ゲマトロン演算にまつわる百合SF的省察 作:よよよーよ・だーだだ
セラが正式にソルボンヌ大学の学生になってから、最初の三ヶ月は基礎固めに費やされた。
わたしはセラに証明の書き方を教えた。定義を述べ、仮定を置き、論理を積み、結論に至る。数学とは結局のところその繰り返しだ。
セラはわたしの講義を素直に聞き、素直にノートを取り、そして翌日にはまったく違う方法で同じ結論にたどり着いた。
「……セラ。これは証明じゃありません」
「えっ、でも合ってますよね?」
ええ、合っている。たしかに合ってはいるが。わたしは指摘した。
「しかし途中の三行が飛んでいる。ここからここに行くには、少なくとも補題がふたつ要ります」
「うーん……でも、見えてるんです。こことここが繋がってるのが」
「あなたが見えているのは知っています。でも、それを他人にも見えるように書くのが証明です」
「う、うー……」
そう諭すと、セラは困った顔をした。
こういうとき、わたしは才能というものの残酷さについて考えることになった。見える者は、見えない者の苦労がわからない。見えない者は、見える者の孤独がわからない。わたしはそのどちらでもあり、どちらでもなかった。セラは証明の仕方がわからず、わたしにはセラの見ているものが見えない。
役割が定まったのは自然な成り行きだった。セラが発見し、わたしがそれを証明する。セラの直感がゲマトリア数の候補を捉え、わたしがそれを数学的に検証し、厳密な形に仕上げる。
「先生、これ」
セラが差し出すノートには、いつも突拍子もないことが書いてあった。既知のゲマトリア数からは導けない、教科書のどこにも載っていない関係式。けれど、それらのことごとくが正しかった。
「……この級数展開、どこかの論文で見た覚えがあります。いや、ない。これは新しい」
「朝ごはん食べてるときに浮かびました」
「……朝ごはん」
「クロワッサンちぎってたら、断面の層がゲマトリア空間の入れ子構造に見えて」
どこか子供じみたセラの喩え方に、わたしは額を押さえた。天才というのは朝食の時間も油断ならないらしい。
しかしセラの着想を実際に検証してみると、確かに成り立つのだから困ってしまう。しかもそれは、既存の近似手法よりはるかに効率的にゲマトリア数へ到達する経路を示していた。
「セラ、これは大きいですよ。この経路をたどれば、個別に膨大な計算をしなくても近似値を出せる可能性がある」
「そうなんですか?」
「近似値の効率的な算出ができれば、ゲマトリア数の探索そのものが加速します。今まで百年かかると言われていた数が、十年で見つかるかもしれない」
「へえ、すごいんですね、クロワッサン」
「クロワッサンがすごいんじゃありません」
セラはいつもそうだった。自分の発見の重みを、本人がいちばん理解していない。わたしにはそれが歯がゆくもあり、同時に眩しくもあった。
わたしならその価値を正確に測れる。『測ることしかできない』とも言えるが、測る者がいなければセラの発見は散逸してしまう。ノートの端に書き散らされたまま、朝食のパン屑と一緒に捨てられてしまう。
それだけは、させたくなかった。
わたしとセラの共同研究で、ゲマトリア数の発見は加速していった。
セラが見つけ、わたしが証明する。その繰り返しのなかで、わたしは自分の手法が一つの体系を成しつつあることに気づいた。
セラの発見を証明するたびに、証明の技法そのものが洗練されていく。個別の証明に使ったやり方を統合し、一般化する。
そうしてまとめたその手法を、わたしは『ゲマトリア解析』と名づけた。
各ゲマトリア数の近似値を効率的に割り出すための解析手法。セラの直感を再現することはできないが、セラの直感が指し示してきた道のりを、わたしのような凡人でも辿れるように舗装する技術だ。本来であれば『ゲマト
ゲマトリア解析について方法論をまとめたわたしは、さっそく論文を書いた。セラとの共著だ。査読は驚くほど早く通った。返ってきたコメントには「画期的」という言葉があった。
「先生、画期的だって」
「ええ、読みましたよ」
「先生の顔、にやけてます」
「にやけていません」
「にやけてます」
にやけていた。
研究室での日々は充実していた。わたしが講義を終えて戻ると、セラがすでにデスクに座っていて、ノートを広げている。
わたしがコーヒーを淹れ、セラに渡し、自分のぶんも注いで、二人で数式の海に潜る。セラが閃き、わたしが検証し、ときに行き詰まり、ときに突破する。日が落ちるまでそれを繰り返して、最後にセラが「おなかすいた」と言って終わる。
毎日が、そうだった。
並行して、もうひとつの研究が進んでいた。
「先生、これが、ゲマトリア数が本当に『ある』かどうかを確かめる装置ですか」
ゲマトリア零点観測機の開発。ゲマトリア空間における実体を直接観測するための装置だ。ゲマトリア解析で証明したゲマトリア数の実体が本当に物理的な対応物を持つのか、それを確かめるためにわたしがかねてから構想していたものだ。
そうです、とわたしは頷いた。
「数学的に存在が証明されたゲマトリア数の座標に、物理的な何かが対応しているのかどうか。それがわかれば、ゲマトロン数学は純粋数学から応用科学になります」
「理論の実証実験、ってことですね」
「簡単に言えばそうです」
「じゃあ、わたしも手伝います」
……手伝う?
わたしが聞き返すと、セラは楽しげに答えた。
「だって、わたしが見つけた数が本当にあるかどうかの話ですよね。気になります」
「……そうですね」
わたしは少し迷って、それから頷いた。セラの直感は装置の設計にも役立つ、それは事実だった。
そんな日々の中、セラが何気なく言った。
「先生、ゲマトリア空間って、エクシフの言葉では『神の与えた座標系』って呼ぶんですよ」
……またエクシフの宗教の話か。わたしの手が一瞬止まった。
「……そうらしいですね。それより、さっきの収束判定なんですが」
声は平静を装ったつもりだった。わたしはノートのページを繰り、数式を指で示した。
「三次までの近似で精度が出ないのは、基底の選び方に問題があると思います」
「あ、はい。えっと、どの部分ですか」
「ここです。第二項の展開が冗長になってる。もっと刈り込めるはずです」
「うう……先生、厳しいです……」
「厳しくありませんよ。セラの直感が正しいなら、式はもっと短くなるはずです。綺麗に整理できたら、観測機の入力パラメータにそのまま使えます」
「むう……」
セラは唇を尖らせながらもペンを走らせた。わたしはコーヒーを口に運び、自分の心拍が落ち着くのを待った。
セラに悪気はない。エクシフの信者にとって、ゲマトロン数学と信仰は地続きだ。それはわかっている。わかっているが……。
「できました」
セラの声にわたしは我に返った。差し出されたノートを見て、数式を追った。
「……見事です、セラ。これなら第四近似まで一本で通せる」
「ほんとですか。えへへ」
「笑ってないで、次の検証に入りますよ」
「はーい」
研究に戻ればいい。数式を見ていればいい。それがわたしの処世術だった。証明できるものだけを見つめていれば、それ以外のものは視界に入らない。
しかし数日後、同じことが起きた。
二人でゲマトリア零点観測機の入力関数を調整していたときだった。セラが新しいゲマトリア数の候補を検証しながら、ぽつりと言った。
「この感覚、うまく言えないんですけど……数を見つけるとき、数のほうが応えてくれる感じがするんです。エクシフの聖典に『万物は一つの名から生まれる、それは一つにして無数』って節があるんですけど、それに……」
「数学的に言えば、基底の取り方が空間の対称性と合致しているということですよ」
自分でも驚くほど速く遮っていた。セラの抽象的なイメージを数学に翻訳する……いつもやっていることだ。
しかし、今回はいつもとは動機が違った。翻訳したかったのではなく、その先を聞きたくなかった。
「ノート、続き書いていますか?」
「……書いてます」
セラの返事は短かった。そこに微かな温度の変化を感じた。しかし気づかないふりをした。気づかないふりをすることに、わたしは慣れていた。
その日の夕方だった。
「……先生」
「なんですか」
「前にもありましたよね」
……なにが?
わたしがそう答えたときも、セラの様子は穏やかだった。責めるでも、問い詰めるでもない。ただ事実を確認するような声だった。
「わたしがエクシフの教えの話をすると、いつも話を変えますよね。なぜですか?」
「…………。」
わたしは答えなかった。そしてセラは核心に触れる。
「エクシフの宗教、嫌いですか」
長い沈黙のあと、わたしはゆっくりと息を吐いた。
「……嫌いというわけじゃありません」
「でも、嫌な顔してます」
セラの言葉はまっすぐだった。装飾がなく、計算がなく、ただ見えたものを口にしている。この人はいつもそうだ。数式でも、人間の表情でも、見えたものをそのまま言う。
やがてセラは「すみません」と頭を下げた。
「ごめんなさい、踏み込みすぎました。忘れて……」
「……嘘をつきました」
口にしてしまってから、わたしは自分でも予期しない言葉を言っていることに気づいた。
わたしは言った。
「嫌いですよ。正確には、嫌いでした」
「…………。」
セラが黙った。わたしは窓の外を見た。夕日が街を赤く染めている。
答えないセラに、わたしは続けた。
「……弟がいたんです。名前はラファエル。小さい頃に病気で死にました」
そう語る声は、自分で思っていた以上に淡々としていた。これまで誰にもこの件を話したことはなかった。そしてこういう話は、むしろ感情を込めないほうが楽だと知っている。
「ラファエルが死んでから、母が変わりました。エクシフの宗教にのめり込んで……他者への献身を通じて宇宙知性へ合一する。そういう教えでしょう?」
「……はい」
頷くセラに、わたしは滔々と語り続けた。
「母はエクシフの宗教のことばかり追いかけるようになってゆきました。宗教の集会に行き、奉仕活動に行き、同じ信仰の人たちの中に入り浸って、目の前にいるわたしたち家族のことが見えなくなった。家族を失って、それでいちばん母を必要としていた時期のわたしが、そこにいたのに」
コーヒーが冷めていた。わたしは窓の外を見つめた。
「他者への献身を説く信仰が、いちばん近くにいる大切な人を置き去りにする。それがわたしの知っているエクシフの宗教でした」
そうやって母が信じていたものを、わたしは信じられなかった。証明がなかったからだ。ラファエルは宇宙の大いなる意志と合一した、そう語るエクシフの言葉を母は疑わなかったが、わたしにはどうしても信じることができなかった。
わたしがゲマトロン数学に向かったのは、だからかもしれない。
母が信仰として飲み込んだものを、わたしは論理の
わたしは母のようなエクシフの信者たちが縋りついている、神とやらの正体を暴いてやりたかった。死や人生に意味があるとただ信じるのではなく、ちゃんと自分で確かめてみたかった。それがわたしの選んだ道だったのだ。
長い沈黙があった。研究室の時計の音だけが聞こえた。
「……先生」
セラの声が聞こえ、わたしは窓から視線を戻した。
「つらかったんですね、家族のこと」
「…………」
その言葉はあくまで穏やかで、しかしどこか、すとんとわたしの中に落ちてきた。
セラは冷静にわたしに向き合ってくれていた。わたしの偏狭な物の見方を責めたり、あるいは心の傷だと慰めて同情したりもしなかった。
しばらく黙っているわたしに、セラは続けた。
「信仰って、証明できないものを本当だと信じて、そこに心を預けることだと、わたしは思ってます。先生のお母さんが、先生が目の前にいるのに見えなくなってしまったのは、心を預ける場所が違ってしまったんだと思います」
わたしに応えるセラの声は静かだったが、揺るぎなかった。信仰を持つ者の芯の強さだろうか。
わたしは素直に答えた。
「そういう生き方が、わたしには理解できないんです」
「わかってます」
しかしセラのそれは、母が持っていた種類の強さとは違っていた。母の信仰は外に向かって膨らみ、周囲を飲み込んだ。セラの信仰は内側にあり、静かに自分を照らしているだけだった。
「だけど先生だって、数学を信じてるじゃないですか。証明すれば本当のことがわかるって。それって、数学を信じてるから言えることだと思います」
「それは……」
反論の言葉を探したが、出てこなかった。反論の形が、作れなかった。
セラは続けた。
「数が応えてくれるって言ったの、宗教の話じゃなかったんです。先生と一緒に見つけたから、この世界も応えてくれるんだって、わたしはそう思ってます」
そんなセラの言葉に対する適切な返答を、そして正確な表現をわたしは探したが、しかし見つからなかった。わたしがこれまで絶対視していた世界からは届かない場所に、セラの言葉はあった。
これまでの人生で、わたしはそういう場所には敢えて踏み込まないようにしてきた。しかし今回は違う。今セラの言葉がそこにあり、そして今わたしはそこにいた。
逡巡の末、わたしは口を開いた。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。証明の言葉ではないし、手順を踏んでもいなかった。
しかし嘘でもなかった。
「……ふふっ」
セラは小さく笑った。それから立ち上がって、冷めたコーヒーのカップを二つ持って、流しに向かった。
「コーヒー、淹れ直しますね」
「……ええ」
日常が戻ってきた。数式とコーヒーと、二人の研究室。
しかし何かが変わっていた。わたしの中で、長いあいだ固く閉じていた扉が、少しだけ開いたのだと思う。
それから研究は新しい段階に入った。
集めたゲマトリア数をもとに、わたしはゲマトリア解析の理論をさらに拡張していった。セラの発見一つ一つが理論の新しい柱になり、柱が増えるたびに空間の全体像が少しずつ見えてくる。同時に、ゲマトリア零点観測機の設計も具体性を増していった。
しかし根本的な壁があった。
「観測機を起動させるには、ゲマトリア空間の完全な記述式が要ります」
わたしはホワイトボードの前で腕を組んだ。
「完全な記述式、ですか」
「ええ。ゲマトリア空間を矛盾なく、余すところなく記述する式です。言い換えれば、すべてのゲマトリア数を一つの基準から生成できる公式」
「一つの基準……」
わたしの言葉を復唱するセラに、わたしは説明を続ける。
「基準座標ゼロ。ゲマトリア空間の原点にあたる理論上の座標です。すべての座標がそこからの相対位置として定まる。逆に言えば、ゼロの実在が特定できれば、すべてのゲマトリア数は自動的に導出可能になります」
「それって、ゲマトロン演算が完成するってことですか?」
「理論上はそうです。完全な未来予測が実現する」
……しかし。わたしは言った。
「基準座標ゼロの実在を割り出す公式は見つかっていません。基準座標ゼロの実在、これこそがゲマトロン数学における最大の未解決問題です」
セラはわたしの説明を聞きながら、黙ってホワイトボードを見つめていた。そこに書かれた数式の群れを、自分だけに見える何かを透かし見るように。
セラはやがて口を開いた。
「……エクシフの宗教において、基準座標ゼロに座る者のことは『一つにして無数』と呼ばれています」
それを聞くわたしの肩は、もう強張らなかった。
「すべてのものがそこから生まれ、そこに帰る。『一つにして無数』、その座標を見つけるということは、神の居場所を知ることと同じです」
「……なるほど」
今度は遮りはしなかった。わたしはただ静かに頷いて、ホワイトボードのペンを取った。
「つまりセラにとっても、わたしにとっても、『一つにして無数』を見つけることが最終目的地ということですね」
「はい」
「目的が違っても、やることは同じです」
その言葉を口にしたとき、胸に小さな痛みが走った。この言い回しを、前にも使った。セラを研究に誘ったとき。あのときは自分を正当化するための言葉だった。しかし今は――
「じゃあ、やりましょう。先生」
セラの目が輝いていた。信仰の光なのか、知的好奇心の光なのか、あるいはその両方なのか。
わたしには区別がつかなかった。あるいは、区別する必要もないのかもしれないとも思った。
月日が過ぎた。
セラは基準座標ゼロを導き出す式『一つにして無数』の発見に没頭した。わたしはセラの試行を片端から検証し、理論的な裏づけを固めていった。行き詰まり、戻り、別の経路を試し、また行き詰まる。その繰り返しだった。
ある夜、研究室に遅くまで残っていた。セラはデスクにノートを何冊も広げ、何時間も黙って数式を書いては消していた。わたしは自分の仕事をしながら、ときどきセラの様子を窺っていた。
セラのペンが止まった。
わたしが顔を上げると、セラがノートを凝視していた。
その目がいつもと違った。焦点が合っているのに、どこか遠くを見ている。見える者が何かを見ているときの目だった。
「……セラ?」
「先生」
わたしの呼びかけに応えたとき、セラの声は震えていた。
「見えました」
その言葉で、わたしは立ち上がった。
「ゼロが、見えた」
セラの手が震えている。ペンが紙の上で跳ねるように、数式を書き連ねていく。わたしは横に立って、セラの手が止まるのを待った。
数分後、セラがペンを置いた。
すぐさまわたしはノートを手に取った。セラの文字は震えていて読みにくかったが、式の構造は明晰だった。基準座標ゼロの位置、ゲマトリア空間の原点に対応する実在を割り出すための公式『一つにして無数』が、そこにあった。
証明は、まだない。セラの字で書かれた直感の結晶があるだけだ。
しかしわたしには、それが正しいとわかった。
「……証明は、わたしがやります」
セラが顔を上げた。涙が頬を伝っていた。感動なのか、畏怖なのか、あるいは信仰の成就への予感なのか。
「お願いします、先生」
セラの言葉に、わたしは頷いた。
タイトルはミレニアム懸賞問題のひとつ「リーマン予想」から。
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