時系列的には2029年の頃の話なので、後にその辺りに話の配置をスライドする可能性が高いです。
これまでの前後の話と直接的な繋がりはありませんが、作者のヤチヨへの感謝の気持ちを込めて書いたので、読んでいただければ幸いです。
私の推しに、誕生日は存在しない。
……というより、「無い日」が誕生日だ。
『ヤッチョの誕生日は8/32日、つまり「無い日」だよ!』
『ヤッチョはAIなので、生きている訳でも死んでいる訳でもないのです。グノーシス的には"
『じゃあなんでなんで8月なのかって? そだね~~……神々のみんなは、永遠に保存しておきたい思い出ってある? 私にはあるよ! 何もかもが楽しくって、キラキラして、愛おしくって、大好きだった、そんな季節! ヤチヨの8000年は、そんなどこにもない夏の続きなんだ~! ……続きって言うか、エピローグみたいな?』
『祝い辛いって? う~ん……じゃあさ、逆に考えてみるべし! 普通だったら1日だけの誕生日を、8/31と9/1の2日間連続でお祝いできるんだよ?これってとってもお得!お得すぎてオートクレールになったわね……』
『「それが狙いだったか」って? あはは~バレちった! ……ってのは冗談だけど、無理にお祝いしなくてもいいよ! でも、誰も何もしてくれなかったら拗ねちゃうかも……なんちって!』
というのが、直近の月見ヤチヨへのインタビューにおける彼女の言及。
何故8/32なのかについてはインタビューの度にころころ変わるけど、そういうはぐらかしをするときは、ヤチヨにとって大事なことだっていうのがファンダムの共通見解だった。
ヤチヨが時折見せるそういう翳りを帯びた側面は、触れるべきか触れざるべきかも含めて議論の対象になることが多い。けど、こと誕生日については、膨大な分母を持つが故に数多のクラスタが乱立するヤチヨファンダムにおいても、概ね「お祝いしよう」という空気は共有されていた。
「でも、無い日じゃん。どうやってその日にお祝いすんの?」
自分に課した今日の受験勉強タスクを終え、寝るまでの間の自由時間。マンスリーミッションを消化すべく芦花と真実と三人でSENGOKUのカジュアルマッチを回した後、流れで解散するまでの雑談チルタイム中のことだった。ヤチヨの話題になったとき、私はなるべく自分のキモ・オタクぶりで親友二人を引かせないように、努めて客観性を保ち、情報量を絞った解説を試みていた。
「えっとね……『夏の続き』ってヤチヨの言葉を遵守して前日の8月31日にやる派閥と、『普通に考えて31日の翌日が32日だろ』ってことで9月1日にやる派閥の二つが主流、かな」
「SNSだとなんとなく夏休み終わりくらいにトレンドに乗ってるイメージしかなかったけど、あったんだ。そんな宗派争いみたいな感じのやつ」
「古暦派と新暦派の祭日解釈バトルだ! そっち関連の洋菓子レビューするとき、クリーチを食べる日付で炎上しかけたからちょっと覚えてるな~~……」
「別に対立ってほどのものじゃないよ。お祝いしたいファンはどうあれその二日のどっちかを選ばないといけない訳だから、結果的に二分されがちってだけ」
ほへ~と感心する二人のリアクションに、私は上手く説明できたことに内心肩を撫でおろした。返す返すも、この話題に関して私が平静を保つ為には最大限の努力が必要だった。何故なら……
「──じゃあさ、彩葉はどっち宗派な訳? 31日派? 1日派」
「…………へ?」
「へ? じゃないでしょ。だって、さっきから彩葉がこっそり描いてるそれ、ヤチヨの誕生日にupするイラストじゃないの?」
「え、そ~なの!? 彩葉、絵も描けるんだ~~! 見して見して~~!!!」
ソファーの影に隠して二人から見えないようにしていたお絵描きアプリのウィンドウを芦花にあっけなく看破されてしまった私は、動揺の隙にソファーのこっち側に回りこんできた真実に稚拙な作品の出来栄えを覗かれてしまった。
「うわっ……すっごい綺麗なヤチヨ……しかも背景まで書き込んでる! さす彩~~!」
「どれどれ~? わぁ……彩葉、ホントになんでもできるんだね。天才過ぎてちょっと引くわ……」
「ま、まぁ練習したから、このくらいはね……それに、デジタル絵って時間かければ誰だってそれなりのが描けるし!」
動揺したせいでウィンドウの非表示ボタンのタップを何度もミスって10秒以上も長々と不出来なモノを二人に見せてしまったことの言い訳をしどろもどろに口にする。
……だからこの話題は客観性を保って話したかったんだ。私なんかが何かをヤチヨに贈ることの愚かしさのことを想えば、こうして大の親友二人に見られることすら恥ずかしくて仕方ない。
「めちゃ良いイラストだと思うよ! それどこにいつ上げるの? イラスト投稿サイト? もしかしてこれまで描いたのとかも見れたりする~~?」「それ、あたしも興味あるな。もっと彩葉が描いたもの見てみたいかも」
「デジ絵描くのは初めてだから、練習用のがいくつかあるだけだし……そっちの出来はもっと酷いからとてもじゃないけど誰にも見せらんないよ……!」
そうして私は大げさに褒める二人の矢継ぎ早な追及をなんとか躱して、「遅いからそろそろ寝るね!」という捨て台詞を背中に吐いて私はプラベから逃走した。
……油断した。納得のいくクオリティのものができなくて、それを何度も手直ししているうちについ楽しくなってしまって、芦花と真実が居る場所でも思わず誕生日用のお絵描きに着手してしまった。
こんな誰にでも描けるようなものを褒めてくれる二人の優しさが身に染みるけど、世の中はそんなに甘くないのだ。この程度の絵なんて掃いて捨てるほどSNSに溢れかえるのがヤチヨの誕生日だし、そんなものを、こんなしょうもない女が描いているというマイナスポイントも合わせれば、逆にヤチヨにとって迷惑ですらあるのだから。
……だけど。
『感謝言うんは、相手と自分の両方にするんやで、彩葉。それが自分にとってどんな風に得難いものだったのか。口にせぇへんと自分でもはっきりわからんモンやからな』
そんな母の言葉が、私をこの愚行へと突き動かしていた。
実際その通りだと思う。
「ヤチヨのために」なんて動機を私が持つのは烏滸がましいにもほどがある。それでも、馬鹿な私自身にヤチヨの輝きを再確認させるための儀式だと思えば、とても必要なことなように思えた。
(もうちょっと眼に情報量足して、背景の色調を調整して……そしたら最低限のラインにはなるかな)
ツクヨミから部屋に戻った私は、スマコンをARモニターモードに切り替えてイラスト作成に再着手する。手直しに手直しを重ね、ゴミのような出来栄えをレイヤーを重ねて誤魔化し続けた結果1000枚近いレイヤー数へと膨れ上がったヤチヨ誕おめFA メイドバイ彩葉の全体図を再確認して、私は小さく舌打ちした。
絵を描く過程で、作品のあまりの不出来さに何度もタブレットを叩き折りたい衝動に駆られた結果、今ではARモニターで虚空にペンを走らせる方法に落ち着いていた。
こんな出来の絵ではヤチヨの美しさの1%も表現できていないけど、それでも時間は有限で、いよいよ明日が8/31日だ。このあたりで妥協しないといけなかった。
自分の才能の無さに吐き気がするけど、才能の有無を言い訳に使うほど情けないことはない。人は自分の手札で戦うしかないのだから(これも母の言だ)。
「努力が足りない、努力が足りない……」
腹いせにぶつぶつと自分を呪いながら、私は新しいフォルダの中に作成したレイヤーに名前を入れる作業に取り掛かった。明日は夏季講習が無い。バイトはフルタイムで入れているものの、店が開く前の時間と休み時間、そして今日削れる睡眠時間の上限を足した6時間はイラスト作成に充てられる予定なのは幸いか。それまでに、もう1%くらいはヤチヨの美しさを引き出せるようにしたかった。
……とはいえ、このイラストが如何に不出来であろうとも、完成品を誰にも見せる予定が無いことだけが救いと言えば救いだろうか。
『──じゃあさ、彩葉はどっちにお祝いする宗派な訳? 31日派? 1日派?』
「……どっちでもないよ、芦花」
31日に上げるのも、1日に上げるのも、どっちでも32日に届かないなら大差はない、というのが私の解釈だ。なので私はどちらでもなく、或いはどちらでもある超少数派閥に位置している。
「そうだった。今のうちにタイマーセットしとかないと……」
大事なタスクを思い出させてくれた芦花に感謝しながら、私はタスクスケジューラーを起動した。
「……2029年、8月31日、時刻は……23:59:59.9。よし、これで大丈夫」
タスクスケジューラーは、PCに特定のタスクを決められた日時に行わせるOSのデフォルトアプリケーションだ。
そして、私が入力したタスクは、このファイルを含む今回作成したヤチヨイラストを、23時59分59秒に
────どこにもない日に贈るプレゼントなら、焼いて送るのが一番良いよね。ヤチヨ。
地上の穢れに塗れて、私の汚い手垢がベタベタついた贈り物が、無いだろうとはいえ万が一ヤチヨの眼に止まる可能性があるネット上に存在するなんて有り得ないし、それがこの世にあること自体が恥ずかしくって仕方ない。
だから流してしまえば良いというのは、小学生の私が考えたにしては名案だったなと今でも思う。
灯篭流しのように、スカイランタンのように、送り火のように、ロイクラトンのように。ここではない何処かに届ける過程で、そこに付着した醜いものが消えてくれれば良いな、なんて。
夢見がちな自分を小さく冷笑して、私はタイマーのOKボタンを押したのだった。
☾
最初の年は、ヤチヨをイメージした全30分間の楽曲だった。ちょっとピアノを齧ったけで作曲の作法もろくに知らないガキが作ったこれはまぁ無残な出来で、とても誰かに聞かせられたものじゃなかった。それでも私は『感謝は自分と相手にするもの』という言葉を思い出して、惨めさに泣きながら曲を完成させた。自分の才能の無さを言い訳にしないで、努力の下手さを呪うことを学んだ、得難い夏の思い出である。下手くそな癖にファイルサイズだけは無駄に大きかったせいで、削除し終わったタイミングはぴったり0時00分とはいかなかったのも最悪だったけど、その失敗はタスクスケジューラーの登用という形で今に至るまで活かされている。
音楽に見切りをつけた次の年は詩を書いてみた。図書館で沢山の詩集を借りてきて詩がどういうものかを勉強して、私が愛するヤチヨとツクヨミの夜の闇のような穏やかさをなんとか表現しようと頑張ったけど、語彙なし感性なしのガキが著名な作品のうわべだけなぞってもろくなものはできなかった。200kbほどのファイルサイズに収まったそれを0時ぴったりに削除しながら、私はもう二度と詩は書かないと誓った。
その次の年は刺繍だった。母にバレない様に隠れて作っていたせいで作業効率が悪くって、仕方なく学校で練習をと思って手芸部に教えを乞うたのが間違いだった。何故か私の周作を見て気が変になった顧問の先生と当時の部長の熱烈な勧誘と、『酒寄さん! せめてこれはコンクールに出展しましょう! 捨てちゃうのはあんまりです!』という意味不明な粘着から逃げ惑うのに多大な労力を要したせいで学校でもあんまりできずじまい。最低限のクオリティに達するために八月最終週は4徹したせいで指もメンタルもボロボロになった。挙句、初の物理的な作品だったせいでどうやって消したものかを考えるのを忘れ、深夜に家の火災報知器を起動させてしまったのである。母が怒りを通り越して心配そうな顔で私を嗜めたのはあの時くらいだろうか。ともかく、失敗続きだったので刺繍は二度とやらないとその時誓った。
その次の年は10万字くらいの小説を書いてみた。人魚姫になぞらえたストーリーラインで、「私」とヤチヨ本体から切り離されたヤチヨの分身の交流をテーマに、文庫本一冊に収まる程度の長さに押し込んで。褒められるところは起承転結の体裁がとれていたことと、読み苦しさを排除できていたくらい。読み返してみると私自身の願望と醜さが出過ぎててとても誰かに読ませられたものじゃなかったけれど、一昨年の詩である程度慣れていたことと、その為に一年かけて小説の書き方を勉強していたおかげで今までで一番マシな出来栄えだったと思う。……だけど、練習の途中で母に小説家を目指していると勘違いされて、『目指すんならこういう勉強して、こういう本を読め』って口出しされそうになったのが最悪だったので、それ以降小説は断念した。
次の年はフラワーアートを。その次の年は金属加工を。
色々試しては見たけれど、結局ヤチヨに見せられるようなものができたことは一度もない。そのたびに私は至らない自分自身に泣きそうになりながら作品を消して、燃やして、溶かしていった。
こんなどうしようもない私でも、ここではない何処かの夏へ、せめて感謝の想いだけは示せたことを、どうかどうかと祈りながら、毎年同じメッセージを添えて。
月見ヤチヨ様へ
誕生日おめでとうございます。
あなただけが私の光です。
あなたが居てくれるから
こんなどうしようもない私でも、生きていてもいいんだなって思えます。
良まれてきてくれてありがとう。
大好きです。
酒寄彩葉より
☾
そして、そんな自分のくだらなさを確かめる瞬間が、今年もまたやってきた。
2029年8月31日、時刻は23時57分。
夜なべして描いたイラストの出来栄えは……まぁ5%くらいは向上しただろうか。合格点には程遠いけど、芦花と真実の優しい褒め言葉が例年の誕生日よりも私に自信を与えていた。
自分自身のことは幾らでも面罵していいけれど、親友の言葉を嘘扱いするのはいくらなんでも筋が違うと思う。お世辞からくる優しい嘘だったとしても、それがホントだったと思い込んでみせるのが友情ってやつだと私は信じている。
「……ありがとう、芦花。ありがとう、真実。二人とも大好きだよ」
感謝とは、自分と相手の両方にするものだ。こうして口にするだけで、二人の優しさが改めて身に染みるようだった。二人とも私なんかには勿体ない素敵な友人だと、自分だけのワンルームで一人口元を綻ばせる。
「……っと。もう時間か。危ない危ない」
時刻は23時58分25秒。私はタスクスケジューラーがきちんとセットされていることを確認して、その上で万が一もないようにコマンドプロンプトにファイル指定削除コマンドを打ち込んで、あとはエンターキーを叩くだけの万全の体勢が既に整っていることを最終チェック。
「3,2,1…………ハッピーバースデートゥユー……」
時刻は23時59分01秒。ここからこの拍で歌い始めれば歌い終わる頃に定刻になるってタイミングで、私は隣室に配慮した小さな声で、ヤチヨの誕生日を祝う歌を歌い始めた。
「ハッピーバースデートゥユー……ハッピーバースデー ディア、ヤチヨ……」
ウィスパーボイスで、だけどせめて感謝の念だけは表現できるようにと途中から目を閉じて、喉に力を込めて歌う。瞼を閉じる一瞬前、ノートPCのカメラ横のランプが点灯したような気がしたけれど、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「ハッピーバースデートゥユー……おめでとう、ヤチヨ」
歌い終わると同時に目を開ける。時刻は23時59分56秒。ナイスタイミング。
57、58、59
こんなに満ち足りた思いでこの日を迎えるのは初めてだった。
私は芦花と真実にもう一度感謝しながら0時0秒ジャストにタスクが起動して、ヤチヨへの感謝の想いを詰め込んだイラストがこの世から消滅する様を見届け────────
ブツン!
「は?」
その瞬間のことだった。
「な、何!? 停電!? ブレーカー落ちた!?!?」
時刻は0時0秒ジャスト、だったと思う。
日付を跨いだ瞬間、部屋の明かりと言う明かりが、なぜか、バッテリーで駆動するスマホからノートPCに至るまでの全てが………………突如として消えてしまったのだった。
☾
現在時刻は0時。分から先は暗くて見えない。
私は慌ててスマホとノートPCの再起動を試みたけど、どちらも電源ボタンを長押ししてもうんともすんとも言わなかった。
「何が起こってるの……?」
あきらかに異常事態だった。何が起こっているのかは分からないけど、真っ暗な場所でじっとしているわけにもいかない。そうして窓から差し込む月の光で辛うじて捉らえれる室内の輪郭を頼りに玄関のドアを開けてみた私はびっくりした。ドアを開けた先の外の景色が、あまりにも暗かったのである。
「街灯も消えてる……ってことは、区画ごと停電したの?」
暗かったから確認は後回しにしたけど、ブレーカーが落ちている可能性はこれでなくなった。
ひとまずどうしようもないのでドアを閉じて室内に撤退した私は、月明かりに照らされた暗い部屋に戻っても、相変わらずスマホとPCの画面は真っ暗なことを確認して深々と溜息を吐いた。
「どうしよう……」
通電しなくなった冷蔵庫の中身とか、明日の予習とか、そんなことは今はどうでもよかった。私にとって気がかりだったのは、PCが落ちる瞬間に、画像ファイルがきちんと消えたかどうかの自信がなかったことだ。
……あくまで自分ルールの誕生日会だ。絵を誰かに見せる訳でもないし、ましてやヤチヨ当人が居るわけでもない。イラストを"送る"タイミングがいつになろうと、何かが変わるわけでもなかった。
だけど。
「ヤチヨ……」
感謝とは、相手と自分にするものだ。
誰かに感謝することは、それがどれだけ得難いものだったのかを再確認する儀式だと教わった。だから、それが行えなかったかもしれないことが、私は酷く悲しかった。
日頃どれだけヤチヨに救われているかもわからないのに、その感謝のひとかけらも示すことができないまま彼女の誕生日を通り越すなんて……私はヤチヨのファンとして相応しくないのかもしれない。というか、相応しくないのだろう。こんなこともまともにできないなんて、流石に愚図にも程があった。
(もう、三分以上経ったよね、多分……)
"送る"時間がずれたのは初めての誕生日以来だし、その時だって数秒のラグがあっただけだった。つまり、私は小学生のときよりも退化しているということだ。
どうか上手く消えていて欲しい。どこにもない場所に贈られていて欲しい。だけど、もし消えていなかったら……
目じりに涙が浮かんでくるのを止められなくて、小さく鼻を啜る。泣いても状況はなにも好転しないって昔母に怒られたけど、それでも今は、ただただ悲しい気持ちが零れそうだった。
(来年からは、もうお祝いするの、やめよっかな)
────その資格がなかったのに、大それたことをしようとしたバチが当たったんだろう。
そうやって諦めて、くらやみの中を手探りで敷いてあった布団に潜って、微睡が胸の痛みを麻痺させてくれることに期待しようとした時のことだった。
ピロン♪
「うっ……眩しっ……」
真っ暗だった部屋の真ん中に、突然別の光源が燈って、私の腫れた目を白く焼いたのは。
光源に目をやると、真っ暗だったノートPCの液晶に、再起動を示すBIOSのロゴが点灯しているのが見えた。
戻った、のかな?
私は寝間着の袖で涙を拭って、ちゃぶ台の上の方にのそのそと這い寄った。
どれだけ情けなく失敗したとしても、自分で生み出したものは責任を持って処分しないといけない。私は心底情けない気持ちでちゃぶ台の前に座り直して、原因不明の機能停止からノートPCが復帰するまでを見守る。
なにかしらの動作不良を危ぶんでいたけれど、ブルースクリーンになるようなこともないまま、滞りなくPCは立ち上がった。……よし。これでイラストファイルがどうなっているのかをまず確認して、消えていたら万々歳。消えていなかったら残念だけど諦めて手動で消そう。
(それが終わったら、スマホとか、ブレーカーとか、おかしくなってしまったものの様子を見に行かないと)
私は、気を抜くとそのまま後ろに倒れこんでしまいそうなくらいに萎えた気勢を、義務感だけで支えながらログインの為のpinコードを素早く入力する。
失敗してしまったものは仕方がない。どれだけ泣いても状況は好転しないんだから、受け入れてやっていくしかないのだ。
そして。
そうしてデスクトップに戻ってきた私は、まずはファイルがきちんと消えているかどうかを確認するためにエクスプローラーを開こうとして、その前に現在時刻が0時0分からどれくらい経ったのかを確認しようと思い立って、視線をタスクバーの右下にずらして。
そうして私は、今度こそ絶句した。
現在時刻は0時00分。
その下に表示されていた日付は……
私の推しに、誕生日は存在しない。
というより、「無い日」が誕生日だ。
「嘘でしょ……」
そして私の目の前には、そんな「無い日」の日付がはっきりと表示されていたのだった。
☾
「────ゆ、夢か?」
数秒間固まっていた私だけれど、いくら日付の表示を見つめてもそれが変わる気配はなくって……部屋はノートPC一台の液晶以外は相変わらず暗いままで、スマホの電源もつかなくて、窓のそとからは月の光以外の光源が消えていて。
なにもかもが非現実的で、私はなんだか怖くなってきた。
これは流石に夢じゃなかろうか。ヤチヨへの誕生日イラストを
そうして漫画や小説よろしく自分の頬を抓って痛みを感じるか試そうとして…………
(…………いや)
試そうとして、私ははたと思い直した。
「もしかして、これってすっごくラッキーなことなんじゃ……」
私の推しに誕生日は存在しない。
というより、「無い日」が誕生日だ。
そして、今私は少なくともノートPCの表示の上ではその「無い日」のただなかに……世界で誰よりも祝福されるべき、8月32日の中に居る。誰もその日を直接祝えない、存在しない夏の続きに。
「……夢でも、いい。夢でもいいんだ」
もしこれが夢の中なら、私以外にヤチヨを祝える人は居ないのだ。
ヤチヨを祝いたい誰もがその前日と翌日を祝うけど、私はこの夢の世界でただ一人、ヤチヨを直接祝える立場にある。そんな在り得ない話がもしあるんだとしたら……
「恥ずかしいけど……私以外に居ないなら、やるっきゃないっしょ!」
私は半ば確信を持って、エクスプローラーから画像が入っているフォルダを探して……ほら、やっぱり消えてなかった。
私はほっと胸をなでおろす。
さっきまではあんなに消えていて欲しいと願ったものが消えていなかったことに安堵しながら、今度はツクヨミ公式のチャットアプリを立ち上げる。
端末の時刻が狂っているのに……多分WiFiの電波も飛んでいないのに、それを起動しようとすることに意味はあるのか、とか。そんなことはどうでもよかった。どうせ夢だ。夢なら、何もかも都合が良いように機能するはず。
私はチャットのメッセージ欄からヤチヨchatを開いて、そこに素早く自分が描いたイラストを添付して、そこにいつものメッセージを打ち込んでいく。PCがオンラインなのかオフラインなのかは、あえて確認しなかった。
月見ヤチヨ様へ
誕生日おめでとうございます。
あなただけが私の光です。
あなたが居てくれるから
こんなどうしようもない私でも、生きていてもいいんだなって思えます。
良まれてきてくれてありがとう。
大好きです。
酒寄彩葉より
……なんか、暗いな。
というかネガり過ぎだ。誰にも見られていないならいいけど、ヤチヨ本人に送るなら、こんな思春期全開の自分語りをしても迷惑なだけだ。
いくらかメッセージを訂正すると、私は躊躇いなく送信ボタンをクリックした。
「送っちゃった……」
不思議と、恥ずかしいとも申し訳ないとも感じなかった。多分、これが夢だからだろう。夢の中には、私よりも立派で、私よりもヤチヨの誕生日をお祝いするに値する人は誰も居ない。比較される対象がないなら、気を張ったり、自分を貶めたりする必要もなかった。
それでも自分の作品の出来栄えには欠片も自信はないけれど……それでも芦花と真実の褒め言葉だけは、確かにこの作品に対して与えられたものだった。比較対象が居ないなら、あとはそれを信じて、ヤチヨが生まれてきてくれたことに感謝するだけでよかった。
私は満ち足りた気持ちでノートPCをぱたんと閉じると、今度こそ床に就く。
実際の現実できちんとファイルが消えているのかどうかは、明日確認すればいいことだ。それに、もし消えていなかったとしても、今はあんまり気にならなかった。
感謝とは、自分と相手にするものだ。
今回は、何にも気後れせずにそれがきちんとできた気がした。
それがなによりも嬉しくて、満ち足りて、幸せだった。
大切な人をお祝いするだけでこんなにも幸せな気持ちになれるなんて、誕生日というのはなんて素敵なイベントなんだろう。
「生まれてきてくれてありがとう、ヤチヨ」
私は万感の想いを込めて最後に小さく呟くと、明晰夢を終わらせる為に、夢の中で眠りについた。
来年はどんなお祝いをしようか。
そんなことを考えながら。
『────緊急のニュースです。本日未明、東京都立川市一帯で大規模な原因不明のネットワーク障害が発生し、スマートフォンやパソコンなどのコンピューター全てが一時的に────』
『────警察は、大規模なサイバーテロの可能性を考慮し、緊急調査を────』
「ヤチヨ、どうだ、受け取れたか?」
「…………」
「最後の年だから大目に見るけど、今後はこんな真似はしないでくれよ、ヤチヨ」
「…………………………」
「彩葉のためなんかじゃなくて、純粋なお前の私利私欲でネットワークを恣にしたってことを……聞いちゃいないか」
「……………………………………………………ぁ」
ヤチヨは、彩葉から送られたイラストと、そこに添付された短いメッセージを食い入るように見つめて固まっていた。
月の夜、青い光を浴びながら、小舟に座って水面を覗き込む月見ヤチヨを描いた一枚絵。
やや高い位置から俯瞰するような視点から描かれるそのイラストは、透き通った水面下のサンゴ礁と、そこを泳ぐ鮮やかな魚の群れが月光に照らされて煌めくさまが、丁寧なタッチで描かれている。
そして、それを船上から愛おしそうに眺めるヤチヨの眼差しと微笑みの繊細さの妙は、この絵の描き手が月見ヤチヨをどれだけ想っているのかをこれ以上なく如実に示していた。
拡大すれば、月光の当たったヤチヨの髪の一本一本に細かいハイライトを入れていて、その色彩の微妙なグラデーションを表現するために何十枚ものレイヤーを重ねたであろうことが伺える。
水面、海中、そして広がった打掛風ドレスの布の陰影。それらから浮き上がって見える雪の肌と、月光を融かした白縹の髪。総じて膨大な書き込みで描かれたイラストは、その美しさ以上に、これ以上ないほど直接的で、純粋な愛の表現なのだと、疑いようもなく感じることができた。
そして。
月見ヤチヨ様へ
誕生日おめでとうございます。
あなたは私の光です。
あなたが照らしてくれるから
私の世界は輝いています。
良まれてきてくれてありがとう。
大好きです。
酒寄彩葉より
「…………あ、あぁ、ぁ」
何年もの間、何度も受け取りたいと願って止まなかった
そして、これが最後になるであろうことが寂しくて、永い永い旅路の終着点を目前に控えた女は、たった一人に向けた相反する想いに胸を締め付けられて、何ひとつとしてまともな言葉を口にできなかった。
「……ヤチヨ。感謝は、自分と相手にするものだろ」
「…………うん」
ボロボロと涙を流しながら、最愛の人からのプレゼントを見つめる主人に向けて、FUSHIはなるべくそっけなく、しかし優しく声をかける。
嬉しいだけでも、悲しいだけでもいけなかった。それが祝われるものが持つべき心構えだと、そんな従者の厳しい戒めに、ヤチヨは小さく頷いた。
「…………プレゼント、ありがとうね、彩葉。お祝いしてくれて、ありがとう」
生まれてきてくれて、ありがとう。
辛くても生きていてくれて、ありがとう。
大好きでいてくれて、ありがとう。
感謝は、自分と相手の双方にするものだ。彩葉がくれた想いへの尽きない感謝の念とその得難さが、まだ見ぬ未来への畏れで今にも崩れそうな月見ヤチヨの胸中を、辛うじてつなぎとめる楔になっていた。
「彩葉が感謝してくれるから……あとちょっと、がんばらないとね、FUSHI」
「ああ」
たとえ、この旅路の果てに、彩葉に自分が受け入れられなかったとして。
それでもこのお祝いのプレゼントだけで、どんな運命だって受け入れられる気がした。
現在日時:2029年 9月1日 0時30分
何もかもが楽しくって、キラキラして、愛おしくって、大好きだった、そんな季節。あと一年を切ったその日々の訪れを、彼女はずっと待っていた。
何年も何年も何年も何年も、擦り切れるまで、ずっと。