君は言ったよね
「病室のベンゼンの臭いの中で育った人間以外に、誰も自分を理解できない」って
「美は、ひたすら強烈な、生気に満ちた力でなければならない」って
「生が決して耐えるべきものではあってはならない」って
「ここではないどこか別の世界を夢見ることは罪悪だ」って
だから君にとって美しいものは、人波で沸き返る街だった
陽射しが満ち溢れる路面電車の停車場だった
力強く搏動する心臓、
ふくらむ肺、
まだあたたかい唇、
その唇を誰かの唇に強く押し当てること、だったでしょう
それは、習慣化するくらいに繰り返しても尚、どこか夢みたいにあやふやな光景だった。
「~♪」
タイルを温く細い水が叩く音を聞きながら、私は一糸まとわないかぐやの後ろに座って、そのハニーブロンドの手入れに勤しんでいた。
オレンジ色の光と、白いタイル。控えめな水音と、私の手元で解ける金糸の束。前から猫が喉元で小さく鳴らすみたいな、微かに声帯を振動させるだけのかぐやのハミング。それと一緒にヘアトリートメントを流すシャワーの音がハーモニーになって、広いバスルームにコンテンポラリな旋律を反響させる。
「彩葉、どう?」
「もうちょっと」
少量の水を流しながらかぐやの髪を指で梳いていく。
湯気を含んだハニーブロンドが私の指の間をするすると抜けていく。濡れた髪は普段よりも少し重くて、それでも一本一本はとても細い。毛束を持ち上げて根元から毛先へ指を滑らせるたび、絡まっていたところがほどけて、金色の髪が一枚の薄い布みたいにまとまっていく。
こうして濡らしたかぐやの髪は、普段よりずっと色が深く見えた。常の蜂蜜を薄く溶かしたみたいな淡い黄金は、湯を含んだ時は毛束はその一本一本が重なって、琥珀を透かしたような色になる。照明を受けた表面だけが明るく光って、その下にある髪は少しだけ暗いのだ。だから、指で毛束を持ち上げるたびに金色の濃淡が細かく入れ替わっていった。
そんな風な、いっそ非現実的なまでに綺麗なかぐやの髪を磨き上げるのは、美術品の手入れをしているみたいで嫌いじゃない。
或いは、織物を編むみたいだろうかと思ったのは、最近かぐやと見た映画の影響だろうか。もしこの金糸で機織りできたなら、神様にだって捧げられるようなタペストリーになるだろう。
疲労感、暖色光、反響音。
ハミング、泡音、そしてかぐや。
心に澱になって降り積もる様々を一時だけ彼方に押し流すそれらに囲まれながら、私はかぐやの髪を洗う最終工程に取り掛かっていった。
『ちょっと遅いけど、これ終わったら帰ってご飯食べてお風呂いっしょに入っていっしょに寝よ!』
ヤチヨとのクラブデートが終わった後、かぐやは宣言通り私に中華(オーブンで高温焙煎した焼き豚。広東料理らしい)を振る舞ってから、私と一緒にお風呂に向かった。
かぐやは一緒に居られる時間の殆どを私とシェアしたがる。
ご飯、お風呂、そして布団。
ボロアパート時代はその狭さ故にシェアせざるを得なかった営みのいくつかは、その必要が無くなったはずの今になっても変わらず共有されていた。
……特にお風呂とか。
私はもういいじゃんって言ったけど、かぐやが強情だったので最終的に折れたのだ。
かぐやの髪に残ったトリートメントを流し終わった私は、最後に両手で軽く絞る。毛先を手のひらで包んで残った水分をゆっくり押し出すと、ポタポタと水滴が床と私のむきだしの膝上に滴り落ちた。
……これでよし。
「終わったよ、かぐや。そこのヘアバンドとって」
「は~~~い」
そうして水気が十分に拭えたことを確認してから、受けとったバス用ヘアバンドを使って後頭部にスーパーロングの髪を手際よく纏めていく。
まず間違いなくかぐやの髪を一番うまく扱えるのは私だろうと言えるくらいには、ここまでの一連の作業はすっかり手馴れてしまって久しかった。
「はい完了」
「ありがと~! ……そいじゃ、次はかぐやがやる番ね!」
さっきまでは猫みたいに目を細めてうつらうつらしていたのが嘘みたいにすっと立ち上がってテキパキと準備を始めるかぐや。その白い背中に浮かぶ背骨と肩甲骨のライン、そして剥き出しのまま僅かに赤らんだうなじをなんとなく目で追いかけながら、私も腰を上げてさっきまでかぐやが座っていた鏡の前の椅子へと移った。
「ボトル、ちょっと軽くなってきたね」
「トリートメントの方? それならストックあるよ。クリスマスに芦花がダースでプレゼントしてくれたやつ」
「そなの? じゃあいっか。芦花ありがと~~~!」
こなれた時間、こなれた交換、こなれた応酬。こなれた毛繕い。
そうなっていることが良いことなのか悪いことなのか、普通なのか異常なのかはさておいて…………少なくとも、私はこの時間が嫌いではなかった。
ガタガタと道具を自分の横に並べる音が止む。かぐやの準備ができたのだろう。
「彩葉」
「ん」
いつも私と話す時よりも低く小さいかぐやの声に、同じくらいのボリュームで短く返事をする。
お風呂のかぐやは少しだけ静かになる。
もちろんずっと大人しくしているわけじゃない。むしろ、湯船に浸かるまでの間に即興オリジナルソングを熱唱したり、シャンプーの泡で妙な髪型を作ってみせたり、私が目を離した隙に持ち込んだ水鉄砲を乱れ撃ったりするけれど……お互いの髪を洗う間は、居住まいを正したみたいに静かだった。
「彩葉、目ぇつぶっててね~」
「うん」
返事をすると、かぐやの手がスッと私の額を覆う。目元に湯が流れ込まないように、手のひらで水の道を作ってくれているのだろう。そんなことをされなくても……とは、もう思わなかった。私は言われたとおりに目を閉じたまま、その白い手に頭を預けた。
「~~♪」
「…………」
かぐやのハミング。ちょろちょろと響く水音。髪を伝うじんわりと僅かに温い温度。眠気を誘うそれらに目を眇める。疲労も相まって、このまま瞑目すれば眠ってしまいそうだった。
髪が十分に濡れるとシャワーの音が止まる。代わりに、シャンプーのボトルを押す小さな音がして、それから両手を擦り合わせる気配。
「そんじゃ、洗いまーす」
そして、頭頂部に泡立った指先が触れた。
最初に感じたのは温度だった。湯で僅かに温まった頭皮に、かぐやの指の腹が持った体温が重なる。そこからゆっくりと円を描くように動き始めた指先が髪の根元を掻き分けて、一本一本の毛束を持ち上げていく。飾り付けられた少し長めの爪を逸らして柔らかな指の腹で頭皮を押さえ、ほんのちょっとずつ位置をずらしながら揉みほぐしていく繊細な手つき。押されるたびに私の皮膚がわずかに動いて、その感触が頭の奥までじんわりと伝導する。
くすぐったい。
痛いわけでも、くすぐったさに耐えられないわけでもない。ただ、自分の指で自分の頭を洗うときには、決して感じない種類の感覚で……もうずいぶん慣れた感覚でもあった。
自分で触るときには、次にどこへ指を動かすかも、どのくらいの力をかけるかも須く把握できる。だけど他者の手は違う。次にどこへ触れるのか、どの指がどんなふうに動くのかを予測しながら、それでも当然のように予測からズレていく。そのズレが、指先が齎すくすぐったさになって頭皮を走り抜けていった。
とりわけ耳の上あたりを指先が通ったときが顕著だった。髪を持ち上げるために指が根元へ潜り込んで、そこから後ろへと梳き流される。指の節が髪に触れて、指の腹が頭皮をなぞって、最後に逃げ場を失った細い毛が一本ずつ引き抜かれるみたいに指の間をすり抜けていく。その一連の感触が、くすぐったくて……心地いい。
私は思わず肩をすくめた。
「ん? くすぐったい?」
「……ちょっとだけ」
「えへへ。じゃあ、もうちょっと優しくするね」
こういう時私をずっと観察し続けるかぐやは、リアクションに即して素早く手つきを変えてくれる。指を動かす速さを少し落として、頭皮を擦るというより指の腹でゆっくり押しては離すような洗い方。頭頂部から後頭部へ、後頭部から襟足へ、撫でるみたいな動き。髪の流れに逆らわないように梳き分けながら、泡を含んだ指が私の頭の形を確かめながら細い指が移動していく。
……いや、優しくなったのはわかるんだけど、それはそれで別の意味でくすぐったい。
こめかみの少し上を指先がそろそろと通過していく。そうして触れられている場所がわかるからこそ、そこに意識が集中してしまうのだ。次は耳の後ろだろうか、それとももう一度頭頂部だろうか。そんなことを考えているうちに、予想とは少し違うところへ指が差し込まれて、私はまた小さく首を縮めた。
「彩葉、動くと洗いにくいよ~?」
「かぐやがくすぐったいところばっかり触るからでしょ……」
「耳弱いもんね~彩葉」
悪びれない声。勿論、かぐやは私に悪戯してるわけじゃなくて、ただ髪を洗う作業に集中してるだけだ。髪の根元まで泡を行き渡らせるために指を差し入れて、洗い残しがないように位置を変えていく。私が少し身じろぎすれば、その動きに合わせて手の位置を直す。そういう細かなアジャストを、私のリアクションと髪のコンディションを観察しながらかぐやは何度も繰り返していた。
────────きっかけは、風邪で倒れた時からだったように思う。
あの時から、私が何かを我慢していると、かぐやはわりとすぐに気づくようになった。けれど、気づいたからといって理由を問いただすわけではなくって、まずは我慢しなくても済むように手を回すのだ。私が大丈夫だと言えばそれ以上は追及しないこともあるけれど、だからといって本当に大丈夫なのだと信じ切っているわけでもないのだろう。
言葉にしないという言葉。伝えないという伝え方。
自明の引用と参照。暗黙の隠喩と了解。
私とかぐやの間に、まるで未知の言葉がないかのような錯覚。
もちろんそんなことはありえない。ただの錯覚だ。
つまりそれは、錯覚を成立させられるだけの優しさと労りを確かに感じることができるということに他ならなかった。
電柱から出てきた時からずっと、かぐやは成長し続けていた。いろんなことを学んで、いろんなことを試して……そして、色んな私を観察して、何をすべきかを考えてる。
今だって、私がくすぐったいと言えば手つきを変えてくれる。それでも洗うこと自体はやめないのは、私が嫌がっているのではなく、ただくすぐったがっているだけだとちゃんとわかっているから。
「なんで?」「どうして?」って色んな物事の理由をかぐやが聞いてきた時期は、十日もせずに終わってしまった。それは勿論いいことなんだろう。いいことなんだけど……かぐやの宇宙人らしい情緒の成長のスピードに私が抱く感慨には、人間らしさに近づいていく安心感と、幼さから遠ざかる寂しさが同居していた。
ああ……本当に。
「…………ずいぶんとあっというまに大きくなっちゃってまぁ」
「なぁに、彩葉。もっと赤ちゃんかぐやを可愛がりたかった?」
「……ないない。確かにあんときのアンタは可愛かったけど、今の比じゃないくらい大変だったから」
「む~~~……あんとき”も”、でしょ?」
「はいはい、お姫様はオールウェイズでかわいいかわいい」
「よし、許す!」
こうやってかぐやが私の髪を洗うようになったのは、ボロアパート時代の習慣の名残だった。髪のお世話の仕方を教えるために私の髪を教材にしたのがきっかけで、それからなにかにつけて私の髪を洗いたがったかぐやに、「まぁ覚えてくれるならそれでいっか」と私が折れたのだ。
髪に限らず、かぐやに人間の常識の様々を教えるのは骨が折れた。
……いや、かぐやはもの覚えがすごくいいから覚えさせること自体はずっとスムーズだったけど、何も知らない赤ちゃんに「常識」を教えることそれ自体がすっごく大変な仕事だったのである。
かぐやを電柱から取り上げてからの三日間、私はかぐやにあらゆることをしてあげていた。おしめを変えて、ミルクを飲ませて、あやして、寝かせて……自活能力がなくて、自分で自分を管理も制御できない赤ちゃんに対して育ての親としてとるべき当然の責務。
だけど、それはせざるを得ないからやっているのであって、自活能力が育ったなら本人にやらせねばならない。4日を待たないうちに私と同じくらいの大きさに急速成長したからって、赤ちゃん扱いする訳にはいかなかった。
『いい? これからは、お着替えとか、お洗濯とか、お風呂とか、お手洗いとか……とにかく、自分でできることは自分でやってよね』
『ぅえ~~~? なんで~~~? やり方わかんな~~~~い!』
『つべこべ言わずやるの。それが地球の常識…………でも、そっか。そうだよね。1つずつ教えていくから、ちゃんと覚えてね。できないことをやれなんて言わないから、できるようになるまでつきあったげる』
そうして当たり前の教育方針だったはずのそれを考え無しに適用した私は、世間のお母さんの苦労を凝縮した様々を数日のうちに圧縮して味わうことになった。
かぐやは今でもいろんなことに疑問をもつけど、それは大体調べものでどうにかするし、知らないことを知ることそれ自体が楽しくて仕方がないって感じだった。
だから真に恐るべきは、衣食住のような、ローカルルールありありで、あまりにも身近すぎて疑問を抱くクッションすらないケースだった。
『とりあえず、服は私のを着て。好きなのを選んでいいけど、部屋着と外着の区別はつけて。そんで、自分で着て、自分で脱ぐの。いい?』
『どやって着るん? 彩葉が脱いだやつ着ちゃだめ?』
『脱いだやつは着ないで……教えるから、そこで見ててね』
『トイレってどうやってすんの?』
『そもそも、アンタの基礎代謝ってどのくらいホモサピエンスに近いわけ? ……いや待った。アンタが大きくなってからもう1日近く経ってるけど、"出した"ことある……?』
『ないよ! なんかお腹がヘンなカンジ! 彩葉助けて!』
『嘘でしょ!? …………いや、よく耐えた褒めて遣わす! ほら
『は~~い……あ、出てかないでよ彩葉~~! 教えるっていったじゃん! ちゃんと見てて!』
『嘘でしょ……!?』
『グエッ……何何何!? 夜襲!?』
『なにって、寝ようとしたんだけど、ダメ?』
『そりゃ好きに寝ればいいと思うけど……ってだから何!? 重いし暑苦しいっつの…………ああ、そっか。これまでずっとそうだったもんね』
『ダメなの? かぐやあれ好きだったんだけど……』
『ダメ。私が潰れちゃうでしょ。逆の立場になって考えてみなさいよ』
『彩葉がかぐやの上に乗って寝るってこと? いいよ! 来て!』
『……………………いや、とにかくダメなもんはダメ! 横に寝て!』
一から十までこの調子だったかぐやだけど、今ではどこで調べたのか、教えただけに留まらず、こんな風に丁寧に私の髪を洗うくらいになっていた。
「~~♪」
私が昔と言うほどでもない筈なのに随分遠い心地の思い出を回想している間にも、頭の上で泡がゆっくりと増えていく。
指が髪を梳くたびに、濡れた毛束が何本かずつ分かれて別の束と重なり合っていくのを鏡越しに眺める。泡を含んだ私の髪はさっきより重く頭皮を引っ張って、合わせて指の間を滑る感触も変化していっていることだろう。かぐやの指先が頭皮から離れて髪の中ほどまでを通り抜けると、根元に残った泡が毛先へと運ばれていく。そのたびに、頭の表面を撫でられている感覚と、髪そのものを梳かれている感覚が曖昧に混ざり合った。
「彩葉の髪、ふしぎできれーだよね~~……」
「……不思議?」
「うん。細いのに、濡れてても全然へにゃってしないし、根元のところはちゃんとふわっとしてんだよね~~……あと、髪の一本一本が細いから、指の間を通すときの感じがすっごくなめらか。絡まってるところも少ないし、毛先がちゃんとまとまるの。芦花とぬっくんに教えてもらったのとは全然違うかんじ?」
言いながら、かぐやは私の髪を指先で梳く。壊れやすい宝物を愛おしむ手つきで、ゆっくりと。
「……よく見てんじゃん」
「そりゃそ~だよ。彩葉の髪だもん。彩葉は髪まで彩葉みたい。きれ~で…………好き」
「…………そ」
…………どう答えればまともな風を装えるのかわからなくて、私は小さく相槌を打つだけにとどめて、誤魔化すように目を閉じた。
こんな風に、かぐやは好きなことの理由を聞いても、最後には好きだからというところへ戻ってきてしまうことが多かった。理屈がないわけではないのだろうけれど、本人にとっては言葉で意味を切り取るよりも、好きだという事実の方がずっと大切なのだろうと思う。
かぐやの「好き」はいつも言葉よりも早い。だから勢いがあって、眩しくて、どんな私よりも真実で……だから私には、遠かった。
かぐやが学び続ける知識。それは「好き」で彩られたかぐやだけの世界の真実を記した図書館だ。
かぐやが知っている
そんな未来なんて訪れることなく、かぐやがずっとこのままであることを、私は願って止まなかった。
「~~♪」
愚にもつかない思考の間にも、かぐやの手はハミングと一緒に淀みなく動いている。
こうやって目を閉じていると、触れられている場所のことばかりが気になった。耳の後ろを洗われればそこに指があることを意識してしまうし、襟足をなぞられれば首筋にまでくすぐったさが広がっていく。だけど、むずがるほどのものじゃない。むしろ、頭を動かすと、かぐやが「もー、じっとしててってば」と笑うので、私はなるべく力を抜くことにしていた。
「はい、流すよ~。上向いてね」
私は額に手を添えられながらゆっくりと顔を上げる。するとシャワーの水が泡を押し流して髪の間を抜けていく感じがした。かぐやは片手で私の額を覆ったまま、もう片方の手で髪を何度も梳いている。指の間を通る水が泡を連れて流れ落ちていく感覚。頭頂部から後頭部へ、耳の後ろから襟足へ。指先が通った場所から泡の異物感が消えて、少量の湯が髪を伝う細めいた微熱だけが残った。
最後に、後頭部を支えるように手を添えられる。髪の根元に残った泡を落とすためなのか、かぐやの指がもう一度ゆっくりと髪の中へ潜り込んでいく。その頭皮をなぞる感触に私はまた少しだけ肩をすくめたけれど、今度は努めて何も言わなかった。
「はいっ、できあがり! ……そいじゃ、トリートメントも行くよ~」
かぐやは髪を根元から毛先へと指で梳き、残った水気を軽く絞ってから、別のボトルに手を伸ばした。
「シャンプーとトリートメント、アンタがちゃんと使い分けるようになってほっとしてるよ」
「むぅ~っ……彩葉、かぐやのことなんだと思ってるの?」
「リンスを頭皮に塗りたくってた宇宙人」
「ぅえ"~~! それ今言う!? 最初の一回だけじゃん!」
抗議の声を上げながらも、さっき私がしたのと同じ手つきで髪の水気を抜いていくかぐやの手つきに淀みはなかった。濡れた髪を手で挟み込んで、頭頂部から毛先へと少しずつ位置を変えていきながら水分を絞るこなれた手つき。そうして幾ばくもしないうちに、さっきまでたっぷりと泡を含んでいた私の髪がもう泡立つこともなく、かぐやの指に水を含んだ毛束同士がしっとりとまとわりついている様子を鏡越しに見て取れた。
「はい、じゃあ、ちょっと前かがみになってね」
言われたとおりに首を傾けると、かぐやの手が後ろ髪を持ち上げた。首筋に触れないように濡れた髪をまとめて片側へ寄せて、手のひらに出したリンスを毛先から馴染ませていく、シャンプーのときと違う手順。
頭皮を洗う必要がないから、かぐやの指先が根元まで潜り込んでくることはない。代わりに、私の髪は束ごとその手に取られて、指の間に挟まれながらゆっくり滑らせられていく。そうやって手のひらに広げられたリンスが髪の表面を覆って、指先が毛束の内側まで入り込んで、絡まった部分をほどくように一本一本を分けていくのだ。
濡れた髪は普段よりもずっと繊細だから、少し引っかかるだけでもその抵抗が頭皮に伝わってくる。そういう時かぐやは時折途中で手を止めて、絡んだ髪を無理に引っ張らないように指を一本ずつ差し入れていった。
頭を洗われていたときのくすぐったさとは違って、今度は、髪そのものが丁寧に扱われている感覚があった。
毛先を手のひらで包まれ、両手の間を滑らされる。そこから少しずつ上へ移動し、また別の束へ。髪を梳くたびに、指の間を通り抜ける毛束がまとまりを取り戻していく。私は目を閉じたまま、頭の後ろで繰り返されるその動作をぼんやりと想像していた。
「ん~……やっぱり彩葉の髪、きれ~だねぇ……」
「さっきも言ってなかった?」
「何回言ってもいいじゃん? きれ~なものはきれ~なんだから」
かぐやはそう言って、今度は私の髪を左右に分け、肩の前へと持ってきた。首筋に冷たい毛先が触れて、思わず肩がぴくりと動く。すると、すぐに「ごめんごめん」と笑いながら、かぐやは髪を手のひらに載せ直した。
「はい、流すよ。今度は下向いててね~」
「……ん」
シャワーが再び音を立てる。かぐやは私の髪を少しずつ持ち上げながら、上から下へと湯を通していった。指先が毛束の間を滑り、リンスを洗い流していく。髪の表面を覆っていたものが湯と一緒に静かにほどけていくような感覚。
指で梳かれるたび、濡れた髪がするりと落ちていく。絡まりがないか確かめるように、かぐやは何度も毛先まで指を通した。水を含んだ毛束が手のひらから離れ、肩へと落ちていく。最後に、髪の内側へ指を差し入れ、根元から毛先まで湯が行き渡ったことを確かめてから、ようやくシャワーを止めた。
そして、何かを確かめるようにひと房だけ髪を掬って、その中ほどに顔を近づける気配。
……ちゅっ、と小さな水音。
「……かぐや、あんた「よしっ。これで完璧!」
瞬間的に耳が熱くなった私が何かを言うより先にかぐやは満足そうに宣言して、タオルで私の髪を包み込んだ。今度はさっきよりも丁寧に、毛先を挟んで水気を吸い取っていく。濡れた髪がタオルの中でまとめられ、頭を動かすたびに、背中へかかる重さが少しずつ変わった。
……まぁ、いっか。眠いし。
私は、肩に落ちた毛先を指でつまんでみる。
芦花から半ば押し付けられるような形で貰ったシャンプーとトリートメント。それは変わっていないけど、こうしてかぐやにやってもらうのと自分でやるのとでは随分と仕上がりの質に差が出るものだった。
……この一連の行為は、経済的にもタイムパフォーマンス的にもさして意味は無い。
それでも私がこうしてかぐやに身をゆだねるのは、今となってはとても心地いい時間になっていた。目を閉じて、次に何をするかを考えず、ただ触れられる感覚に身を任せること。頭のどこを洗うかも、どこに泡が残っているかも、私が気にする必要はない。かぐやが全部引き受けてくれているのだから。
そんな風な、私が知る限りにおいての酒寄彩葉ではありえない所感。それさえも今となっては違和感を持つこともない。
この子が私にとっての何者で、何をどこまで許すべきなのか。預けることや委ねることを許容して、預かることや委ねられることを受容するのか。そんな線引きをするにはいささか遅きに失していた。
今は、もう。
☾
「おっし、入浴すっぞ~~! ……彩葉かなり運動してたんだから、ちゃんとゆっくり浸かってね。はいこれ常温ポカリ。飲んでから入るよ~に!」
「アンタは私のマネージャーかっつの……経口補水液はご飯の時に沢山飲んだから大丈夫。ストレッチもしたし、明日乳酸で死ぬこともないっしょ……そういうかぐやはちゃんとストレッチしたわけ?」
「お湯浸かったあとでやる~!」
「こいつ、さては忘れてたな……?」
そんなこんなのひと悶着ならぬ0.5悶着くらいを経て、私たちは一緒に湯船の中に入っていた。
「お、見て見て彩葉~~さっきのナイトクラブで彩葉がバク中したときのクリップが10万RTいってる! ねぇ彩葉、これリアルでもやったんでしょ? やりかた教えて!」
「ん~……いいけど、マット敷いて広いスペースで練習しないとあぶないから、すぐには無理かな」
「そっか~~残念。じゃあさ、明日スポーツセンター? ってやつ一緒にいこ~よ! かぐや、彩葉が運動してるとこ見たい!」
「お互いそんな時間ないでしょ……まぁ、コラボライブが終わったら、ね」
「やった~~~!」
かぐやは私の胸に背中を預けながら、防水カバーの中に入れたスマホを凄まじい速度で弄っていた。エゴサや明日の配信の告知、コラボオファーなんかへの返信をしているんだろう。
今やツクヨミの内外で最も注目を集めるパフォーマーとしてとるべき行動としては至極真っ当なもので、何故かその片割れのはずの私がマネジメントしないといけない部分でもあるはずだった。
「……それ、私が代わるよ。プロデューサーは私なんだからさ」
「いーのいーの! 今日は彩葉疲れてるし、明日も練習もバイトも勉強もあるっしょ? コラボライブが終わるまではかぐやがやるからだいじょーぶ! それに、ヤチヨも助けてくれるから安心!」
「ヤチヨが……? なら、大丈夫か……」
言われてかぐやのスマホ画面をよく見ると、かぐやの操作を助けるようにデフォルメミニヤチヨがタブやアプリケーションを開いたりアドバイスメッセージを表示したりしているのが見えた。可愛い。
私の視線に気づいたのか、ミニヤチヨはちらっとこっちを見ると小さく手を振ってくれた。釣られて私も、かぐやを抱えるためにそのお腹に回していた腕を外して小さく手を振り返した。
「あっ……ちょっ……! このふりょーAI! アシスタントよりファンサを優先しないの!」
「や、ヤチヨ……エヘヘ……」
ミニヤチヨは作業そっちのけでペタっと画面にはりついたり、入場客に挨拶するイルカみたいにコンコンと透明な壁に向けて突撃していた。
…………可愛すぎる。愛してる。私のスマホにも住んでくれないかな。いや、ちょっとヤチヨに見せられない成人向けヤチヨイラストとかローアングルスクショなんかを納めたフォルダがヤチヨの目に触れたら私が生きていけないから無理か。でも玄関口だけでもいいから来てくれたらそれだけで私のQOLは8000倍向上すること間違いなしなんだよねスマホの玄関口ってどこだよ知らねーよでもとにかくヤチヨと画面越しに触れ合うことができたら人生のゴールなんだよね例えば私が画面をタップしたとき合わせてヤチヨも同じ場所に指を合わせてくれたりとかそういうサービスはまだでてこないでしょうかヤチヨ様もし出てきたら腎臓の片方くらいなら質に出しますのでどうかご検討いただければ幸いです。
「むぅ………………あ~~~~もう! 今日のおしごと終わり!!」
「えっ……あ、ヤチヨが…………」
「明日練習で会えるでしょ! デレデレしない! スマホ画面みない! お風呂はゆっくりからだを休めるところって言ってたのは彩葉でしょ!」
「それは…………そう」
かぐやはスマホを納めた防水ケースをポンと放ると、ぐいっと背中を私に向けて押し付けて、手持ち無沙汰に水面に浮いていた私の手を自分のお腹の上に戻した。
「さっきとりかえしたばっかなのに、相変わらず油断もスキもね~んだかんな~~まったく……」
「別に私はアンタのものじゃ……モゴッ」
かぐやはぶつくさぼやきながら、そこに纏めた髪束ごとグリグリと後頭部を私の顔面にめり込ませてきた。自分のモノだとアピールするみたいなその行為は、ウサギというよりは猫のそれにそっくりだ。
私はハニーブロンドの髪束の中で窒息するのを避けるべく、かぐやの脇に手を回してその位置を微調整してお互いの顔が斜めに並ぶ形に固定する。それからもう一度お腹に手を回して、もぞもぞと動くかぐやをぴったりと腕で拘束した。
「仕事するんならいいけど、そうじゃないならあんまし動かないの。私が落ち着けないでしょ~が」
「は~い……」
かぐやはとにかくせわしなく動く子で、それは湯船に浸かっている時もその例に漏れない。だから一緒に湯船に浸かっている時にその活性を腕の中に封じ込めることも、幾度も繰り返すうちにすっかり慣れてしまった習慣のひとつだった。
「…………」
私に抱きすくめられたかぐやは、さっきまでと打って変わって黙ってじっとしている。これも習慣化の成せる業だ。湯船の中くらい静かにしてって言いながら抱きしめてきたから、抱きしめた瞬間に力を抜いて動きを止めることが暗黙の了解になっているのだろう。
そうして、この家に於いては本当に稀な一時の静寂がバスルームを支配する。
ぽちゃり、と天井から結露した水滴が落ちる音。身じろぎにさざめく水面。お互いのゆったりとした呼気のリズム。肌越しに感じる心臓の鼓動。時間の流れすらゆっくりと流れるような心地よい一時。
かぐやもそれを味わっているのか、自分の身体に回された私の腕に指を這わせながら、BPMを最低値まで下げたメトロノームみたいにゆっくりと体を左右に揺らしていた。
その金色の頭頂部が目の上で揺れる様をぼんやりと眺めながら、思う。
(こいつ、デカくなったな……物理的に)
初めてこの体勢になった時のかぐやの頭の位置は、私の鼻先よりもやや下くらいだった。それなのに、今ではその天辺が額の位置にある。つまり、一か月かそこらのうちにこの子は3~4cmは背が伸びていた。
「…………かぐや、もう私より背、高いかもしんないね」
「そかな? …………彩葉、自分よりおっきい子、嫌い? かぐや縮もっか?」
「いや、常識的な範囲でやっていただければいくらデカくても何の文句もないけど……つまり、縮むのだけはナシね」
「ん。そいじゃ、いつか彩葉のことお姫様だっこしても様になるくらいになっちゃおっかな~~」
私の限りなく独白に近い囁きを聞いて、斜め後ろにある私の瞳を覗き込むかぐや。
私の返答を聞いて、にへらっと相好を崩してから上機嫌に将来の展望を語りながら前に向き直るかぐや。
沈黙を破る許可を得たと思ったのか、BPMを少し上げたメトロノームになってハミングしはじめるかぐや。
その琥珀の眼差しはどこまでも澄んでいて、移り気な未来を想う横顔には何の憂いも翳りも見て取れなかった。
それは、当たり前のことだった。
子どもは未来に期待するものだ。希望とか、未来とか、憧れとか。何でもよくて、何でもありな輝きが未来にあるって。無邪気に信じて待っている。
その輝きがいくらか褪せるまでの時間、抱えた未来の像を現実から守ってあげるのが私の役割で…………
「だいたい10センチから15センチくらいの身長差が良いって聞いたんだよな~~……けっこー遠くない? かぐや、これから頑張んないとだ……」
そのどこまでも荒唐無稽で明るいだけの展望に小さく相槌を打ちながら────
────私は自分の目尻から一滴の雫が流れ落ちる様を、他人事のように感覚していた。
(………………あ)
明るいだけの未来への展望。
私も持っている筈だったそれに影が落ちたとき、もう要らないと捨ててしまったことを思い出す。意地になって投げ捨てて、物置の奥に転がっていた私の音楽を思い出す。
それは、今更鍵盤に指を載せたとて、決してかえってくることのないものだった。
(そっか。かぐやは、私の……)
この子が私にとっての何者で、何をどこまで許すべきなのか。どれだけ預けることや委ねることを許容して、どれほど預かることや委ねられることを受容するのか。それらの線を何処に引くべきなのか。
その答えは至ってシンプルだった。
(かぐやは、私なんだ)
境界なんて無くて当たり前だった。私にとってのかぐやは、捨ててしまった7歳の頃の私そのものだ。意地になって投げ捨てて、恥ずかしいからって見向きもしないで、そうしているうちに通り過ぎてしまった、あの頃の私にとっての未来そのものだった。
かぐやが如何にも子供らしい振る舞いをする度に、私はまるで他人ごとじみた俯瞰視点から幼い自分を幻視していた。きっとそれは、私が私の幼さを切り離してかぐやに押し付けていたからだ。
つまり、もう救えない自分自身をかぐやに投影して、代わりに救って貰うように願っていたのだ、私は。
(最低だ……私、この子を代償行為のための道具にしようとしてる)
自分にとって望ましい像を押し付けて、その通りに振る舞うように求める行為。
それは、世にいう『悪い親』の典型的な振る舞いではなかっただろうか。
それは、酒寄彩葉とその母との関係と、どれ程違うと言うのだろうか。
「でね~~! かぐや行ってみたいんだよね、ウユニ塩湖! 今は彩葉が忙しいから無理かもだけど、コラボライブが終わって暫くしたらさ……」
咄嗟に盗み見る気持ちで確認したかぐやの横顔とその笑顔の無邪気さ。そこに私が抱えるような翳りの一切が見受けられないことを確認して、私は心底ホッとした。
私の内面がどれだけ汚れていようとも、それがバレないうちは良い親として振る舞えるはずだ。勿論嘘を永遠に吐き続けることはできないけれど、それでも良かった。
人と人は永遠には一緒にいられないことを、私は身をもって知っているのだから。
私を連れていくといった『ハッピーエンド』の場所がどこにあるのか未だ判然としないけれど……ハッピーエンドを迎える時は、この子の巣立ちの時であったなら、それが一番幸せなのだろうなと思う。
君は知らないままでいて、私も言わないままでいる。
それが、醜い私にとってのベストなこの子の愛し方だ。
「……ごめん。ぼーっとしてて聞き流してた。なんで身長の話から海外旅行の話になる訳?」
「ぅえ"~~~? ちゃんと聞いててよ~~かぐやちゃんのパーフェクトプランニングをさぁ! 彩葉も行くんだからちゃんと自覚持って!」
……この子に私の血が流れていなくて本当によかったと、私は心の底から安堵した。
少なくとも、お母さんから受け継いだ私自身の業深さが、かぐやに物理的に伝播することだけはないのだから。
飛行機を一切使わず、最低限の海路を除けば陸路だけでボリビアのウユニを目指すらしいありえない旅程。それを心底楽しそうに語るかぐやにツッコミ混じりの相槌を打ちながら、私は祈る。
どうかこの子の未来が、私とは似ても似つかないくらい幸せなものでありますように。
そんな願いを込めて、私は少しだけ身を乗り出して、かぐやの頬に口づけた。
「だから、たどりつくまでの時間がいちば、ん──────?????????」
「…………もう15分以上経ったし、そろそろお風呂、上がろっか」
私はざばっと湯船から勢いよく立ち上がると、フリーズしているかぐやを置いてそそくさとバスルームの扉を開ける。
別に恥ずかしかったわけじゃない。目が少し腫れているのをかぐやに見られたくなかっただけだ。
口づけるのは頬にだけ。後は大人になってから。
次の機会があるとしたら、お別れの餞別がいいだろう。
「ちょっと彩葉! 今の何~~~!?!?!?!?」
ガラガラとドアを閉めながら、私はそんな風に今日の長い夜を締めくくったのだった。
彩葉は気づいてないんだろうな。
お風呂で彩葉に背中から身体を預けるときも、鏡に映った彩葉の顔を、
横を歩いているときも、ご飯を作っているときも、それを並んで食べているときも、髪を乾かして貰っているときも、寝るときも。
正面にいない時は視界の端で、障害がある時は鏡とかカメラとかを使って、ずっと彩葉の顔を見ていることに、彩葉は気づいてないんだろうな。
だから、彩葉が私を後ろから抱きしめながら、ちょっとだけ泣いてた顔を
気づいていたのに、どうすればいいのかわかんなくて、気づかないフリをするしかなかったことも、彩葉が気づいてないんだろうな。
(……気づかれなくて、よかった)
彩葉があんなふうにいきなり泣いたり笑ったりするのは、きっと彩葉の中の思い出と話をしてるときで。
きっと喋るだけで苦しいのに、「かぐやにはわかんないよ」って言葉を飲み込んで、自分自身の拒絶を拒絶して教えてくれた、彩葉のこれまで。
教えてくれたことはとっても嬉しかったけど、優しさで呑み込んでくれた言葉は嘘になんかならなくて……
生後1ヶ月と少しの
そういう全部に共感する余地を、彩葉が許してくれなかったから。
彩葉のこれまでにずっと寄り添ってきたのはヤチヨで、そこに共感できるのも、苦しいのを和らげてあげられるのも、きっとヤチヨだけ。
だから、彩葉がこれまでの思い出に苦しんでいる時
幸せしか持っていない
なんで彩葉が泣いたのか。なんで寂しそうなのか。なんで
そうしてすっかり途方に暮れた
「ねぇ、ヤチヨ。ヤチヨなら分かるんでしょ?」
ドア越しにゴソゴソと身体を拭いている彩葉に聞こえないようにこっそりヤチヨに訊ねてみるけれど……
「…………」
ムカついて電源を切ったスマホの画面は真っ暗で、そこからは何も返ってこなかった。
「かぐや~~なにやってんの。身体拭いたげるからそろそろ上がって」
「……は~~~~い!」
きっと目の腫れが引いたんだろう。待っていた
こうやって、彩葉は
月から彩葉の場所に降りてから、私はずっと幸せで、苦しいことなんて何もなかった。
…………そういう課題を運んでくれる、彩葉から
コラボライブまであと少し。ハッピーエンドは目の前だ。
そうすれば、彩葉の大好きなヤチヨの場所に彩葉を連れていくことができる。
そしたら、
「遅い。私が湯冷めしちゃうでしょ」
「彩葉がせっかちなだけじゃん! もっとゆっくり入ってよ~よ!」
私はスマホ片手にガラガラとバスルームの扉を開ける。彩葉と誤魔化し交じりの軽口のキャッチボールをしながら、濡れた身体にバスタオルを押し当てる彩葉の優しい手つきに身を任せた。
彩葉のこれまではヤチヨが、彩葉のこれからはかぐやが。
コラボライブが終わったら、当面はそういう分担でやっていこう。そんでヤチヨにアドバイスしてもらって、ちょっとずつ彩葉のわからない部分がわかるようになっていけばいい。
そうしている間ずっと感じていた、胸の奥を針で突っつかれるような
それでいい。それでいいはず。
だって楽しいこと以外の意味を、
今は、まだ。
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