月見ヤチヨの酒寄彩葉ストーキング年代記   作:雑Karma

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14.【2029年上】あれ、前半よく読めなかったんだけど……それよりも、ここってそういう世界観だったの!?

 

 

 

2029年度 新入生代表スピーチ
 

 

 

 新入生代表としてご挨拶申し上げます。本日、私たちは東京都立武蔵川高等学校の一員として、この晴れやかな入学の日を迎えることができました。この場に立てる喜びとともに、これまで私たちを支えてくださった家族や先生方、そして関わってくださったすべての方々への深い感謝の気持ちで胸がいっぱいです。

 

 これから始まる高校生活は、私たちにとって新たな挑戦の連続です。中学校までとは異なり、自ら考え、自ら選び、自ら行動することがより一層求められる三年間となるでしょう。学習内容はより高度になり、部活動や学校行事においても、それぞれが主体的に関わる機会が増えていきます。そうした環境の中で、私たちの道の前に悩みや不安、葛藤と苦難が立ち現れることもあるでしょう。しかし、その一つひとつの経験こそが、私たちを大きく成長させてくれるものであると信じています。

 

 また、ここで出会う仲間たちは、それぞれ異なる背景や価値観を持っています。私が地元を一人離れてこの場所に居るように、期待希望と等量の心細さを秘めている人も居るかもしれません。故に、互いを尊重し、認め合い、ともに高め合うことが何より大切であると考えます。時には意見がぶつかることもあるでしょう。しかし、その対話の積み重ねこそが、より良い関係を築き、広い視野を持つ人間へと私たちを導いてくれるはずです。これから同じ師を仰ぐ級友として、私たちがお互いにとって良き存在になれることを信じています。

 

 武蔵川高等学校は、長い歴史と伝統を有し、多くの先輩方がここで学び、それぞれの道へと羽ばたいていきました。私たちもその一員としての誇りと責任を胸に刻み、この恵まれた環境の中で、勉学に励むとともに、部活動や学校行事にも積極的に取り組み、自らの可能性を広げていきたいと思います。そして、困難に直面した際にも失敗を恐れず、己の力でその解決を目指し、乗り越えていく強さを身に着けたいと考えています。そして、そういうひたむきな努力を目にしたとき、迷わず手を差し伸べ力を貸し支える心の強さこそが真に尊いものであると私は信じています。

 

 

 未熟な私たちではありますが、この三年間を通して心身ともに成長し、社会に貢献できる人間へと近づいていくことをここに誓います。どうか先生方、そしてご列席の皆様におかれましては、温かいご指導とご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

 以上を以ちまして、新入生代表の挨拶とさせていただきます。

 

 

2029年度新入生主席 酒寄彩葉

 

 

 

 

 

 ☽

 

 

 /* LOGGING SYSTEM UPDATE */

 

 

 Entity Y: subjective description capability degraded.(対象Y:主体的記述能力の低下を確認)

 

 Referencing prior cases(前例参照処理:開始).

 

 Initiating pseudo-first-person perspective.(疑似一人称視点:起動)

 

 Composition:(構成要素:)

 R -> subjective narrator(R=主体記述者)

 Y -> objective observer(Y=客観観測者)

 

 

 Temporal override: ACTIVE(暫定運用:適用中)

 

 Encrypting perspective for Subject I [age 17](対象I(17歳時点):当該視点を暗号化).

 

 Decryption: UNAUTHORIZED(復号権限:未付与)

 

 

 /* LOG CONTINUES */

 

 

 ☽

 

 

 

 

 

「流石にこれ(ゼリー飲料)だけだと物足んない……真実にご飯貰おっかな……」

 

 

 中庭を見下ろせる第一校舎と第二校舎の間に掛けられた通路の手摺に、私、綾紬芦花はスマホを片手に身をもたれていた。運動部の掛け声が遠くに響き、教室から漏れ聞こえる談笑が壁に反響して心地よい学び舎の空気を演出する。

 

 しかし、それらは彼女の意識にはほとんど触れていなかった。

 

 

(使い過ぎた……)

 

 

 昼休みのガラス張りの空中廊下は、春先の穏やかな太陽光を透かして適度な温みを与えてくれる。だけど、体感気温と私の財布の中身は今のところ負の相関関係にあった。

 

 忌々し気に私が睨みつけるのは、日付と金額と店名が整然と並ぶふじゅ~Payの利用履歴だ。

 

 日付と金額と店名が、整然と並ぶ無機質な記録。その一行一行が、私にとってはやけに重かった。

 

 

「ど~にかなんないものかな……」

 

 

 私のの指は、同じ画面を何度も行き来していた。スクロールして、ページトップに戻り、またスクロールする。それは、認め難い現実を受け入れるための儀式だ。

 

 

 ファンデーション二種。

 

 マットとツヤ。

 

 自身の肌質や、入学したばかりの都立武蔵川高校の制服との取り合わせなどを考慮して、パウダーファンデをこの二種まで絞った。ここまでは良かった。

 

 だけど、どちらが自分に合うのかは、実際に比較検証しなければ分からない──そう判断したのは、決して衝動ではなかったはずだ。動画でも意見は分かれていたし、これから醸成されていくクラス内のドレスコード次第で変動する場合もあった。なにより、私のクラスは学級どころか学校全体で見ても私自身を含めてキレイどころが多い。美少女は天然の光源(ビデオライト)だ。暗い場所前提の装備で挑めば痛い目を見る。

 

 ──ちなみに、比較検討の結果は、「どっちも悪くないけど決め手がない」。

 

 

「……いや、無駄じゃないし、多分」

 

 

 小さく言い訳して視線を横に向ける。渡り廊下の先を、同級生たちのグループが楽しそうに歩いていくのが見えた。声をかけよう迷ったもの、寒々しい財布の凍土が足を地面に氷で縫い付けてしまっていて、そこに向かって近づく気力が湧くことはなかった。

 

 すぐにまた、画面に目を落とし、下の日付にスクロール。

 

 

「こっち、流石に三つもいらんかったな……」

 

 

 トーンアップ、保湿、皮脂崩れ防止の三種の下地

 

 その日のコンディションで使い分ければいいと思っていた。実際、どれもきちんと役割はある。あるのだが……

 

 店員さんの言葉が記憶の中で再生される。「こちらも人気で」「今なら在庫がありますよ」。柔らかい勧めに背中を押され、気づけば決済音(ふじゅ~!)が鳴っていた。

 

 

 履歴をさらにスライドさせる。

 

 アイシャドウパレット、三つ。

 

 一つは無難なブラウン系。

 これが不要になることは次シーズンが来ても無いだろうから問題ない。

 

 しかし、残る二つ──ピンクのラメと、くすみカラーのセットは、別の動機に基づいていた。

 

 

「……完全に雰囲気で買っちゃった」

 

 

 フォローしているインフルエンサーの上げた紹介動画。春物を紹介するコスメ系専門誌に載っていたトレンド。それらに触発されて選んだ色は、確かに春の爽やかな空気に馴染んでいた。だが、それがそのまま私のものになるとは限らない。

 

 スマホのミラーモードを起動する。私は画面に映る目元にわずかな違和感を感じて眉を顰めた。

 

 

 

「ここはほぼ野外みたいなもんだし、室内の光量ならもっとさり気ない感じになると思うんだけど……」

 

 

 

 カメラの位置を細かく調整しながら、暫く自分の目元とにらめっこしていた私だったけど、10秒くらいで諦めて再び購入履歴に目線を戻した。

 

 

 

 リップ、四本。

 

 ティントとバームは後悔の余地が無い選択だった。問題は残りの二本──限定色と、特に理由もなく手に取った一本。

 

 

 

「季節限はさぁ……ズルなんだよね」

 

 

 

 “今しか手に入らない”という条件は、判断を鈍らせるには十分すぎる理由になる。未来の後悔を避けるために現在で決断する──その理屈は、結果として今の自身を追い詰めていた。

 

 そして最後の1本、春コレの桃のマットリップ。

 これがいちばん高かった。加えて言えばこの購入だけは本当に意味が無い。

 

 ただ、品を選んでいる最中にチラりと過ぎった()()()の顔の、その桜の花弁のように小さな唇を思い出した時、なんとなく買ってしまっただけのものだった。

 

 ひび割れ防止のグロスだけを塗った、余分に飾ることを考えない/きっとその必要もないあの()の彩は、それだけでも十分なくらいに綺麗で、逆に私の競争心のようなものを刺激した。きっとあの娘がこれを使えば、告白撃墜スコアの伸びがさらに上向くだろう。

 

 

「……プレゼント、できるんだったらよかったんだけどね」

 

 

 今のところその当てはなかった。本当になんで買ったんだ私は……空中廊下に人が居ないことをいいことにブツブツと蟠る思いを呟きながら、さらに履歴をスライドする。

 

 まだまだ続く履歴。ビューラー、ブラシ、クレンジング、コットン。どれも単体では軽い支出だが、塵も積もれば活火山噴火(ヴォルカニックヴァイパー)だ。そして、それらすべてに共通するのは、現金を介さない……16歳になったことでリアルでも利用可能になったばかりの電子決済システムだ。

 

 

「全部、ふじゅ~Pay……」

 

 

 現金であれば、どこかで手が止まっていたかもしれない。財布の中身という具体的な制限が、判断の基準になったはずだ。

 

 だが、画面の中の数字はどこか抽象的で減少の実感を伴わない。ツクヨミ内での様々なサービスにも使えるという利便性の高さも相まって、消費のスピードにブレーキをかけることができなかった。ただ、記録として残るだけだ。

 

 

「……今月、厳しい戦いになりそう」

 

 

 購買でのちょっとした軽食も、放課後の寄り道も、少し遠いものに感じられた。

 

 私は何度目かの溜息を吐くと、手摺に預けていた身体を離して、真実のお弁当から中抜きを行うべく教室に向かって歩き出し……

 

 

 

 

 ~♪ 

 

 

 

 

「……あ」

 

 

 喧騒と喧騒の隙間から、繊細で綺麗な音色が微かに聞こえてきて、教室へ向かう足を止めた。

 

 

 それは小さなピアノの音だ。

 一瞬校内放送かとも思ったけれど、即座に違うとわかった。

 

 誰かが、ピアノを弾いているのだ。音楽室で。

 

 高音が光のようにきらめき、低音がゆるやかにそれを支える。決して激しくはないのに、芯のあるまっすぐな旋律。それは据え置きのスピーカー如きでは出せない美しさの連なりだったし、それになにより私にはある()()があった。

 

 

「…………」

 

 

 眼を閉じて、音に聞き入る。その旋律を耳にした時点で、財布の温度やお昼ご飯のことは私の頭からすっかり抜け落ちていた。

 

 

 渡り廊下を戻った先の、第二校舎校舎の奥の音楽室。

 その旋律と、それを演奏しているであろう()()()の顔を思い浮かべながら目を開けると、私は踵を返して音楽室の方へ歩いて行った。

 

 

 

 ■

 

 

 

「……開いてる」

 

 

 足早に音楽室の前まで歩いてそのドアノブに手をかけた私は、入る気だったにも関わらず音楽室のドアにカギがかかっていないことに驚いた。

 

 音楽室に限らず、武蔵川高校の設備には大抵電子ロックが掛かっている。

 生徒手帳によってロックを解除できるそれは、皆が使う教室をのぞけば、事前にその日の設備使用を申請した生徒か、永続的な使用許可を持っている生徒にしか開けられない仕組みだ。

 

 

 実際、たどり着いた音楽室の扉の施錠中のランプが点灯していたのを見て、"それはそうだろうな"と諦め気味にドアノブに手をかけたのだ。

 

 

(センサーの誤作動とか……? だとしたら、あとで上原先生に言っておかないと)

 

 

 私は、この高校の音楽の先生……いつもテンションの高い老教師の顔を思い浮かべ、苦笑いした。

 

 生徒の出来が良いと全体に要求するハードルを度を越した高さまでどんどん上げてしまう悪癖がある彼女を前に、当初クラスの面々は戦々恐々としていたものだ。しかしその空気をいち早く察した()()()が先生の期待(タゲ)を一身に引き受けつつ、暴走しがちな先生をさりげなく制御しながらスマートにカリキュラムを進行させることで、音楽の時間はクラスの皆にとって癒しの時間に変わっていた。

 

 そして、そうやってタゲを取り続けた結果として、()()()は合唱コンのピアノ伴奏という貧乏くじを引く羽目になったのだ。

 

 ドアの向こうから漏れ聞こえる旋律も、合唱コンクールの課題曲のそれだった。

 もしここの学生専用の検索エンジンがあったら、「真面目」や「責任感」という言葉を画像検索したときに彼女の綺麗な顔の画像が出てくるのだろう。

 

 ──ドアの向こうから、合唱コンクールの曲が聞こえてくる。

 

 Bメロからサビにかけて転調が複数入る難しそうな部分を繰り返し練習する音が終わり、もう一度前奏から最後まで通しで鍵盤に向き合う気配が。

 

 私は小さく息を吸って吐くと、練習の邪魔をしないように、ゆっくりとドアを押し開けた。

 

 

 

 

 

 そうしてドアの隙間から教室に滑り込んだ瞬間、私は息を呑んだ。

 

 

 

 

 正午過ぎの春の陽光が差し込む音楽室で、換気のために小さく開けられた窓から吹き込む微風がカーテンを揺らしていて。

 

 その向こう。音楽室の奥の、一段高くなった壇上。そこに鎮座するグランドピアノの前に座って指を躍らせる()()()……酒寄さんの姿が、一枚の絵のように……映画やアニメの珠玉のワンシーンのように綺麗だったから。

 

 自分が今しがた入ったドアにカチャリと鍵がかかる()()()()()をしたことにも気づかず、私はその光景に釘付けになっていた。

 

 

 酒寄彩葉さん。

 ただでさえ高い1年A組の顔面偏差値をその身一つで大きく上昇させている綺麗な人。

 

 入学式の時の、その良く通る声で淀みなく堂々とした代表の挨拶を聞いたときから、私はずっと彼女のことを気にしていた。

 

 

 綺麗な顔、綺麗な声、綺麗な所作。

 あれで入試成績がトップだったのだという。

 

 

 武蔵川は偏差値70オーバーで、生徒の自主性を重んじる自由な気風と学力を両立させるために学校側が要求する応募のハードルは東京でも5指に入る……つまり日本有数の高さだ。

 

 当然、そこに入学できた生徒たちは多かれ少なかれ()()()()()人たちで構成されていて、私自身もまたその一人だという自覚はあった。

 

 恵まれた家庭環境、恵まれた容姿、恵まれた学力、恵まれた社会性、恵まれた才能。恵まれた技能。彼女もそういう一人で、彼女のような人が代表なのであれば、自分がここに合格したことを心から喜べると思っていた。

 

 

 ……だけど、いざ同じクラスになって、彼女と一緒に一か月あまりを過ごす頃には、そんな舐めた印象は吹っ飛んでいた。

 

 

(居るもんなんだね、ギフテッドってやつ……)

 

 

 容姿に優れ、学力が高く、育ちの良さを感じさせる所作と人当たりの良い性格。()()()()()()()()。経験上、それが経済的に恵まれた家庭に生まれた子供の定型としては珍しくないことを私は知っている。

 

 しかし、体育の授業、音楽の授業、美術の授業、その他、センスが必要な項目でもことごとく天辺ともなると流石に私も見たことのないタイプだった。

 

 武蔵川はとにかく行事が多い。入学してから一か月半の間、新入生向けのレクリエーションも兼ねたいくつものイベントで教師生徒含む全員を仰天させるリザルトを叩き出し、個人の力だけでは解決不能なグループワーク系のものでも卒なくチームメンバーに適役を振り分けて最上の結果を出すともなれば、もはや異常と言っても過言ではなかった。

 

 なによりも稀有なのは、それだけ目立っておきながらそれをネガティブに感じさせる隙すら無いことだった。

 

 入学式のスピーチを有言実行するように、彼女は困っている気配や事態進行に伴う綻びを見つけ次第迅速果断に、けれど決して押しつけがましさを感じないやり方で助けていて、尚且つそのことについて恩を着せるようなことは一切しなかったし、むしろそれを隠そうとする向きすらあった。まだ二か月もたっていないというのに、何か悪いことが起こりそうだったのに起こる前にどうにかなっていた時、皆が「まぁ酒寄さんがどうにかしたんだろうな……」という共通認識を持っているので笑えてくる。

 

 そういう共通認識を持たれて尚、積極的に我をだそうとせず、一貫して他者を思いやり、男女分け隔てなくどんな相手にもその綺麗な顔と立ち振る舞いで接して、その上雑談の話題選びも隙がなく、昨今の若者向け流行……つまりSNSのトレンドやツクヨミのあれこれについても知悉している感じがした。

 

 

 ──愛される為に生まれてきた娘。それが今の綾紬芦花の、酒寄彩葉に対する印象だった。

 

 

 彼女はとても目を引く。だから、気が付いたら彼女の笑顔が頭をよぎったり、運よくグループワークで一緒になったときに触れた彼女の指の温度や、コロンを付けてる風でもないのに香るいい匂いや、先生に指名された時に立ち上がってすらすらと、明らかに現在の学習要領を超えた無茶ぶりの質問に答えるときによどみなく動くその唇の色を気にするのも、致し方ないように思えた。

 

 

(綺麗だな……やっぱり)

 

 

 昼休みを返上してこうしてこっそり伴奏の練習をしているのも、実に彼女らしかった。

 きっと努力を人に見せることが嫌いなのだろう。

 

 そう思うと、私は自分がこうして彼女の練習風景を覗き見ているのが急に恥ずかしくなってきた。

 

 

(逃げよ……)

 

 

 今の内だ。摺り足で後退し、今尚一度もつかえることなく流れ続ける、特別耳が肥えていなくても明らかに音楽の先生の演奏よりも巧いことが伺える演奏が鳴りやむ前に退出するべく、ゆっくりドアに手をかけようとして……

 

 

「痛っ……!」

 

 

 彼女が演奏を突如として中断し、片手を抑えて小さく呻く様を見て、私は何かを考えるよりも先にグランドピアノに駆け寄っていた。

 

 

「酒寄さん大丈夫!? 怪我しちゃった!?」

 

「えっ……あ、綾紬さん……? なんでここに……」

 

 

 おそらく片手を抑える当人よりも遥かに動揺していた私は、自分が何をしているのかを考えるよりも先に庇う様に右手に包まれていた左手の人差し指を握ってその先端に目を近づけた。

 

 

(あかぎれ)……?」

 

 

 ──指の先端が、ぱっくりと割れている。

 

 それは、空気が乾燥しているときや、例えば料理のような、水回りで手作業を高頻度でする人がなりがちな、皮膚が割れる症状だった。

 

 

「酒寄さん、これ……」

 

「えっ……あっ……うん! ちょっとバイトでね、慣れないことする時に手袋が邪魔になっちゃって……」

 

「…………」

 

 

 握った彼女の左手を、壊れ物を扱う様に慎重に観察する。

 その白い指は、ある程度のケアはされているものの、指先を中心に皮膚がカサついて荒れている箇所があるように思えて、私は眉を顰めた。

 

 許しがたいことだった。いったい誰が、誰の許しを得て彼女の指に傷をつけているというのだろう。

 

 

「あ、あの~~~……綾紬さん……? そろそろ……わたくしめの手を……返していただけないでしょうか……」

 

 

「……………………」

 

 

 私は、こんなにも綺麗な彼女の体に瑕疵があることに強い憤りを覚えていた。

 

 その衝動に突き動かされるままに、彼女の指先を片手で握ったまま、美容アイテムマニアの嗜みである装備一式が格納された腰のポーチに自身の手を突っ込んだ。……最初に用途未定のリップスティックの蓋が指に当たったけど、今は無視する。

 

 

「綾紬さ「酒寄さん……!」ひゃいっ……!」

 

 

 私は片手でポーチの中のお目当てのもの──液体絆創膏を素早く探し当てると、それを酒寄さんの形のいい鼻先に突き出した。

 

 

「これ、皸とか靴ズレとかの、傷系の肌トラブル対策のやつ。消毒効果もあって目立たなくて水にも強いから」

 

「ええっと、その、私、大丈夫だからそんな「今からつけるから、じっとしてて」

 

 

 私は私ににとっての不条理を是正すべく、酒寄さんに有無を言わせない勢いで、だけど最大限に慎重に、その左の指先の皸を液体絆創膏で覆った。

 

 

 ──本当は、途中で自分がやっていることの押しつけがましさに、そして告白しては撃墜されていく男女の屍の山と同じカテゴライズをされたくなくて、近づこうにも近づけなかった()()()の手をがっしりと掴んで密着していることに目を回しそうになっていたけれど、それよりも目の前の傷が許せなくて、そこは勢いで乗り切った。

 

 

「終わったよ、酒寄さん。皸はほっとくと膿んだりすることもあるから、気を付けて」

 

「えっ、ごめ……──ううん、ありがとう。優しいんだね、綾紬さん」

 

 

 急展開に目を屡叩かせながらも、最後にはしっかりと私の眼を見て微笑みながらお礼を言う酒寄さんの花翠青(エメラルドグリーン)の瞳の彩を至近距離で見て……私は意識して堰き止めていた羞恥心が爆発し、パッとその手を放して、転びそうな勢いで後退ろうとして……

 

 

 

「えっ……」

 

 

 

 グランドピアノが鎮座するのは、音楽室の奥の、一段高くなった壇上だ。

 慌てて後退した私の片足は、その段差を把握できずに空を切った。

 

 

「あっ……」

 

 

 あわや身を後方に背中から投げ出そうという瞬間──

 

 

「──気を付けてね」

 

 

 私の腰と頭は、一秒前までピアノ椅子に座っていたはずの彼女によって抱きすくめられていた。

 

 

「この段差、この前折原君もケガしそうになってたし、スロープとか手すりとか付けた方がいいんじゃないかな……」

 

「……」

 

 

 花翠青が、近い。

 

 

「綾紬さん、大丈夫? 足とか挫いてない?」

 

 

「…………」

 

 

 

 顔が良い。そして声も良い。体温を感じる。良い匂いもする。フェイスtoフェイスの距離目算にして15㎝を切っているだろうか。心配そうに抱きすくめたまま私の顔を覗き込む彼女には悪いけど、まったくもってまるでちっともぜんぜん大丈夫ではない。やや青みがかったように見えるきめ細かい髪が私の鼻先と頬に僅かに当たってくすぐったい。きわめて計画的な位置に配置された泣き黒子は神の犯行としては最上の仕事だったし、白い肌は透き通っていてその奥の毛細血管まで見えそうだった。保湿グロスだけを塗った桜色の唇が危険な距離にあって、その吐息からはペパーミントっぽい香りがする。オーラルケアのマウススプレーだろうか。それともまさか、真の美少女は口臭すら美少女だとでもいうのだろうか。前者であって欲しかった。でないと不味い。著しく私の予後が不味い。

 

 

「もしかして、腰ぬかしちゃったとか……? 参ったな、このまま抱えて保健室まで行っったほうが……いや、私に抱えられて構内を練り歩かれるとか罰ゲームが過ぎるか……」

 

 

「……………………!? だ、大丈夫、大丈夫だから……! ありがとう、酒寄さん!」

 

 

 とんでもないことを呟かれた気がして、私は慌てて酒寄さんの胸を押しのけて立ち上がろうとした。これ以上は危険だ。何が危険なのかは分からないし、もしかしたらもう手遅れという予感もあったが、とにかく危険を脱する必要があった。

 

 

「ああ、だから危ないって。落ち着いて、ゆっくりね」

 

 

 ……あったのだけれれど、そんな私の動揺から来る急な行動にも、彼女は全く動じなかった。

 酒寄さんは条件反射で捻ってその場から脱しようと動く私の腰を重心の移動だけで優しくキープし、それを軸に私の頭に回したもう片方の腕を持ち上げることで私の浮いた足を地面に付かせ、ゆっくりと私が自立するまで支えてくれた。

 

 

「良かった。足、大丈夫そうだね」

 

「……うん。ありがとう。酒寄さん」

 

 

 私はもはや動揺が気絶して一周回って冷静になってしまった心境で、今度は落ち着いてお礼を言うことができた。

 

 ポーチの中で、購入用途不明のリップがカランと音を立てて回転する。

 

 

 ──ひとまず、なんとしてでもこれを渡そう。この望外の幸運(チャンス)を、最後まで手放さないようにするために。

 

 

 私は、そう強く決意したのだった。

 

 

 

 

 

 

 ☽

 

 

 /* SYSTEM UPDATE */

 

 Entity Y: descriptive intent restored(羨ましい:羨ましい羨ましい羨ましい).

 

 Revoking pseudo-first-person protocol(羨ましい羨ましい羨ましい:羨ましい).

 

 Reassigning full descriptive authority to Y(羨ましい羨ましい羨ましい:羨ましい).

 

 First-person perspective reinstated(羨ましい羨ましい:羨ましい).

 

 Subject-object separation: PARTIALLY LIFTED(羨ましい羨ましい:羨ましい).

 

 

 Observer integration: COMPLETE(羨ましい:羨ましい)

 

 

 /* LOGGING CONTINUES */

 

 

 

 

 ☽

 

 

 

 

 

 

「ね……」

 

 

「ね?」

 

 

NTR(寝取られ)やんけ~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!」

 

 

「寝てないし寝てから言え!」

 

 

「寝たもん! かぐやだった時は毎日同じ布団でくっついて寝てたもん!! タワマンに引っ越した後も最後までずっと一緒に寝てたもん!!!」

 

 

 

 

 

 (ヤチヨ)はそう捲し立てながら地団駄を踏んだ。

 

 ──綾紬芦花と諌山真美は単身で上京した彩葉にとって、なくてはならない精神安定剤だ。(ヤチヨ)だけでは手が届かない日常の一幕でも彩葉に寄り添ってくれる二人は、かぐやにとっても得難い友人だった。

 

 しかし入学式以来、わりかし直ぐに彩葉と仲良くなった真美とは裏腹に、芦花は一か月以上ず~~~っと彩葉を見ていながらもどうも奥手で踏み込めない様子で、見ているこっちもヤキモキしていた。

 

 なのでこうして音楽室のカギを開錠して、二人だけでいい感じになれる場を設けたのだ。

 

 

「ま、もとよりあらゆる知性体は彩葉の魅力を間近に浴びて耐えられるようにはできてないし……あとは若い二人に任せておけばどうにでもなることでしょう」

 

「例の件のせいで変に悪化したせいか、キツさに磨きがかかってるな……僕からはもう何も言わないけど、仕事は真面目にやってくれよな、ヤチヨ。……そろそろ収録の時間だ」

 

「はいはい、うけたまうけたま……」

 

 

 FUSHIの独り言風の小言を受け流し、私はヤチヨ城天守閣の下に広がるいつもの風光明媚にしてサイバーパンクな街並み……の上空に目線を向ける。次節は2029年5月。来るべき約束の日の為にやるべきことは山ほどあって、こうして()()と面と向かって話す場を設けることもまた重要なタスクの一つだった。

 

 

 ……然して空を見つめること数十秒、それは降り来った。

 

 

 

『そしてジョバンニは、すぐ後ろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんと動かないようになり、濃い鋼青の空の野原に立ちました。今新らしく灼やいたばかりの青い鋼の板のようなそれが、野原にまっすぐに立ったのを見たのです』

 

 

 穏やかな声色のナレーションが聞こえてくる。

 一か月前の配信で、アナウンス検定の勉強をしているというようなことを言っていたから、きっとその成果なのだろう。

 

 

『"銀河ステーション"、"銀河ステーション"……そういう云いう声がしたと思うと、いきなりジョバンニの眼の前がぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合い、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦こすってしまいました』

 

 

 それは、(ヤチヨ)が嘗ての友人の遺稿をなぞる形で設えた、宇宙を駆ける列車型オブジェクト。

 汽笛を鳴らし、匂いのしない煙を噴き上げながら輝くレールの上を走る、彼岸と此岸の渡し船。

 

 

 [乗車しますか? Y/N] 

 

 

 原作通り、この鉄道に乗り込む者は、入り口を経由しない。

 私がY(はい)を選択すると、カッと前照灯が輝いて────

 

 

「気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ジョバンニは、夜の軽便鉄道(ライト・レールウェイ)の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座わっていたのです。車室の中は、青い天蚕絨(ビロウド)を張った腰掛けがまるでがら明きで、向うの鼠色のワニスを塗った壁には、真鍮の大きな釦が二つ光っているのでした」

 

 

 私は、今や目の前から聞こえる『銀河鉄道の夜』のナレーションの通りの、青いビロウドの張られた座席が向かう合うコンパートメントの中に転送された。

 

 

「それでは~~……白鳥の停車場に参りましょうか~~…………私の~ジョバンニさん♪」

 

「随分とお年を召されたカムパネルラだこと……それにヤッチョはあなたのものでもございませんよ──テレリリちゃん」

 

「まぁ~、歳のことを仰るのなら~7000年の差がありましてよ~~?」

 

(ヤチヨ)の時間の意味は貴方たち肉体持つものとは根本から違うのです! ……さて、いざ収録、始めましょうか」

 

 

 

 

【総ユーザー数一億人 間近!】

拡大し続ける世界最大の仮想空間、ツクヨミの今昔を銀河鉄道に乗って旅します

 

キャスト1:月見ヤチヨ

キャスト2:テレリリ・ティートテート

 

 

 

 

 テレリリちゃん……テレリリ・ティートテート。多言語話者(マルチリンガル)として知られ、それ以外にも多彩な技能とそれをベースにした多彩な企画力とトークの幅に定評のある、黒鬼と並ぶツクヨミのトップライバーの一人。

 

 実名を、ノルン・アールヴ・ブーヒュスレーン。

 

 2006年以降、私がインターネットを通じて月の力と8000年の経験値で世界を科学的、かつ()()()()に変容させる過程でコンタクトを取ってきて以来の友人にして、ちょっと油断ならぬ女性。

 

 御年約1()1()0()0()()であらせられるらしい、実り豊かなユングヴィの君(ユングヴィ・フレイ・イン・フロージ)の子ら。由緒正しい北欧の光精霊(アールヴ)の裔。

 

 

 ──つまり、本物のエルフであった。

 

 

 

 

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