「何してんのミカちゃん?!」 作:天ちゃん
窓の外では暖かな春の日差しが世界を包んでいるが、そんな外界から隔絶された私たちは怠惰の繭と化していた。……濁さずに言うと、やる気がなくてだらけていた。
二人掛けのソファ。本来なら優雅に紅茶を嗜み、知的な会話を楽しむための場所で、私たちは互いの四肢を複雑に絡ませ、重力という名の悪魔に魂を売り渡していた。
「……ねぇ、エルちゃん」
「……なに」
「ひま。死んじゃいそうなくらい、ひま」
「……知ってる。一分前に聞いたよ、その台詞」
私の右脚はミカちゃんの柔らかな腹部に乗り、ミカちゃんの羽の一枚は、私の顔面を半分ほど、お節介な毛布のように覆っている。普段なら「羽毛が口に入る! ヤメロ!」と怒鳴り散らすところだが、今の私には眼球を動かすことすら億劫だった。……だるい。
視線の先では、音を消したテレビの中で、見知らぬ学園の生徒がダイエット器具に乗って空しく満面の笑みを繰り返している。あの笑顔の筋肉を動かすエネルギーすら、今の私には残っていない。今の私を動かそうと思ったら、クレーン車か、あるいは最高級の茶葉の香りでも持ってくるしかない。というわけで誰か頼むぅ……。
「……お腹、空かない?」
「空いた。……けど、動いたら負けちゃうから」
「誰に?」
「……自分、とか。世界の理、とか……この、私たちを飲み込もうとしている底なしの静寂とか」
私が脳髄を介さず適当な言葉を吐き出すと、ミカちゃんは「へへっ」と力なく笑い、私の太ももに猫のように頬を擦り付けた。
あんなに暴力的で、機嫌一つで議事堂の柱を引き抜き、私の愛するパジャマを何着も物理的に犠牲にしてきた
たまには何もかも溶けるのもいいなぁ。
「……エルちゃんの匂い、落ち着くなぁ……。なんか、お日様と、安物の洗剤の匂い」
「安物って言うな……。これでも、良い洗剤は使ってるつもりなんだけど? なんで洗剤なんかにお金かけなきゃいけないのって思うけど金使ってんの」
「へ~」
私は、鉛のように重い右手を動かし、彼女の桃色の髪を指先でゆっくりと梳いた。
絡まった髪を解く、わずかな指先の感触だけが、私たちがまだ生物として機能していることを証明していた。良かった。まだバターにはなっていなかったようだ。
ブラッシングをサボればすぐに針金になる私の髪と違って、このお姫様の髪は、どうしてこうもシルクみたいに滑らかなのか。不公平、神様。作り直し、要求。
実を言えば、私のこの極限の怠惰には、正当な、あまりに悲劇的な理由があった。
先日提出したレポート。それは、私が血を吐く思いで書き上げた渾身の一作だった。自分でも惚れ惚れするような論理構成、完璧な注釈、そして優雅な文体。しかし、その成績が優秀すぎたことがすべての元凶となったのだ。
教授陣はあろうことか、「これほどの知見があるなら、追加でこのテーマも深掘りできるはずだ」と、更なる
……ねぇ、聞いてる? 努力が報酬ではなく、さらなる拷問を呼ぶなんて、どこの因果応報かな。これなら、適当に手を抜いてC評価でも取っていたほうが、どれだけ人間らしい生活を送れたかってことだよ。真面目であることが罪になるなんて、トリニティの教育方針はミカちゃんのお常識共々、裏山の土にでも埋めてきたんじゃないかな。あぁ、もう、筆記用具を見るだけで吐き気がするね。
三日三晩、カフェインとインクの匂いにまみれてペンを走らせた私の精神は、今や出がらしの茶葉よりもスカスカになっていた。
……紅茶飲みたい。
「ねぇ、エルちゃん。……ずっと、こうしてよっか。レポートも、ティーパーティーも、全部無かったことにしてさ。紅茶でも飲んで……」
ミカちゃんの声が、微かに湿り気を帯びて鼓膜に届く。少しだけ本気が混じった、甘えるような響き。
いつもなら「何バカなこと言ってるの。ふざけてる暇があるならなんかしなさい」と即座に切り捨てるところだが、今の状況ではその言葉が心地よい泥濘のように私の足を絡め取ろうとする。
「……いいよ。ミカちゃんが、一生私にタケノコを食べさせないって誓うならね。あと、勝手に部屋のドアを爆破しないって、この世の終わりの誓約書でも書くなら……」
「あはは! それは無理かな☆」
——じゃあ、今回はご縁がなかったということで。
あきらめムードに突入。
──ぐうううう。
静かな部屋に、ミカちゃんの胃袋が、飼い主に似て遠慮のないボリュームで異議を申し立てた。それをきっかけに、私たちの間に流れていた永遠のような停滞が、パリンと、薄氷のように音を立てて割れる。
「……エルちゃん、やっぱり動く。お腹空きすぎて、このままだとソファのクッション食べちゃうよ」
「やめなさい。……でも、確かに限界だね。私の脳が、糖分を求めて暴動を起こし始めてるよ。このままだと私の意識が、ミカちゃんみたいに退化しそうだよ」
「あは☆先に食べるべきはエルちゃんだったかな?」
「いくら天才の私を食べたところで、ミカちゃんの頭がよくなるわけじゃないよ?」
私たちは、以前にも似たような状況に陥ったことがあった。
あの時は、夏休みの宿題を最終日まで放置し、二人して文字通り白目を剥きながら廊下で倒れていたのだ。その際、通りかかった正義実現委員会の生徒に不審な変死体と間違われ、通報されかけた苦い記憶がある。
あの時は、最終的に机の上にあったお土産のお菓子をバク食いすることで何とか買い物に行く時間を作れたのだ。
しかし、今回はエネルギーチャージをすることもできず、食料を求めて旅に出なければならない。
「……ふう。ナギちゃんの家に行こう。あそこなら、絶対にお高いクッキーがあるはずだよ。ロールケーキとか!」
「……賛成。ついでにナギちゃんの完璧に整った困り顔を見て、私のこの荒れ果てた心を浄化してもらおう。……行くよ、ミカちゃん。これは正当な防衛行動……いや、略奪の時間だよ」
「せーの」の合図で、私たちはソファから床へと転げ落ちた。……重い。
立ち上がるだけで視界がチカチカする。脳内では、未完成のレポートの文字が、呪いの言葉のように渦巻いている。
私たちは、どちらからともなく身支度を始めた。といっても、鏡を見る余裕すらない。私は、徹夜でボサボサになった髪を適当に結び直し、ミカちゃんは寝癖のついた羽を力任せに整える。痛くないのかな?
トリニティの白亜の廊下を、
すれ違う生徒たちが悲鳴を飲み込み、壁際に張り付いて道を開ける。無理もない。私の目の下には死人のような隈が刻まれ、その背後ではミカちゃんが、空腹のあまり獲物を探す獣のような目をしてついてきているのだから。あぁ、皆、そんな無慈悲な視線を送らないで。これ、拉致じゃなくて、ただの空腹なの。
「……ありえない。あんなの、絶対におかしいわ……。優秀だからって仕事を増やすなんて、ブラック企業の論理よ……。私、いつからナギサ様の執事になったのかしら……」
私の脳は、三日三晩の徹夜と、致死量のカフェインによって焼き切れていた。
たどり着いたのは、ナギちゃんの邸宅。
普段なら扉を叩く指先の角度すら気にする私だが──嘘ついた。別にそんなこと気にしない私だ。今の私にあるのは、書き殴った文字の残像と、底なしの空腹感だけだ。なので、勿論気にせず突入する。
「ナギちゃぁん……失礼、しますよぉ……ッ」
扉をこじ開けるようにして入室した私を見て、ティーカップを手に優雅なひと時を過ごしていたナギサ様が、本気で後ずさりした。
「エ、エルさん!? その、顔面が……崩壊……いえ、何があったのですか!? 呪いですか!?」
私はナギサ様の問いを無視し、テーブルに置かれた特製のロールケーキへと這い寄る。視界がチカチカする。インクの匂いが幻覚として鼻を突く。
私はテーブルの端を掴み、最後の一線を越えた精神状態で叫んだ。
「ナギちゃん!! いや、ナギサァ!! いいから、糖分を……! 私の脳を、この地獄の追加課題から解放するための甘味を、今すぐ寄越しなさいッ!! 私の優雅なティータイムを奪ったトリニティに、復讐する権利が私にはある!!」
「そうだよナギちゃん! エルちゃんが壊れちゃったのは、全部トリニティのせいなんだから! だから……あるもん全部置いてけ~☆」
ミカちゃんが、私の悲痛な叫びを略奪の合図として都合よく解釈し、お花が飛ぶような笑顔でロールケーキの皿を奪い取る。
ナギちゃんは、椅子ごとガタガタと震えながら、発狂寸前の
ナギちゃんから略奪した特製ロールケーキ——最高級のスッカロ・ア・ヴェーロ*1と、濃厚なトリニティ産生クリームをふんだんに使用し、中央には酸味の強いワイルドストロベリーが宝石のように埋め込まれた逸品——を口に放り込んだ瞬間、私の身体に電流が走った。
糖分。これだ。この、暴力的なまでの甘みが、私の細胞の隅々にまで行き渡り、インクの匂いとカフェインの呪縛を剥ぎ取っていく。ウマウマ……!
「……ふぅ。生きてる。私、今、ようやくこの世界に戻ってこれたよ……。危うく、あっちの世界の住人になるところだった……」
「落ち着きましたか、エルさん。……本当に、一時はどうなることかと思いましたよ。その……名前を呼び捨てにされたのは、少し、いえ、かなりショックでしたが。私の心臓が止まるかと思いました」
ナギちゃんが、まだ少し引きつった笑顔で新しいティーカップを差し出してくれる。注がれたのは、『
紅茶を見て心が落ち着いてきた。その影響で、さっきまで「ナギサァ!!」と叫んで詰め寄っていた自分を思い出し、耳の先まで赤くなるのを感じた。けれど、それを謝罪する気力すら今の私には残っていない。今はただ、この琥珀色の雫が喉を滑り落ち、胃を温めてくれる感覚だけが、唯一の現実だ。
「んむ! やっぱりナギちゃんのお菓子は最高だね☆ エルちゃん、顔色良くなったよ? さっきまで土の色してたもん!」
「……土の色て。まあ、否定はしない。できないけど」
テーブルには、追加の茶菓子が並べられていく。
表面に繊細な網目模様が焼かれた、ヘーゼルナッツのプラリネ*2・クッキー。一口かじれば、発酵バターの芳醇な風味が爆発し、細かく砕かれたナッツの香ばしさが追いかけてくる。さらには、トリニティ御用達の老舗菓子店が特別に仕立てた、オレンジピール入りのラングドシャ。舌の上で儚く溶ける繊細な生地と、爽やかなシトラスの余韻が、荒れ果てた私の精神を優しく愛撫した。
あぁ、もう……。こういうのが一番最高なんだよね。このまま、この甘味の海に溺れたいぃ……。レポートなんて、誰かが勝手に書き換えてくれないかな。ミカちゃんが……いや、ミカちゃんに頼んだら、レポートが粉々になるか、全部の文字が『☆』に置き換わるだけだろうね。それはそれで、教授の度肝を抜けるかもしれないけれど。実はあり寄りのあり。
「あはは、そうだっけ? でも、こうしてみんなでお茶を飲むのが一番の解決法だよね! 幸せならオッケー☆」
ミカちゃんは、自分の分もしっかり確保したラングドシャをサクサクと小気味よく咀嚼している。
つい数分前までゾンビのように彷徨っていた私たちが、今はこうして、柔らかな陽光が差し込むテラスで「ほっこり」している。それもこれも、ナギちゃんのおかげ。私が健やかに楽しく生活できるのも、楽しみがあるのも、趣味というものを謳歌できているのも。
すべて、ナギちゃんのおかげ。……そんな風に思えてきたのは、決して間違えではないだろう。
「……それにしても、追加レポートですか。優秀すぎるというのも、考えものですね」
「……言わないで。今は、このバターの香りにだけ集中させて。その地獄は、考えるだけで魂が削られるし、見るだけでも視力を持ってかれるよ……」
サクッ、という音と共に、クッキーの優しい甘さが広がる。
ミカちゃんが私の肩に頭を預け、「ねー、エルちゃん。これ食べ終わったら、ちょっとだけお昼寝しよ? 一緒にゴロゴロするの!」と甘えた声を出す。
お昼寝。できるわけないよね。考えればわかるよね。私まだレポート終わってないんだって。
……まあ、でも。
追加課題の締め切りは刻一刻と迫っているが。
隣で幸せそうに羽を揺らす幼なじみと、呆れながらもお代わりの紅茶を淹れてくれる友人がいるのなら。
あと三十分だけ、この自由に身を任せてもいいかもしれない。
「……いいよ。でも、寝過ごしたらミカちゃんもレポート手伝ってよ。私の筆跡を完璧に模倣して、学術的に価値のある一文を書いて……ね?」
「えへっ! それは無理だよー☆ 文字書くの疲れちゃうもん! 私はエルちゃんを応援する係、決定ね!」
穏やかな笑い声と、一つの悲鳴が、トリニティの午後に溶けていく。
今はただ、この甘い残響と、友人の温もりに、身を委ねていたかった。
こういうのも、悪くないよね。
後日。
しっかりレポートが終わらなかった私は、教員からの喝を受ける羽目となった。
なんでこんなことに?