田名部の夜更け
まだ逃げてないだけの女
境内に吐いた煙草の煙は、祭り堤灯に揺らいで橙
親不孝通りの川沿い
誠実さも、置き引きに遭い
例えば、満月への距離
途方に暮れる程の滑落を、孤独と呼ぶには哀れすぎて
そういう暗がりで出会ったあなたは
姿が見えないからこそ
そういう暗がりで触れ合う心は
痛みまで伝播しあって
目玉が裏返ったみたいに、あなたの中身がよく見える
田名部の夜更け
まだ逃げてないだけの女の、言われかった言葉は
田名部の夜に蓋をして、涙はそこから噴き出した
「よっ……と」
私の眼前に、ヤチヨの傘の矛先が迫る。爪先をフロアに
「オディールみたい! 流石彩葉!」
追撃チャンスだ。回転運動を殺さずジャンプ。前に踏み切り、後ろで着地する
「わっ! ……それ、ほんとにモーショントラッキングでやってるの!?」
私のアプローチは失敗。ヤチヨの
「……なんか、クライムバレエって感じ? スタイル確立させちゃったねえ」
ヤチヨの声が遠い。
若干の倦怠が作る手足の重みと、熟すことで思考を経なくなりつつあるステップ。私はどこか茫洋とした心地で、コントローラーを握って次のステップを踏み出した。
踊ることには、もう慣れていた。少なくとも、最初みたいに「次はどんなステップにしよう」なんて考えながら身体を動かしてはいない、と思う。
右足を踏む。重心を落とす。半歩だけ前へ。腰を捻って肩を返す。そのまま一拍遅れて左足を滑らせ、鋒を床へ突き刺す。
──トン。
反動。身体を半回転。ポールダンスみたいに、突き刺した剣の柄を軸にして遠心力で空中回転。
これは現実の物理法則とは異なる動きなのでモーショントラッキングを一瞬オフに。自分がどこにいるのか分からない架空の浮遊感を遠心力へと脳が翻案する。そのままヤチヨにキックする。ヒット音がしないから、これは多分躱された。
着地。次のビート。踏み込む。剣をフロアから引き抜く。
振る。避けられる。ワンモア。
(……うん。ちゃんと動けてる)
今の私には、自分で自分の動きを確認する必要すらもうほとんどない。本格的にダンスを踊ったのは初めてだけど……なんというか、思っていたのと違う不思議な心地を感じていた。
陸上部の助っ人で20kmを走った時とちょっと近い感じだろうか。最初は意識していた動作が、何度も繰り返しているうちに意識の外側へ追いやられていく。ただ無心に走るみたいに、私の身体が自然にモーションを作っていく。
アイソレーション。ウェーブ。ステップ。ターン。これで4拍。
四つ打ちの旋律に合わせて、私の足先が半ば自動的にリズムを拾う。
上半身はなるべく正中線を垂直にして、剣を振ることに集中させる。だから膝だけでビートを吸収して、そこから腰へ、肩へ、腕へと流す。
派手さは邪魔だ。自然にギャラリーとヤチヨを誘導する為に、崩れにくい小さな動きを繋いでいくことで一つの意図を持たせる、アナログハックの実践編。
こういうところは
剣を振い、ヤチヨの薙ぎ払うみたいな傘の軌道を逸らして、ここで足をもつれさせてリズムに乗り遅れるフリ。それを見たヤチヨの踏み込みに、こっちから激突するみたいに倒れこむ裏拍子の踏み込み。
「縮地法……!?」
身体を沈めたままヤチヨとすれ違う。背中越しにもう一度刃を振るえば、甲高い金属音と火花のエフェクトが瞬き、フロアタイルに一瞬だけ白色を加える。
────良い演出。
ギャラリーが、コブジュツがどうとかタツジンがどうとか騒ぐ声も、MCとして場を盛り上げるためのヤチヨのリアクションも、隣室の生活音みたいにくぐもって聞こえる。
ターン、ステップ、スライド。
そのまま片膝地面につけて、それを軸にして回転すれば、刃の先端が床を擦って、甲高いSEが聞こえる。
その音すら、今では音楽の一部みたいだった。
私はいまのところ上手くできている。失敗していない。求められたこともできている。ヤチヨが気にしていた、オーディエンスのリアクションを意識した振る舞いもわかってきた。
なのに……私の気持ちは落ち着かないままだった。
求められたことを熟して、望まれるように振る舞って、認められるように生きることが、酒寄彩葉のスタイルだ。問題はない、問題はない。なにも問題はない。私は地に足を付けて、酒寄彩葉を踊っている。そのはずなのに。
(居心地が、悪い)
────この白昼夢みたいな現実感の無さは、なんだっていうんだろうか。
ダンスバトルは続き、会員限定の筈のフロアで私たちを見守る人の数も増えていく。
目の前で踊るヤチヨは、私の胸の中の凝りなんてまったく似合わないくらいに清らかで完璧だ。
幻想的な、神楽舞みたいな清浄な美しさのステップ。戯れるみたいな攻撃。アップテンポだけどどこか静謐な雰囲気の音楽。オーディエンスのざわめき。身体に蓄積していくじんわりとした疲労感と、若干の酸素不足からか、茫洋としていく頭。
それらが齎す酩酊に逃げ込むみたいに、踊る私の意識は少しずつトランスして、やがて自分の内側へと潜っていった。
普段は覗き込むこともない、下らない自分自身の内側に。
酒寄彩葉は優しい娘だ。
そして、多くの『優しい人』がそうであるように、その優しさは、弱さから来るものだった。
激しめの運動の残滓が、やや不快な残り火になって身体を覆う時、私は決まって11歳の夏を思い出す。お父さんが居なくなったことに慣れてきて、お母さんとの折り合いの悪さにも慣れてきて、だけどお兄ちゃんが居なくなったことにはまだ慣れていない、そんな夏の日のことを。
「お話にならんから、一旦頭冷やしてきぃや」とか、言い合いの末にそんなことを言われたのがきっかけだったような気がする。
『これ以上』を抑止するための強制カット。お互いに引き際を見誤った末に下される暫定処置。いったん冷静になった食卓で、最終的な納得を得るべく話し合いの場を設けるための冷却期間。
「出て行け」とか、「反省するまでご飯抜き」とか、そういうありきたりな親の力学を母さんから行使されたことは一度もない。むしろあの人は、時に理屈に先立つ筈の"親らしさ"のような権力を子供に振るうことを病的に嫌ってたし、それとおんなじくらい、私が理屈に先立った"子供らしさ"を動機に意見を通そうとすることを良しとしなかった。
「出て行け」とは言われなかったから「散歩してきます」とだけ言って玄関のドアを開けて。
ドアを開けた瞬間、噎せ返るような不快な暑さが全身を包んだことを覚えている。ぽつぽつと肌に浮かんでくる汗の玉が大きくなる前に、どこに行くべきか考えたことも覚えている。
図書館に行こうか、友達の家に行こうか、それとも近くの公園に……なんて候補を思い描いて、その何れにも行く気になれなくて。堂々巡りの思考のまま玄関扉の前に立ち尽くして。
そしてその時、気付いたのだった。
そもそも私は、どこかに行きたいなんて思ったことが、一度もなかったことに。
────それから、どうしたんだっけ。
『だいたい一時間くらい踏切の間を行ったり来たりしてから、彩葉はお家に帰ったの』
────良く熱中症にならなかったな、私。
『近所の親切なおばさまから、ペットボトルのお茶を貰ったって彩葉から聞いたよ。憶えてない?』
────ううん、全然。
…………踏切。
踏切で立ち往生したことは、おぼえてる。
電鐘式がカンカンと五月蠅かったことも。
夕暮れにはやや遠い、気怠いだけの夏の太陽。西日に染まる郊外の公団住宅。心臓を針でつつかれる様な感傷と、ここに居ることに対しての罪悪感も。
『罪悪感?』
────うん、罪悪感。なんだか悪いことをしてる気がしてたんだよね、ずっと。
『だから、居心地が悪いって?』
────そう、なのかな。そうなのかも。いや、きっとそうなんだと思う。ヤチヨ、私ね……多分、どこでもないところに行きたかったの。どこでもいいから、どこでもないところに。
…………そうだ。
きっとあの時の私は、ぼんやりと死にたかったんだろうと思う。
行きたい場所なんてどこにもなくて、帰りたい場所も、今となってはどこにもなかったから。
私が帰りたいのは、過去だ。
お父さんがいて、お母さんがいて、お兄ちゃんがいて、私がいて。家族四人で居られたあの家に、私は帰りたかった。もうどこにもないあの家だけが、私の帰る場所だったんだ。
だから、そうやって帰る場所がなくなって久しい私は、家無し子の心持で、今でも人生を徘徊しているのだと思う。
だから『主体性がない』とか、『強請られたら全部渡してしまうのか』とか、『今にも消えちゃいそう』、とか……そんなのは当たり前の話だ。
欲しいものを置いておける部屋なんてどこにもなかったし、仕舞っておくだけの価値のあるものの持ち合わせがなかったし、居つける場所なんてありはしなかった。
越してきたアパートで、必要なもの以外を荷解きする気にはなれなかった。私の家って実感は、今のマンションに引っ越す瞬間までついぞ訪れる日は来なかった。
今のマンションだってそうだ。分不相応な気がするとか、物理的に位置が高過ぎるとか、そんなことがあろうとなかろうと、私はずっと落ち着かなくて、居心地が悪いままだった。
────だから私は、ツクヨミが好き。ツクヨミは皆の居場所で、誰の居場所でもない、どこでもない場所だったから。きっと、ここが私の帰りたい場所に一番近い。
『そっか……それじゃあ、今こうして踊ってる時間はどう? ヤッチョとのデート、彩葉は楽しめてる?』
────今は、皆に見られてるから、ちょっと落ち着かない、かも。
……………………本当に?
いつの間にか/いつもの癖で起動していたヤチヨchatのお悩み相談ウィンドウ越しのAIヤチヨの言葉を受けて、熱に浮かれたぼんやりとした頭のままに自分自身に問いかける。
本当に、それが理由だっただろうか。
だって、衆目を集めること自体は、私にとってそこまで気にすることじゃない筈だった。
酒寄彩葉は博学英才スポーツ万能の美少女だ。鼻に付かないレベルを慎重に見極めながら全科目オールジャンルで一番上であることを証明してきたし、人当たりも良くしているし、困っている人は出しゃばりだって思われない程度に助けるようにしてきたし、告白だって断るときは逆恨みされないように細心の注意を払っている。
どんなに疲れていても笑顔を崩したことはないし、誰かに愚痴を漏らしたことも一度もないし、負担になるような借りを作ったこともない。人に嫌われる要素を徹底して排除してきた引き算型の優等生である私は、私の活動圏においてはいつだって人の目を惹くようにできている。
……だけど、それはあくまで引き算の力だった。
かぐやがそうあるみたいに。ヤチヨがそうあるみたいに。
本当に美しいものは、そんな計算なんてなくたっていつだって美しいことを私は知っている。
────かぐやみたいにやれたらなって思う。でも、できなかったんだ、私には。
『"かぐやみたい"……それって、彩葉にとってどんな感じ?』
────楽しいことで、いっぱいにすること。幸せなことをシェアすること。我儘に、滅茶苦茶に、やりたいようにやってみること。
『彩葉は優等生だから、誰かに遠慮して気後れしちゃうってこと?』
────ううん。歌に出来るような楽しいことが、私にはなかったってだけ。
『………………………………そっか』
歌に出来るような楽しいことは、特に思いつかなかった。共有できるような幸せも、特に思いつかなかった。我儘に振る舞えるだけの我の持ち合わせもなかったし、やりたいことも別段見当たらなかった。
私はただ、あの頃に帰りたいだけだ。
お母さんに認めて欲しいのだって、もしかしたらあの頃にちょっとでも戻せるかもって思っているからなのかも知れない。
ゲームを遊んでいるのだって、お兄ちゃんと並んで遊んだ頃の残滓を反芻しているだけなのかもしれない。
────────だとしたら、ピアノを弾くことだって。
こんな風に、酒寄彩葉の内側は、うらぶれた遠い過去でできている。
シェアできるものなんてなにもない。
見せられるものなんて持ってない。
外に向けて表現できるようなものなんて何もない。
きっとそれが、この居心地の悪さの正体だ。
「……人に見せられるキラキラしてるものなんて、持ってないよ、私」
気付いたら、呪詛は私の喉から口まで直接転び出ていた。
慌てて口を塞ごうとした自分の両の手が、今まさに剣を振るっていることに遅れて気付いた。
──―キィン
刃と傘骨がリズミカルに打ち合わされる金属音と、握ったコントローラーの振動。
「……彩葉、大丈夫?」
そして、思案気に私の瞳を覗き込むヤチヨ。
それらを意識に捉えた時、私はようやく忘我の淵から引き戻されたのだった。
「次は、彩葉が曲を選ぶ番だよ────彩葉の好きな曲を選んで、自由に表現してみて」
気付けば、さっきまで私たちがノっていた音楽は消えていた。
私とカカさんが戦っていた時の数倍以上に膨れ上がっていたギャラリーの人たちでひしめくフロアには、DJである私の選曲を待つ待機音の一定のリズムと、次を待ち望む皆の騒めきだけが聞こえてくる。
「曲、なんでもいいの?」
「もちろん! 彩葉がそれをしたいって思うんなら、なんでも!」
私の眼前に表示されるのは、ツクヨミ内で使用する為の許諾が下りている膨大な量の音楽の索引だ。
曲名検索、作曲者検索、楽曲コード検索、キーワード検索。そして、私の楽器と作曲ツールと連携するためのフォーム。
DJは、楽曲を選んでも、選ばなくても良かった。その場で即興の旋律を奏でることだって許されるのだ。なんだったら、ギャラリーの中から飛び入りがあっても大丈夫らしい。皆がこの場を楽しむことさえできるなら、どんな選択も許されていた。
そこには無数の選択肢が広がっていて……
私は、夏休み前に学校で貰った進路希望調査のプリントを連想した。
☾
「若者の未来には無限の可能性がある」なんてのはよく聞く慣用句だ。
お金が無いから通わなかった予備校のチラシのキャッチコピー。テレビ、ラジオ、漫画、インターネット。そしてツクヨミでも、私はそういう言葉を異口同音で幾度も聞いてきたような気がする。
家庭環境や生来の能力、適性、めぐり合わせなんかの前提が必要だから、実際のところ子どもが選べる選択肢はそれほど多くないかもしれないけど……私、酒寄彩葉には、多くの選択肢が開かれているんだろうな、という自覚はあった。
だけど、選べるものが沢山あったとしても、その中に私の求めるものがあるかどうかは別の話。
お母さんに認めてもらうことは、手段であって目的じゃないのだから。
(それじゃあ、私の目的って、何?)
それはきっと、あの頃みたいに皆で笑い合えた家に帰ることで…………つまり、そんな
それならと、この前判を押してヤチヨに提出したプロデュース契約のことを思い出してみる。
実績はある。かぐやもいる。コラボライブもある。私にとっての
音楽は、美しいものだ。
私を救ってくれた音楽。私を照らしてくれた音楽。私を赦してくれた音楽。
綺麗で、眩くて、澄んでいて、優しくて、穢れのない、ヤチヨの歌。
きっとそれは、酒寄彩葉から最も遠いものだ。
だって酒寄彩葉の内側は、うらぶれた遠い思い出でできていて、だからそんな自分を音楽に乗せて表現しても、聞くに堪えないものになるだけだから。
今評価されている楽曲たちにしたってそう。プレ音源を聞いたかぐやが考えた歌とダンスに合わせて楽曲を再構成することで、ようやく皆に聞かせられるものに取り繕える。それが酒寄彩葉というコンポーザーの限界だった。
私は太陽のように騒々しく煌めいているかぐやみたいに、幸せを誰かにシェアすることなんてできない。満月の仄かな光になって人の心に寄り添うヤチヨみたいに、優しく誰かを癒すことなんてできない。
だからどれだけ自由にやれたところで、私一人で選べるものなんて何も思いつかなかった。
そんな空っぽな私の空っぽな進路希望を、楽曲選択画面が「どうせ迷うほどの価値もないんだからさっさとしろ」って急かしてくる。
(帰りたい)
────帰るって、どこに?
停止した私の頭に、あの夏の日の光景がまたフラッシュバックしてくる。
お父さんが居なくなったことに慣れてきて、お母さんとの折り合いの悪さにも慣れてきて、だけどお兄ちゃんが居なくなったことにはまだ慣れていない、そんな夏の日。
噎せ返るような不快な暑さ。ぽつぽつと肌に浮かんでくる汗の玉が大きくなる前に、何を選ぶべきかを考えないと。そうやってあてどもなく道を歩いて、京阪電鉄の踏切に立ち往生した時のことを。
選曲待機音の一定のリズムは、あの日の警報音にそっくりだった。チカチカと点滅するフロアタイルの赤色は、発光ダイオードの点滅表示によく似ていた。
「彩葉、大丈夫? いったん休憩にしよっか?」
西日に染まる郊外の集団住宅。心臓を針でつつかれるような感傷、および、
赤が、光る、消える、光る、消える、光る、光る、消える、光る、消える
「消えろ」
そんな呪詛と一緒に、私は握っていた二本のコントローラーを取り落とした。
「…………彩葉?」
只ならない空気を察したのか、フロアの騒めきは、いつの間にかしんと静まり返っていた。
「ごめん、ヤチヨ……私、やっぱりダメみたい」
「…………何がダメなのか、教えてくれる? これは練習なんだから、ヤッチョと一緒に解決法を考えてみない?」
ヤチヨは凪いだ微笑みと一緒に、私の素っ頓狂な振る舞いに優しく寄り添ってくれる。その笑顔の意図が私の心に指を入れるものだってヤチヨ自身が教えてくれたから、そんな汚いものに触れさせてしまうことがとっても恥ずかしくて、とっても辛くて、とっても居心地が悪かった。
「ううん……解決とか、そういうんじゃなくって」
私は居心地の悪い優しさを拒絶して、フラフラとヤチヨの前に進み出て…………膝から力を抜いてその場にへたり込んだ。
「居心地が、悪くて」
何も選べないから居心地が悪かった。選ぶものがないから居心地が悪かった。選ぶ意味がないから居心地が悪かった。そんな意気地のない自分がヤチヨと一緒の舞台に居ることが、消え入りたいくらいに居心地が悪かった。
なりたい未来を選ぶこと。作りたい曲を作ること。歌いたい歌を歌うこと。表現したい自分を表現すること。
その全部ができないのは、私は私が何をしたいのかすら分からないからだって、さっき気付いてしまった。
お母さんに認めてほしい。お兄ちゃんがいた頃に戻りたい。あの頃の家に帰りたい。そういう「したい」はいくらでも出てくるけど、それは全部、もう存在しないものへ向けた願いでしかない。
だったら、これから先は?
どこへ行きたいのか。何になりたいのか。何を作りたいのか。誰に何を伝えたいのか。それを自分に問いかけても、何ひとつとして建設的なものは浮かばなかった。
思えば、だから私は優等生というロールに気が安らいでいたのかもしれない。
勉強、運動、人付き合いと人助け。嫌われないように笑って、求められれば応えること。そうしていれば、少なくとも「間違い」にはならないから。
私が何を欲しいのか分からなくても、誰かが欲しがっているものなら想像できる。
私がどこへ行きたいのか分からなくても、誰かが私に行ってほしい場所なら想像できる。
少なくともそうしているうちは、私が何かを選ばずに済んだから。
だって私には帰る場所がないのだ。
帰りたい場所ならあった。けれど、それはもうどこにもない。だったら、その先の道を選んだところで、最後に辿り着く場所なんてどこにもない。
そんな私が、どうして未来なんてものを選べるんだろう。
どうして、自分の曲を作れるんだろう。
どうして、自分の歌いたい歌を決められるんだろう。
どうして、自分が幸せになる方法なんてものを考えられるんだろう。
そもそもの話、私は特別に不幸なんかじゃない。お父さんに先立たれたことも、お母さんとの折り合いが悪いことも、特筆して不幸なことなんかじゃなかった。私より不幸な境遇なんて、数えきれないほどあるに違いない。
苦学生生活をしてたのだって、私が意地を張っていたからであって、母に一言敗北を宣言するだけで実家暮らしに戻れてしまうだろう。
こんなものはただの甘えだ。そして、そんな甘えを通せる立場にいるってだけで、私は充分に恵まれていた。だって酒寄彩葉は博学英才スポーツ万能の美少女で、今では数千万人に名前を知られる有名コンポーザーなんだから。
そんな私が、他人より不幸で、他人より恵まれていないなんてことは有り得なくて……だから、今もこうして私の心を苛む苦しみと居心地の悪さも、ひとえに私がしょうもない甘えた子供だからだ。
ただ昔日に帰りたいだけの私。ただ現状に甘えているだけの私。ただ空虚なだけの私。
そんなものを音楽にして表現したところで、誰が喜んでシェアしてくれるっていうんだろう。
「────彩葉は、
「ヤチヨに、代わりに選んで欲しい」
へたり込んだままの私は、ヤチヨの問いかけに答えながら、ヤチヨの握る傘の
込みあがるものを抑えるためにきつく閉じた瞼の端から、雫のエフェクトが溢れそうになる。外界をシャットアウトした瞼の裏で視界がぐるぐると回っている。
(明日なんて来なくたっていい)
何も選べないまま閉塞した私の堂々巡りの日々は、何も生み出す活力を得られないままに当たり前のように続いていく。それを否定して創造的な未来を目指すことは、力強く正しいことなんだろうと思う。
だからそれはきっと、暴力に似ている。
少なくとも、私にとっては。
私が傘を握る手は、凍り付いたように動かなかった。
「────彩葉は、
「ヤチヨに、代わりに選んで欲しい」
彩葉を追い詰め過ぎてしまった。
これは明らかに
私の彩葉の凄い所を皆に見せつけて、皆に彩葉をもっと好きになってもらって……そうやって出来上がった皆に好かれる彩葉の他者像を、低空飛行の自己像とすり合わせれられればと思っていた。
さっきのバトルだって凄かったのだ。彩葉が自分の内側に入り込んでいる間にもどんどんその精度が上がっていって、最後の方には私が本気を出しても追いつけないくらいになっていたのだ。
彩葉は凄い。彩葉は可愛い。彩葉はなんだってできて、どんな未来だって選べる。
ちょっとでも客観的に自分を見る機会を得られれば彩葉もそのことに気付けるはずで、そのことにさえ気付いてしまえば彩葉のハッピーエンドは訪れるはず。
そう確信して、いつもヤチヨchatでしている時よりも深く彩葉の心の内を切開して……
その結果、こんなことになってしまった。
多くの場合、死と喪失の傷や恐怖を埋め合わせるのは愚鈍と慣れ、つまりは時間だ。紅葉も朝日も、そうやって喪失と和解した。
だけど、今私を眼差す彩葉の瞳は、そんな妥協の一切を拒絶していた。運命に対する曖昧な受諾。時間がくれるはずだったもの、その殆どを。
「────ヤチヨ、お願い」
「……………………………………」
手が、動かない。
(ヤチヨ…………?)
(────────────)
黙って経緯を見守っていたはずのFUSHIの懸念を聞くまでもない。私は傘を引いて、彩葉の手をとって立ち上がらせるべきだった。その選択は彩葉自身の為になんてならない、私が得をするだけのものなのだから。
私が少しでも傘を前に突き出せば、このゲームは終わる。…………そして、それを以て私は、望み続けた彩葉のデストルドーを受け止める機会を手に入れることになるだろう。
彩葉が、また私に何かを望んでくれた。
リビドーだろうとデストルドーだろうと、それが彩葉から私に向けられた生の望みに違いなくて…………それは私にとって、酷く煽情的で、抗いがたいリビドーを刺激する行為だった。
(おい、ヤチヨお前まさか)
(わかってるよ、FUSHI。わかってる。でも……!)
…………不味い。凄く不味い事態だ。
彩葉は心の柔らかい部分を
だけど、私は、彩葉に望まれたらそれを断れない。目的論的な存在として、自分の存在意義に抗えるように私はできていなかった。
傘の柄を握る手に力が籠る。私を駆動させる彩葉への愛が、彩葉の望みを叶えるために、彩葉のストレスを和らげるために、彩葉の選択の機会を自分のものにしてしまおうと唸り声を上げる。
(ヤチヨ……お前、嘘だよな?)
(だからわかってる、わかってるってば……!)
彩葉は、音楽について……自己表現について、凄く重要なことを勘違いしている。私はそれを伝えないといけない。
(伝えないといけない、筈なのに…………!)
ギリギリと、柄を握る手から締め付けるようなSEが聞こえてくる。
彩葉の望みを叶えてあげたい/彩葉を幸せにしてあげたい
「彩葉…………!」
相反する二つの想いの天秤が左側へと傾いていく様を見届けながら、私が傘を突きだそうとした、正にその時だった。
「かぐや!?!?!?!」
「よっ彩葉!」
次の瞬間、名残惜しさと等量の安堵に溜息を吐きながら、私は振り下ろされたブーストハンマーの一撃を傘で受け止めながら吹っ飛ばされていったのだった。
「か、かぐや……どうしてここに…………」
「彩葉、レッスン終わっても全然帰ってこなくって……で、しゃーないから配信してたらオタクのみんなから浮気がどうこうって鳩が沢山飛んでくんの!! ……で、びっくらこいて部屋に様子みにいったらなんか彩葉の様子おかしいじゃん? だから場所を調べてすっ飛んできたってワケ!!!」
────なーーにが百合心中だっつーの! ヤチヨも趣味わりー!
かぐやはプリプリと擬音が聞こえそうなくらいに頬を膨らませて怒りながら、へたり込む私に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「彩葉、ヤチヨにデレデレしすぎ! いっつもかぐやがやり過ぎると怒るのにヤチヨのことになると全然なんだからも~~~~! ……かぐやが居るんだから、推し活もほどほどにしてよね」
晩御飯も作ってあるんだから、とそう言いながら、かぐやはだらりと下がったままの私の手に、床に転がっていたであろうコントローラーを握らせてくる。
…………その時に触れ合った私以外の体温で、ようやく私は自分が家に居ることを思い出した。かぐやが居る、私の家に。
「今日は中華なんだから、冷えた分だけマズくなるっしょ! だからさっさとヤチヨ倒して帰るよ! 彩葉、いい!?」
「う、うん……」
私はかぐやに手を引かれて、恐々と立ち上がって、フロアの周囲を見渡した。
ギャラリーは、突然のかぐや襲来にお祭り騒ぎだ。浮気現場凸だの三角関係だの修羅場だのなんだのと皆楽しそうに騒いでいる。
「おら~~~オタク共!!! かぐやは今とってもおこだから、この際シュダンは選ばね~~……レイド戦行くよ!!! 皆で力合わせてあのドロボーねこをボッコボコにすんぞ!!!」
かぐやは私の前に表示されていた楽曲選択画面に指を伸ばしながら、フロアにひしめくギャラリーに向かってその拳を突き上げて見せた。
「投票フォームつくったから、ノりたい楽曲アンケよろしく! QRコードはこれ! 一分で締め切りな! 急げ急げ~~!!」
『うおおおお辛抱溜まらん!』
『ハジマタ!』
『すげすげヴォォォォォ!!!』
『ちょっと激熱展開過ぎるな』
『かぐ~やといろPのデュオがまた見れるってマ!?』
『ヤチヨは犠牲になったのだ……犠牲の犠牲にな』
『ヤチヨ俺のオレオ取ってオレオ!』
「…………彩葉、大丈夫?」
一気に混沌とし始めたフロアの様子にたじろぐ私の手をコントローラーごと握ったまま、かぐやは私の耳元で小さく囁いた。
「…………うん、もう大丈夫」
「そっか! それじゃ、ちょっと遅いけど、これ終わったら帰ってご飯食べてお風呂いっしょに入っていっしょに寝よ!」
「……ご飯はともかく、他は一緒にやる必要ないでしょもう」
そうやって軽口を叩きながら、さっきまでの居心地の悪さがすっかり消えていることに遅れて気付いた。
「彩葉はさ……今までず~~~~~~っと頑張ってきたから、いきなり楽しいこととか楽しい場所とか見つけるのはむずかしいかもだけど……かぐやが連れてってあげる! そういう約束だったでしょ?」
「……うん」
正面から私の手を握って、辛いことなんて何もないんだって顔でペカっと笑うかぐやの笑顔は……残念ながら、見惚れてしまうくらいには可愛かった。
「────くぉら~~~~~~~~!!!! かぐや!!!! 人のデートを!!!!! 邪魔しないの!!!!!!」
濛々とした砂埃のエフェクトを吹き散らして現れたヤチヨの周りには、鮮やかに輝く魚と海月の群れのエフェクトが渦を巻くように周回している。
あれは多対一のボスモードの時にヤチヨが展開するファンネルだ。きっとかぐやの意図を汲んでくれたのだろう。
後先考えずに突っ込んだ先で、勢いのままに周囲を自分色に塗り替えるかぐや。即座にそれに合わせて、調和のとれた舞台を再展開するヤチヨ。
二人のパフォーマーの即席の連携と輝かしい自己表現。その煌めきに魅せられた皆が、我先にとばかりに渦の中へ飛び込んでいく。
表現できる自分がなくっても、かぐやの為なら曲が作れる。
帰りたい場所がなくっても、かぐやがご飯を作って待っていてくれる。
選びたい未来が見えなくっても、かぐやが手を引いてくれる。
だから、かぐやが私の居場所なんだ。
「二人は最強!!! でしょ?」「……うん」
かぐやが突き出した二本の指に自分の指を絡めながら、私は私の翳りを振り切って小さく頷いたのだった。
これが私の「楽しいこと」だ。
それを表現する方法論は、私と指を絡めたまま、向日葵みたいに笑っていた。
それはあまりにも眩しくて、どうしようもないくらい正しくて、涙が出る程幸せな光景だった。
千人を超える神々の皆と一緒に、彩葉とかぐやが楽しそうに笑いながら一緒にダンスと旋律を奏でている。
沢山の音とノーツの光が乱れ飛んで、煌めきの洪水になってフロアを照らしていた。
その場に居る誰もが楽しそうに笑っていて、その場にいる誰もがボスモードの
「うおおおおおおおドロボーねこ!
「あんたそれちゃんと意味わかってる?」
「盗られる方が悪いんだよ~~~! かぐや、同棲してるからって油断して、余りに隙だらけ……! そう思ってからは早かった!」
暗いところなんてなにもない軽妙な掛け合い。
楽しそうなかぐや。楽しそうな彩葉。それを見届ける
それはあまりにも眩しくて、どうしようもないくらい正しくて、涙が出る程幸せな光景で……
だから私は、彩葉の勘違いを訂正する気にはなれなかった。
彩葉は自己表現としての音楽について、凄く重要なことを勘違いしている。
確かに楽しいことを皆とシェアすることは大事だけれど、それは自己表現としてのアートの、ほんの一形態に過ぎない。
生と創造はただあるがままで美しく、楽しい出来事はなんの加工を経ずとも輝いている。
だけど、苦しかった思い出や、悲しかった別れの記憶や、怒りや、嘆きや、嘗ての絶望が残す消えない染みは────
(────────それは
月見ヤチヨにとっての音楽の価値、自己表現の意味。歌うことの目的。その全て。
それらは彩葉がたった今得たものとどうしようもなくすれ違っていたけれど……それを訴えることに、私は如何程の価値も見いだせなかった。
それくらいに、笑い合う二人の光景は、どうしようもなく幸せだったのだ。
☽
彩葉とのナイトクラブデートはたくさんの神々を巻き込んで、大円団のうちに幕を閉じた。
配信こそしていなかったけれど、居合わせた皆が撮影した色んなアングルの映像が沢山の万バズ動画となってSNSとツクヨミを賑わせることと相成った。
そうして、かぐやと彩葉の輝きは、コラボライブを待たずして一際眩しい恒星みたいに皆の心を照らしていく。
……当初の目的とは違ったけれど、彩葉の為になるならなんの問題もない。そのはずだ。そうに決まっている。
楽しかったことだけでアルバムを埋められるなら、それに越したことはないのだ。だからもしそれができるなら、苦しみと和解する必要も、不幸を認める必要もありはしなかった。
そもそもの話、2人の物語に月見ヤチヨが出しゃばる機会なんてなかったのだろう。
だって幽き月の光なんて、真昼になれば消えてしまうのが道理というものなのだから。
そうして私の叙情と感傷は果たせない拒絶となって、眩い光の中へと消えていく。
夜の向こうには当然夜明けが待ってる。ただそれだけのことだった。
感想、ここすき、高評価、誤字報告、いつも本当にありがとうございます。どれももらった分だけ作者のモチベーションが上がるので、大変助かっています。
第0話を多めに加筆しました(09/30)