「私は祖父が母をレイプした結果産まれて来てしまった子なんですよ」
そのような事が梛の耳に入って来てしまった。
現在、梛は薬の受け取りの帰りに顔見知りの警察官を見つけ、少々話していたところ瞠が来ているとの事で病室前に待っていたのだった。梛はVIP対応の厚い病院が必要だったわけで海聖病院に入院していたが、自宅にも元職場にも近いのもあいまって精神面の掛かりつけは東京中央病院にしていたのだ。もちろん東京中央病院は日本の中でも数本の指に入るほどレベルが高く、評価されている。
しかし防音は完璧では無いわけで、耳に入って来てしまった。そのせいで焦った梛は杖を手の中で跳ねさせ落としてしまった。そしてその音は響いてしまった。さっさと帰ろう。梛はそう決意した。勝手に待っているだけなのだから、さっさと帰ってしまえば瞠に聞いてしまった事は気づかれない。梛は杖を拾うと立ち上がってできるだけ静かに自分の出せる全速力を出してその場を後にしようとした。したのだが、ガラガラと戸が開いて瞠が出て来てしまった。
「あのー」
「聞こえましたか?」
「うぐ……はい、ばっちりと……」
梛の現在は瞠の車の中だった。梛はそこまで距離も無いし自分は歩いて来たのだから大丈夫だと言ったが、心配だ、どうしても、と瞠が言ったので送ってもらう事になった。たった10分程度の話なのに、と梛は最後まで拒んでいた。
「別にどうこう言うつもりは無いですよ。ただ、話すならちゃんと話しておきたかったと思いまして」
「どうしてそこまで?」
「私が黙っていなければ、貴方はこんな事になっていなかったでしょう。私が告発していれば少なくとも唯川グループは……そもそも私がこうやって未だに刑事をやれているのは……」
「あの、気にしてませんから!気にしてないってのもなんか変ですけど……貴方がどうであろうと唯川さんは僕の上司であり友人ですよ」
「ありがとうございます」
「それと、決まりました。周さんとの会食の日。19日です」
「19日は聖園さんのお誕生日でしたよね?」
6月19日は梛の29歳の誕生日だ。
「はい。まぁできるだけこっちが有利になるように頑張ります」
梛はにっこり笑った。
梛を送り届けた後、瞠が向かったのは捜査一課の事務室ではなく、13階、公安部の会議室だった。
「お久しぶりです。谷町さん」
公安総務課の係長、谷町聖夜だった。
「はい。こちらです。一応自分はここに居るので何かあれば」
聖夜が瞠に渡した段ボールの中には分厚いファイル3冊とパソコン、DVDだった。
ファイルの題名はヴァルキリー関連:警察官拉致監禁事件となっていた。
この資料は公安部の一部しか見れなかった資料がようやく纏められたものだった。
事件概要、関係者情報の数々。そこには梛からは聞いていなかったことも書かれていた。
「つまり応援が来る直前まで羽島枢さんは生きていた、という事ですか?」
緊急通報の音声および発信源は解析の結果羽島枢であること。羽島枢の撃たれた場所は頭ではなく腹部であったこと。そもそも羽島枢から出てきた弾丸は梛の使っていたベレッタM8045が使う.45ACP弾ではなく、9mmパラベラム弾で、幹部の使用していた拳銃と一致すること。
「記憶の混濁、改竄があった、という事ですか」
梛の主張である、「まず幹部4人を含むヴァルキリー構成員6人を射撃の後、助けに来た枢を敵だと誤認し撃ってしまった」とは食い違う。
「ただ、他の6人からは.45ACP弾が検出されています。梛が撃ったので間違いないと思いますね。というわけで梛がいま拘置所に居ないのは正当防衛と、そもそも射撃命令が出ていたこと、羽島くんを撃っていないことの3点が理由なんです。
梛に対して正当防衛と射撃命令が出ていたことに対しては説得出来ても、梛が羽島くんを撃っていないという点は説得が難しいんですよ。だからこの情報を与える時期を見計らっているんです。いずれしっかり説明しなければいけない時は来ますからね。この事は羽島くんの遺族の方にはしっかり説明して、羽島くんを撃っていないという事実を梛に言わないでいてほしい、とお願いをしています」
それに……と聖夜が切り出した。
「梛にはあの事件もあったし、もともとPTSDなどを抱えていたそうです。長年の治療もあって寛解していたそうですが、3年前の事件もあって悪化しています。だからこの事を安易に突きつけられない。復帰も上の判断だとしても、止めるべきだ。今は落ち着いているだけで、当時は、本当に……まだ」
「それと梛さんの当時の被害記録です」
それによると当時梛は全身にかなりの打撲に腹に1発、足に2発、頭をスレスレに1発と生きていることが奇跡ぐらいの有様だった。
「おそらくは梛の一色覚は精神的なものとこの銃撃によって視神経に影響が出たものだと医者は言っていました」
あまりにも酷い状況に瞠は何も言えなかった。
「大変な役割を押し付けてしまい申し訳ないが、これは公安部からの要請です。事実を梛に教えてください。梛は貴方の事は丁度よく信用しているでしょうから」
「丁度よく、ですか」
梛は聖夜の丁度よく、という言葉に引っ掛かった。
「父親や叔父などは甘い言葉を囁いていると思われるでしょうし、羽島くんの遺族の方々に説明されれば諦めているか狂ったと思われるだけでしょう。しかし、唯川さん、貴方ならご友人として、元上司として受け入れられるのでは無いか、と思うんです」
「……わかりました。お受けしましょう」
「ありがとうございます。ではスケジュールの方もお願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
公安部のフロアを後にして捜査一課の事務室に戻ってきた瞠だった。
「お疲れ様です。どうでしたか?」
どうぞ、と榴輝が瞠に決裁してほしい書類の束を渡す。
「……ん、あまり言える事はありませんが不安、ですね」
その書類の束を受け取りながら瞠は答えた。
「珍しいですね。唯川係長が不安だなんてはっきり口にするのは」
雪乃はキーボードを打つ手を止めないままそう口に出した。
「そうですか?」
「唯川係長ももっと頼ってくれて良いんですからね。ねぇ?三河主任」
未莉はファイルから顔を上げて榴輝の方に目線をやる。
「ふは……そうですよ。チームワーク、チームワーク。唯川係長、怪我続きですし本当に頼ってください」
榴輝は自分のデスクの椅子に座る。
「大丈夫ですよ。皆さんのことちゃんと信頼していますから」
そう言った瞠の顔は晴れやかで今日1番の笑顔だった。
梛は自宅のベッドの上でスマホを見つめていた。トーク履歴にはドレスコードの話と会食の場所である店の名前が送られてきていた。
当日は迎えに行くから、とまで。
類から電話がかかってくる。ポップアップの通話ボタンを押した。
「父さん、どうかした?
「梛くん、今から行って良いかな?」
「……良いけど、何かあった?」
「いや?俺が会いたいだけだよ。話したいこともある」
会いたいという言葉に梛は顔が綻ぶ。
「じゃあ、待ってる。あ、でも今日ご飯無いから来るなら持ってきてよ」
「うん、わかった」
「わ!僕の好きなやつ!ありがとう!!食べたかったんだよ」
「梛くんが元気なところを見ると俺も嬉しいから」
類が持ってきたのは梛の好物ばかりだった。
「それで、話したい事って?」
「離縁、しない?」
離縁、その言葉は梛の頭を駆け巡り、焦りとなって言葉に出る。
「なんで?なんでそんなことしなきゃいけないの?そもそも僕らは特別養子縁組でしょ?しかも僕はもう成人してるし実の両親も死んでる……父さんは僕に暴力なんか振るわない。そんなの認められた事例なんか無いよ。なんで、なんで、なんで類くんまで、父さんまで僕から離れるの嫌だ、嫌だよ」
「君が眠っている間に法律が変わった。第3の条件として厳正な調査の結果認められる場合がある。
実際、俺たちと似たような事例がつい1年前に認められた。これを主導したのは嵯峨周だ。全部あの人の手の内だろうが、君が皇族復帰を回避するにはこれしか無い。
皇族の閑院宮ではなく、閑院家の当主として為すべきことを為せばあの人は納得するだろう。他にも条件は付けられると思うけどね」