五感のうち、最初に働いたのは嗅覚だった。それは嗅ぎ覚えのある匂いで、好き嫌いが分かれそうなものだった。そう、病院である。次に視界が開けて真白な天井が映る。知らない天井だ…。
私は大学への通学途中に、通りすがりの小学生集団の自転車に撥ねられたはずだ。想像をはるかに超える衝撃と共に体がくの字に折れ曲がり、強かに体全体を打ちつけた。それが最後の記憶である。危うく享年28歳となるところだった。とにかく生きていて嬉しい限りである。そうなってくると気掛かりなのが私を跳ね飛ばした小学生たちであるが、彼らは大丈夫だろうか?きっと恐怖と困惑で立ち尽くしていたに違いない。吹き飛ばされた私はまあまあのグロさであったことは想像に難くない。
しかし不思議なことに私の体で不調を訴えるのは、頭のみである。あれほどの衝撃で頭以外に損傷がないほど頑丈に生きてきたつもりはないが、とにかく怪我の少ないことを喜ぶべきだろう。でも、これからどうすれば良いのだろうか?とりあえず起きたことを知らせるためにナースコールをすべきだろうか?
私は腕をナースコールに伸ばそうとしてふと違和感に気がつく。腕が重いのだ。いや、重いというよりなんとなくラグが発生しているようなイメージだろうか?「伸ばそう」という指令をしてから伸ばすまでにラグがある。まるで、設定した順路を動くように体を操縦しているような感覚だ。それでもなんとかナースコールを押してから、私はそばの棚にある卓上ミラーを覗き込む。
「……ん!?」
鏡の中の私の目は軽く見開かれただけだが、私が受けた衝撃は到底そんな小さな動きでは表されることはできない。
「オーマイガー、なんてこった! 鏡の中に突っ立ってるこのハンサムな野郎は一体誰なんだい? 冗談だろ、ケニー! いいか落ち着いて聞いてくれ、こいつは俺じゃない、断じて俺じゃないんだ。……ああクソ、頼むから誰か1から説明してくれないか。もちろん、とびきり冷えたビールを1ダース用意してからな!」
だなんて脳内で低クオリティアメリカンドラマを展開してみても、私の衝撃は治らない。誰か私に1から説明してくれないか…。
これが個室でよかった、もしも共同部屋だったら変な目で見られていただろう。というか、この動揺を抑えられなかっただろう。私は頭を抱えようとしたが腕に点滴が刺さっているのが目に入った。うっ、苦手なんだよな点滴。
……よし、苦手なものを見たらいくらか冷静になった。
状況の整理といこう。私は自転車に撥ねられ病院に入院、少なくとも意識をいくらか失った状態である。そして目が覚めると顔が変わっていた。ああ、全く意味がわからない。事故のせいで顔が変形してイケメンになったのか?もはや私の原型も残っていないが、もしそうなら全国の美容整形は廃業になってしまうだろう。医学部生のオアシスを私がぶち壊してしまうのは気が引けるためこれは多分違うだろうと結論づける。
「……あ、あー。あ、い、う、え、お」
喉の渇きのせいでやや掠れてしまっているが、声も明らかに違う。低く、威圧感のある声だ。聞いてるこっちが嫌になるような声である。自己嫌悪もここまでくると客観性を帯びてくる。
私は試しに鏡の前で笑顔を作ってみる。が、唇は三日月を描くことはなく、端の方がニヒルに薄く上がるだけである。口も思ったより大きく開かない。……やはり整形か?いやいやそんなはずもない。
そんなふうに私が鏡の前で百面相(実際は一面相)していると、病室のドアが開き落ち着いた女性の声が聞こえた。
「井芹さん、目を覚まされたんですね?」
目の前の看護師さん曰く、私はどうやら井芹さんらしい。……誰ですか?私が返事をしないでいると、彼女は不審に思ったようだ。
「井芹さん?どうしましたか、まだ意識ははっきりしませんか?」
「井芹とは、私のことですか?」
「えっ」
看護師さんは驚いて私に声をかけるのも忘れてパタパタとかけて行ってしまった。その後医師の方がやってきて、私は現状を聞いた。
私の名は井芹宗一郎、21歳、今年で大学3年生、熊本県熊本市生まれで東京下北沢に一人暮らし。大学名を聞いてびっくり仰天したのは内緒だ。いや、しかし、本当の問題はそこではない。いや大学のレベルも問題ではあるのだが、名前と住所である。熊本市生まれの井芹?そして下の名前に入っている「宗」の字。なんだか嫌な予感がする、頼むから杞憂であってくれと願うのだが。
「では記憶を失っている……と?」
「そうかもしれません、私には今挙げられた情報がピンときません」
私はその後軽い検査を重ねた。100から順番に7を引いたり、単語を見てそれを少し経った後に思い出したり、といった具合に。その後も脳の検査をしたものの、悪いところはなかった。
「記憶能力、思考能力に特に問題があるように思えません。……逆行性健忘、それもエピソード記憶の脱落ですね」
白衣のポケットに手を突っ込んだ医師は、手元のタブレットを眺めながら、どこか不可解そうに首を傾げた。
「知能指数や一般的な語彙、数理能力には一切の衰えが見られない。にもかかわらず、自分の経歴や家族構成といった『個人的な思い出』だけが綺麗に消えている。非常に珍しいケースですが、脳震盪による一時的な機能不全の可能性もあります」
先生、珍しいケースなのは当たり前ですよ。中身がスルッとマルッと入れ替わってるんですから。これは、まさか憑依というやつか?別の人間に魂が乗り移るという。私はあいにく魂や輪廻天性は信じていなかった。が、これが現実。
私は、相変わらず「設定されたルート」をなぞるような、もどかしい感覚の残る右手を動かして、重い頭をさすった。
「先生。……一つ、お願いがあるのですが」
喉から出た声は、やはり私のものではない。冷たく、どこか他人を突き放すような響き。
医師が顔を上げる。私はある種の確信を持ちながら医師に向かって言った。
「家族には、今の私の状況……記憶の欠落について、伏せておいていただけませんか」
「伏せる? ……しかし井芹さん、ご家族、特に熊本のご両親には今後の経過観察を含め、詳細を報告する義務があります。二十一歳という年齢を考えれば、あなたの意思も尊重されますが……」
「心配をかけたくないんです。……ただでさえ、遠方の両親には余計な心労をかけていますから」
適当な理由を並べ立てる。嘘ではない。ただ、その「心労」の内容が、事故のことではなく「家出した妹」のことかもしれないという確信に近い予感があるだけで。
医師は眼鏡を指で押し上げ、私の目をじっと見つめた。
「……本当に、それだけの理由ですか? 記憶がないというのは、日常生活において非常に大きなリスクになります。特にあなたの通う大学のレベルを考えれば、復学の際にも大きな支障が――」
「問題ありません。勉強の内容は……不思議と、頭に入っているようですから」
そう、幸運なことに私の専門とかぶっていたのだ。これはまさに不幸中の幸いと言ったところだ。しかしそれでも少し不安が残るが、まあ友人とかに聞けば大丈夫だろう。先ほどスマホを見た時(顔認証で開いた)、驚くほどメッセージアプリの通知がなく友達欄も少なかったが。……ま、まあサークルには入っているようだし?
「……わかりました。ご本人の強い希望、かつ日常生活に支障がないと判断される間は、カルテの守秘義務を優先しましょう。ただし、同居されているわけではないにしろ、面会に来るというお姉様……井芹涼音さんには、どう説明されるおつもりで?」
「井芹涼音」その名を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。やっぱりそうだったのか。
私はあの『ガールズバンドクライ』において、主人公・井芹仁菜さんの心に大きなしこりを残したあの家族の一員に憑依してしまったのである。
「……姉には、うまくやりますよ。少し混乱しているだけだと」
私は「姉」という単語を発するたびにトーンが下がりそうになるのを必死で堪えつつ、医師との会話を終えた。
そのままお手洗いに行き、洗面台の鏡を覗き込む。そこにはやや垂れ目で、中性的な感じを持つ男がいた。線はやや細く頬はややこけていて目にはクマらしきものができている。まあ大学生は基本不健康であるから気にはしない。
さてと、ここでまた問いかけよう。
井芹宗一郎なる人物は原作には存在していなかったはずだ。もしかしたら私の観測し得ない範囲でいたのかもしれないが、だったらアニメに出せよ。だからここでは私は『原作にいないキャラに憑依してしまった』ことになる。
自分で言ってて頭痛くなってきた。私と仁菜さんの関係値的にはどうなっているのだろうか?そもそも仲がいいのか?やっぱり折り合いが悪いのか?いくら考えても答えが出てこない。
少なくともメッセージアプリには仁菜さんの名前はなかった。凹むなぁ。でも妹というのは基本兄に対しては雑であるので、まあそういうもんかと流す。これで涼音さんがいなくて私が代わりにいるとかだったら井芹家崩壊RTA待ったなしである。
あの包容力は姉でなければ出せない、そして困った時の膝枕と「生きていてくれてありがとう」という言葉は涼音さんしか言えないのだ。
そういうわけでハナからメッセージアプリに登録されていない私は、論外である。あ、悲しい気分になってきたからやめるね。
目下私が考えるべきことは、涼音さんにどうやって違和感を持たれないようにするかである。私は宗一郎が家族にどのような態度をとっていたか、何もわからない。
頭を何度かコツコツやってみたが当然記憶は戻ってこないし、ただ痛みが増すだけである。私は被虐趣味はないので五回くらい叩いてやめてしまった。
まあ出たとこ勝負でやるしかないか。体が覚えていることを信じよう、この信じられないほど自由の効かない体を。
*
入院から1週間ほど経った頃だろうか、私は日常生活に支障がでなさそうだということでそろそろ退院できそうだという頃である。涼音さん─ ─姐さんから見舞いに行くという連絡をもらった。
手短なメッセージの最後の方に、「仁菜も心配だし」と書かれていた。やはりすでに仁菜さんは家を出た後であり、私の判断は結果的に正しかった。今の状態で私が「記憶喪失」であることがバレて仕舞えばおそらくパニックになるだろう。原作の両親を思い出し、今は私の両親になっている人たちのことを思い浮かべる。
どうも不器用な家族なので、いわば外部のものである私が涼音さんと共に家族を支えていかねばなるまい。私は卓上の小さな鏡の前で決意を固めてみせた。が、どうにも締まらない顔をするだけだった。
そこに控えめなノックが二回響く。病室の引き戸を開けて、井芹涼音さんが姿を表す。やや勝気そうな見た目だが、大人っぽい外見の彼女をみて少し舞い上がったことは確かだ。画面越しにみていた有名人にあったような感覚。それを表に出さないように気をつけながら私は声を発した。
『……やぁ、姉さん』
「そう、いちろう? 宗一郎なの?」ぎくりとする。まさかもうミスしてまったのか?しかしもう取り戻せないのでこのまま行くしかない、後は野となれ山となれ。
『……他にどう見える?』
「ああ、そうね。ごめんちょっと疲れてて」
セーフ。
どうも言葉選びがうまくいってない感があるが、これも憑依の弊害だろうか?リハビリを頑張らなくてはいけないようだ。それでも最初の頃よりはいくらか高いトーンで喋れるようになった気がする。というか、この喋りの印象をよくするのに大変で、内容まで気が向かないというのが正直なところである。
それにしても確かに涼音さんは疲れているように見えた。そりゃそうか。仁菜さんは確か不登校状態だったし、そこから親元を離れて川崎に。涼音さん自身も私のせいではるばる熊本から東京までやってきたのである。疲れて当然だ。私のことなんてさっさと切り上げて仁菜さんをみたほうがいいだろう。
『僕のことなんか心配してる暇あるなら、仁菜のことを心配したら?』
「……え? 今なんて?」
『仁菜を心配したらって』
涼音さんは私の言葉に目を見開いている、きっと感激しているのだろう、できる弟の気遣いである。私は少し誇らしい気持ちを持って口を開いた。
『大変な状態なんだろう?あいつは』
「なんで、仁菜のこと」
『メールに書いてあっただろ?』
そう言って私は笑顔を浮かべた。そう、彼女の方が精神的に大変な状態であるからどうか助けてやってくれ。一歩間違えば傷害事件を起こしてしまうような精神状態であるだろうから。今がどの時期かわからないが、涼音さんの様子を見るに仁菜さんが上京してすぐと言った感じなのだろう。原作とは異なる展開だが、絶対に私のせいだ。何か変なバタフライエフェクトが起きなければ良いのだが。
「一体、どういうつもり?」涼音さんは疑惑に満ちた目を私に向ける。
『どうもこうもない。言葉通りの意味だ』
「言葉通り、って?心配してる?こいつが?いや、そんなはずはない…」
病室に現れた涼音さんは、何やら顔を伏せてぶつぶつと言っているようだ。私からはよく聞こえない。よく見れば目の下にはうっすらとクマがあり、その様子を見て、私は「ああ、疲労が相当溜まっているのだな」と察した。
無理もない。長女という立場上、両親と、出奔した妹に挟まれ、まるでブラック企業の中間管理職のような立ち回りを強いられているのだろう。
私は彼女に優しくしようと決めた。こんなむさ苦しい病室での見舞いなどすぐに打ち切って、早く帰って休ませてあげた方がいいだろう。
私は労うつもりで笑顔を作って声をかけた。
『姉さん』
「な、何っ!?」
びくっ、と涼音さんの肩が大きく跳ねた。
あれ、少し声が低すぎただろうか。いや、この宗一郎という肉体のデフォルトボイスが、どうにも威圧感たっぷりの響く声なのだ。これは仕方ない、どうにも頑張って声を作らないとこうなってしまうのだ。
私は努めて穏やかなトーンを意識し、彼女の負担を極力減らすための言葉を紡いだ。
『僕のことについて姉さんが何か考える必要はない、父さんと母さんにもそう言っておいてくれ』
完璧な気遣いである。我ながら、非の打ち所がないスマートな弟ムーブだ。
涼音さんは幾分か落ち着きを取り戻し、いつもの様子に戻ったようだった。未だ顔色は完全に戻ってはいないようだが。
「何も、するな……? ねえ、宗一郎。あなたが何を考えてるかはわからない。でも、お願いだから、仁菜をあまり刺激しないで」
震える声でそう念を押される。
なるほど、私が退院直後に仁菜さんのところへ乗り込んで、混乱させないようにということだろう。
安心してほしい、私だって節度あるアニメオタクである。自由の身になったからと言って迷惑も顧みず行動することはしない。
『わかってる。姉さんも気をつけて』
「……っ、これ、りんご。自分で剥いて食べなさい」
涼音さんは、サイドテーブルに紙袋を置いた。よほど疲れているのだろう、手首が微かに震えているように見える。本当に気の毒なことだ。ここでリンゴを剥いて彼女にも食べさせてあげたかったが、やはり帰って眠ることが一番だろう。
『ありがとう』
「…じゃあ、私はいくから」
『ああ、じゃあまた。体に気をつけて』
逃げ出すように背を向け、足早に病室を出ていく涼音さん。バタン、と少し強めに閉まったドアを見つめながら、私はほっと息を吐いた。
よし。
少しギクシャクした気もするが、無事に「物分かりのいい優しい弟」を演じきることができたはずだ。退院直後の第一印象としては上出来だろう。りんごももらったし。
私はサイドテーブルの真っ赤なりんごを眺めながら、この「井芹宗一郎」としての新しい人生が、案外イージーモードで進んでいくかもしれないという、根拠のない希望に胸を膨らませていた。
原作キャラがお姉ちゃんしか出てこない。