ゲマトロン演算にまつわる百合SF的省察   作:よよよーよ・だーだだ

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4、どんな数も決まった手順を繰り返せば必ず1に辿り着くのか?

 『一つにして無数』の証明の作業に本格的に入る前に、わたしはもう一度ゲマトリア零点観測機の設計図を広げた。

 

 机の上を片付けて、大判の図面を広げる。三年前に描き始めて、セラと出会ってから書き込みが増え、今ではところどころ修正の上に修正が重なっている。最初の線と今の線は、ずいぶん違う場所を走っている。

 しかしそれは、悪いことではないと思えた。

 

「……先生」

 

 ドアが開いて、セラが入ってきた。トートバッグからノートを取り出しながら、いつものようにわたしの机の前の椅子に腰を落ち着ける。鞄の口から、紙袋の端が見えていた。

 

「クロワッサン買ってきました。食べますか」

「いりません。作業に入ります」

「着いた瞬間に言いますか、それを」

 

 セラはそれでも紙袋から一つ取り出して、わたしの机の端に置いた。「あとで食べてください」とだけ言って、ノートを開く。わたしは何も言わなかった。

 

 しばらく、二人とも黙って手を動かしていた。わたしは設計図の検証項目を書き出し、セラは昨日の続きを計算していた。

 研究室の外では、構内を学生が行き交う音がしている。窓から差し込む光が、机の上の設計図を斜めに照らしていた。

 

「……先生」

 

 やがてセラが顔を上げた。

 

「なんですか」

「この装置、名前はあるんですか」

 

 わたしは手を止めた。設計図に目をやってから答える。

 

「ゲマトリア零点観測機では?」

「それは説明です。名前じゃありません」

 

 セラはにこりともせずにそう言った。なぜか妙に正確なことを言われた気がした。わたしは少し考えて、答えた。

 

「……名前は、つけていません」

「じゃあ、つけましょうよ」

 

 セラはノートを置いて、設計図の方へ少し体を乗り出した。視線が図面の上をゆっくりと動く。何か見えているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。セラの目は、いつもそういう目をしている。

 セラはこんなことを提案してきた。

 

「『ガルビトリウム』というのはどうでしょうか?」

 

 ガルビトリウム。聞き慣れない単語で、わたしは顔を上げた。

 

「……なんです、それ」

「古い言葉です。エクシフの宗教で、神を見出すもの、という意味があります。『一つにして無数』を見つけるための、この装置にぴったりだと思って」

 

 そう言われて、わたしはもう一度設計図に目を落とした。

 神を見出すもの、ガルビトリウム。基準座標ゼロの実在を通じて、ゲマトリア空間を観測するための装置。それはたしかに、エクシフの言う神の居場所を確かめることにも等しい。

 わたしがこの装置を作りたかった理由は、セラの信仰心とは少し違う。それでも目的は同じだと思ってきた。そして今も、おそらくそうだと思っている。

 

「ガルビトリウム……」

 

 声に出してみた。語感を確かめるように。

 

「いい名前だと思います」

 

 セラの顔がぱっと明るくなった。こういうときのセラは、少し子供みたいだと思う。

 

「じゃあ、そう呼びましょう。ガルビトリウム」

「あなたが呼びたいだけでしょう」

「先生も今、気に入ったでしょう」

「それは……」

 

 図星だったので、わたしは何も言わなかった。

 セラはもう一度「ガルビトリウム」と言って、満足そうにノートに書き記した。その文字を横から見て、わたしは設計図の右上の余白に、同じ名前を書き入れた。

 ガルビトリウム。

 小さな字で書いただけだが、図面がその名前を受け取ったような気がした。

 

「では、作業に戻ります」

「はい」

「クロワッサン、後でもらいます」

「さっきいらないって言いましたけど?」

「言いましたが、もらいます」

 

 セラがくすくすと笑った。いつも少し遅れてくる笑い方だった。

 わたしはペンを取って、証明の作業に向かった。

 

 

 証明の作業は、静かに進んだ。

 

 セラの式は正しい。最初にノートを手に取った瞬間からわかっていた。

 式の構造には無駄がなく、美しい。数学における美しさとは装飾ではなく、必然性のことだ。

 そしてこの式はそういう美しさを持っていた。どの項も、そこにある理由がある。どの変数も、なければならない場所にいる。

 

 証明の道筋は、最初から見えていた。

 

 わたしがしなければならないのは、その道に石を敷くことだった。セラが一足で渡った場所に、他の人間が歩けるように段差を作る。補題を積み、定義を置き、論理の橋を渡す。セラには不要な作業を、わたしは丁寧に、一つひとつこなしていった。

 夕方になるとセラが訊いてきた。

 

「先生、今日は進みましたか」

「まあまあです」

 

 わたしが答えると、セラは「まあまあって何割ですか」と聞いてくる。

 

「七割」

「昨日も七割でしたよ」

「昨日と今日は違う七割です」

「なるほど、わからないです」

 

 進捗の確認をしたあと、セラはこんな提案をしてきた。

 

「今日はコーヒーじゃなくて紅茶にしませんか」

 

 ……言われてみれば、とわたしは思い当たった。セラと出会って以来、ずっとコーヒーを淹れるのが定番になっている。

 しかしなんで今更。そう訊ねると、

 

「気分です」

「気分で紅茶にするんですか」

「ほかに理由は要らないでしょう?」

 

 わたしたちは紅茶を飲んだ。セラは「やっぱりコーヒーの方が好きです」と言った。

 

「言いましたよね、紅茶の気分だと」

「気分が変わりました」

「早すぎます」

 

 わたしの指摘に、セラはくすくすと笑った。

 セラは改めてコーヒーを淹れて、わたしの机の端に置く。わたしはそれを飲みながら、また作業に戻る。

 そういう日が続いた。

 

 

 違和感に気づいたのは、証明が半ばを過ぎた頃だった。

 通常のゲマトリア数を扱うとき、観測関数は一方向だ。こちらが座標を見る。座標はそこにある。見て、確かめて、離れる。それだけのことだ。

 しかし『一つにして無数』の証明を組み上げていくうちに、観測関数の構造が他のゲマトリア数と根本的に異なることに気づいた。

 

 式の中に、気になる項がある。

 

 最初は書き損じかと思った。整理すれば消えるはずの項だと思って、何度か式を組み直した。

 しかし消えなかった。消えないどころか、整理すればするほど、その項がなぜそこにあるのかが明確になってきた。

 

「観測者自身のゲマトリア数が、観測関数の変数として組み込まれている……?」

 

 つまりこういうことだ。

 基準座標ゼロを観測したとき、こちらが座標を見るだけではない。座標の側も、観測者を「捕捉」する。

 他のゲマトリア数には帰路がある。観測して、離れられる。しかし基準座標ゼロの式には、帰路に相当する項がない。観測ロックが成立した瞬間、観測者のゲマトリア数は零座標の座標系に引き込まれる。

 引き込まれた後の式は、まだそこまで展開できていない。

 

「…………。」

 

 わたしはペンを置いた。しばらく、その項を見つめた。

 ……もし基準座標ゼロに「何か」がいたら。

 高次元存在。エクシフの宗教で『一つにして無数』と呼ばれるもの。それが単なる数学的原点ではなく、何らかの実体を持つとしたら。

 

 ……馬鹿馬鹿しい。いるわけがない。

 静かに、しかしはっきりと、わたしはそう思った。

 

 セラに『神が見られるかもしれない』と言ったことがあるが、実際の基準座標ゼロは数学的な原点だ。空間を記述するための理論上の参照点であって、そこに具体的な「何か」が存在している必然性はない。エクシフの宗教がそこに神を見るのは信仰の問題であり、数学の問題ではない。

 式が何かを示唆しているように見えるのは、まだ展開が不十分だからだ。証明を完成させれば、この余分な項の意味も自然に定まるはずだ。

 

「……あとで確認しよう」

 

 すべては証明を完成させてから。式が全部揃えば、この項が何を意味するのかもわかるはずだ。

 わたしはそう思って、ノートのページを繰った。

 

 

 証明が完成したのは、霧の多い朝だった。

 前日の夜遅くまで残って作業をしていたわたしは、翌朝また研究室に来て、最後の項を書き込み、ペンを置いた。

 完成した証明をもう一度最初から読んだ。

 ……矛盾はない。飛躍はない。定義から出発して、論理を積んで、セラの式が正しいことが厳密に示されている。基準座標ゼロの実在を割り出す公式、『一つにして無数』の証明。それが、今ここにある。

 ノックの音がしたのは、証明を読み返し終えた直後だった。

 

「入っています」

「邪魔するよ、ガブリエル」

 

 ドアを開けたのは、デュボア教授だった。杖はついていない。久々に見る背筋は、相変わらず年齢に似合わないほど真っ直ぐだった。

 教授は告げた。

 

「例のゲマトリア零点観測機、その進捗を聞かせてもらえないかと思ってね」

 

 わたしは立ち上がりかけたが、教授は手で制して、自分で椅子を引いた。部屋を一度見回してから、壁のガルビトリウムの設計図に目を止めた。

 

「……ずいぶん書き込みが増えたね」

「セラ……エル・カディさんのおかげです。今朝、証明が完成しました」

「ほう」

 

 教授の目が動いた。机の上の証明に向けられた視線は、一拍置いてからわたしに戻ってきた。

 

「見せてもらえるかい」

「どうぞ」

 

 教授はページをめくった。老眼鏡を取り出して、数式を丁寧に追っていく。読む速度は遅くなかった。この人はいつもそうだ。年齢を感じさせない目の動きをする。

 しばらくして、教授は証明を閉じた。

 

「……見事だ」

 

 それだけ言った。それだけで十分だった。

 教授は言った。

 

「エル・カディという学生、ガブリエルが推薦状を書いた子だね。面白い才能だと聞いていたが」

「面白い、では足りません」

「そうだね。貴女がそう言うなら、そうなのだろう」

 

 そう言って、教授はガルビトリウムの設計図に視線を戻す。鋭い双眸が設計図を見渡しながら、教授は言った。

 

「この装置が完成すれば、ゲマトロン数学は純粋数学から応用科学になる。ガブリエルが学生のころから言っていたことが、ここまで来たわけだ」

「先生に見出していただいたおかげです」

「わたしはただ、貴女が自分で辿り着くのを待っていただけだよ」

 

 教授はそう言って、わたしを見た。

 

「……ガブリエル、一つ訊いていいかい」

「はい」

「変わったね。ここ一年ほどで」

 

 そう問われて、わたしは少し間を置いてから答えた。

 

「……そうでしょうか」

「そうだよ」

 

 教授は穏やかに続けた。

 

「以前の貴女には、頑なさがあった。論理で証明できないもの、自分の言葉が通じないものは、最初から視界に入れないような。数学者としてはそれでも構わないし、実際優秀だった。しかし……人間としては、少し心配していた」

「……。」

 

 わたしは何も言わなかった。教授は続けた。

 

「エクシフの宗教への態度が、特にそうだったね。嫌いだと認めることすらせず、ただ存在しないものとして扱っていた。そういう頑なさが、随所に出ていた」

 

 ……そうだったかもしれない、とわたしは思った。

 しかし、と教授は言う。

 

「今の貴女は、少し違う。余裕ができたというか、物腰が柔らかくなった気がする。エル・カディさん……セラと名乗るあの学生と仕事をするようになってからだろうね。何が変わったのか、私にはわからないが」

 

 答えるより先に、わたしの中でセラのことがよぎった。

 ……出会った日。クロワッサンの断面がゲマトリア空間に見えると言った日。共に作っているゲマトリア零点観測機を神を見出すもの∶ガルビトリウムと名付けたあの日。『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』を見たいと言ったときの、揺るぎない目。

 

「……セラに、教えてもらったことがあります」

 

 気づいたら、口にしていた。

 

「証明のない直感を持つ人間が、どういうふうに世界を見ているか。わたしにはずっと、それが理解できないと思っていました。しかし……理解はできなくても、受け取ることはできると、今は思っています」

「それを言えるようになったのが、変化なんだよ。きっとね」

 

 立ち上がりながら、教授はゲマトリア零点観測機の設計図をもう一度見た。書き込まれた装置の名前を読み上げる。

 

「……ガルビトリウム、か。いい名前だ」

「セラがつけました」

「やはりそうか」

 

 教授は小さく笑って、ドアの方へ歩いた。杖なしの足取りは、前に会ったときより確かだった。

 

「完成したら、見せておくれ。この目で見たい」

「はい、必ず」

 

 ドアが閉まった。

 わたしは一人になったが、教授の言葉がまだ部屋の中に残っているような気がした。

 

 頑な、と言われた。心配していた、と言われた。

 

 ……言い返す気にはなれなかった。それどころか、本当にそうだったのかもしれないと素直に思えた。以前のわたしなら、そんな批判を素直に受け取れなかっただろう。教授の言うとおり、それ自体が変化の証拠なのかもしれなかった。

 わたしはスマートフォンを手に取って、セラにメッセージを打った。

 

〈証明が完成しました。来られますか〉

 

 返信はすぐに来た。

 

〈今から行きます〉

 

 窓の外の霧が、パリの街の輪郭をぼかしていた。わたしは証明を机の上に置いて、ガルビトリウムの設計図を引き寄せた。これで起動できる。扉が開く。

 

 刹那。

 よぎった胸の奥の翳りに、わたしは気づかないふりをした。

 

 ……その態度が、わたしがこれまでずっと軽蔑していたものと同じだと気づいたのは、ずっと後のことだった。

 

 

 研究室のドアが開いたとき、セラはまだ息が少し上がっていた。走ってきたのかもしれない。

 

「完成したんですか」

 

 開口一番そう言った。わたしは机の上の証明を手に取って、差し出した。セラはそれを受け取り、ページをめくった。

 数式の上をセラの目線が動く。速い。普通の速さで読んでいるのではなく、全体の形を確かめているような目の動きだった。

 

 やがてセラはゆっくりと顔を上げた。

 

「……すごいです、先生」

「セラの式があったからです」

「いいえ、先生がいなかったら、式は式のままでした。いよいよですね、先生!」

 

 そう言うセラの声は静かだったが、その静かさの奥に何かが満ちていた。長い時間をかけてここまで来た人間の、落ち着いた昂揚だった。

 だけど。

 

「……起動するのは少し先にしましょう」

 

 そう応えた自分の声が思ったより低かった。セラが振り向いた。

 

「……先生?」

 

 わたしはゆっくりと息を吸った。証明の作業の間に底へ沈めていたものが、今また浮上してくるのを感じた。

 

「式の中に、説明できていない部分があります」

 

 セラは黙ってわたしを見ていた。わたしは続けた。

 

「基準座標ゼロの観測関数は、他のゲマトリア数と性質が根本的に違う。通常の観測は一方向です。こちらが座標を見る、それだけです」

 

 しかし、とわたしは言う。

 

「基準座標ゼロ、『一つにして無数』の式には、帰路がない。観測が成立した瞬間、観測者のゲマトリア数が零座標の座標系に引き込まれる可能性がある。引き込まれた先がどうなるか、式はまだそこを示していません」

 

 わたしの説明を、セラは黙って聞いていた。わたしは続けた。

 

「零座標の実在が確定した以上、そこに何らかの対応物がある可能性を排除できない。その性質が不明なまま観測を成立させるのは、危険すぎます」

 

 そこまで言ってから、わたしは口を閉じた。

 沈黙。しばらくセラは何も言わなかった。ただわたしの言葉を、頭の中でゆっくりと辿り直しているようだった。

 やがてその目が、少しずつ変わっていくのがわかった。

 

「……対応物」

 

 低い声で、セラが繰り返した。

 

「『一つにして無数』の先に、何かいるかもしれない、ということですか?」

 

 すかさず、わたしは答えた。

 

「可能性の話です。式が示唆しているだけで、そこまでの解はまだできていない」

 

 わたしの言葉で、セラの表情が静かに、しかし確かに変わった。

 今までの付き合いの中で、わたしが見たことのない顔だった。驚きでも興奮でもない。もっと深いところで何かが動いているような、そういう顔だ。

 セラが呟くように言った。

 

「……神様かもしれない」

「いや、それは……」

「本当に、神様がいるかもしれない」

 

 今度ははっきりと言った。声が少し震えていた。

 すかさず、わたしは首を横に振った。

 

「それはわかりません」

「で、でも!」

「わからないんです、セラ」

 

 わたしは言葉を選びながら続けた。

 

「式が示しているのは、基準座標ゼロに何らかの実在がある可能性です。その実在が何なのか、どういう性質を持つのか、式はまだそこまで言っていない。それがエクシフの宗教で呼ぶところの神なのか、まったく別の何かなのか、あるいはまったく想定外の物理的現象なのか。今のわたしには区別がつかない」

「でも可能性はあるじゃないですか」

「……ゼロとは言えません」

 

 正直に答えた。セラの目が、また動いた。

 セラはしばらく考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。

 

「……先生がいなかったら、ここまで来られなかったです。だから、先生の言うことを聞きます。でも、もしも本当に神様の姿を見られるかもしれないなら……」

 

 一拍置いてから、セラは言った。

 

「……見てみたいんです」

 

 その声の静けさに、わたしは思わず押し黙った。懇願ではなかった。主張でもなかった。ただ、揺るぎなかった。長い時間をかけてここまで来た人間の、信仰の芯だった。

 反論の言葉はある。神と決まったわけではない、そう言うことはできた。

 しかし今のセラの前でその言葉を重ねることが、わたしにはできなかった。論理の問題ではない。

 

「……とにかく、ダメです」

 

 わたしははっきり言った。

 

「帰路の項を展開して、観測時の挙動を確かめてから。基準座標ゼロにある対応物が何なのかを、せめて輪郭だけでも掴んでから。それまでガルビトリウムは起動しません。何者かわからないものの前に、あなたを無防備に立たせるわけにはいきませんから」

 

 セラはわたしを見ていた。その目に反論の色はなかった。ただ、静かに聞いていた。

 やがてゆっくりと、頷いた。

 

「……わかりました」

 

 承服しているわけではないのかもしれない。しかし従う、ということだった。

 

「コーヒー、淹れますね」

 

 セラは立ち上がって、流しの方へ歩いた。その背中を見ながら、わたしは机の上の証明に目を落とした。

 ……それが正しい判断だとわかっていた。それでも胸の中に、小さな焦りがあった。

 かくいうわたしも、扉の向こうが見てみたい。ゲマトロン数学を志して以来、ずっとそれだけを夢見ていたのだ。

 

 けれど、危険なことはさせられない。

 特にセラには。

 

 あとひとつだと思っていた場所で立ち止まることの重さが、じわじわとわたしの中に広がっていた。

 

 

 その夜、研究室に戻ったのは、忘れ物を取りに来たからだった。

 廊下の端まで来たとき、ドアの隙間から光が漏れているのに気づいた。消し忘れか、と思った。しかし違った。

 

 光の色が、おかしかった。

 

 蛍光灯の白ではない。金色がかった、脈打つような光だった。わたしは足を速めた。ドアを開けた。

 セラがガルビトリウムの前に立っていた。

 

「……セラ!」

 

 わたしの声に、セラは振り向かなかった。

 装置はすでに起動していた。入力パラメータが走り、観測関数が展開している。わたしたちの作ったガルビトリウムが、証明の完成した『一つにして無数』の式を、今まさに処理していた。

 

「セラ、止めなさい、今すぐに……」

「ごめんなさい、先生」

 

 わたしに詫びるセラの声は、場違いなほどに穏やかだった。振り向かないまま、静かに言った。

 

「本当に、ごめんなさい。でも、待てなかったんです」

 

 わたしは装置を停止させようと手を伸ばした。しかし指が届く前に、空間が変わった。

 変わった、としか言いようがなかった。

 視覚ではなかった。色が変わったわけでも、音がしたわけでもない。もっと根源的な何かが、変わった。皮膚の下で、骨の奥で、存在の輪郭が何かに触れた、という感覚だった。

 

 

 やがて、()()が現れた。

 

 

 言語にならない、形容できない。大きい、という言葉が意味を失うほど膨大で、この次元に収まりきらない情報量の何かが、ゲマトリア空間の零座標から引き裂くようにして現れた。

 まず知覚したのは黄金の光。稲妻に似ていたが、稲妻ではなかった。稲妻が一瞬の閃光なら、これは瞬き続ける不動光だ。脈打ち、広がり、収縮し、また広がる。光そのものが生きているようだった。

 その輝煌の中に、頭があった。

 ひとつではなかった。

 

 ……(ドラゴン)だ、とわたしは思った。

 黄金の稲妻を全身に湛えた、莫大な竜。頭が三つあり、それぞれが別の方向を向き、別の意志を持つように動いていた。茨のように刺々しく長い頸が伸び、収まりきらない巨体がゲマトリア空間の輪郭を押し広げながら、こちらの世界に現れようとしていた。

 

 目が合った、とわたしは感じた。

 

 頭の一つ、あるいは全部か、どちらかわからなかった。

 とにかくその瞬間、わたしの総身が凍りつくのを感じた。見られている、という感覚ではなかった。観測されている、という感覚。わたしの意味、わたしのゲマトリア数が、零座標の座標系に捕捉されていくような。

 

「あ……ああ……ああ……!」

 

 足が動かなかった。声が出なかった。

 この三年間、わたしはこの扉の向こうを見たかった。しかし今、実際に現れたものの前で、わたしの望んでいたものは全て音もなく崩れた。

 

 怪物だ。

 

 ゲマトロン数学の最果て、ゲマトリア空間の基準座標ゼロに潜んでいたもの。

 実際にわたしたちの目の前に現れたそれは、『怪物』と呼ぶ以外の表現が出てこなかった。

 

「…………。」

 

 セラは動かなかった。

 黄金の光の中に立ったまま微動だにせず、ただ怪物を見つめていた。

 金色の怪物を前にして、セラは怯えていなかった。全身の力が抜けたように、しかし倒れるのではなく、ただ静かにそこにいた。

 やがて口を開いた。

 

「……ギドラ」

 

 呼びかけるような声だった。

 祈りに似ていたが、祈りよりもっと親しい声だった。愛しい恋人、いやもっと大切なものの名を呼ぶような、あるいは長い旅の果てにようやく見知った顔を見つけたような。

 セラはその怪物のことをギドラと呼んだ。

 

「ギドラ! ああ、なんて綺麗な神様……!」

 

 囁きが、溢れ出した。

 黄金の光が強くなった。怪物の頭が、ゆっくりとセラの方を向いた。全てが、セラを向いた。

 

「……セラ!」

 

 ようやく声が出た。しかし足は動かなかった。

 光がセラを包んだ。ギドラから放たれる黄金の稲妻がセラの輪郭を縁取り、溶かし、包み込んでいくのが見えた。  セラはそのとき初めてわたしの方を振り向いた。

 

 その表情には、恐怖がなかった。

 

 ……この期に及んでもなお、セラの様子は穏やかだった。長い時間をかけてたどり着いた場所に、今ようやく立っている人間の顔だ。

 

「先生……」

「セラ!」

 

 わたしはセラの名を呼びながら手を伸ばした。恐怖で固まっていた体がようやく動いた。さっきまで一歩も動けなかった足が、今は理由を考える前に動いた。

 しかし遅すぎた。指先が光の縁に触れた瞬間、熱でも冷たさでもない何かが手の甲を打って、わたしは弾き返された。

 

「さようなら、先生」

 

 そう告げると同時にゲマトリア空間の裂け目が閉じ、光が収束した。

 

 

 ……気がつくと、黄金の光もギドラも消えていた。

 ガルビトリウムを見ると、入力されていた観測関数がゼロに戻り、装置は静かに停止していた。

 研究室は元の研究室に戻っていた。蛍光灯の白い光、机の上の論文、壁に貼られた数式、窓の外の街の輪郭……何も変わっていない。

 何一つ、変わっていない。ついさっきまでと寸分違わない部屋が、そこにあった。

 

 ただ、セラだけがいなかった。

 

 わたしは伸ばした手をそのままに、セラが立っていた場所を呆然と見つめていた。そこには何もなかった。焦げ跡も、影も、靴跡も、黄金の光の痕跡すら残っていない。セラがここにいたことを示すものは何もなかった。

 

 振り返ると、机の端にトートバッグが置いてあった。

 セラのものだった。いつも肩から提げているあのバッグが、セラが消える前に置いていったのか、あるいは置き去りにされたのか、椅子の背にかかっていた。

 わたしはそのバッグをそっと手に取った。いつも重そうに肩から提げていたのに、中身はノートが数冊あるだけだった。わたしはバッグを胸の前で抱えて、もう一度セラが立っていた場所を見た。

 

 セラは消えてしまった。

 

 研究室の時計が、静かに時を刻んでいた。




タイトルは数学の未解決問題のひとつ、「コラッツ予想」から。

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