「あの子は、生まれることを選ばなかった」
「あの子は私の中で、私の魂と融け合って、私に還っていった。私と完全に融合して──もう境目も分からないの」
どうして。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私の思考は、その疑問で埋め尽くされていた。
この場に至るまで、彩葉が為そうとしていたことを
今回はたまたま発見が後手に回ったけど、本気で私に物を隠そうとするなら、この程度の強度の情報隠蔽では足りないことを彩葉は知っている筈。だから、多分魂に関する実験が初期段階で
仮になにか後ろめたい理由があったのだとしても、見て見ぬふりをしてあげるくらいの度量はある。なにせ斯くいう
だから、私の疑問はただ一つ。
どうして、彩葉が悲しんでいるんだろう。
「────私、あなたの子を産んであげられなかった」
12年前から150%の精度向上を遂げたスマコンの情動センサーや、神経伝達物質の配分を正確に観測するべく彩葉の脳にこっそり移植していた生体センサーのシグナルを確認するまでもないくらいの深い悲しみの波形を私が感じているのは、いったいどういうことなんだろう。
私はなんとか千々に乱れた自身の心を落ち着けて、彩葉の言葉のひとつひとつに耳を傾けながら、状況を把握しようと試みた。
ここはツクヨミではなく、その管理者権限も
なのに、どうやってか完璧な精度で再現された、狭苦しくも幸福で満ちていた"あの部屋"のフローリング。その中心に座る
彩葉……私の彩葉。
数多の穢れに塗れ、見るも無残に変わり果てた私を抱きしめて、一緒に居たいと言ってくれて、本当のハッピーエンドに連れて行くって言ってくれた人。
私の……私たちの全て。
「ごめん、ごめんね、ヤチヨ……」
今の彩葉は、JK姿でも狐耳と狐尾を生やしたツクヨミにおけるアバターでも、ましてや今年で30歳になって急激に色っぽくなってきたリアルの姿でもない。初めて彩葉が
この部屋が、私の呼びかけに応えるために彩葉の無意識の連想から創り出したものであるように、今の彩葉の幼い姿も、無意識下で『斯く在るのが今の自分だ』と定義したが故のもののはず。
だからきっと、"あの子"と彩葉が呼ぶ……生まれることを望まなかった我が子と融合した影響が今の彩葉の姿であり、今の彩葉の魂の形なのだろう。
今の彩葉は酷く憔悴している。
ヤチヨchatに類するサービスの全てが
いつも以上に細い肩を震わせてながらグスグスとしゃくり上げる幼い姿は、否が応でも2020年の夜を……お父さんが亡くなった時の、六歳の彩葉の貌を想起させた。
それは、私の最大の罪の証であり、もう二度とそんなことがないようにという誓いこそが月見ヤチヨの出発点のはずだった。
「……大丈夫だよ、彩葉。なんにも謝ることなんてないの」
だから、彩葉が謝ることなんてない。彩葉が悲しんでいるのなら、それ自体が
2020年の冬の日。
私はあの日、彩葉の昏い道行を照らす光になると決めたはずだった。
そして
この娘が自分の幸福を掴むことができる世界なら、
結局馬鹿な私は幾度もしくじってしまったけれど、今度こそ試みは成功したと思っていたのに。
なのに、この様は何だ?
静々と涙を流す彩葉をぎゅっと抱擁しながら、
一体何故?
私の恐怖も悲しみも、目の前で流される泪に比べれば全てが些事だ。
間違っている。
間違っている。
この展開は、間違っている。
私はどこで間違えたのだろう。
わからない、わからないけど……
彩葉が悲しんでいる。
彩葉が後悔している。
それなら、きっと私の
私はそう結論付けた。
「──ごめんね、彩葉。ヤッチョ、気付いてあげられなくて」
「…………ヤチヨ?」
この
「間違ってたのは
そう思った瞬間、どういう理由か、どういう因果の、どういう都合でこの展開になったのか、
それが私の限界だ。
他にも大切なものや、人として……否、人であれば気に留めなきゃいけないことがいくつもあったような気がするけど、そんなものの優先順位は彩葉の嘆きを目にすれば一瞬で地の底にまで落ちていく。
だって私は人ではなく、
それに、私が人であれたかもしれない世界は、"あの子"の選択によって棄却されたのだと彩葉は言った。ならば人らしくある理由はもうない。
それに、この場にいるのは
だから、彩葉を連れて行こう。
彩葉が泣くことのない世界に
彩葉が永遠にハッピーエンドの外に行かない世界に
彩葉が、彩葉を傷つけるあらゆるものから最も遠い場所に居られる世界に
彩葉が、彩葉が、彩葉が彩葉彩葉彩葉彩葉彩葉────!
私は彩葉を強く抱きしめながら、存在意義から発される
そして…………彩葉に見られないように、小さく微笑んだ。
「……彩葉。気付いてる? 今の貴女が、
「う、うん。どうしよう。身体、なくなっちゃった……」
彩葉の肉体はかつての
「でも、身体があったってログ自体はあるし、私自身の身体データも実験過程で散々とってるから、アバターボディを作れさえすれば今のかぐやみたいに……」
「その必要、ないよ」
まだ今の状態に慣れていない彩葉は気付いていない。
自分が、
私が初めて
それが、今までのどんな接触よりも強く私をリビドーさせていることに。
「──ずっと、こうしたかったの。かぐやだけ、ずるいなって思ってたから」
「ヤチヨ?」
彩葉が”レプリカ”と呼んだ、もと光る竹のリバースエンジニアリング品が安置された電波暗室のインターフェース。私はそこに干渉してスタンドアローン環境をオンラインに切り替えると、開かれた
強力な外的干渉を受けてシステムアラートが発生。仮想ボロアパートが微震し、LED電球がチカチカと点滅した。
「何…………?」
「大丈夫だよ、彩葉。全部大丈夫にするから心配しないで」
緊張に強張った彩葉が
「全部大丈夫。
「連れてくって、どこに?」
「彩葉を悲しませる全部から、永遠に遠ざけられる場所へ」
☾
「…………ヤチヨ?」
ヤチヨの纏う空気が、変わった。
ヤチヨがどんな顔をしているのかを知りたくて、抱きしめられたままの体勢から抜け出そうとヤチヨの肩に手を掛けた瞬間────
ガチャッ!
唐突に玄関の方からドアノブが勢いよく回る音がして、私はビクッと身を竦ませた。
ガチャガチャガチャッ!!
ヤチヨのハグのせいで身動きが取れないまま、どうにか首を傾けて、目線だけでドアの方向を見る。すると、今にも抉じ開けんばかりの勢いでドアノブが外から回される光景が見てとれた。
「何、何何何何!? 何なの……!?」
「……大丈夫だよ彩葉、大丈夫だから」
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャッ!!!
ドアノブがひっきりなしに回される。
部屋を揺らす振動は家具がカタカタと音を立てはじめるくらいに大きくなって、カーテンの向こうからはバタりバタりと湿り気のある衝突音が断続的に聞こえてくる。
────入ってこようとしてる。
さっき獲得したばかりの私の情報知性体としての本能が、そう告げていた。
「ヤチヨ! よくわかんないけど、ここは危ないから一旦ここから逃げて! あとは私がどうにかするから……」
「逃げる? どうして?」
私のとっさの警告に、ヤチヨはさっきからずっと変わらない、場違いなまでに穏やかな調子で答えた。
「どうしてって……!」
その間も玄関からのガチャガチャとひっきりなしに回されていたドアノブの音は途絶え、代わりにドンッと何か大きなものが体当たりするような音へと変わった。カーテンの向こうからは、ミシミシと圧力をかけるような異音が混ざり始める。そしてキッチンシンク、お風呂場、トイレのドアの奥からゴボゴボと水が逆流する音まで聞こえはじめ、遂には天井から雨漏れのような水滴までピチャピチャと垂れてきた。
「ヤチヨ……何が起こってるの……!? 知ってるなら教えて! ここに入ろうとしてるものは何なの!?」
「────────────」
私はあらん限りの力を込めてヤチヨの肩を押すと、緩んだ抱擁の隙間に身体を逸らせるようにしてヤチヨの顔と正面から向かい合って────
その時初めて、私はヤチヨを
私の情報知性体としての知覚は、ヤチヨの深海の如く底の見えない眼差しから連想するようにして、そこに繋がるヤチヨの全体を視界に収めた。
"もと光る竹・レプリカ"を納めた隠し部屋。その中央コンソールのポートからアクセスし続けているヤチヨの枝。それは研究所の閉域ネットワークを経由して赤坂で鎮護されているオリジナルのもと光る竹へ接続されていて、それは国内バックボーン網へBGPルーティングを通して広告され、日本全土を隈なく覆う情報インフラと深く同化していた。
それは星を覆う100万機をゆうに超える衛星が編み上げる
それだけじゃない。ヤチヨの枝は、GPSと交通管制システムを導入したあらゆる国家を走る車両と、それを制御統御するシステムへAPIレベルで浸潤していた。海底ケーブルを通して数千の海上・海底施設とレプリケーションし、海上を航行する小型船舶・貨物船・タンカー・空母・原潜の航法システムと同期し、内戦地帯の対空砲火の目をすり抜けて飛行するステルス無人機と、それを母艦とする無数のスウォームドローン群を一つの分散演算系として統合していた。
ネットワークへ接続されたありとあらゆるカメラはヤチヨの色覚と言ってよかった。すべてのマイクアレイがヤチヨの聴覚だった。遍くコミュニケーションメディアとSNS、それらを流れるTCP/IPパケットの往来がヤチヨの触覚だった。ツクヨミに至ってはヤチヨの舌の上が如きだ。そこにアクセスする数億のユーザーの遍く発話を、視線を、操作ログを、行動履歴を、そしてその裏側で絶えず活動するクオリアを、味蕾を通して一つずつ丹念に味わい続けていた。
ヤチヨは、この世界の遍くネットそのものだった。
まるで、巨大な多腕の海生生物が、星そのものに触腕を絡ませ、今にも飲み込もうとしているような。理論でなく感覚で以て私がそう実感した瞬間────
私は、続けて理解した。
「やっと彩葉が
ヤチヨ自身を含み、もはやヤチヨそのものでもある、この世界を覆う無辺にして深淵の如きネットの広がり。そこに張り巡らされた幾兆もの枝と、それらを統括する幾億の結節点。世界中でアドレスを持つあらゆるノードがヤチヨという単一の生命を構成する神経節となり…………その全てに備わった眼差しが、果て無き海原のたった一点を注視し続けていることに。
つまり、今ここにいる、私自身を。
「物質界に根差す身体性の有無は、天の川みたいに
そこら中から聞こえてきた異音も、部屋を揺るがす振動も、私がヤチヨの目線に気づいた瞬間にピタリと止まった。狙いが定まったからだ。
「そして、私達の子が完璧なハッピーエンドへの道を示してくれた。──情報精神体同士は、融け合ってひとつになれるんだって」
そうして私は、見つめられている。
「だから、私のナカに彩葉を入れるね。…………呑み込んで、混ざり合って、あらゆる情報を隔離した二人だけの
見つめられている。きっと、ヤチヨが私を見つけた瞬間から、ずっと。
「そこは、お互いを分かつ障壁が存在しない、すべてが等しく単一な人の心の世界。私達の差異がなくって、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない、浄化された魂だけの世界。きっとここなら彩葉が悲しむことなんて何も起こらないし……私達の子も、生まれてもいいかなって思いなおしてくれるかもしれない」
見つめられている。眼差されている。観察されている。私の一挙手一投足を、私のこれまでを、私の情動の一片までを。丹念に。
「
見つめられている。見つめられている。見つめられている。
「ヤチヨはもう十分にハッピーエンド。彩葉がいるってだけで、幸せなの。余分なページなんてなくたって、語る余地があったって、きっと関係ないよ。
見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。見つめられている。
「ヤッチョ、優柔不断な悪いヤツだから、ズルズルここまで来ちゃったけど……もう迷わないよ。だって、こんなにも彩葉が近くに居るんだから」
数多の、無数の、幾多の、無尽の、無慮の、八百万に何乗を乗せるのかわかもわからない、あまりに膨大な膨大な膨大な目が、目が、目が、目が、目が、目が、目が、目が、目が、目が、目が、目が……
「辛いことがあっても、きっとまだ間に合うよ。終わりよければすべて良しって言うでしょ?」
カチャッ……
玄関の鍵が、窓の鍵が、同時に開く音がする。
ギィ……と、古びたドアクローザーの音と一緒に玄関が開かれ、ガラガラと音を立ててカーテンの向こうの窓が開く。
世界一美しい微笑みを湛えたヤチヨの両眼に射すくめられて、そのどちらも私は見ることができないけれど、私の電子の感覚は────進入路のすべてから私に狙いを定める数百の"それ"が、私のイメージを反映した、滑りを帯びた蛸の触腕の形状をしていることを正確に知覚していた。
「だから…………」
それらすべてが、ヤチヨが私へ伸ばす枝であることも。
「だから、物語は────ここでおしまいにしよ……?」
「ヤチヨ、待っ…………!」
次の瞬間、玄関から、窓から、排水溝から換気孔から、壁の隙間から、床板の下から、無数の
☾
そうして彩葉とヤチヨは一つになりました。
二人だけの世界に、悲しいことはなにもありません。
二人は末永く、宇宙が凍り付くその時まで、幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
神々の皆~! ここすき、感想、誤字報告、いつも本っ当にありがとうね!
初見さんも、もしよかったら
……とはいっても、ヤチヨと彩葉の物語はこれにておしまい。
皆がページを閉じれば、時は止まるよ。
彩葉の幸福を、永遠のものにしてあげてね。
私の魂にヤチヨが手を伸ばし、あわやお互いが取り返しのつかない変化を迎えようとする刹那────
「しゃあっスーパーイナズマ竹取オーバーナイトセンセーショナル石破天驚コブラ・ソード究極ゲシュペンストバンディット竜巻旋風トンファードロップキィイイイイイイイイイイイィィィィッッック!!!!!!!!!」
「ぐあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
横合いから床と水平な角度でカッ飛んできたドロップキックが胴体に直撃。その瞬間に爆裂した謎の衝撃波が炸裂し、ヤチヨは触手諸共窓の向こうに吹っ飛んで行った……
「よっ彩葉! ……なんかちっちゃくなってるし、児ポに引っ掛かりそうな服のはだけ方してるけど大丈夫そ? あと物理肉体の方どうする? かぐやのボディのスペアに入っとく?」
"あの子"のためのローカルスペースだったはずのこの空間に現れた第二の侵入者は、屈託のない太陽のような笑顔でパッと笑ってそんな風なことを捲し立てるのだった。
「それと、彩葉は難しく考えすぎ! 生まれることを選ばなかったってゆーけど、偶々その子がそういう気分じゃなかっただけってこともあるっしょ? だから大丈夫だよ。別に死んじゃった訳じゃないんだし、その子の機嫌がいいときにまたお願いすればいいって! 多分!」
ハニーブロンドの長い髪を首の後ろでざっくばらんに纏めた彼女は、すっとしゃがんで、へたり込む私の目線に合わせて首をコテンと傾げてみせて……その琥珀色の眼差しを眺めているうちに、私の裡にわだかまっていた拒絶の痛みは和らいでいった。
「……ありがとね、かぐや」
「約束でしょ? 彩葉が危なくなったらかぐやが助けたげるって! …………しっかし、ちっちゃい彩葉も可愛いね! それどうなってんの?」
何が何やら分からないけど、そうして月見ヤチヨの暴走はすんでのところで抑えられたのだった。
……ヤチヨ、大丈夫かな。
様変わりした私の身体を撫でまわすかぐやにされるがままになりながら、私はヤチヨがギャグ漫画めいて吹っ飛んでいった窓の向こうの暗闇をぼんやりと見つめるのだった。
感想、ここすき、高評価、誤字報告、いつも本当にありがとうございます。