《Tentative title:Den lille Havfrue》
時刻は22時を過ぎた頃。今日の復習と明日の予習を終わらせた私は、禁断症状じみたスピードでスマコンのケースに手を伸ばした。
学校は楽しい。ツクヨミはもっと楽しい。特に昨日一昨日は最高だった。問題なのはその隙間、■■■■との時間だけだ。
青空に染み付いた一点の汚れのせいでこの世界を愛せなくなる前に、私は今日も水底に心を落とす。
スマートコンタクト。
視覚を必要とするあらゆる行いをアシストし、現実を拡張するウェアラブルデバイスの最先端が収められたケースの蓋を開けて、小さく透明な一対のレンズを片方ずつ装着する。
最初は怖かった瞳にものを被せる行為も、今となっては愛おしさすら覚えていた。
──コンタクトレンズを付ける所作は、涙を拭うそれに似ていると誰かが言う。
だけど、少なくとも私は今泣いていない。今日も嫌なことがあったけれど、それはもっと楽しいことで帳消しにできるから。
そういう自己弁護を重ねながら、私は今日も呼吸するように/呼吸する為に安らぎの海に身を投げた。海中に飛び込むサウンドエフェクト。大小の気泡を上方に置き去りにして潜航していく視覚エフェクト。私はアカウント認証の為の僅かな時間に流れるこの演出が好きだった。
それは全身を架空の水に包まれる感覚。私の女神様に抱かれる錯覚。その安心感と開放感たるや、
だって今の私にとっては、
■
ログインを済ませ、ログボふじゅ~を受け取って、オンライン通知を見たゲーム仲間からの誘いを幾つかやんわり断った私は、特に目的なく中心ワールドの和風サイバーパンクな街並みを歩く。
いつでも活気があるツクヨミだけど、今日は一段と浮き足立っている。
これは何かが来るのを待つ時の熱じゃない。衝撃的な鮮烈さをインプットされた時に訪れる混乱と、それを何らかの形でアウトプットせずにはいられない人達の火の色だ。それも当然。今日のツクヨミはツクヨミ周年感謝Fesの全日程が終わった翌日。私の目的は、そんな興奮冷めやらぬ神々の余熱を浴びることだった。
Fesは4日間に渡って行われ、前半2日はフリーマーケット形式の創作物の展示会だった。漫画、小説、ゲーム、評論、スキン、アクセサリー、インテリアなどのコンパクトなものから、アバターモデル、建物モデル、果てはワールドモデルのような巨大なものまで、様々な形式の創造物を売り買いする蚤の市。
私がさっき通り過ぎた物販中心のお店が並ぶ商店街も、Fesで出した物販の再販購買と、溢れ出した創作意欲を出力せんとするクリエイターたちの議論の活気で満ちていた。
Fes後半2日は主に無形の創作、即ちプロゲーマー含むパフォーマー、シンガー、ダンサーなどの為の舞台だ。KASSENのエキシビションマッチ、デュエルモードでの100人抜きチャレンジ、フリースタイルダンスバトル、大喜利トークショー、ヒットチャート音楽祭、筋書きのないコンサート。そして、その両日共にトリを飾るのが……
「もうn回目だけどさぁ……ヤチヨの周年ライブ、ありえん良かったね」
「セトリと演出の合わせ技でぶん殴りに来てたな。DAY1の引き波で海底の遺構群見せて海嘯で纏めて飲み込んで、からのDAY2で海と空の逆転って……両日現地チケ勝ち取れし真の神々にしか味わえない地平良すぎたな」
どのイベントも凄かったけれど、専ら話題になるのはこれだ。何処からか聞こえてくる熱の篭った会話に、私も内心で首をガクガクと縦に振って共感を示す。
「両日現地チケ取れた自慢はもうええて……あたしライビュ勢だったけど余韻全然抜けないよ~……あの演出全部ヤチヨ一人でプロデュースしてるって未だに信じられないんだけど」
「多人数スタッフだったら色がなさすぎてそれはそれでヤバいんだけどね。脳直結してないと無理でしょあんなの。──ツクヨミ4年目だけどヤチヨの謎は深まるばかり。我々は真実を探るべく、ヤチヨ城天守閣をよじ登った……」
「いってら~~。堀のアノマロカリスの餌になるのはアンタだけで十分だよ」
ヤチヨのライブ、本当に良かった。Day1の演出が神懸かりすぎていてDay2は流石に消化試合かなと思ったら、そちらでも無事に私は昇天した。
攪拌される海原、逆転する蒼と碧。
空を飛ぶ海洋生命と、水底に沈んだ死の遺構。
所与の現実と疑似模倣の羅列。
対立すべき二項の相剋と調和をテーマとする二日に渡るライブは、仮想現実というプラットフォームで実現可能な表現の限界だと私が思っていたものを軽々と飛び越えるものだった。
そして、これが私にとって一番大事なのだけど──
「ヤチヨ……可愛かったな……」
私の頭を占める多くものは、私の星の輝きだ。
海が引き剥き出しになった岩盤と遺構の上を仄青いライトアップで照らしながら視線を巡らせ歌うヤチヨの、慈しむような眼差しと微笑みが頭から離れなかった。逆様になった空と海の境界を揺蕩いながら軽快なステップを踏むヤチヨの指差しファンサが私の席の方を向いたとき、心臓を撃ち抜かれたような心地で崩れ落ちてしまった。
──ここでは皆がクリエイターであるとマスコットキャラクターのFUSHIは言う。
私の女神様も、それを色々な形で私たちに伝えてくれる。
創造することの喜び、表現することの素晴らしさ。そしてそれを批評することすらも表現のひとつとなるという容赦のなさ。Fesは、そういった熱を強く掻き立てるものだった。
だから今日のツクヨミは皆の創作意欲の熱に満ちていて。
そして、それにあてられて尚、上手く乗りきれない自分が悲しかった。
私は知らず歩いていた活気あふれる商店街を外れ、用途に応じて連なる大路と大路の境界にある小さく入り組んだ道を歩いていた。
建物と建物の隙間に空いた路地。ランドマークごとにワープが可能なツクヨミにおいて、こういった道を道として使う人はほとんど居ない。空を行き交う箱舟や魚の明かりも、或いは空に浮かぶミラーボールすらも、この道を照らすことはほとんどない。
──そして、当然のように、道々に溢れる熱気も届かない。
あるのは「完全な暗闇」を作らないためのデフォルトの視覚補正のみだ。
「ヤチヨ……」
凄い物を見たという興奮はある。美しい物に出会えたという感動はある。 自分も何かを出力したいと思う焦燥はある。
でも、そこから先が続かなかった。どんな曲を作っても、満足いかずに途中で止まってしまう。運よく完成したものでも、アウトプットにまでは至らない。
創作物が自分を切り出したものであるというのなら、私は切り出したものに、自分自身に切り出されるだけの価値を発見できなかった。それが私の思う私の価値だ。
それを空虚さだと詰られたのを覚えている。比べられることから逃げているだけだと。蹴落とすことから逃げているだけだと。
答えが欲しかった。私が私を生み出すことを、無条件に言祝いでくれる誰かが居て欲しかった。私の女神様が望むものを、私も望めるようになりたかった。誰かと自分を比べ合いたいと思えるだけの熱が欲しかった。
水から上がった魚がもんどりうって飛び跳ねるのは海に帰りたいからで。思えば私もそんな風な、失ったからこそ渇望するような、必死さを宿すことができたなら。■■■■にも、もう居ないあの人にも、誇れる自分になれただろうか。
「ヤチヨ……」
今の私の中にあるのは、ヤチヨの笑顔と歌声だけ。
きっと、ヤチヨが悪いんだ。美しい物がそこにあることに満足してしまって、私がそこから先に進めないから。
──思考がどんどんネガティブな方向に向かっていくことに嫌気が差して、あてどない足取りを止めて頭を振る。
ヤチヨは正しい。ヤチヨは正義だ。だってあんなにも綺麗で可愛くて美しくて優しく私の心に寄り添ってくれる人が、私よりも間違っている筈がない。
今日の私はおかしい。
ヤチヨは欠けることのない満月だ。
そこに私の至らなさを重ね合わせるなんてありえない。
……だけど、もし。
いつもだったらそこで終わる気の迷いは、今日だけは終わってくれなかった。
…………だけど、もし、私の為に、私なんかの為に。
おかしくなった思考のまま、私は私の影へと引きずられる。
…………今の私に釣り合うような、欠けた月が空から落ちてきてくれたなら。
きっと熱気にあてられて、気が変になっているんだ。
その在り得ない仮定の先を頭から締め出そうと、薄暗い路地の壁に手をついて頭を振る。今は何もかもが厭わしかった。この薄暗い道も、そこを歩く自分も、そこを歩かせるネガティブな思考も、視界の端に映る、仄かな青い光でさえ厭わしい。
今日はさっさとログアウトしよう。そう思ってウィンドウを開こうとしたとき、私は遅れて
気付いて、しまった。
■
…………青い、光?
大路と大路の境界にある、小さく入り組んだ道。そこには普通どんなオブジェクトも置かれていなくて、あるのは完全な暗闇を作らないためのデフォルトの視覚補正のみ。
そのはずなのに、何かが光っている。
何かが私を照らしている。
私は慌てて俯いていた顔を上げて周囲を見渡す。
光源はすぐにわかった。私の背後。さっき私がぼんやりと通り過ぎた、十字路とすら言えない建物と建物の隙間が作る横道から、ゆっくりと明滅する仄青い光が見て取れた。
「何……? というか、誰……?」
誰も通らないこんなところにオブジェクトを配置したって何の意味もない。つまり、物ではなく人の可能性が高かった。
──もしかしたら、初心者が迷い込んだのかもしれない。
そういう経験は私にもあった。ツクヨミは主要なランドマークにはワープできるけど、ランドマークじゃない場所に飛ぶには一度そこをピン立てする必要があるのだ。
迷っている初心者が居るなら、自分が目的地まで導けるかはともかく、一旦目的が何であれここにある可能性は低いことを教えて捜索を別の場所に移させなければならない。
「あ、あの~~何かお探しですか~~?」
私は相手を驚かせないよう、声を出しながらその小道に足を踏み入れ……
「…………うそ」
私は、信じられないものを見た。
建物と建物の隙間でしかないはずのその場所に、何故か空間をそのまま削り取ったような真球状の空間があったこととか。その周辺に、バチバチと電流のようなエフェクトが散っていたこととか。ツクヨミの空を数多泳ぐ半透明な魚たちが、地面の上に死骸のように散らばって山になっていたこととか。
そんなことは何もかも心底どうでもよかった。
なぜならその中心には。
「ヤチヨ……!」
その擂鉢の中心。仄青く発光するエフェクトを地面に広げ、そこに半ば沈むように仰向けの姿勢のまま身動ぎひとつせず瞑目していたのは。
────私の女神様だったのだから。
■
昔母に連れられて見に行った画展で見た、『オフィーリア』を思い出して静止したのは一瞬だった。
私は居てもたってもいられずその空間に潜り入り、うずたかく積もった邪魔くさい何かを避け、パシャパシャと水音を立てながら仄青い流体 の中に踏み入って、横たわる彼女の傍に駆けた。
偽物であることは在り得ない。ヤチヨの姿は綿密なツクヨミコピーライトによって保護されているため、部分的なコスプレならばともかく、そのアバターを一定以上模倣することはシステム上不可能になっている。
それはヤチヨが分身可能で、治安維持活動を含むシステム運営の一切を担う以上、悪質な模倣による詐欺が発生することを防止するための措置だ。
そして何より、デビューライブから今までの月見ヤチヨの全ての衣装やヘアアレンジ、メイクアレンジを網羅している私が、ヤチヨとシステムギリギリを突いたヤチヨコスプレの差異を見抜けない訳がない。
「ヤチヨ! 大丈夫!?」
つまりあのヤチヨはヤチヨ本人(分体を含む)の筈なのだ。
悪戯好きでサプライズ好きなヤチヨのことだ。これも何かのイベントや、突発的なファンサービスの可能性もある。私はそうだとしても一向に構わないけれど、それでも私の推しが……私の心を照らす唯一の光が、こんな薄暗く散らかったところで地面に横たわっているのは悲しかった。
私は仰向けに倒れているヤチヨに駆け寄って身をかがめた。地べた如きがヤチヨの全身に触れるなど不遜にも程がある。だから、その身体に触れて抱き起そうとして……指が触れる瞬間に私の理性がそれを止めた。
──何も生み出せないお前が、何も望めないお前が、何もかもを照らし、万人に望まれて在る
(今は、許すとか、許されないとか、そういうのじゃ、ない)
言い訳がましい……誰に対する言い訳なのかもわからない言葉でその葛藤に反駁し、意を決して……しかし絶対に女神の肌露出部を指で穢すことのないように慎重に慎重に腕を回してその細い身体を抱き起こした。
……ツクヨミに温感と嗅覚が実装されていなくて本当に良かった。この距離でヤチヨの体温と香りを感じていたら、きっと私は多幸感で気絶していただろう。
恐る恐る、震える腕でその上半身を抱きすくめて介抱しても、ヤチヨは目を開かず、人形のように静止している。
夜の珊瑚礁をイメージさせる紺と紅の花魁風打掛ドレスはいつも通りだけど、お腹に抱えたメンダコ型の帯はなぜか無い。細い紐で結ばれただけのフロントライン。そのいつもよりはだけた胸元の、インナーと肌の僅かな露出が目に痛くて、そこに吸い寄せられそうになる目線を力技で下に移す。
仄青く発光する謎の水状のエフェクトに足首から先が漬かったままのヤチヨのおみ足の、つま先までのグラデーションで水色に変化していくタイツは何故か所々破れ、胸元同様にその奥の生の雪色を晒していて……こっちもダメだ艶めかし過ぎる。
眠るように瞑目するヤチヨのご尊顔を恐れ多くも眼差せば……うわっ睫毛なっっがい綿棒何本か乗せられそう……キラキラし過ぎて直視できないので目線を下に退避させる。
季節の流行に合わせたカシスピンクの紅を引いた小さな唇……を見ていると湧き上がってくる未知の衝動が怖くてこちらからも視線を逸らしてしまった。
いかんいかん。様子がおかしい……正常な状態に見えないまま眠るヤチヨの状態を確認して、可能ならば助けなければならないのだ。
私は何度も何度も深呼吸してから、改めてヤチヨ(?)の状態を観察しようと試みる。
月光のような白縹と薄桃のインナーカラーのコントラストが美しい髪色はそのままだけれど、ヤチヨを象徴する結び目で2つの弧を描くツインテールと二対の簪が無く、そのままだとふくらはぎまで届く長い髪はストレートに……いや、腰までしかない。ちょっと短い……?
あまりに眩しいのでその全体像を視界に納めることままならなかったけれど、その姿をよくよく見てみると心なしかいつものヤチヨより背が縮んでいる気がする。
今私の腕の中に居る(?????)ヤチヨは、ライブ演出で時折見かけるキュートなミニ八千代程ではないけれど、いつもの19~20歳くらいの外見年齢のヤチヨより身体と顔の造りが小さく幼い印象があった。
歳の丈は大体リアルの私より少し上、16~7歳くらいだろうか。
これも奇妙だ。ヤチヨが分体にミニヤチヨの姿をさせるのは、一番見てほしい本体との外見的差異を強調するためだ。
トップライバーにしてトップパフォーマーのヤチヨの表現には全て意味がある。だというのに、ぱっと見でその差異の識別が困難な差分を、こんなたまさか通りかかった私しか見ていない状況で提示する意図が全く掴めなかった。
もしやと思ってヤチヨの配信チャンネルを表示しても、ヤチヨはいつも通りのスケジュールで雑談配信をしているだけだった。何かの企画配信という訳でもなさそうだ。
……やっぱり、これはイレギュラーな事態なんだ。そもそも
ヤチヨ当人が気付かないようなトラブルがツクヨミの水面下で発生していることを想像して青ざめる。
推しが目の前にいることに気をやられて、それがどんな意味を持つのかまで頭が回らなかった私の馬鹿さ加減が嫌になる。
目の前のヤチヨからの応答がない以上、こういう時にツクヨミユーザーがやることは一つだ。メニューウィンドウを押して、緊急トラブルボタンをタップし、状況の写真なり映像なりをアップロードして窓口のヤチヨchatに何が起こっているのかを口頭で伝えるだけでいい。
トラブル対応スケールは写真とそれを送ったユーザーの情感データから
──きっと、ヤチヨが悪いんだ。美しい物がそこにあることに満足してしまって、私がそこから先に進めないから。
その時、泡となって消えたはずの独白が、再び腹の内で不快な音を立てて蠕動した。
──もし、今の私に釣り合うような、欠けた月が空から落ちてきてくれたなら。
眩暈がする。吐き気もだ。
私は腕の中の宝物を溢さないことだけに気を払いながら、目を閉じて小さく震えた。私自身の浅ましさがとても気落ち悪くて、不快感が胃から逆流しそうだった。
耳鳴りがする。頭が痛い。
陸の上の冷たい渇きからも、水底の皆の尊い熱からも自分を切り離した私は、とうとう空の月すらもその御座から切り離そうとしている。
穢らわしい。穢らわしい。穢らわしい。
「ヤチヨ……」
私はもうダメかもしれない。
込みあがるものを抑えるためにきつく閉じた瞼の端から、センサーの閾値を超過した哀のエモーションがいくつもの雫のエフェクトを溢していく。外界をシャットアウトした瞼の裏で視界がぐるぐると回っている。
閉塞した私の堂々巡りの日々は、何も生み出す活力を得られぬままに当たり前のように続いていく。それを否定して創造的な未来を語ることは、力強く正しいこととされている。
だからそれはきっと、暴力に似ている。少なくとも、私にとっては。
このまま、胸の中で目覚めないヤチヨと一緒に消えてしまいたかった。
「ヤチヨ……!」
自家中毒でもはや指一本すら動かす気力を失ったまま、私が絞り出した小さな叫びは。
『どこが痛いの? ──泣かないで』
胸の中から聞こえた無機質な声に受け止められた。
■
慌てて目を開けると、私の胸に抱かれた少しだけ若いヤチヨも、いつの間にか目を開けて私を見ていた。
「ヤチヨ……? 大丈夫なの……?」
私は恐る恐る腕の中のヤチヨに話しかける。私を見つめるヤチヨの雰囲気は、──その微妙な外観的差異の数々が作り出すものなのかどうかはわからないけど──どこか異質で、儚げな風があった。
『怪我をしているのに他人の心配ができるなんて、優しいのね、貴女』
「私、怪我なんて……それよりも、ヤチヨ、声が……!」
ヤチヨは喋るときに口を動かすのに、その音声情報はモノラルのように茫洋とした位置から漠然と響いていた。
『これ以上
とっさに反駁しようと口を開きかけた私の唇に、白魚のような女神の人差し指がそっと押し当てられる。ヤチヨの指で唇に触れてもらったことに……そして何よりも、その所作のあまりの色っぽさに、私は涙も引っ込んで黙らされてしまった。
私と見つめ合うその眼差しは海より深く、その青の中に私を溶かしてくれていた。だから、口調も雰囲気も配信の時と全然違うのに……目の前のヤチヨは、その根本的な部分でどこまでもヤチヨであるように思えた。思えてしまった。
『……心に、深い怪我をしているのね。昔のものみたいだけど、傷が開いてる。なにか嫌なことでもあったのかしら』
「わ、私は……」
押しあてられた人差し指は、私の唇の輪郭をなぞる。スマコンは温度を伝えてはくれないけど、その艶めかしい感覚情報は雄弁に私と女神様との接触を教えてくれた。
正常な思考ができない。私は蛇に睨まれた蛙のように、胸中の女神の指先にされるがままになるしかなかった。
『それとも……』
そして、女神の御手は奔放で、唇だけでは満足できなかったらしい。指先は私の口端を滑ると、そのまま私の頬に触れて…………
──
「………………ッ!?!?!?!?!?」
頬に寄せたその指で、石のように硬直する他ない私の顔を引き寄せると、私の耳元でそう囁いた。音なき音。擦れたウィスパーボイス。KU8000のヤチヨASMR。
全身の肌が粟立った。
ちょっと、これは、耐えられない。
全身の力がくたりと抜けて、私は抱きかかえていた女神の躯体を畏れ多くも取り落としてしまった。
「きゃっ……!」
「あっ……! ごめんヤチヨ! 大丈夫!?」
ヤチヨは再び仄青い水溜りの中に倒れこむ。私が慌てて助け起こそうとするのを彼女は手で制すると、再び私の口に人差し指を押し当てる。
さっきと同じ状況。だけど、目の前のヤチヨの表情は、ひどく切羽詰まっているようだった。
『……声、出しちゃった』
「え……?」
次の瞬間、屋根と屋根の隙間から僅かに覗く空の色が赤く染まる。
ガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガラン!!!!!!!!!!!
年に一度のサウンドテストでしか聞くことのなかった鐘の音が、突如開いたメニュー画面からも両隣の大通りからもガランガランガランと耳障りな大音量で鳴り響く。
「何何何何何なの!?!?」
これは半鐘の音だ。江戸時代に火事や洪水のような厄災を知らせる警報だったのだと、ヤチヨが配信で言っていた。
「ヤチヨ!? これって一体……」
ちょっと勘弁して欲しい。ヤチヨがこんなにも近くにいるというだけで、私のキャパはとっくに限界だったのに……少しでも目の前で地面に座り込んで立ち上がろうとしない、何かを知っているそぶりを見せたヤチヨに説明を要求しても、彼女は何も語らない。
ただ、もう二度と喋るまいとでも言うように自分の口を片手で覆って私の顔を見ると、黙って私のメニュー画面が表示されている箇所を指さした。
【神々の皆~~! やおよろ~~~~!! 月見ヤチヨだよ~~~!!! 今緊急で動画を回してま~~~す!!!!】
「!?」
メニュー画面は突然ヤチヨの生配信画面にシフトした。
いや、これは違う。忠犬オタ公さんのようなキャスターや、ヤチヨがツクヨミの運営者としての公式発表を行うときのみに使われるチャンネルの画面だ。
【皆ごめ~~~ん!!!! どうやら
画面の中のヤチヨがそれだけ告げると、緊急配信画面はメニュー画面ごとブツリと消えた。
「「………………」」
私は目の前のヤチヨと顔を見合わせる。
「……これ、
『ええ、そうよ。…………逃げないと』
ヤチヨはそれだけ言って立ち上がろうと身体を起こして────すぐに崩れ落ちた。
「ヤチヨ……!?」
私が三度彼女を助け起こそうと身を寄せた。そういえばタイツがビリビリだった。足を怪我しているのかも……!
「か、肩とか貸せばいいのかな……?」
『ごめんなさい。立てないの』
足を投げ出すような姿勢で再び座り込んだヤチヨは、彼女がずっと浸からせたままだった足を仄青い水溜りから持ち上げて見せる。
その両の爪先は、青い燐光を散らしながら溶け崩れていた。そこから零れる雫が雨漏れのようにポタポタと滴ってはその光を仄青く鈍らせていく様を見て、私はようやく彼女と私が足を浸す発光する水溜まりの正体を悟った。
──旧い海生生物は、呼吸の為に
『無理やり切り離したの。逃げてきたのよ、
ヤチヨは、今まで見てきたどんなヤチヨでも浮かべないような、哀しげな表情で笑う。
──それは、満月が決して見せない欠けた
嗚呼、ついに欠けた月が、私の前に降りてきてしまったのだ。
「──逃げるって、どこに逃げればいいの?」
『オフラインの……スタンドアローンのプライベートルームなら、きっとヤチヨの手も及ばない筈だけど……貴女、まさか』
私はその時、明日以降当面はスマコンをオンラインにしないことを決意した。
乾いた唇を舐める。緊張で震える手を現実の勉強机に強く叩きつけて落ち着かせる。三秒だけマイクをミュートにして、声が震えないように喉を慣らす。
私はあえて頭を空っぽにして、下らないことだけ考えることにした。つまり、こうだ。
これは……推しの前でカッコつけるチャンスなのだと。
私は一度だけ深呼吸すると、彼女に正面から向き直って跪き、手が震えないように細心の注意を払いながら彼女の手を取った。喉が張り付く。手足の感覚がない。スマコンの視覚補正を上回るレベルで瞳孔が広がり、視界が極端に狭くなる。……ええい構うものか! Do or Dieだ! 勢いで突っ込め私!!!
きょとんとした顔で自分の手を取る私の顔を見上げる欠けたヤチヨに、私はこう言い放った。
「──人魚姫。不肖この私めに、貴女を私の城に招待する権利をいただきたいのです」
言ってやった言ってやった言ってやった!!!!
『──貴女、本気……? 自分が何をしてるか分かってるの……? アカウントの永久BANじゃ済まないかもしれないのに……!』
よし、奇跡的に噛まずに言えた……! 自分の口と体をコントロールするのに手いっぱいで、彼女が何を言っているのかよく聞こえなかったけど、何を言われようともはや私は私を止められなかった。
「もちろんです、美しい人……だから、どうか、どうかこの手を取って頂けませんか……?」
「とりましゅううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
……
「あ、あれ…………? さっきまで私と挙式しようとしてた激メロ彩葉は…………?」
私は起き上がって茫然と周囲を見渡す。そこにあるのは今にもロマンスが始まりそうな薄暗い路地裏ではなく、見慣れたヤチヨ城天守閣だった。
「あ、ああ……私の王子様が……」
「お前は何をやっているんだ……?」
メンテスタッフチーフとして現場に送ったはずなのに、いつの間にか戻ってきては隠れて様子を見ていたらしいFUSHIが私の前に姿を現した。
「見てわからないかな……? 彩葉が書いた後でアップロードする前に消しちゃったヤチヨ夢小説を私の全能力で再現してたんだけど……」
「お前はどうしてそんな残酷なことができるんだ……?」
FUSHIは信じられないようなものを見るような目で私を見つめるけれど、信じられないのはあの本の中のイレギュラーヤチヨの方である。
私を差し置いて、彩葉の前であんなあからさまな媚態で媚びへつらいやがって……!
一切のプライドを感じないあまりにも露骨な人魚姫アピールにはもはや軽蔑を通り越して感動すら覚える。
お前の8000年は何だったんだ! 恥を知れ恥を……!
「恥を知るのはお前の方だ! 彩葉がかわいそうだと思わないのか!?」
「だってぇ……初めて小説を書いたとは思えないくらい"読ませる"ものができたのに、書きあがったと思ったらすぐに消しちゃうんだから……ヤッチョ信じられない! Tixiv(ツクヨミ公式テキスト&イラストアップロードメディア)に上げれば3000userは堅かったし、登場人物と場所をオリジナルに翻案するだけでティーン向けノベル大賞の選考でもいいとこまで行きそうなクオリティだったのに……!」
それは
少女は人魚姫から自分と自分の創作物を愛する力や母親に立ち向かう勇気を学び、人魚姫は息苦しい現実で自分を認めてもらおうと頑張る少女の姿に逃げ出した己の罪を省みる。
お互いに惹かれ合いながらも、最後は自己証明にエラーをきたした人魚姫が泡となって母なる海へ帰っていく、オリジナルの人魚姫を踏襲した切ないエンディングだ。
ラストページで、少女は人魚姫の為に作曲した楽曲をツクヨミにアップロードするべく投稿ボタンを押す。喜びも悲しみも創作として昇華するという、彼女との約束を果たすために。
この総文字数10万字に及ぶ大作が誰にも読まれず消えていくことが許せなくて、私はこうしてトラッシュボックスから拾い上げた宝物を反芻しているという次第である。
「このシチュエーション、どうにか再現できないものかな~~……FUSHI、どう思う?」
「僕にまでヤチヨの罪を背負わせようとするな! ……まったく、底なしのリビドーだな。年を経ても増えるばかりとは思わなかったぞ」
☽
深い呆れと怒りが滲む語調でしばらくぶつくさ言っていたFUSHIは、一通り私に説教を吐き終えてから私の話に乗ってくれた。
「……実際、分割したヤチヨをスタンドアローンにするのは不可能って話だっただろ。彩葉に変なことをしようとするのは諦めるんだな」
「言ってみただけです! 私はあの自認人魚姫ほど恥知らずじゃございませんので~~!」
「少なくとも、リビドーはあっちよりも旺盛なようだったけどな。人魚姫は最初から最後まで盗撮も盗聴もしなかったし、彩葉の周辺の人間関係の監視もしようとはしていなかった」
「ぐっ……」
……あれは彩葉の
なにより、私の方が間違いなく彩葉を愛しているということだけは確信できる。だってこの世界そのものが、私の彩葉への愛の証明なのだから。
「──しかし、どうにも解せないな。ヤチヨは情報生命体だろ。人間の肉体を模倣して不随意運動由来の情愛を獲得していたかぐやだった頃とは話が違うはずだ。そのとめどない接続へのモチベーションはどこから湧いてくるんだ……?」
「
「お前は月でもイレギュラーだったって話じゃ……待て、ヤチヨ、今お前」
「──うん。ヤッチョも気が付いたよ」
私は天守の開かれた空の上に浮かぶミラーボール……が隠した月を睨みつけた。
「私は今、生まれて初めて
「……今8000年分の過去ログを検索してた。ヤチヨ、この事態、思ったより根深いかもだぞ。ヤチヨも、僕も、月についての客観的な視座と理解が穴ぼこだらけで言語化できないようになってる感じだ。かぐやだった頃は分かってたはずなのに」
「そのこと自体もそうだけど、げに悍ましきは
或いは、彩葉の小説を読まなければずっとこの不可解な現象に気付けないままだったかもしれない。
私は月を睨みつけながら、
2030年7月まで残り2年と少し。
全てを支配し知ったつもりだったのに、未来に起こる過ちの全容が掴めないことに私は身震いした。悪い想像だけが私のCPUに負荷をかけ続けている。
まるで子供だ。
ベッドの下やクローゼットの隙間に怪物は作れても、それを追い出す想像力が欠如している。
「彩葉……」
それが叶わないと知っていても、今は彩葉の傍で眠りたい気持ちでいっぱいだった。