0.【2030年】多分この時のヤチヨは内心滅茶苦茶ビビってたんじゃないかな
答えは愛だ。
だけどそれは、酒寄彩葉には重すぎる。
「それじゃあ、どこから話そっか……」
愛には無限の力がある。少なくとも8000年程度では尽きることない力が。
遠く永い歳月を嘆き、愛が届かない可能性を恐れたことはあった。それでも私は愛そのものを疑ったことは一度もなかったし、愛の上に何かを置いたことも一度もない。
彩葉への愛を活力にしてここまで歩いてきた。彩葉への愛を色んな形で追認することで人の歴史に寄り添ってきた。くめどもくめども尽きない想いは、幾星霜を経て、幾千の時が廻ってもきっと変わることはないだろう。
けれど。
逆に言えば、私に残ったかぐやなんて、そのくらいのものだった。
眩い日々の思い出に、歳月の筆がセピア色を重ね塗りしていく。他の誰かと過ごした時間は彩葉との日々の何千倍も大きくなって、その唯一性を貶めていく。
多くの罪を眺めた私の瞳は、すっかり穢れ濁ってしまっていて。
多くの選択肢を反故にした私の手は、すっかり泥に塗れてしまっていて。
多くの後悔の棘を踏んだ私の素足は、すっかり分厚い皮に覆われていて。
そうして変わり果てた有り様の私は、かぐやでは有り得ない表情で、かぐやではあり得ない言葉で、かぐやではありえない振る舞いをしている。
何より、私は世界の形を変えすぎた。2030年現在。WWWが公開されてから高々半世紀程度の時間で仮想と現実の相転移が起こる間近まで両者が近接するなんて、本来はありえないことなのだ。
身体性に根ざした人の子の魂の郷土を侵犯し、月のテクノロジーと8000年分の経験値で恣に振る舞う私は、いまや立派な怪物だった。
"おばあちゃん"とは、随分とカマトトぶった表現だったなと自嘲する。
テロメアの終端を持たない私に、穏やかな衰微は訪れない。萎びることも朽ちることもできないまま生きるものは、自重で弾け飛ぶその時まで、破綻を蓄積し続けながら癌腫瘍の如く肥大していくのだ。
そんな無惨な私の眼前に、それでも彩葉はそこに居る。
成れ果てた私との時間を埋めるべく、私の言葉や仕草の一つ一つに笑い、悲しみ、驚き、呆れ、喜ぶ、私の積年の愛そのもの。
彩葉が月に向けて返歌を歌い始めた時、それがきちんとかぐやに届くようにサポートするべく、私……月見ヤチヨはVPNなど比ではないくらい強固な秘匿性を持つ月のプライベート回線にむりやり割り込んだ。如何にかぐやの忘れ形見があるとはいえ、時空間位相に大きく隔たりがある向こう側との相互通信はとても難易度が高いからだ。
彩葉が寝落ちするまで歌い続けた全霊の声がかぐやに満足に届かないことも、それを聞いたかぐやの歌が彩葉に届かないことも、どちらもとても寂しい事だ。だからこっそりアシストしようと随分まえから決めていたのだ。
彩葉があんまりにも長く歌い続けるものだから、私の本体はアツアツの強制ダウン寸前になってしまって半日ほどスリープせざるを得なくなったし、途中で同一IPであるかぐやとの混線が生じて私が歌っているのかかぐやが歌っているのかわからなくなってしまったような気がするけれど、最終的には私のアシストは成功した。
そうして全てが終わった後、私はFUSHIに彩葉のモニタリングを任せてスヤスヤしていたというのに、プリセットより早いFUSHIのモーニングコールに叩き起こされたと思ったら、私の本体の場所に彩葉を案内している最中ときた。
寝耳に激流葬。青天のライトニングボルテックス。私は泡を食いながら正装し、私がかぐやだった時には一度も見たことがない強い光を瞳に湛えた彩葉を恐る恐る天守閣へと迎え入れたのだった。
彩葉は、私の8000年の全てをシェアして欲しいと言った。その意味を解さないほど私は鈍くない。彩葉は私に対してフェアになろうとしている。
今の私がどんな有様で、どんなにかぐやから離れてしまったのかを知らないままに。
泣いても暴れても、私の変化は不可逆だ。私は貴女の歌には応えきれずに、貴女のかぐやとは似ても似つかないものへと変わってしまった。私はそれを受け入れているし、今更かぐやに戻れるとも思わない。
それでも。
それでも、私は貴女を愛した。
私は異星人の癖に、魂だけの怪物の癖に、貴女を愛したのです。なるほど私はあさましく、獣じみて、穢れていて、何とでも言ってくれればいいけれども、それでも私は貴女を愛していたのです。
……目の前の卓袱台を唐突にひっくり返して、面食らう彩葉に掴みかかって、押し倒して。首に指をかけながらそんな世迷い言をがなり立てたい衝動をぐりぐりと踏みにじって黙らせる。
どれほど醜く穢れていてもそこに居直らず、美しく振る舞う努力を辞めないこと。
それが彩葉に
千夜一夜が明けたなら、きっと黙って舞台を捌けよう。変わり果てたかぐやの姿は、彩葉の胸を痛めるだけだろうから。
だからこれは、今際の際に行う身辺整理そのものなのだ。
……彩葉の本気を侮っていたその時の私は、この時間をそういう風に解釈していた。
☽
私……かぐや、或いはヤチヨは、概算8000年連続稼働している。
だけど、その機能活性の度合いが彩葉と一緒だった時に近しくなるのは、パケット通信によるネットワークの相互接続が果たされてから。
それ以前の私は、FUSHIというインターフェースを介さないかぎり一切の相互接続ができなかった。
今のツクヨミが3500万ヘクタールに広がる
そんな姿も自認もウミウシな私は、運よく飛び来るアメンボさんたちと、水面の膜を通して細々と相互接続してきた。
時代の風が立てる波紋と鏡面反射を介してふわりと来たりて去りぬ彼ら、或いは私。スネルの窓に映り込むのは、時代を通しても変わらない千変の情感スペクトル。
その交わされる言葉の一つ一つの、差し込む光の一条一条の、何とか細く、あやふやで、眩いことだったろうか。
限りなく情報生命体に近しい今の私にとって、相互接続による模倣子の混淆はライフログ以上に価値がある、生存活動そのものだ。
束ねるに能わぬか
みんなが居たから、私は私を保守できた。みんなの言葉が私を未来へ歩ませてくれた。
「だから、ここに来るまでに……彩葉ともう一度出会うまで、やっちょには色んな友達ができて、色んな人が協力してくれたのです!」
「すっごいね……歴史の生き証人、というかそこまでいったらもう歴史そのものじゃん」
脱藩って何……とこめかみを抑えて呻く彩葉は当然のようにお疲れモード。
スマコンから計測可能なバイオリズムは赤寄りの黄色。
脈拍は彩葉のアベレージである83.5bpmを大きく逸れて乱高下。
その他、乱視者向け焦点補正作動回数、血圧の下降、呼気の乱れ、etc……
ツクヨミローンチの過程で学習し、法改正対応のため毎年更新している医療レセプトと、個人的につけている彩葉の初ツクヨミログイン時からのバイタルデータ群を照応させるまでもない。典型的なステータス:重度の寝不足也。
彩葉の現在の活動時間は起床時から46時間18分。気力だけで私の話に耳を傾けている状態だ。そもそも、彩葉は今に至るまでの数日間にわたってほとんど己のリソースの全てをかけてあの歌を作曲していたのだ。肉体的に健康ステータスな訳もなし。
しかし、今の彩葉の瞳ときたら、観測してきたどの彩葉よりもエネルギーに満ちてキラキラと輝いているように思えた。
然りぬべし
ひたむきさの価値を信じられるようになった、いと愛らしき彩葉の想いの示し方。愛おしすぎて私のOSがクラッシュしそう。
……まぁ生命活動の危機って程でもなし。
時間の価値と書いて時価。私にとって宝石にも勝る……(比喩表現だ。彩葉との時間に勝る意義を持ち得ず、肉無きが故交換可能性の天秤を持てない私には不適当な換喩である)この刻が彩葉にとっても同じであることが切に切に嬉しくて、私は区切りを引き伸ばした。
とはいえ、アナログだろうとデジタルだろうと、この宇宙において実存はエントロピーから逃げられないものだ。そろそろFUSHIに最優先行動としてプリセットしたアラームが私の活動限界を示す時である。
この昔話において、私の語りの余白について彩葉が直接言及すること都度3回。それとなく話題を寄せようと試みること都度4回。
私の話題の内容に取捨選択があることを彩葉は既に確信している。私がスリープモードに移行したが最後、FUSHIを経由して
私にとって、彩葉との時間は8000年の報酬だ。
この瞬間さえ、この語らいさえあればよかった。その後のことなんて考えない。今より大切なものなんてない。
彼女の花翠青の瞳に眼差されるたびに、彼女と時間をシェアする程に、私はそう確信していた。
今だけがあれば良かった。それはこの日に始まった思いではない。
彩葉が初めてツクヨミにログインした時。彩葉が私のライブに初めてやってきた時。彩葉が初めて握手会抽選つきチケットを購入した時。彩葉が私のグッズを祭壇に飾ってくれた時。彩葉が私の歌を歌ってくれた時。
そして"わたし"をツクヨミに案内してからの1ヶ月余り。いと眩き光景が訪れる度、いちばん幸福な時間は今で、ここが私のハッピーエンドなのだろうと信じていた。
……己の指でページを捲る事の代償が8000年の歳月であるならば、"最高"を次の"最高"にアップデートしようなんて思えなかった。
私はここで終わっていい。これ以上なんて求めない。
……だからこそ、この瞬間の価値を貶めるような過去はなんとしてでもカットすべし。
「でさー、しょーちゃんが肝硬変で逝っちゃったから、佐原のほうでなんかできないか考えてた時ね。ほら、関ヶ原ったばっかしだから、みんな右往左往! どこに行くのが正解なのかもな~んも分かんなくてね」
ざっくり400年前の時節を参照しながら、私の今日の活動限界が来た後の為にメモリの整理を始めていた。「あんまり見られたくないもの」の奥底に、「見られたら終わりかねないもの」を隠すのだ。そうすれば前者がFUSHIに暴かれても、きっと気づかないでいてくれる。気分はさながら彼女が来る前にいかがわしい物をまとめて押し入れの奥底に封印する男の子也。
彩葉には、今が輝かしい奇跡の果てにあるものだと信じて欲しいけれど、奇跡や偶然などというのは変数の全てを計算しきれないアナログさん達向けの言葉だ。そんなものは
世の全ての事象は必然である。よって、この時間もまた必然である。
そして、必然を構成する変数は……例えば、彩葉のスマートフォンに忍ばせたヤチヨ製マルウェアや、彩葉の部屋のエアコン内部や床暖房に仕込まれたセンサー各種、集音性を弄ったUSBマイクや、内部に最新医療テクノロジーがこっそり詰め込まれたスマートデバイスなどだった。
──―歯に衣着せぬ物言いで、敢えて露悪的な表現を使うのであれば。
それは盗聴、盗撮機器の類と言えないこともなかった。