『いかなる時もユーモアとポジティブを忘れぬ男であれ』というのは、私の父親(前世の父、多分これが最も適切かつしっくりくる表現だろう)がよく口にしていた言葉だ。これは私の人生における金言として、心の最も深い場所に強く刻み込まれている座右の銘ではあるのだが、白状しよう。今の私には、どうにもそれを実行するだけの精神的余裕が残されていなかった。
ちなみに、直前に行動を決めたせいで飛行機のチケットは当然のようにゲットできなかった。そのため、私は今、新幹線という鉄の塊の中でゆらゆらと揺られながら、はるばる九州の地へと帰っているわけだ。実際のところ、揺れるといってもコップの水すらこぼれないレベルだ。日本の鉄道インフラと、人間の技術力の高さには心底舌を巻く。
しかし、いくら科学技術が発達して物理的な距離を音速に近いスピードで縮めようとも、どうにもならないものがある。それが今の私の置かれている、この絶望的に複雑な状況だ。
憑依。アニメやライトノベルで幾度となく消費されてきたその単語の響きは、もっと胸躍る、全能感に満ちた嬉しい状況だとばかり思っていた。しかし、冷静に考えてみれば当然のことだ。憑依が良いことであるはずがない。何の権利もない赤の他人が、一人の人間の築き上げてきた人生、人間関係、そして逃れられないしがらみに、勝手に相乗りしてハンドルを握っているのだから。
推しを間近で拝めるという事実に浮かれ切り、あろうことか「あしながおじさん」などと気取って推し活に興じていた以前の自分を、私は今、猛烈に恨んでいる。
私は狭い座席で一人、深く頭を抱えていた。
「あの、大丈夫ですか…?」
「ええ、ご心配なく。すみません」
私は心配そうに声をかけてきた隣の席の男性に、そう答える。そうすると彼は「そ、そうですか」と言ってそそくさとイヤホンをつけて自分の世界の中に帰って行った。はぁ、優しさがしみる。
私は抱えていた頭を持ち上げ窓の外を見る。景色はものすごいスピードで過ぎていく。
*
私は今、アニメから得た断片的な情報と、この肉体の奥底に残る微かな記憶の残滓だけを頼りに、自分の家――いや、井芹宗一郎の生家である熊本の実家へと歩を進めている。
夜の熊本は、東京の喧騒が嘘のように静まり返っていた。湿気を帯びた空気が、まとわりつくように私の身体を包む。
涼音さんには、新幹線に乗る前に事前に連絡を入れていた。
今頃、東京の川崎では、仁菜さんと桃香さんが激しくぶつかり合っているのだろう。そしてそうこうしているうちに、仁菜さんが自分一人で生きていくと決意を固め、あのお父さん――宗男さん宛ての手紙をしたためるはずだ。
アニメで描かれたあの手紙の中には、『育ててくれてありがとう』という、不器用ながらも確かな感謝の文言があった。……仁菜さんと宗男さんの関係には、反発し合いながらも、根底には確かな家族としての愛情が存在していたのだ。それを、バランサーである涼音さんも見抜いていた。
では、私はどうなのだ? 井芹宗一郎という男は?
実家に帰ると連絡を入れた時のことを、私は具に思い出す。メッセージを送って数秒後、電話が急にかかってきたかと思ったら怒涛の質問攻めである。
『どうしたん急に!? 今まで全然帰ろうとせんかったのに』
電話口の涼音さんの声は、驚きと、そして明らかな警戒に満ちていた。
『……少し、羽を伸ばしたくなったんだ』
私は可能な限り穏便な、無難な言い訳を口にした。
『ふぅん? ……まあ、お母さんとお父さんにも言っとく』
『ああ、ありがとう』
電話を切った後の、あの心臓を鷲掴みにされるような感覚。
「あぁ……」
私は暗い夜道を歩きながら、再び深く蹲りそうになるのを必死に堪えた。
仁菜さんだけではない。元の宗一郎は、家族そのものと完全に断絶していたのかもしれない。だからこそ、帰省するというただそれだけの報告で、姉があれほどまでに動揺したのだ。
何か、一つでも有益な過去の情報を思い出せればいいのだが、新幹線の車窓から暗闇を覗き込んでも、無駄だった。景色同様、私の頭の中は真っ暗だった。
やがて、住宅街の一角に、見覚えのある重厚な門構えの家が現れた。表札には『井芹』の文字。
私は大きく深呼吸をし、意を決してインターホンを押した。
「……開いとるよ」
インターホン越しではなく、直接扉が開く音がして、玄関の隙間から涼音さんが顔を出した。その表情は、やはりどこか探るような、ひどく気まずそうなものだった。
「遅くなってごめん」
「いや、全然。連絡くれてたし」
私はこの後に訪れるであろう光景を思い浮かべて、心の中で苦い顔をする。
「宗一郎……」
「……」
お母さんの靖恵さんと、お父さんの宗男さんだ。
お母さんは私の顔を見るなり、安堵したような、それでいてひどく腫れ物に触るような視線を向けてきた。そしてお父さんは、腕を組んだまま彫像のように押し黙り、その威圧的な双眸で私を真っ直ぐに射抜いていた。アニメで見た通りの、頑固で厳格な教育者の顔だ。全てを見透かしているような、そんな視線。
私はどちらかといえば不真面目な人生を送ってきた方だったから、こういう空気にはつい緊張して体が硬くなってしまう。
その瞬間、玄関の空気はまるで氷点下のように冷え切った。
何が正解だ? 「ただいま」と笑いかけるべきか? でもこんな雰囲気でニコやかに笑えるほど、私は図太くはない。だがまあ、帰りの挨拶はするべきだろう。
今まではどうあれ、私にはこれからのことしか考える余裕がない。意を決して「ただいま」と言おうとしたが、喉が張り付いて上手く声に出せなかった。
気まずい沈黙が落ちる。宗男さんも私をじっと見つめたまま何も喋らないし、涼音さんも注意深くこちらの動向を見守っているようだ。
「……とりあえず、こっち来なさい。夜遅かったし、お腹空いとるでしょ。簡単なものだけど用意してあるから」
靖恵さんが、張り詰めた空気を切り裂くように、ひどく遠慮がちな声で私をダイニングへと促した。
深夜のダイニングテーブル。並べられたのは、温かい出汁の匂いがするうどんと、小鉢がいくつか。
リビングに入って凄まじい存在感を放っているのは、もちろん壁に飾られた家訓である。今流れている空気と相まって、重苦しく私の心にのしかかってくる。
なんという空気だろう。いかなる時もユーモアとポジティブを……いや、無理だ。この空間で冗談など口にすれば、即座に凍死する自信がある。
私は靖恵さんに促されるままに席に着き、箸を手に取った。向かいにはお父さんが腕を組んで座り、斜め向かいでは靖恵さんと涼音さんが、まるで希少動物の観察でもするかのように私の挙動をジッと見つめている。
胃に穴が開きそうな空間だった。
「……味、薄くないね?」
靖恵さんが、恐る恐る口を開く。それはまるで、長年引きこもっている息子に問いかけるような、ひどく神経質な声色だった。
「いや、ちょうどいいよ。美味しい」
私は、温かいご飯を食べて少し口が動きやすくなるのを感じた。はぁ、やはり親の作る飯は偉大だ。本当の息子ではない私でさえ、体が馴染みの味を摂取して安堵しているのを感じる。温かい出汁をすすると、長旅の疲労が少しだけ和らいだ気がした。
しかし、その私の何気ない返答を聞いた瞬間、お母さんの顔がパァッと明るく輝いたのだ。
「そ、そう? よかった……! 足りなかったらまだあるからね。大学の方はどう? 忙しいの?」
「忙しいよ。でも、それなりに」
私はうどんを啜りながら、動きの悪い口と格闘して答えた。本当ならもっと長く世間話を続けたいところだが、正面から突き刺さる宗男さんの視線を気にしてしまって、完全に私自身が萎縮してしまっている。情けないが、これが小市民である私の限界だ。熊本まで単身乗り込んできたことをまず褒めて欲しいくらいだ。
私のあまりにも素っ気ない杜撰な対応に対して、しかし靖恵さんはなぜか涙ぐみそうに目を潤ませて喜んでいた。
その様子を見て、私は内心で激しく困惑していた。
なんだこれは? なぜこれほどまでに感激しているんだ? 今までの短い会話の中に、何か感激するようなワードがあったのか?
チラリと視線を向けると、向かいに座る宗男さんは依然として一言も発さないまま、手元の湯呑みをじっと見つめている。しかし、その眉間のシワは心なしか緩んでおり、私と靖恵さんのやり取りを、どこか拍子抜けしたような、あるいは困惑したような顔で静かに聞いているのだ。
涼音さんに至っては、私の顔と両親の顔を交互に見比べながら、完全に狐につままれたような顔をしている。
私はうどんを飲み込みながら、絶望的な推測が頭に浮かんだ。
どうやら、以前の井芹宗一郎という男は、実家に帰省しても「親とまともに会話のキャッチボールすらしない」、反抗期レベル100のような人物だったのかもしれない。
大学生にもなってそれは何とも恥ずかしいような気もするが、しかし少しずつ『井芹宗一郎』という人間のことがわかってきたような気もする。私はうどんと小鉢をそのまま平らげて、食器を流しの方へと持っていく。
「あ、宗一郎。私がやっとくから、休んどき」
「……ああ、ありがとう」
靖恵さんは、もはや感無量といった様子である。いよいよ私の最悪の推論が強固なものになってきた。相変わらず宗男さんが黙ったままなのが怖いけれど。私は彼女の言葉に乗っかって、早々にこの居心地の悪い場所から退散しようとした。
「……宗一郎」
「何ですか?」
唐突に宗男さんが口を開いたのだ。私はびっくりして、思わず他人に接するような敬語で返してしまった。この返答を奇妙に思ったのか、全員の顔がサッと曇る。私は慌てて言い直した。
「どうかした?」
「……いや。何でもない」
そう言ったきり、宗男さんはまた口を閉じてしまった。リビングの空気感は完全に最初の冷たいものに戻ってしまい、申し訳なさと気まずさで私は居た堪れなくなってしまった。
「お風呂入ってくる」
そう言って、私はそそくさとその場から逃げ出した。
*
翌朝、重い瞼を擦りながら一階のリビングへ降りると、家の中は水を打ったように静まり返っていた。
ダイニングテーブルの上にはラップがかけられた朝食と、「仕事に行きます。戸締まりはしっかりしておくこと」とだけ書かれた、事務的なお父さんの筆跡の書き置きが残されていた。どうやら、両親も涼音さんも既に家を出てしまっているようだ。
私は小さく息を吐き、冷たくなったご飯と味噌汁を電子レンジで温め直す。ふと顔を上げると、壁に飾られた立派な額縁が目に入った。
そこには力強い筆致で家訓が書かれている。『食事は家族全員でとること』。
私は一人、電子レンジの低い駆動音を聞きながら、その文字をぼんやりと眺めた。どうやら、今の私はこの「家族全員」という枠組みの中から、完全に外れてしまっているらしかった。
温めた朝食を胃に流し込んだ後、私は今日の最大の目的を実行に移すことにした。
リビングの奥にある収納棚や、物置となっている和室の押し入れを片っ端から漁り、分厚い背表紙のアルバムを何冊も引っ張り出してくる。ホコリの匂いが鼻を突いた。
座布団の上に腰を下ろし、重い表紙をめくっていく。そこには、井芹宗一郎という一人の人間の、そして井芹家という家族の軌跡が克明に記録されていた。
ページを捲るごとに、子供たちは成長していく。小学生低学年くらいまでの写真は、驚くほど明るかった。小さな仁菜さんが、少し不器用そうに笑う宗一郎の腕に抱きついていたり、三人で公園の遊具で無邪気に遊んでいる姿がそこにはあった。宗一郎の目には確かな光があり、家族の輪の中心にいた。
しかし、ページが進むにつれて、その色彩は急速に温度を失っていく。
中学生、高校生と上がるにつれ、家族全員で写っている写真は極端に減り、たまの旅行や行事で撮られた写真でさえ、宗一郎の表情は能面のように硬く、冷たいものに変わっていた。仁菜さんとの距離も、物理的にも心理的にも、残酷なほど開いているのが写真の構図からだけでも読み取れた。
「……推しの小さい頃だっていうのに、素直に喜べないな」
かつてのあどけない仁菜さんの姿は、ファンとしては喉から手が出るほど貴重なお宝画像のはずだ。しかし、この後に訪れる家族の崩壊と、元の宗一郎の不鮮明な過去を思うと、ちっとも口角が上がらなかった。
アルバムを閉じても、失われた記憶の欠片が脳裏に閃くことはなかった。
私は立ち上がり、二階へと続く階段を上った。自分の部屋は昨晩調べたが、参考書が几帳面に並んでいるだけで、過去を紐解くような日記などは一切見当たらなかったのだ。
しばらくの間徒労感に苛まれ、ベッドの上に寝転んだ。太陽が頂点から少し落ちる頃に、仁菜さんと涼音さんの部屋を見てみようと思い立った。あの二人の部屋ならば何かあるかもしれない。
少しの罪悪感を覚えながらも、私はまず仁菜さんの部屋のドアノブを回した。彼女は川崎の家賃6万のアパートに住んでいるため、部屋は主を失って久しいはずだが、綺麗に片付いていた。机の引き出しを開けてみるが、空っぽに近い。何も思い出せない。
次に、私は涼音さんの机の方に行ってみた。
さっと目を通してみても何もない。
「ダメだ、やっぱり何も思い出せないな……」
独り言を呟きながら視線を落とした時、無造作に床に置かれた涼音さんのバッグに目が留まった。
その持ち手の部分に、不格好な手作りのお守りがぶら下がっていたのだ。フェルトを縫い合わせたような、子供が一生懸命作ったであろう可愛らしいお守り。いかにも手先が不器用な人間が作ったとわかる、いびつな縫い目。
私は何かに惹きつけられるように、そのお守りをじっと見つめていた。どこかで見たことがあるような、ないような。いや、ただの既視感だろうか。
「……宗一郎、何しとん?」
背後から、氷のように冷たい声が降ってきた。
ビクリと肩が跳ねる。振り返ると、部屋の入り口に涼音さんが立っていた。忘れ物でも取りに帰ってきたのだろう。その顔は、勝手に部屋に入られた怒りというよりも、信じられないものを見るような強張りに満ちていた。
「……」
私は咄嗟に弁解の言葉を見つけられず、そっと目を逸らして部屋から出ようとした。姉弟とはいえ、勝手に部屋を漁ろうとしたのは完全にアウトだ。通報されても文句は言えない。
「ちょっと待ち。あんた、何なんほんとに」
涼音さんが私の腕を強く掴んだ。その手は、かすかに震えているように感じた。怒りではなさそうだ、それよりももっと何か、切実な…。
「何で、急に家に帰ってきた? 何を探しとるん?」
問い詰められ、私は視線を泳がせた。記憶を探しているなんて言えるわけがない。
「……休みたかったんだ」
「は?」
「忙しいって言ったろ、大学。……手につかなくなって、少し、何も考えずにゆっくりしたかった」
私は疲労感から顔が下がり、幾分か暗い声色になってしまった。しかし記憶が思い出されることのない現状から、取り繕おうという気にもなれなかった。
「宗一郎……」
彼女の顔から、スッと怒りの色が消え去った。代わりに浮かび上がったのは、ひどく深刻そうな、まるで重病人を見るような痛ましげな表情だった。
どうしたのだろう。私はただ「大学が忙しくて帰ってきた」と当たり前の言い訳をしただけなのに。なぜそんな、この世の終わりみたいな顔をしているんだ?
「……大学が忙しくて、疲れたんだ。それだけだよ」
私は誤魔化すように念を押した。
「本当にそれだけ? 何か隠してることがあるんじゃないの?」
「何もない」
「……」
「…いや、今は言えない」
「じゃあ、それでいい。言える時に言いなさい、その代わり包み隠さず話すこと! 仁菜にもね」
「わかった」
涼音さんの声は、信じられないほど優しく、そして頼り甲斐のあるものに変わっていた。明かせないということを明かしただけなのだが、どうにかなったらしい。状況はよくわからないが、とりあえず勝手に部屋に入ったことは不問に付される流れのようだ。私は密かに安堵した。
「ああ。……勝手に入ってごめん」
「ううん、いいよ。……でも、リビングのアルバムは片付けときなさいよ。出しっぱなしだし」
涼音さんは私の腕からパッと手を離し、少しだけ目を伏せて言った。
「ごめん。昔のことが、少し懐かしくなって見てたんだ」
「……」
私のその言葉を聞いて、涼音さんは再びハッとしたように顔を上げ、私の目をじっと覗き込んできた。
「……覚えとる? あんた、昔はよく仁菜に絵本の読み聞かせしてあげとったの。あの子、あんたの膝の上から離れんかったよね」
私はそっと目を逸らした。
そういう事実があったことは、さっき大量のアルバムの写真を見て知っている。知識としては持っている。しかし、その時の手の温もりも、仁菜さんの重みも、どんな声で読んであげていたのかも、私の中には一切の記憶として残っていないのだ。
私のその沈黙と視線の逃避を、涼音さんはどう受け取ったのだろうか。
「……その、お守りも」
涼音さんの視線が、私の背後にある彼女のバッグ――そこに揺れる不格好な手作りのお守りへと向けられた。
「……」
私は依然として押し黙ったままでいた。何を言えばいいのかわからない。あのお守りが何なのか、私には見当もつかないからだ。
彼女はそれ以上何も聞かず、ただ泣きそうな顔で唇を噛み締めていた。
読了、評価、感想、誤字報告ありがとうございます。
今回は宗一郎と涼音視点からの両方です。