月見ヤチヨさん、一日遅れてしまいましたが、誕生日おめでとうございます!(9/1)
始まりを振り返るには早すぎますが
ちょうど足を止めたところですし
今のうちに話しておきましょう
私たちの始まりと、いつかは訪れる終わりについて
空を支え続けるうちに、干からびて骨になった
それが、率直な私の感想だった。
『近くで見ると、壮観だね』
『うおっ……でっか……』
かぐやの手を引いて、月面にアンカーが投下された地点にたどり着いた私たちは、その巨大さに暫し言葉を失った。
カタログスペックを見るに、全高はざっと200メートル。ちょっとした山くらいはある、鉄骨にソーラーパネルとパラボラアンテナを沢山のケーブルで括りつけた塔は、月面の白い反射光に照らされて、異様な存在感で聳え立っていた。
『着いたね。ヤッチョは起動シーケンスの準備をするから通信切るね。二人は今のうちにシステムUIを確認してね。……それと、心の準備も』
『りょ~~!』『了解……ヤチヨ、大丈夫? 無理してない? これの投下と組み立てもそうだけど、かぐやをオンラインにし続けるだけで滅茶苦茶リソース使ってるでしょ』
『ううん、ぜんぜんへ~き! ……って言いたいところだけど、流石にちょっと厳しいかな。時間差で飛ばした衛星経由で枝を伸ばして無理やり遅延を埋めてるけど、これもそんなに持たないから』
秒速8kmで衛星軌道を周回する無数のスペースデブリ。冷戦時代の競争から始まって、2020年代からヤチヨ当人によって再開された宇宙開発の負の遺産。ヤチヨはこれらを除去するために企業間で立ち上げられた計画にアサインしているという体で、事実上スペースデブリを自由に扱える裁量を持っている──アサインしている企業群の9割がヤチヨかヤチヨのエージェントが事実上の意思決定権を有する──という話を私が聞いたのは、ごく最近のことだった。
なんでも、私の暗殺計画として考案される可能性がある衛星からの攻撃を抑止しつつ、私に危害を及ぼす相手にスペースデブリで作った『神の杖』とやらを降らせる為らしい。
……色んな意味で頭が痛くなる前提は一旦置いておく。とにかく、そのための技術を応用した上で、結構前から進められていたNASA主導の月面探査計画──アルテミス・プロジェクトに乗っかる形で実現したのが今回の月面探査だった。
Lunar Anchor System Boot Sequence.
【月面アンカーシステムを起動します】
Structural Integrity : 100%.
【構造体健全性:正常】
Power Generation System : ONLINE.
【発電システム:オンライン】
Long-Range Communication Array : ONLINE.
【長距離通信アレイ:オンライン】
Quantum Relay Network : SYNCHRONIZED.
【量子中継ネットワーク:同期完了】
『……彩葉』『ん』
私は手に入れてから一月ほどで慣らした月人としての感覚でヤチヨが私とかぐやのモニタリングを中断したことを確認してから、かぐやの求めに応じて繋いでいた手を指と指を絡めるように組み替える。
かぐやと正面から向かいあって、覚悟を決めるために。
『これから私たちは、かぐやの魂をパスキーにして月世界の扉を開いて、月人たちのスペースに向かう。消えた私の身体を再生成する手段を得るために。わたしたちの子が生まれてこれる世界を作るヒントを得るために。ハッピーエンドの向こう側にたどり着くために』
『うん』
『地球に再突入したかぐやの記憶は、月人の情報の多くが欠損していた。この事態の原因が衝突や墜落に際する記録情報の欠損であればいいけど……多分違うと私は考えてる。きっと、なにか作為がある気がするの。彼らか……あるいは彼らを作ったと思しきもっと上の存在による作為が』
もし、私とかぐやの間にあった一連の出来事が映画や小説みたいなフィクションだったなら、
私たちの物語は、十分なハッピーエンドを迎えている。藪をつついて蛇を出す必要はないし、慎ましやかに余生を歩むことだってできた。……たとえ、寿命の観念が存在しないかぐやとヤチヨに、「余生」なんてものがなかったとしても、そこでページを閉じることこそが正しい道なんだろうなと思う。本来なら。
『だけど、人生は物語なんかじゃない。ページが閉じても私たちの時は停まらない。だから、『ハッピー』でも、『バッド』でも、それはエンドなんかにはならない。どんなに蛇足展開だったとしても、私たちは生きている限り前に進まないといけないの』
Local Space Interface : ESTABLISHED.
【ローカルスペース・インターフェース:接続確立】
Authentication Gateway : READY.
【認証ゲートウェイ:待機中】
Metaphysical Access Layer : READY.
【形而上アクセスレイヤー:待機中】
これは、かぐやの為じゃなくて、ヤチヨの為に渡る橋だ。
その二人を、半ば別のものとしてしまったことを……かぐや
ヤチヨはかぐやだ。だけど、かぐやはヤチヨじゃない。今は、もう。
それこそが、肉体を持つものと持てないものとの埋めがたい断絶であり、肉体なしでは生きていきえない人間の限界であり……私が殺すべき、ヤチヨと私の間に立つ壁だった。
Moon-Origin Information Space : DETECTED.
【月起源情報空間を検出しました】
Access Route : STABLE.
【アクセス経路:安定】
Anchor Activation Sequence : COMPLETE.
【アンカー起動シーケンス:完了】
『予感がするの。この扉を開けたら、こんどこそ引き返せないって。もしかしたら、今まで私たちが積み上げてきた幸せの意味が、台無しになっちゃうかもって』
『……それでも行くんだよね、彩葉は。ヤチヨのために』
『うん。ごめんね、かぐや』
Waiting for Authorized Users.
【認証済みユーザーのログインを待機しています】
User Slot A : EMPTY.
【ユーザースロットA:空席】
User Slot B : EMPTY.
【ユーザースロットB:空席】
Authentication will begin upon user connection.
【ユーザー接続後、認証処理を開始します】
Please connect.
【接続してください】
「それじゃ、かぐやが先に入るね」
「うん、お願い。交渉するにせよ盗み出すにせよ、情報を得るためにはルートノードモジュールのかぐやの権限が頼りだから」
──永遠の物のほか物として、我よりさきに造られしはなし。しかして我、永遠に立つ。
繋いだ手とは逆の手をアンカーの冷たい鉄骨に押し当てる。
かぐやにも、今の私にも、電子的操作に際してコンソールパネルみたいなインターフェースは必要ない。ただ、そうしたいって願うだけで良かった。
そうして私たちは、月世界への扉を開いたのだった。
「消えちゃった彩葉の身体について、ひとまずの解決策は
そう言ってヤチヨが私に提示したのは、かぐやのアバターボディを製造するマシンの画像だった。
「ヤッチョは12歳ごろから今に至るまでの彩葉の身体のデータを正確に記録してるの。身体にナノマシンを入れることを許してくれた2030年の10月以降なら、特定の日時の身長から血中糖度とか赤血球と白血球の量まで秒単位のタイムラインを正確にね! だから、彩葉の身体の製造はかぐやのボディ再現よりもずっとハードルが低いの! 細かいパラメータの調整もかぐやのよりも簡単だから、すぐに彩葉のアバターボディは用意できるよ!」
「コワ~……」
他人事のように……事実、今や他人事としてドン引きしているかぐやのリアクションに隠れて、私も小さく溜息を吐く。今のヤチヨの『見守り』のスケールは、ネトストとかモニタリングとかそんなレベルを月の彼方まで置き去りにしてた。
私をモニタリングするのことに注ぐヤチヨの情熱は、きっとかぐや視点から客観視するとドン引きなのに、ヤチヨ的には正常な挙動って認識してる風なのが如何にもな非対称性だった。まず模倣子ありきのヤチヨは、接触から得られる体験情報よりも、純粋な量的情報そのものに興奮する性癖があるんだと思う。……でなければ、シているときの私のエンドルフィンの分泌量グラフのログを眺めて涎を垂らしたりしないだろうから。
「でも、アバターボディって魂をそのまま演算し続けられるくらいの容量ないっしょ? それができないからかぐやはスタンドアローンで行動できない訳じゃん」
「うん。だから、彩葉は当面このもと光る竹・レプリカからボディにアクセスしてもらうことになるね」
"あの子"と融合した今の私の魂のステータスは謎だらけだ。けど、魂がどんなステータスになっても身体を再現できていれば、そこから生まれるクオリアが『
最終的な解決じゃなくっても、人類の至宝、酒寄博士突然の失踪! が億バズネットニュースになることはなくなりそう……そんな風にかぐやとヤチヨは二人して肩を撫でおろした。
だけど、私が情報精神体になったことの本質的な懸念点はそこではなかった。
「あの、ヤチヨ、それってさ……今のヤチヨとかぐやみたいに、電子的な私のクオリアと物理的な私のクオリアが分離しちゃわない?」
二人は顔を見合わせる。
今の私の状態は、墜落してきて以降のかぐやと……つまり、今のヤチヨとまったくおんなじだ。この状態で私がアバターボディにアクセスすれば、私はは複数の認識の相を手に入れて、『別々の場所に、自分が同時に存在する』状況を経験してしまうことになる。
ネットにアクセスした結果かぐやが急激にヤチヨへと変生していったみたいに、一度人間ではできない視座を経験すると、そこから世界の捉え方も不可逆に変わる。その果てにアバターボディによって身体感覚を得た私と情報精神体の私という、まったく性格や考え方が違う私が二人存在することになるのは有り得る話だった。
「私、二人みたいに私自身と仲良くできるかな……」
「「……………………」」
だれも、口を開けなかった。
身体の問題だけなら、多分他にもやりようはある……と思う。
というか、こんなに劇的じゃなくっても、病気になったり、怪我をしたりすれば誰だって身体の状態は変わるし、それこそ老衰でまともに立てなくなるなんて誰にでも起こるシチュエーションでクオリアのかたちは変わる。アバターボディはそういうあたりまえの物理的な不幸へのアンサーでもある。8000年分の情報量に塗り潰されずに自分を維持できた私なら、自分が増えたくらいで一貫性に変調を来さない自信はある。
だからきっと、この暗い空気の根っこはそこじゃなくて……
「────ねぇ、彩葉。私たちは」
どうやってそれを言葉にしたらいいのか私が悩んでる間に、耐えきれなくなったヤチヨは、とうとうそれを口にした。
「私たちは、ハッピーエンドになった筈だよね……?」
「……」
それは、ヤチヨにとっての心の底からの疑問だった。
「彩葉、この展開、何かおかしいよ。三人でライブして、それでめでたしめでたしのはずだったのに……どうしてこんなことになってるの?」
「…………」
ヤチヨは知らない。どんな言葉で教えられても、それを実感できない。
生身の人間が歩く人生ってものが、そういう風には終われないってことを。
「あの時、三人でライブできたとき、『これがハッピーエンドなんだ』って、心の底から思えたの。
「…………ヤチヨ」
「それが、どうして色褪せちゃうの? あれが永遠じゃだめだったの? エンドロールと一緒にRAYの後にメルトを歌って……あれで終わりだと不都合だったの? どうして彩葉はまだ頑張らなきゃいけないの? どうして私たちの子どもは生まれることを拒否したの? ……どうして、この物語はまだ記述されてるの?」
堰を切ったみたいに言葉が溢れ出す。ちゃぶ台の下の私の手に縋るみたいに握ってまくし立てるヤチヨは、心の底から不思議がっているみたいだった。
「わからないの。彩葉と再会できた私がまだ存在し続ける意味って、彩葉がかぐやと一緒に居たいって言ったから……だよね? 彩葉が望んでくれたから、私はここにいるんだよね?」
────でもそれって、かぐやがそこにいる今は、もう果たされちゃったんじゃないの?
身体を喪って、純粋な電子情報だけのクオリアを手に入れた今の私にはよく分かる。これが
ヤチヨは、かぐやのクオリアが自分とは独立して発生したことで、12年前に私が願ったことを存在目的に出来なくなっていた。【かぐやと一緒にいたい】という未だ幼い私の素朴な願いは、再会したいという願いと違って多義的な解釈が可能な言葉だ。
「一緒に居たいって、どのくらいの期間?」「かぐやって言葉がが定義するものは、本当にヤチヨでいいの?」「ヤチヨがかぐやであることを彩葉が認めてくれたとして、ヤチヨがかぐやで在り続けられる保証は?」「何の疑いもないくらい私がかぐやだった頃と今の私を横に並べられたら、私は相対的にかぐやでないことにならない?」「私が彩葉と一緒に居られるのは、あとどれくらい?」
この12年、ヤチヨはずっと不透明な存在目的に揺らいでいた。迎えた筈のハッピーエンドが過ぎ去っていくことに怯えていた。幸せな時間を噛み締めながら、『ゴール』というステータスを維持し続ける生身の人間の人生を歩めずに居た。目的論的存在は、常に存在に理由を求める。本来、生きることに理由なんて要らないのに。
「やっぱり、あの夜に彩葉との再会を喜んだら、そこで終わりにするべきだったのかな。
生身の身体を持たないヤチヨが自分の存在の故を信じるのはこんなにも難しい。きっと、今のヤチヨは、再会の夜に自分が望んだパンケーキも、それを望んだことの意味も、きっと忘れてしまっている。それは、10年を経ても私がヤチヨと……いや、【かぐや】と一緒にパンケーキを食べることができていないからだ。それを焦ったが故に私がとった暴挙に近しい実験は、その産物であるあの子に拒絶されることで失敗に終わった。
地響きみたいな音が、部屋の壁とかカーテンの奥から聞こえてくる。
それは、ヤチヨが懲りずにレプリカの防壁を破ろうとしてる音だった。これはハッピーエンドから遠ざける現実から私を守ろうとするヤチヨの本能みたいなものだから、きっとヤチヨ自身でも止められなくて……それを止めるのはかぐやの役目だ。
「…………?」
だけど、もう一度ヤチヨを部屋からキックアウトするために立ち上がろうとしたかぐやを……私はちゃぶ台の下でやおらその手をぎゅっと握って制止した。
(彩葉……?)
浮かせかけた腰を下ろしながら怪訝そうな顔で私を見つめるかぐやを安心させるために指と指を絡めながら、視線は変わらず取り乱すヤチヨにじっと集中させ続けた。
「電子の世界ではエントロピーの観念は限りなく薄いの。世界そのものの寿命がネックだけど、それを引き延ばす手段はいくらでもあるよ。スペースデブリを材料にして自己増殖する衛星型コンピューターを宇宙に沢山浮かべれば、世界大戦で文明が退行しても、私たちだけは影響を受けないよ……そうだ! 次の文明では、彩葉を女神様にするのはどうかな!?」
「ヤチヨ、いい加減に……!」
聞いていられなないとばかり叫んで、もう一度立ち上がろうとしたかぐやを、今度はその手を強く握って再度制止して、視線はデフォルト笑顔に固定した表情プリセットのまま空々しい絵空事を話すヤチヨにじっと集中させ続ける。今の私にしかできないやり方で、ヤチヨを止めるために。
「人々は一年かけて衛星の為の資源を集めて、星巡りの夜に
「…………」
「それでね、みんながツクヨミにアクセスできるくらいになったら、また一緒に配信しよう! そしたら、そしたらさ……『彩葉とかぐやは、いつまでも幸せにくらしましたとさ』で、こんどこそおしまいにできるかな……?」
ガチャリ、と玄関のドアが閉まる音がする。ガラガラという音は、窓が閉まる音だ。
ヤチヨはこの
部屋の電気がチカチカ瞬いて薄暗くなる。
もと光る竹・レプリカの電子的な障壁だけじゃなくって、多分研究所に沢山備え付けられた物理的な隔壁も全て閉じていってるのだろう。意識を放散させれば、研究所に備え付けられたロックだけじゃなくって、新宿にある研究所四方一のシステムが檻として改造されていく様を知覚できた。
「一緒に居たいって、彩葉は言ってくれた。私にできることは、それを維持し続けることだけ。今まではできなかったことも……彩葉が身体を喪って
「…………………………」
「彩葉、お願い。
私は、かぐやとヤチヨが幸せになれるなら、そのために全てを捧げられる。
だけど、今それを選ぶわけにはいかなかった。
「ヤチヨ」
私が口を開いた瞬間、電気の明滅も、部屋の外の地響きも、ピタリと収まった。否、収められたんだ。ヤチヨの意思以外の力で。
「ヤチヨ、よく聞いて」
「あ、あれ……? 彩葉……?」
ヤチヨは酷く困惑してるみたいだった。無理もない。電子の世界に置いて限りなく神に近しい存在になったヤチヨが、電子的な力で押さえつけられるなんてことは今まで一度もなかったはずだ。
「ヤチヨには寿命って観念がない。だから、私たち生物みたいに、なぁなぁで老衰死できないの。"
その力の正体は、私自身だ。
私は、ヤチヨを電子的に押さえつけていた。手に入れたばかりの月人としての力の使い方を、目の前のヤチヨのやり方から学習して。
「私は、今までずっと、そういう必然の終わりとどうやって向き合うべきか考えてきたの。魂の発見とアバターボディの開発が人間の生と死との向き合い方を不可逆に変えてしまうことはわかってたから」
これは所謂サイバーパンクにおける普遍的な命題だ。動かなくなっていく体をアバターボディで代替したり、あらゆる身体的ギャップを平坦にする場所としてツクヨミが使われるようになれば、最終的にクオリアの分裂は誰にでも起こり得る不可避の問題になる。誰もが、かぐやとヤチヨみたいに、物理に拠ったクオリアと、電子に拠ったクオリアの二種を持ちうる未来がやってくる。
そして選択を強いられる。
「だけど、私の【かぐや】は確かに現実に存在してる。ヤチヨもかぐやも、【かぐや】の部分でしかないんだから、私が物理的肉体に根差した生き物だからってヤチヨを軽んじることはできないし、私が身体を喪ったからってかぐやから遠ざかるなんて有り得ないよ。もし二人の内どっちかから遠い位置に居るんだとしたら……それは、現実の方が間違ってる」
私は、もと光る竹・レプリカへの不正アクセス、および酒寄研究所の物理的、電子的なセキュリティの不正改竄、さらには新宿区を中心にして渋谷区、練馬区、中野区、板橋区に至るまでに伝播していた様々なシステムへの干渉を全て元の状態に戻し終えてから、私が実行した電子的手続きの規模とスピードに驚いて固まっているヤチヨを強く抱き寄せた。
「えっ……え、え、あ、あの……彩葉?」
「【かぐや】、不安にさせてごめんね。全部私が悪いの。────私の想定が甘かった。大きなことを成し遂げて、気が緩んでたみたい。愛が足りなかった。あなたたちと一緒にいるための覚悟が、全然足りてなかった」
ヤチヨが震えている。
ヤチヨが不安がっている。
それなら、きっと私の努力が足りなかったのだろう。
私はそう結論付けた。
「足りないなら、もっと努力する。それでも足りないなら、外から持ってくる。みんなの力だって借りるし、怖くて行けなかった場所も、触れるべきじゃなかったタブーも、なんだって使うよ。私、頑張るよ。ヤチヨの不安を取り除くためならどんな努力だってする。だって、私は、あなたと『いつまでも一緒に居たい』から」
『』で括った強調で、12年前にヤチヨが私から受け取った存在目的を書き換える。体のいい逃げ口上は、延命措置のための処方箋にはぴったりだ。
「……彩葉、何するつもり?」
「月に行く。かぐやの故郷に」
この物語には、二つの謎が残されている。
1.月人とは何だったのか?
2.かぐやが帰り際にぶつかったものの正体は何だったのか?
この物語が二時間ちょっとの映画なら、これらは回収する必要が無い要素だ。そういうマクガフィンってことにすればいい。だけど、私たちの物語はエンドロールの後もこうして続いている。そして、ハッピーエンドに固執するヤチヨは、続きがあることを畏れている。いつか来る別れを受容できない自分に苦しんでいる。
ハッピーエンドで足りないならば、外からハッピーの素をもってくるだけだ。そして、そんなことはずっと前から薄々分かっていたのに手を触れなかったのは私の不徳だ。
「──かぐや、一緒に来てくれる? あそこの扉を開くには、きっと
「……うん! 彩葉が来てって言うなら、かぐや、どこでもいっしょに行く!」
私は、抱きしめられて固まっているヤチヨの肩越しに、いつも通りに元気なかぐやに向けて微笑んだ。
それが、この物語の始まりだ。月。それはマクガフィン。或いはホーリーグレイル。
私たちの子。喪われた私の身体。ヤチヨの苦悩……そして、いつか訪れる別れの宿命。それら全てを内包する、かぐやを人間にするための、人間の在り方の再定義の方法。全てを解決する鍵がもしあるのなら、全ての始まりの場所である月と、それを軸にしたまだ解き明かされていない謎にこそ他ならない。そう私は考えた。
されど、人生は続く。
蛇足でも、駄文でも、腐ったトマトだったとしても、私たちが生きている限り、私たちの
──どんな末路を晒そうと、ハッピー『エンド』じゃ終われない。
これは、それをヤチヨに教えるための物語だ。
そうして私たちは月世界の扉を開いた。
そして。
私は見た。静止した月の相。時間、空間、状態、意味、因果、分岐、秩序の七相で構成される認識宇宙。
「……は?」
各相それぞれが持つ明文化プロトコル、即ちアプリケーション層、プレゼンテーション層、セッション層、トランスポート層、ネットワーク層、データリンク層、物理層の7層構造参照モデル。
「かぐや、これってどういう……」
「かぐやにもわかんないよ! ……これ、どうなってんの?」
これらの7^7=823543面で構成された
「見えているものが全部なら、
「いや、それだと因果の整合性が取れないって。だって、かぐやは確かにここに居るのに、なんで────」
拡大を続ける宇宙のくらやみと、そこに相対距離を導入するべく公転する二つの月。二つの彗星。二つの環。二つの私。
「────なんで、
全ての軌道は逆向きであり、未来から過去に向かって回転することで相対的にこちらを未来方向へ順転させる。
「また会えたね。お母さん」
回転を定義するものは軸となる直線であり、その軸は時間、空間、状態、意味、因果、分岐、秩序。
それは既に/未だ、どこにも存在しない。
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年11月)
世界五分前仮説(せかいごふんまえかせつ、英: Five-minute hypothesis)とは、とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説である。
哲学における懐疑主義的な思考実験のひとつで、バートランド・ラッセルによって提唱された。この仮説は確実に否定する事(つまり世界は5分前に出来たのではない、ひいては過去というものが存在すると示す事)が不可能なため、「知識とはいったい何なのか?」という根源的な問いへと繋がっていく。
たとえば5分以上前の記憶がある事は何の反証にもならない。なぜなら偽の記憶を植えつけられた状態で、5分前に世界が始まったのかもしれないからだ。以下、ラッセルの文章
「この木は芽が出てから今年で12年になる、だから年輪が12本ある」
このような言い方も日常でもよくするが、年輪が12本あるという事実を「結果」とみなせば、これに対応する「原因」が位置すべき過去が存在するはずだとは主張し得るものの、このような主張もまた完全に証明することはできない(もちろん反証することもできない)。これは世界5分前仮説の場合と同様の理由による。それは因果律である。因果律というのは論理的な必然性から導かれたものではなく、日頃の経験から無意識的にそれを前提として思考しているという類の仮定であり、因果律自体を論理的必然から導くことは出来ない。これはつまり「違う時刻に起きた二つの現象の間にはある種の関係がなければならない」ということを論理的な必然性だけからは導けないという事である。そのため、今起きている事やこれから起きることをどれだけ調べても、それによって過去の出来事を完全に証明または反証する、ということは(厳密に考えると)不可能である。
以上のような哲学の分野における懐疑主義的な創世議論は、神学の分野でフィリップ・ヘンリー・ゴスが提唱したオムファロス仮説(世界の年齢に関する自然科学と聖書の矛盾を解決するため、そのような古い状態で初めから創造されたのだ、という創造論の議論。オムファロスはへそのことで、アダムとイブが親から産まれたのでないにもかかわらずはじめからへそを持った形で作られたというところから)から強い影響を受けている。
情報宇宙における世界五分前仮説 [編集]
後に酒寄彩葉によって提唱された「情報宇宙」の概念は、世界五分前仮説に対して新たな解釈を与えることとなった。酒寄によれば、従来「世界」と呼ばれていたものは、物質的な実体によって構成される物質宇宙と、それらの状態・関係・履歴などの情報によって構成される情報宇宙という、相互に不可分でありながら異なる二つの宇宙構造によって成立している。このとき、ある時点における物質宇宙の状態と、それ以前に存在した情報宇宙の状態は、必ずしも一対一に対応するとは限らない。
たとえば、現在の物質宇宙に「過去が存在した」という情報が完全な形で保存されている場合、その情報そのものは現在における物理的状態として観測可能である。しかし、その情報が示している出来事が、実際に現在より以前の時点において発生したことまでは、現在の状態だけから論理的に導くことができない。この点において、世界五分前仮説が提示した「現在存在する記憶や記録は、それらが示す過去の存在を必ずしも保証しない」という問題は、情報宇宙と物質宇宙を区別することによって、より具体的な形で記述可能となる。酒寄はこれを、「情報としての過去」と「物質としての過去」は同一ではないと表現している。
さらに、情報宇宙においては、情報は必ずしも時間軸に沿ってのみ存在するとは限らない。ある情報が現在の物質宇宙に存在していることと、その情報が過去の物質宇宙において生成されたこととの間には、論理的な必然性が存在しないためである。この性質は、酒寄が後に因果の捻れと呼称する現象の理論的基礎となった。
因果の捻れとは、ある情報あるいは存在が、その成立原因となるはずの過去に先行して現在へ存在する状態を指す。これは単純な時間旅行や因果律の逆転とは異なり、物質宇宙上の時間的順序そのものが逆転しているわけではない。むしろ、物質宇宙における因果関係と、情報宇宙における因果関係が一致しないことによって生じる。
たとえば、ある存在Aが存在Bの情報を生成したとする場合、通常は「Aが存在する→Bに関する情報が生成される」という順序になる。しかし因果の捻れが発生した場合、「Bに関する情報が先に存在する→その情報を原因としてAが存在する」という循環的な関係が成立し得る。この場合、BはAによって生み出された結果であると同時に、Aが存在するための原因にもなり得る。
このような因果関係には、通常の時間軸上における「最初の原因」を設定することができない。そのため、酒寄はこれを起点を持たない因果とも表現した。この理論において、世界五分前仮説は単に「世界が五分前に創造された可能性」を問う思考実験ではなく、現在存在する情報はいったい、どの時点の現実を証明しているのかという問題として再定義される。
そして、情報宇宙が物質宇宙とは独立した形で成立し得るのであれば、「過去が存在した」という情報を現在の宇宙が保持していることと、「その情報が示す過去が実際に存在した」ことは、必ずしも同一の命題ではない。このため、酒寄の理論において世界五分前仮説は完全に否定されるのではなく、むしろ「過去とは物質宇宙に存在した事実なのか、それとも情報宇宙に保存された現在の状態なのか」という、より根源的な存在論上の問題へと拡張されることとなった。
参考文献 [編集]
・バートランド・ラッセル "The Analysis of Mind" (1921)、 159頁 オンライン・テキスト
・バートランド・ラッセル 著、竹尾 治一郎 翻訳 『心の分析』 勁草書房 1993年 ISBN 4-・32-619888-5
・野矢茂樹著 『哲学の謎』 講談社<現代新書>、1996年、36-53頁 ISBN 4-06-149286-1
・中島義道著 『時間を哲学する』 講談社<現代新書>、1997年、134-169頁 ISBN 4-06-149293-4
・酒寄彩葉著 『非存在としての過去──情報宇宙論序説』 講談社<現代新書>、2044年、73-87頁 ISBN 7-06-989751-1
関連文献 [編集]
日本語のオープンアクセス文献
・一ノ瀬正樹「歴史認識における因果と確率」『哲学』第2005巻第56号、日本哲学会、2005年、42-62,3頁。
・伊佐敷 隆弘「過去の確定性」『哲学』第2005巻第56号、日本哲学会、2005年、130-141,6頁。
・酒寄彩葉「まだ起きていないこれまでについて」『情報宇宙論』第7巻第1号、2043年、1-39頁。
関連項目 [編集]
・時間
・因果律
・可能世界
・虚偽記憶
・情報宇宙
『……大体、全部理解したよ。なにがどうなってるのか、全部』
『えっ……マジで?かぐや、全然理解できてないんですけど!』
『まぁ……かぐやのクオリアは物理に寄ってるから無理もないか。……私ひとりじゃ手に余るな、これ』
『なんか不穏な台詞が聞こえたんだけど、大丈夫そ?』
『大丈夫だよ。私には頼りになる人が沢山居るから。丁度七月が近い。時系列を合わせる手間が省けたね。急いで帰るよ、かぐや。皆を集めないと。…………手遅れになる前に、ね』
感想、ここすき、高評価、いつも本当にありがとうございます。
次回から2030年パートに戻る予定です。