「何してんのミカちゃん?!」   作:天ちゃん

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「……懐かしいなぁ」「――♪」

 雨の日というのは、天が私に贈ってくれる休暇である。

 

 窓を叩く雨粒の音。空が鈍い灰色に沈んで、光が柔らかく拡散して、室内はどこかぼんやりとした水槽の中みたいな空気に包まれる。普段は刃のように鋭い日差しも、今日ばかりは綿でくるまれたように丸くなって、私のお気に入りのラグの上に淡く溶けている。

 最高だ。

 もう一度言う。最高である。

 

 何故なら、こういう日は「ヤツ」が来ない。

 

 聖園ミカ。私の幼なじみにして、平穏の天敵、爆走機関車、ゴリラの異名を持つ桃色の災厄。あのお方は、そのあり余るエネルギーを雨に吸われるのか、あるいは羽が濡れるのを嫌うのか、雨の日だけは私の部屋への不法侵入を控えてくれる。……という経験則が、私の中に蓄積されていた。

 あくまで経験則だ。統計的根拠はない。でも今日まで、外れたことはなかった。

 だから私は今、勝者の余裕を全身に纏いながら、ティーポットの前に立っていた。

 

 本日の銘柄は、『Céleste-Souverain』より、『ヴェール・ド・ニュイ』。雨の日のためだけに、隠し棚の奥にひっそりと取り置いてある、私だけの秘蔵品。アッサム*1をベースに、スモーキーな深みと、微かなカルダモン*2の余韻が特徴の、落ち着いた大人の一杯。こういう日にしか開けない。こういう日のためにある。

 沸騰直前のお湯を注いだ瞬間、立ち上る湯気と共に、複雑でどっしりとした香りが部屋に満ちていく。これが私の休日だ。誰にも邪魔されない、完全な静寂と、最高の一杯。

 近頃忘れていた「優雅な生活」を思い出させてくれるような一杯。

 カップを手に、ソファに腰を下ろす。読みかけの本を膝に乗せ、雨音をBGMに、最初の一口を──

 

 コン、コン。

 

「…………」

 

 私は動きを止めた。

 カップを持ち上げかけた手が、空中で固まっている。

 ……今、何かが聞こえた気がした。

 錯覚だ。きっと錯覚だ。窓を叩く雨粒の音が、偶然そう聞こえただけだ。

 

 コン、コン、コン。

 

「…………」

 

 錯覚ではなかった。

 

 私はゆっくりとカップをソーサーに戻し、のろのろと立ち上がった。頭の中で、経験則が崩壊する音がした。ガラガラ、と。……あぁ、そうか。統計的根拠がなかったから当然といえば当然か。私が甘かった。これだから数学出来ないやつは。

 扉を開けた先に、予想通りの人物が立っていた。

 ……というか。

 

「……何してんの」

「エルちゃん」

 

 ずぶ濡れだった。

 桃色の髪が濡れて、頬や首筋に張り付いている。制服の肩から水が滴っていて、白いソックスが透けるほど濡れている。大きな翼も、普段はふわふわと軽やかなのに、今日ばかりは濡れ羽のまま、重そうにしょぼんと垂れ下がっていた。

 そして何より。……いつもの、あの爆発力が、ない。

 

「……入れて」

 

 声が、普段の七割減だった。

「おっはよー☆」でも「えーい☆」でも「タケパーしようよ!」でもない。消えそうなほど小さい、しおれた声。

 私は一瞬、目の前の物体が本当に聖園ミカかどうかを確認するため、頭のてっぺんから濡れたソックスの先まで視線を往復させた。

 

「……本物?」

「本物だよ……」

「……入りな」

 

 毒気を抜かれた、というか。何かが抜けた。溜めていた文句が、煙みたいに消えていった。

 洗面所からタオルを引っ張り出して投げつけた。ちゃんと温かいやつ。……ちゃんと温かいやつを選んでしまった自分に少しだけ舌打ちしながら、私はキッチンに戻った。

 ソファからは、ぐでーっ、という擬音が聞こえてきそうな気配がした。振り返れば、案の定。ミカちゃんが全身の力を使い果たしたかのように、ソファの上に溶けていた。羽を広げる元気もないのか、翼は体に沿って折り畳まれたまま、ぐったりと沈んでいる。タオルは頭の上に乗っかっているだけで、拭く気配がない。

 

「……ちゃんと拭きなさいよ」

「……うん……」

 

 うん、じゃないよ。動いてよ。

 私はもう一度溜息をついて、自分のカップを持ち、ミカちゃんの向かいに腰を下ろした。本を読む気分はもう、どこかへ行ってしまっていた。諦めというものは、慣れると早い。

 

「なんで傘持ってこないの」

「……忘れた」

「何回目?」

「……覚えてない」

「私は覚えてるよ。今年だけで三回目だよ」

「……エルちゃん、几帳面だね」

「管理してる方の台詞じゃないから、それ」

 

 ミカちゃんが、ソファの背もたれに顔を埋めたまま、くぐもった声で「……暇……」と呟いた。

 私は紅茶を一口飲んだ。香りが素晴らしかった。状況を除けば、完璧な休日だった。

 

「……雨、やだ」

「私は好きだよ」

「なんで」

「静かだから」

「……ふーん」

 

 間が、落ちた。

 雨音だけが続く。窓を打つ、規則正しいリズム。ミカちゃんはソファに沈んだまま、それ以上何も言わない。羽が、呼吸に合わせてわずかに上下している。

 ……これはこれで、不気味だった。

 

「ねえ、ミカちゃん」

「……なに」

「元気ないと怖いんだけど」

「……ひど」

「本心だよ」

「……エルちゃん、私のこと好きなんじゃん」

「なんでそうなるの。嫌いだよ」

「……好きじゃないと、気にしないよ」

 

 返す言葉がなかった。私は紅茶を飲んだ。とても美味しかった。

 

「……消えちゃいそう」

 

 ミカちゃんが、背もたれに顔を埋めたまま呟いた。

 

「……出来ればこの部屋から消えてくれ」

「……ひど……」

 

 さらに沈んだ。ソファがミカちゃんの重さで少し軋む。

 私は本を膝に乗せたまま、ページを一枚も捲れずにいた。ミカちゃんの、あの擬音が聞こえてきそうな「ぐでー」とした気配が、なぜか視界の端から離れない。

 

「……羽、重い?」

「……めちゃくちゃ重い。濡れると三倍くらいになる気がする」

「ちゃんと乾かしなさいよ。傷むよ」

「……わかってる……でも動けない」

「大げさ」

「大げさじゃないもん……」

 

 ミカちゃんがようやく顔を上げた。タオルが頭の上からずり落ちて、濡れた髪がまた頬に張り付く。その顔が、本当に心底だるそうで、私は思わず「……本当に珍しいね」と呟いた。

 

「何が」

「その顔。ドアを爆破する気力が一ミリもないでしょ、今」

「……今日はノックしたじゃん」

「それが珍しいって言ってるの」

「……エルちゃん、私に対して普段から不穏なものを期待しすぎだよ……」

 

 そう言いながら、ミカちゃんはもう一度ソファに溶けていった。

 私は本を閉じた。どうせ読めない。

 

「……ねえ、エルちゃん」

「なに」

「ブラッシングして」

 

 間があった。

 

「嫌」

 

 即答だった。一ナノ秒の迷いもなかった。

 

「……じゃあ、このまま廃人になる」

「なれば」

「……髪もぐちゃぐちゃのまま……ずっとこのソファで……溶けて……そのまま液体になって……」

「それはそれで掃除が大変だから困る」

「……一生ここにいる……動かない……」

「家賃払え」

「……エルちゃんのソファになる……」

「なるな」

 

 ミカちゃんが、腕をだらんと垂らして、指先をぴくぴくさせた。

 

「……腕が、動かない……」

「さっきタオル投げ返してきたじゃん」

「……あれは反射……」

「嘘くさ」

「……ほんとに反射なの……脊髄で動いたから……」

 

 それはいつもでしょ、という言葉をたまには飲み込んでみた。

 私は天を仰いだ。天井に答えはなかった。

 雨が強くなった気がした。窓が白く霞んでいる。

 

「……一回だけね」

 

 自分の口から出た言葉に、私が一番驚いた。

 ミカちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。その目が、ほんの少しだけ輝いた。

 

「……ほんと?」

「一回だけ。文句言ったら即終了。わかった?」

「……うん」

 

 返事が、また七割減のままだった。でも今度は、満足そうな温度がかすかに混じっていた。

 

 

 ◆ ◇ ◇

 

 

 ブラシを引っ張り出してくる間に、ミカちゃんはのろのろとソファの端に移動していた。私が戻ると、彼女は「……こっち」と膝の方を指さした。

 

「ちゃんと言って」

「……膝、貸して」

「……まあ、許す」

 

 私はソファに腰を下ろして、ミカちゃんの頭が膝に乗るのを受け入れた。

 思ったより、重かった。

 

「重い」

「……失礼な」

「本当のことだよ」

「……重くない」

「重いよ」

「……エルちゃんの膝が細すぎるんじゃないの……」

「因果関係を逆にするな」

 

 ブラシを手に取り、ミカちゃんの髪に通す。雨に濡れて絡まったそれを、根元から丁寧に解いていく。桃色の、不思議な色をした髪。光の具合によって、金にも見えるし、薄紅にも見える。乾いていればシルクみたいに滑らかで、こうして手入れをすれば指の間をするりと流れていく。

 

 ブラシが一往復するたびに、ミカちゃんの呼吸が、少しずつゆっくりになっていった。

 

「……気持ちいい」

 

 一段階目。

 私は黙って続けた。

 

「……エルちゃんの手、ちいさい……」

「うるさい」

「……あったかい……」

「うるさいって言ったよ」

「……ふにゃ……」

 

 二段階目。

 私は内心「なんで私がこんなことを……」と呟きながら、それでも手を止めなかった。ブラシの動きが、気づけばゆっくりになっていた。早くやる理由がなかったし、雨音に合わせたら自然とこうなった。それだけだ。

 

「……ふにゃ〜……」

 

 三段階目。

 完全に溶けた。

 

 ミカちゃんの全身から、最後の一滴まで力が抜けた。閉じた目。緩んだ頬。かすかに開いた唇。普段、あんなにやかましく世界を揺らし続けているのに、今はそれが信じられないくらい、静かだった。

 

「……なんで私がこんなことを」

 

 今度は声に出てしまった。

 

「……うれしい……から……」

 

 目を閉じたまま、ミカちゃんがぼそっと言った。

 私は返事をしなかった。ブラシを続けた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

「ねえ、エルちゃん」

 

 しばらくして、ミカちゃんが口を開いた。さっきより少し、声に温度が戻っていた。目はまだ閉じたままだ。

 

「なに」

「……雨、といえばさ」

「うん」

「覚えてる? 小学校の頃の遠足」

 

 私は手を止めずに、「どの遠足ですかね」と返した。

 

「五年生の。動物園」

「……あぁ」

 

 覚えていた。

 あれは確か、五月だったか六月だったか。帰りのバスを降りた直後に、急に空が割れたみたいに降り出したんだった。

 

「私、傘持ってきてなくて」

「知ってる。私も持ってきてなかった」

「そうだっけ?」

「そうだよ。あの日、二人とも傘なし」

「……じゃあ、おそろだったんじゃん」

「おそろとは言わない、それを」

 

 ミカちゃんが「ふふ」と笑った。膝の上で、かすかに揺れた。

 

「私ね、エルちゃんに借りた国語の教科書でガードしようとしたんだよね。頭の上に乗せて」

「あれだけはほんとにやめてほしかったな……」

「……やっぱり弁償、しないといけなかった?」

「びちゃびちゃになったよ。あの教科書」

「……今更?」

「今更だけど事実だよ」

「えぇ……時効じゃないの……」

 

 ミカちゃんが心底困ったような声を出した。私は笑いを堪えながら「時効だよ」と言った。

 

「じゃあよかった」

「よくはないよ。でも時効だよ」

「……それ、どっち?」

 

 窓の外で、雨が少し静かになった気がした。

 

「あの後さ」

 

 ミカちゃんが続けた。

 

「バス停の近くの、お花屋さんの軒下で雨宿りしたじゃん。二人で」

「したね」

「狭かったよね」

「狭かった。ミカちゃんが半分くらいはみ出てたよ」

「嘘! はみ出てたのはエルちゃんじゃん!」

「私の方が小さいんだから、はみ出るわけないでしょ」

「じゃあ二人ともはみ出てた」

「……まあ、それはそうかも」

 

 二人で少し笑った。

 膝の上で、ミカちゃんの肩が揺れた。

 

「……あの時ミカちゃん、泣いてたよね」

「泣いてない!」

「泣いてたよ」

「……泣いてない! 雨が目に入っただけ」

「軒下にいたのに?」

「……風向きが……」

 

 私はブラシを止めずに、「遠足が終わっちゃったのが嫌だったんでしょ」と言った。

 ミカちゃんが、黙った。

 

「……ちがう」

 

 声が少しだけ、ふにゃっとした。

 

「……エルちゃんも泣いてたじゃん」

 

 私は一拍おいた。

 

「……私は、雨粒が目に入っただけだよ」

「……軒下にいたのに?」

「……風向きが」

「……おそろいじゃん」

 

 ミカちゃんが、また「ふふ」と笑った。今度は少し長かった。

 私も、口の端が少し上がったかもしれない。気のせいかもしれない。

 

 窓の外の空が、少しだけ明るくなっていた。まだ雨は降っているけれど、光が戻ってきている。その光が窓ガラスを透かして、薄くなって、私の髪の先に触れていた。雨の日の光だから、白くて柔らかくて、輪郭がない。

 

「……エルちゃんの髪、今すっごく綺麗」

 

 ミカちゃんが、目を細めながら言った。いつの間にか、少しだけ目を開けていたらしい。

 

「なんで急に」

「光が透けてるの。水色みたいで……なんか、雨の色と一緒だよ」

「……大袈裟」

「大袈裟じゃないもん。ほんとにそう見えてるんだもん」

 

 私は何も言わなかった。ブラシを続けた。

 窓を打つ雨の音。ミカちゃんの呼吸。ブラシが髪を梳く、かすかな音。それだけが、部屋にあった。

 

「……ねえ、エルちゃん」

「なに」

「……また、雨宿りしたいね」

「軒下で?」

「……うん。二人で、狭いとこで」

「今は部屋があるから必要ないでしょ」

「……でも、あの感じが好きだったな」

 

 ミカちゃんの声が、また少し遠くなった。眠いのか、懐かしいのか、どちらかもしれないし、両方かもしれない。

 

「……どの感じが」

「……二人しかいない感じ。世界に」

 

 私は、ブラシを動かす手を止めなかった。

 何か言おうとして、やめた。言葉にしなくていいことというのがある。

 

「……エルちゃん」

 

 声が、もう半分眠りに落ちているみたいだった。

 

「なに」

「……ねむい……」

「だと思った」

「……でも寝ない……」

「寝ていいよ」

「……でも……せっかくだから……起きてたい……」

「強情だね」

 

 ミカちゃんの返事が、一拍遅れてきた。

 

「……エルちゃんと……話したいから……」

 

 私は何も言わなかった。

 ブラシを動かした。

 

「……ねむ……」

「ミカちゃん」

「……ん゛……」

「寝てる?」

「……ねてない……ふにゃ……」

「絶対寝てるよ、それ」

「……ふにゃ〜……」

 

 完全に溶けた。

 私はミカちゃんの桃色の頭を見下ろした。

 閉じた目。完全に緩んだ表情。規則正しい呼吸。さっきまでのしおらしさも、眠そうだった抵抗も、全部なくなって、ただただ、ここにある。

 

 私は、ブラシを一度持ち直した。

 

「……大人しくしてれば可愛いんだけどね」

 

 声に出てしまっていた。まあいい。どうせ聞こえていない。

 

「このまま剥製にでもなってくれないかな」

 

「……ひど……」

 

 聞こえていた。

 

「……剥製は……やだ……」

「じゃあ大人しくしてなさいよ」

「……おとなしく……してる……ふにゃ……」

「今だけでしょ」

「……今だけじゃ……ない……もん……エルちゃんの……こと……ちゃんと……」

 

 そこで、声が途切れた。

 今度こそ、本当に眠ったらしい。呼吸が、深くゆっくりになっている。

 

 私はしばらく、その顔を見ていた。

 ……まったく。

「ちゃんと」、何だっていうのか。ちゃんと何をしているっていうのか。ドアを爆破して、タケノコを持ち込んで、私のパジャマのボタンを弾け飛ばして、レポートを終わらせられなかった原因を作って。それのどこがちゃんとしてるのか、この際ちゃんと聞いてみたかったけれど。

 

 聞けるわけもない。寝てるんだから。

 

 私はブラシをそっと置いて、代わりに指先で、ミカちゃんの髪を梳いた。

 ブラシよりも、ずっとゆっくりになった。

 

 窓の外では、まだ雨が降っていた。

 少し弱くなった雨が、窓ガラスを静かに叩いている。その光が室内に差し込んで、薄く、柔らかく、白く溶けていく。

 私の髪の先が、その光の中でかすかに揺れた。

 

 ……雨の色と一緒、か。

 

 私は、小さく息をついた。

 何がどう雨の色なのか、よくわからないけれど。でもミカちゃんが言うのだから、そう見えているのだろう。

 見えているものが全部正しいわけじゃない。でも見えているものを嘘だとも言えない。

 

「……ちゃんとしてる、ね」

 

 聞こえるはずのない声で、私は呟いた。

 

 ミカちゃんは、答えなかった。

 代わりに、ふにゃ、とかすかに動いて、私の膝に少しだけ頭を押し付けた。

 

 重かった。

 温かかった。

 

 私は、やっぱり手を止めなかった。

 雨音が、二人の間を静かに満たしていた。

 

 

 ◇ ◇ ◆

 

 

 ──翌日。

 

「エルちゃん! おっはよー☆ 昨日は面倒見てくれてありがとーっ!」

 

「玄関から出ろ!!! 昨日の静けさを返せぇぇぇ!!!」

 

 エルの雨の休日は、翌朝の爆発によって完全に上書きされた。

 

 いつも通りだった。

 

*1
インド北東部のアッサム地方で生産される、濃厚で甘みのある紅茶

*2
ショウガ科の多年草の種子から作られるスパイスで、「スパイスの女王」とも呼ばれている

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