

 

 大げさではなかった。興奮した様子もなかった。ただ、頷いた。それだけだった。

 

 

 セラが帰ったあと、わたしは研究室に一人残った。

 

 片付けるものがあったわけではない。ただ立って、壁に貼られたゲマトリア零点観測機の構想図を見ていた。セラがさっき立っていた図面の前に、今はわたしが立っている。

 わたしは思わず呟いていた。

 

「ゲマトリア零点観測機……これがやっと……」

 

 三年前に描き始めて、少しずつ書き込みを増やしてきた図面だ。わたしの生きているうちに完成させることができるとは、正直なところ半分も思っていなかった。まず素となるゲマトリア数が足りない。土台が足りない。どれだけ手を尽くしても、一人では届かない場所にある、とずっと分かっていた。

 ……わたしはセラに嘘をついていない。ゲマトリア数の解明は信仰への貢献になる。装置が完成すればゲマトリア空間の実体を観測できる。あるいはそれはエクシフの宗教にとって神を観測するにも等しい行いだろう。わたしの説明に何一つ偽りはない。

 

 ただ、言わなかったことがある。

 

 わたしにとって、この装置を完成させることが研究の中心にあるということ。セラの才能を見つけたとき、最初に頭をよぎったのがそれだったということ。

 ……言う必要がない話だ、とわたしは思った。目的が違ってもやることは同じだ。セラは神の言語を理解したい。わたしは装置を完成させたい。どちらにとっても、ゲマトリア数が必要。それだけのことだ。

 だから、言わなかった。

 

 壁の設計図を見ながら、わたしはセラが帰り際に見せた顔を思い出していた。頷く前の、あの静かな目。何かを感じていた。何を感じていたのかは、わたしには分からない。

 

 分からないままでいい、とわたしは思うことにした。




タイトルはジョン=フォン・ノイマンとオスカー=モルゲンシュテルンの「ゲーム理論」から。

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