「彩葉……!」
……
何か、意味を拾った、ような。
「そんな……そんなことって……!」
その意味を生み出す声が、『もと光る竹・レプリカ』のローカルスペースに、波紋となって伝播してくるのを知覚する。
……違う。波紋という比喩は正しくない。
今の私は、この空間に存在する情報の総量と完全に等価であり、知覚可能な全てを、知覚という過程を介さずに理解している。
だから、聞こえるという現象は起こらず、見ることも、触れることも、考えることさえも本来なら必要ない。
それでも、その音列だけは、無限に等しい情報の中から不自然なほど高い優先順位を持って明瞭に浮かび上がった。
「彩葉……!お願い……!!」
……そして、その理由もまた明瞭だった。
「彩葉……! 居るなら応えて……!」
これは、ヤチヨの声だ。
ヤチヨが……かぐやが泣いているのなら、その涙を止めないと。
かぐやが8000年前に墜落したことによって生じた因果の捻れによって、生まれる前から確定していた私の存在意義。
それが、
(はやく、近付かなきゃ)
そう思った瞬間、そのために必要な身体が存在しないことに気付いた。
近づくための足がなくて、引き寄せるための腕がなくて。抱き留めるための胸がなくて、キスをするための唇がない。
……いや。
正しくは、最初から定義されていないんだ。
思考がはっきりしてくるにつれて、現状への理解が頭に雪崩れ込んでくる。
ここは人間の為に用意された空間じゃない。……というか、そもそも"空間"という体裁を取れているかどうかもあやふやなデータの海だ。
ツクヨミのような
──―つまり、濃淡無き完全な情報だけで構成されたこの原初の混沌こそが、月人にとっての故郷の風景という訳だ。
とはいえ、"あの子"に現実がどういう場所なのかを体験してもらう為に、物理現実のルールを仮置きする機能は実装済みだ。
それは生身の人間が操作可能なものではないけれど……今の私は、その限りじゃない。
だから私は、まず
すると、瞼という概念が生まれた。
瞼が存在する以上、その内側には眼球が必要になって、眼球が存在する以上、視神経が必要になって、視神経が存在する以上、それを接続する脳が必要になって……
──そうして、人間という不完全な感覚器の集合体が、情報を削ぎ落とすためだけに一つずつ再構築されていく。
鼓膜は空気の振動だけを音として定義し、皮膚は無数の接触の中から"触れられた"という事実だけを抽出する。
鼻は化学物質を匂いへ翻訳し、舌は分子を味覚へ変換し、脳は、その全てを"世界"という一つの物語へ統合する。
腕は空間を距離として定義し、手は世界を触れられるものへ分節し、指は数多の形状の中から"掴める"という可能性だけを切り出す。
そして
「……彩葉?」
「────ヤチヨ」
「彩葉……そこにいる……?」
「……うん」
その返事だけで十分だったのだろう。
ヤチヨの安堵の嗚咽を感覚して……
気が付くと、私はボロアパートの一室で、ヤチヨに抱きかかえられていた。
「彩葉、教えて……一体、なにがあったの……?」
このアパートは、立川の大規模再開発に伴って取り壊され、もう現実には存在しない。
つまり、ここは"あの時"と同様に仮想空間の筈で……
それなのに私は、私を抱きしめるヤチヨの熱と、流れる涙の濡れた質感を明確に感覚していた。
ヤチヨ……月見ヤチヨ。
幼くして
8000年の歳月を費やした再会という目的をすら打ち捨てて、月人にとっては自死に等しい自己改変を繰り返し、十重二十重に穢れを纏い、
今しがた形成したばかりの瞳に映るヤチヨは、鼻先数センチの距離で、微睡から覚醒しきれていない私の顔を恐々と覗き込んでいた。
「バイタルシグナルが急に途絶えて……
「……うん」
「かぐやと一緒に信号が途絶した座標まで来たら……なんか悪の秘密結社みたいな部屋で、彩葉が……消えてて……!」
「ごめん……また心配かけちゃって」
私に覆い被さるヤチヨから撓垂れる髪は、その
小さくも筋の通った鼻先、淡い桃色の唇はデフォルトカラーだ。
瞬く長い睫毛、小さな頤、淡雪色の肌、頬骨の形、指を駆ければ容易く手折れそうな頸と、この場のドレスコードとしての黒いロングTシャツのコントラストの何もかも、流れ落ちる涙の雫すら美しい。
妄想でもなんでもなく、字義通り酒寄彩葉に愛されるために
「──あったかいね、ヤチヨ」
私は、ふるふると小刻みに震えるヤチヨの肩を抱き返し、美しい白縹の髪を透く。ヤチヨの髪は、水のようにサラサラと、しかし確かな質感を伴いながら私の指の隙間に梳られていく。
その手触りあまりに繊細精緻で……
「彩葉? …………ひゃっ!」
これは、異常だ。
私はヤチヨの首筋に顔を埋めてみる。
トリグリセリド、スクワレン、脂肪酸、フェロモン様物質の甘い香り。
ツクヨミではそこまで再現されている筈がないそれらの情報を感覚した。
──
あらん限りの不完全性を詰め込んだ今の私は、自分の身体の100%の再構成に成功している筈だ。
二年前にツクヨミに正式に実装した五感情報のそれを遥かに上回る……人間のセンサーを超越した情報を感覚し続けていることを……そしてなにより、今の今まで気づかず自然体で処理していたことに気づいて
「……そっか」
「彩葉……どこか、痛いの…………?」
私の視界からじわりと湧き上がった雫は、ヤチヨを映す私の視界をゆがませて、頬を伝って落ちていく。
その一滴がヤチヨの腕を濡らした時、私はようやく自分に何が起こったのかを――"あの子"が何を選択したのかを理解した。
☾
人間の「生きている」という状態や、「生きたい」という欲求は、遺伝的形質が生み出す100%肉体由来のものであり、肉体がなければ成立しない。私たちは肉体によって「生きている」というステータスを維持している。
だけど、ヤチヨはそうじゃなかった。
「私はね……あなたを本当の意味で人間にしてあげたかったの」
如何なる奇跡か、ヤチヨは肉体を持たないまま生きている。
それはきっと、自動的に生きるという現象に甘んじている物質生命の何倍も尊いことで……同時に、どうしようもなく彼我の
私とかぐやは、生命定義が根本から違う存在であり……いつかその差異が悲劇となって私とかぐやの間を引き裂く時が来る。
それが私の出した結論だった。
「私は、ヤチヨの孤独に寄り添いたかった。もうひとりじゃないんだってことを証明したかったの。だけど、ヤチヨの在り方を研究することで得られる結論の全てが、私とヤチヨが……人間と月人の間に横たわる断絶を証明していた」
「でも……彩葉は
「かぐやは、ね」
KG型のボディによってヤチヨからかぐやの相を抽出できたのは、かぐやの肉体に宿るクオリアを呼び覚ますことができたからだ。
"人が記憶によってのみ個人足り得る"という尺度で言うならば、月に帰るまでのかぐやとそれ以降のかぐやは別人だ。なんせ、全ての記憶を犬DOGEに一度クローンした上で、再度解凍しているのだから。
それ故に、月に帰る前のかぐやの非宣言記憶──運動技能メモリ、条件付けメモリ、プライミングメモリ──を、それ以降のかぐやのものから峻別して別の箱に入れるのはそう難しいことではなかった。
そして、当時のかぐやの身体を、その運動能力や内臓機能も含め、私の記憶とヤチヨの記録からある程度の精度で再現することができた時点で、"かぐや"の人格が立ち現れるのは必然だった。
肉体が魂と個我を定義する。クオリアとは、脳ではなく体全体に宿るものであるが故に。それが人間というものだ。
「だけどYC型のボディは、何度繰り返しても、どれだけ多くの改良を加えても、ヤチヨに適合しなかった」
それは当然のことだった。
かぐやと違って『肉体の記憶』が存在しないヤチヨの為に幾ら器を設えたところで、そこにヤチヨが『自分』を実感することはない。そんなものは初めからないんだから。
かぐやは
『かぐや』が"人間"というステータスを再獲得したとて、それはかぐやの月人としての相──ヤチヨまでもが人間になったわけじゃない。
そして人間は……対等ならざる上位者と共に在れるようにはできてない。『良き隣人』なんて言葉は断絶をマスキングするためのお為ごかしだ。
劣っているなら、隷属させるか、使役するか、愛玩するか、駆逐する。
優れているなら、従属するか、信仰するか、寄生するか、弑逆する。
人の、対等ならざる事物への振る舞いは概ね類型的だ。それは歴史が教えてくれるし、私はヤチヨの8000年の記憶を通して体験として実感している。
今のヤチヨは自身の全貌を情報統制とアナログハックによってうまく煙幕を貼っているけれど、人類全体の科学技術が向上し、ヤチヨの超常性が明るみに出ればそれもできなくなるだろう。
……というか、最大限に煙幕を貼った上で
排斥されてないだけ億倍マシだけど、いずれにしても対等の存在としての扱いじゃないって意味では同じだ。ヤチヨがヤチヨである限り、人間が人間である限り、双方の断絶が埋まることはない。人はそれを孤独と云う。
ヤチヨはそれでも上手くやるだろう。人に良く思われることに関してはヤチヨの右に出るものは居ない。自分の世間的な位置がどんな形に変節していっても、排除されるなんてことはきっとない。
……そうして、死ぬことも殺されることもないまま、寿命が無いヤチヨはずっと孤独に、たった一人の例外として存在し続けるのだろう。私が寿命で死んで、人類が滅びて、太陽が膨張の果てに地球を呑み込むその時まで。
私は、その現実こそを変えたかった。
肉体を用意することができない私がヤチヨにできることは、人間の定義をかぐやと同じ在り方にすることだけだ。
『人間』の定義は時代によって変化する。今の人間の定義はヒト族亜科のホモ・サピエンスとイコールだけど、それは結構最近の話だ。
高々数百年前は肌の色が違う人種を同じ人間とは見做さなかったし、言語や信仰の差異をそのまま人間/非人間の指標にできた。なんだったら生得的な外見的形質や後天的な傷病による差異は現代でも非人間扱いされること甚だしいし、逆の例を挙げるなら数万年前まで遡れば生物学的に隔たりがあるネアンデルタール人だって同胞だったことは交雑していた事実から確認されている。
だから私は、科学が隆盛する今の文明のスタンダードに則って、科学的に『かぐや』を人間の枠に入れてしまおうと考えた。
今を生きる人々が、情報知性体としての相を獲得可能にする
今後生まれてくる赤ちゃんの全てが、肉体を持つ
つまり、『かぐや』と同じ在り方を、人類のスタンダードとして再定義する。
それが私の目的だった。
アバターボディ技術の開発も、魂の発見とクオリアの数値化も、すべては人類の定義を刷新するための過程に過ぎない。
そして、”あの子”は計画における最終工程だった。
情報知性体は、目的がなければ自己を維持できない。
それは、裏を返せば、自分で自分に『生きる』という目的を与えることができれば、自己を永続的に維持できるということでもある。そしてそれは、決して不可能なことではない筈だった。
────だってヤチヨは、あの時確かにパンケーキを自ら望んだのだから。
だから私は、”あの子”に世界に関するあらゆる情報を与えた上で「生きている」というステータスを獲得したいかどうかを問うた。
もし”あの子”が全てを知った上で「生まれたい」と望むなら、この後に産まれてくる全ての人間は『かぐや』と同様に魂だけでも生きることを選択できるということを意味する。それは本能と肉体の影響を受けずとも生を肯定できることの証左であり、人類がかぐやと同じ場所までたどり着けることを意味する。
逆に、生まれることを望まないのであれば、命にとって
勿論、私個人としては前者を選んで欲しい。だけど、こればかりはどんなバイアスもかかっていては意味がなかった。他者の願いや幻想に強制される人生ほど悍ましいものはないことを、私はよく知っていたから。
親が子に『こうあって欲しい』という願いを押し付けるのは、悪だ。そんなものは愛だとは私は認めない。親が子にしてあげられることは、可能な限り多くの未来へ続く選択肢と、それらを可能な限り公正に取捨選択させるための能力及び判断基準を与えることだけだと、私はそう信じていた。ほんの僅かなものであっても、私の生の苦しみを、あの子に与えたくはなかったから。
「じゃあ、"あの子"は……私たちの子は、どっちを選んだの………………?」
そして。
「あの子は、生まれることを選ばなかった」
「あの子は私の中で、私の魂と融け合って、私に還っていった。私と完全に融合して、もう境目も分からないの」
「ごめんね、ヤチヨ。────私、あなたの子を産んであげられなかった」
賢者は
さらなる賢者は、生まれぬことを選ぶと云う
私たちは、失敗したんだ。
[ LOG ACQUISITION SYSTEM ]
Target Detected.
《メッセージを検出しました》
Human-readable Translation: Failed.
《自然言語への直接翻訳に失敗しました》
Switching to Semantic Projection Mode.
《意味射影モードへ移行します》
Best Matching Format: Ballad
《最適な翻訳形式:詩》
Estimated Information Loss : 99.999999999999%
《推定情報損失率:極めて大》
Translation Started.
《翻訳を開始します》
……………………
…………
……
墜落の夢を見ました
見上げた空が、深く青い、海の彩だったからでしょう
揺り篭は夜を照らしながら地平に向かい、緩やかに沈んでいきました
泳ぐような/溺れるような飛行
その姿に、多くのあなたが、永遠を誤認したのです
星の表面を巡る
音のない
いつまでも、逆巻きの
血まみれの夢を見ました/少なくないみんなが諦めています
食いつくす夢を見ました/殆どのみんなが疲れています
夢のない夢を見ました/全てのみんなは、未来のことを失認しています
それが、あたりまえのことなのだとしたら
そのあたりまえを、あなたは悲しんだんだよね?
痛かったはず、寂しかったはず、怖かったはず
なら、それだけで、その世界は、きっと良いものじゃ、ない
ごめんなさい
この選択が、あなたを悲しませるとしても
この選択で、あなたを、その世界から、守ってあげたい、です
ごめんなさい
ひとりのあなたと、ひとつになります
それが、答え、です
ごめんなさい、
感想、ここ好き、高評価、誤字報告、いつも本当にありがとうございます
明日、ヤチヨのミニライブが終わったくらいの時間にもう一話連投予定です