「何してんのミカちゃん?!」   作:天ちゃん

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「「……ダイエットしよ」」

 事の発端は、洗濯物だった。

 

 正確には、洗濯から戻ってきたシャツのボタンが、ポケットの中でコロリと転がってきた、その一点に遡る。

 私は洗面台の前で、手のひらの上の小さな貝ボタンを見つめた。見つめた。……見つめた。

 

「…………」

 

 心当たりがある。

 あった。一個だけじゃなかった。パジャマのボタンが、定期的に行方不明になっていたことを、私はとっくに知っていた。

 あの夜のことを思い出す。ミカちゃんが私のパジャマを着て、「ちょっとキツイっていうか……特に、この、胸のあたりが……パツパツで苦しいかも☆」と言いながら、わざとらしく胸元を指さしたあの夜。

 ──ちなみに、私は当時、「殺すぞ」という一言を以てその場を閉じた。

 でも。

 最近の私は、ストレスと言い訳にかまけて、夜な夜なナギちゃん邸で略奪したロールケーキを食べ、深夜に八本のタケノコをやっつけ、レポートの合間にヘーゼルナッツのプラリネ・クッキーを無限に口に放り込んでいた。

 ……。

 私のパジャマである。私の体型ではあのボタンは飛ばない。いくら私でも。……。

 あの夜に飛んだのはミカちゃんのせい──それはそうなんだけど。そうなんだけど、でも、じゃあ、念のため確認してみようか、と体重計に乗った結果がどうだったか、ということについてはここでは敢えて何も言わないでおこうと思う。

 

 思う、が。

 

「……少しくらい、引き締めてもいいかもしれない……」

 

 誰もいない洗面所で、私は呟いた。

 溜め息も出なかった。ただ静かに、その事実と向き合うだけだった。

 

 そう決意した翌日の、午前十時。

 私は、教室の入り口付近で、珍しく神妙な顔をしたミカちゃんと鉢合わせた。

 

「……ミカちゃん、どうしたの。そんな顔して」

「……エルちゃん。ちょうどよかった。ちょっと、聞いていい?」

 

 廊下の隅へ引っ張られる。ミカちゃんにしては珍しい、ひそひそ声だった。

 

「……最近さ」

 

 彼女は、前置きもなく、制服のリボンのあたりをぎゅっと握った。

 

「……制服の、ここ。なんか、少し……きつい、かも……」

「……」

「あ! ち、違うよ? 洗濯で縮んだのかもしれないし! そういう可能性もあるし! だから別に深刻な話じゃないし! エルちゃん何その目! わかったように見ないでくれる!?」

「……わかった、ミカちゃん。私も聞いて」

 

 私はミカちゃんの隣に並んで、ちょうど自分も胸ポケットのあたりをぎゅっと握った。

 

「私も最近、なんか、少し……」

 

 二人で無言のまま、廊下の壁に背中をくっつけた。

 数秒の沈黙。

 

「「……ダイエットしよ」」

 

 ハモった。ミカちゃんと目が合い、なんとなく気まずくなったので、私は先に視線を逸らした。

 

「で、何するの」

「そりゃ……運動とか、食事制限とか……」

「でもエルちゃん、紅茶やめるとか無理でしょ」

「無理! 死ぬ! それを言ったら間食を減らす方向で」

「うん。なら運動でしょ。走る?」

「走るのはちょっと……朝早起きとかしたくないし。あと汗かいたら髪が……」

「あー、わかる。じゃあ、なんか、こう……ちゃんとやった感があって、でもあんまり大げさじゃないやつがいいよね」

「そう。それ」

 

 私たちは揃って腕を組み、しばらく考えた。

 

「……サウナ」

 

 沈黙。

 

「……サウナって、何か運動になるの」

「代謝が上がるって聞いたよ! 体重も落ちるし! じんわりいい汗かけるし! ずっとやってみたかったんだよね!」

「……まあ、一回試してみるのはいいかもね。どこかトリニティの生徒が使える施設、あったっけ」

「あるある! 学園のセンターに、なんか健康増進施設みたいなのが! ナギちゃんなら知ってそう」

「ナギちゃんに聞く前に、まず自分たちで動こうよ……」

 

 しかしまあ。私は今日の午後の空きコマを思い浮かべ、スケジュールを確認した。ちょうどいい。

 こうして、禁断の「ダイエット」同盟は、滑り出しだけはスムーズに、発足したのだった。

 

 

 ◆ ◇ ◇

 

 

 その午後。

 私たちの耳に入ってきたのは、タイミングの悪い知らせだった。

 

「エルさん、ミカさん! 丁度よかったです。今日の午後、少し時間が空いたので、アフタヌーンティーにと思いまして」

 

 ナギちゃんが、廊下で私たちに声をかけてきた。その手には、目の保養になるくらいきれいな箱がある。見覚えのある包装紙。

 

「あれ、それって──」

「ええ。先日、限定入荷のお知らせが来たのを確保しておいたのです。セイアさんとヒフミさんも呼んでいるのですが、せっかくなのでエルさんとミカさんも一緒にどうですか?」

 

 私の目が、箱の包装紙に釘付けになる。

 あれは、間違いない。「モモコンフィチュール」の箱だ。先日ヒフミちゃんと話していた、スグリの酸味が効いた、あの新作の。アールグレイに合うと評判で、入荷したてだから予約しないと手に入らないはずで、私もずっと気になって──

 

「…………」

 

 私の右側で、ミカちゃんが無言でそっと私の袖をつまんだ。

 同盟の合図だった。

 

「……ナギちゃん、ありがとう。でも今日は……遠慮しておく」

 

 言えた。言えたよ、私。……ミカちゃん、感動していいよ?

 ナギちゃんは丸い目をさらに丸くして、私とミカちゃんを交互に見た。

 

「……珍しいですね。エルさんが断るなんて」

「うん。まあ、今日はちょっとね、予定があって」

「……予定?」

「予定!」とミカちゃんが元気よく続けた。「大事な用事があるんだよ! ほら、エルちゃん行こ!」

「ちょ、引っ張らなくていいから……! ナギちゃん、ごめんね。また今度誘って!」

 

 ミカちゃんに半ば引きずられながら、私は廊下の角を曲がった。

 ナギちゃんの「……まあ、それならいいのですが」という声が遠ざかる。

 

「……惜しかった」

「うん。でも、えらかったよ! 私たち!」

「それは……そうだけど」

 

 スグリのパイのことは、今は考えない。今は考えない。考えるな、エル。

 また今度……食べようか。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 そんなこんなで歩き続けること十数分。健康増進施設にたどり着いた。

 ここのサウナ室は、想像より一回り広く、木の香りがした。扉を開けた瞬間、もわっ、とした熱気が顔面を迎え撃ってきた。

 

「……あっつ」

「わあ、本格的だね☆」

 

 私は既にひるんでいた。ミカちゃんはうきうきしていた。

 二人でタオルを巻き、ベンチに腰を落ち着ける。壁際のストーブが、じわりじわりと熱を発している。なんか皮膚がヒリヒリする感じだった。

 

「こんな感じか……」

「じんわり来るね。体の中から温まる感じ!」

「私は皮膚が痛いよ……」

「あれ? 人によって変わるのかな?」

 

 最初の三分は、そんな感じだった。

 

 少しづつ、皮膚の痛みとは代わり、体の芯が温まってきた。

 じんわり。ほわっと。なんか、スパみたいな気持ちよさ。

 

 五分が経った。

 

「……暑い」

「でしょ! いいよね! これが代謝が上がるってやつだよ!」

「いや……なんか、だいぶ暑いんだけど」

「そう? 私はまだ全然いける!」

 

 ミカちゃんは余裕の表情で、腕を頭の後ろで組んでいた。

 私の方は、耳の後ろのあたりがじりじりしてきた。額に汗が浮かんでいる。空気を吸い込むたびに、熱が喉の奥まで入ってくる感覚。

 

 七分が経った。

 

「……ねえ、ミカちゃん。そろそろ一回出ない?」

「え? まだ七分だよ? もうちょっといようよ!」

「いや、私はちょっと──もう十分な気が──」

「せっかくだからもっと追い込もうよ☆」

 

 ミカちゃんが、私の隣で明るく言った。

 その「追い込もう」という言葉の、なんと軽やかなことか。

 

 八分が経った。

 

「…………あの、ミカちゃん」

「なに?」

「私、茹で上がる。タコもびっくりな赤さになるって」

「大げさだよ〜!」

「大げさじゃない。私の皮膚が今、煮立ち始めてる。沸点に達しつつある。最高級の茶葉は高温で淹れすぎると苦くなるんだよ、それと同じことが今の私に起きてる」

「……? エルちゃんは紅茶じゃないから大丈夫だよ!」

「私は紅茶だよ? もう美味しくなくなっちゃうって……」

 

 何とか逃げようと私は立ち上がり、扉に手をかけた。

 が。

 

「あ、ちょっとまって」

 

 ミカちゃんが、当然の顔で立ち上がり、私の後ろに来た。そして、うっかり、という動詞がこの世に存在する限り許されるような何気なさで、扉を背中で押さえた。

 

「ちょっと! なにしてんの!」

「え? エルちゃんが出ちゃうと、私も一人になっちゃうし、なんか、心細いし……ほら、もうちょっとだけ! あと三分!」

「三分って言ったらあと三分追加になるやつでしょ、それ! わかってるんだけど!」

「そんなことしないよ? 約束する!」

「ミカちゃんの約束が機能したことが過去に一度でもあったかどうか、振り返って考えてみてほしいんだけど!!」

 

 私は渾身の力で取っ手を引いた。ミカちゃんも渾身の力で……まあ、特に力を入れているつもりはないのだろうが、その背中がなんとなく扉に寄りかかっている状態で、人知の限りを尽くした押し引きが繰り広げられた。

 勝負にならない。なんでこの人この環境でこんなに平気なんだ。

 

「ミカちゃん、離れて」

「えー、あとちょっとだって☆」

「汗が目に入って痛い! 耳のあたりが赤くなってきてると思う! 髪が! 私の髪が!!」

「髪はタオルで巻いてるから大丈夫だよ!」

「大丈夫じゃない! ミカちゃんのその体感温度は一体どこから来てるの! 鉄でできてんの!?」

 

 ミカちゃんはきょとんとした。

 

「……そんなに暑い?」

「逆に暑くないの???」

「うーん……じんわりあったかいな、って感じ? 気持ちいい!」

 

 この人は本当に鉄でできていた。

 

 九分が経った。

 私の思考が、わずかにぐらついてきた。脳が熱い。ベルガモットを思い浮かべようとしたが、うまく香りのイメージが出てこない。まずい。これはまずい兆候だ。紅茶の香りが浮かばなくなったら、終わりのサインだ。

 

「──ミカちゃん」

 

 私は諦めた声で言った。

 

「なに?」

「一個聞いていい?」

「どうぞ!」

「サウナって、痩せるの?」

「……え? た、たぶん? 汗かくし!」

「それって主に水分じゃない?」

「…………」

「一時的に体重は落ちるかもしれないけど、水を飲んだら戻るって話、どっかで読んだんだけど」

「…………エルちゃん。今それ言う?」

「今言う。だって、もう限界だから」

 

 ミカちゃんが、初めて少し、バツが悪そうな顔をした。

 扉から背中が離れた。

 私は即座に取っ手を引いた。

 

 どわっ。

 

 外気が顔に当たった瞬間の、あの感覚を、私は一生忘れないと思う。

 生を実感した。……いや大げさかもしれないが、本当に、涼しさが全身に染み込んできて、脳の血流が戻ってきた感じがした。私は壁にもたれかかって、深く、深く、息を吐いた。

 

「…………生きてる」

「大げさだよぉ」

 

 ミカちゃんが後ろから出てきた。彼女の肌はうっすら紅潮しているが、目はキラキラしたままだった。

 ずるい。本当にずるい体している。

 

「……一個だけ言っていい」

「なに?」

「あなたが私のパジャマを着るから、私は今日ここにいる」

「…………ふ、えっ、ちょっと、それは飛躍しすぎじゃないかな? 」

「飛躍してない。因果応報の一直線だよ。ボタンが飛んで、私が気にして、ここに来た。全部つながってる」

 

 ミカちゃんが、しばらく黙っていた。

 

「…………えっと、ごめん?」

「……いや、まあ、私も自覚はあったんだけどね。ストレス食いしてたのは事実だし。でも」

 

 私はタオルで髪を押さえながら、脱衣所のベンチに腰を下ろした。

 汗がじわじわと引いていく。なんとなく、体がすっきりしたような……した、ような気がしなくもない。

 

「……これ、意外と気持ちいいかも」

「でしょ!! そうだよ! だからもっとやれば!」

「もういいです。今日はもういいんです」

 

 私はきっぱり言った。

 

 

 ◇ ◇ ◆

 

 

『で、結局二人ともアイスを食べているわけですね……』

 

 ナギちゃんの声が、電話越しに静かに降ってきた。

 

「……偶然、施設の出口に売店があって」

「偶然!」とミカちゃんが被せた。「しかもちょうど『サウナ後に』って書いてあるやつがあって!」

『……ええ。それで、何味を?』

「私はミルクバニラ! あ、二本目!」

「私は……一本だけ。いちご。……」

 

 沈黙。

 

『ちなみに断ったアフタヌーンティーには、ちょうどスグリのパイが来ていましたよ。あとビクトリア・スポンジケーキ。セイアさんが持ってきた焼き菓子も絶品でした』

「…………」

 

 私の手の中で、いちごアイスが少し溶けた。

 

「……いや、でも」

『でも?』

「汗はかいた。ちゃんと。だから、まあ、代謝は上がったはず。プラスマイナス……」

『アイス二本分のマイナスがありますが……?』

「ミカちゃんが食べた分を私のせいにしないでほしい」

『そういう意味ではないです……』

 

 ナギちゃんが、声の中でほんの少し笑った気がした。

 

『明日、残りがあればとっておきますよ。スグリのパイ』

「……ナギちゃん」

『はい』

「大好き。一生ついていく」

『そのお言葉、先日も聞きましたね。……では、明日』

「うん! バイバイ!」

 

 通話が切れた。

 

 私は、溶けかけたアイスを一口食べた。

 甘い。冷たい。サウナ後の体に、しみわたる。

 

「ねえエルちゃん」

「なに」

「また来る? サウナ」

 

 私はしばらく考えた。

 

「……回数券とかあったら、考えてもいい」

「あったよ! 受付に!」

「……じゃあ、まあ、次は十分経ったら出てきていいってこと、約束してね」

「うん!  約束する!」

「ミカちゃんの約束は参考程度に聞いておく」

「ひっど〜い!  ちゃんと守るよ!」

 

 夕方の廊下を、並んで歩く。

 ミカちゃんはアイスを食べながら鼻歌を歌い、私は汗で少し乱れた髪を整えながら、あしたのスグリのパイのことを考えていた。

 

 ……まあ。

 ダイエットというものは、急がないほうがいいらしいし。

 継続が大事、とも聞く。

 紅茶の甘みが増すような、そんな穏やかなペースで──やっていければ、それで十分じゃないかな。

 

「ねえミカちゃん」

「なに?」

「今日の分の消費カロリー、アイスで全部消えた気がするんだけど」

「ええっ! そんなことないよ! たぶん!」

「……たぶん、かあ」

 

 答えになっていなかった。

 でも、ミカちゃんが隣で笑っているから、まあいっか、と思ってしまう自分がいた。

 ずるい。本当に、ずるい人だと思う。

 

 翌日、ナギちゃんのとっておいてくれたスグリのパイは、アールグレイと完璧に合った。

 ダイエット同盟は、その日を以て事実上の休止を迎えたが、誰も宣言しなかったので、一応まだ続いているということになっている

 

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