井芹仁菜の兄になりました、助けてください   作:占地

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第十一話 ウスバカゲロウ(side涼音)

井芹家の空気は、いつからこんなに薄く、冷たくなってしまったのだろう。

 地元の大学に通う私は、毎晩実家の玄関を開けるたびに、見えない重圧にため息をつきたくなる。お父さんは相変わらず書斎やリビングで気難しく黙り込み、お母さんはそんなお父さんの顔色を窺いながら、腫れ物に触るように家事をこなしている。

 

 仁菜が家を飛び出して川崎に行き、宗一郎が東京の大学へ進学してからというもの、この広すぎる家はまるで立派な墓標のようだった。

 そんな息の詰まるような日常に、特大の爆弾が落とされたのは昨日のことだった。

 

『……少し、羽を伸ばしたくなったんだ』

 

 宗一郎からの、突然の帰省の連絡。

 電話口でその言葉を聞いた瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。

 

 どうしたん急に、と問い詰める私の声は、自分でもわかるほど警戒に満ちていたと思う。無理もない。あいつは家を出て以来、まともに実家に顔を出そうとしなかった。盆も正月も「大学の課題が忙しい」という理由で寄り付かず、私たち家族――特にお父さんとは完全に断絶していると思っていたからだ。

 

 仁菜に対しても冷酷な言葉を浴びせ、家族を見下していたあの宗一郎が、突然「羽を伸ばしたい」などと言うだろうか。何かよほどのトラブルがあったのか、それとも仁菜のことで何か嗅ぎつけたのか。

 私はお父さんとお母さんにその事実を告げた。二人の顔に走った動揺と緊張は、言葉では言い表せないほどだった。

 

 そして夜。

 重厚な玄関の扉が開き、宗一郎が姿を現した。

 

 私は、あいつがどんな冷たい顔をして入ってくるのかと身構えていた。見下すような視線、あるいは全てを拒絶するような氷のような態度。

 しかし、玄関の隙間から顔を出した弟は、私の予想を裏切りこう言った。

 

「遅くなってごめん」

 

 そう口にしたあいつの顔には、かつての傲慢さは微塵もなかった。

 以前として硬い表情をしているが、そこには私たちを見下すような冷淡さは存在していない。

 

 しかしお父さんが腕を組んで黙り込んでいるのを見た瞬間、宗一郎の身体がビクッと硬直したのを、私は見逃さなかった。お父さんは宗一郎に期待をしていた、それの裏返しで宗一郎に対しては厳しい言葉をかけていた。宗一郎はそれを素知らぬ顔で受け流して、成果だけを家に持って帰ってきた。要するに、複雑なのだ。

 空気が固まるのを感じた。私もお母さんも様子を伺っている。

 

 宗一郎が何かを喋ろうとしたが、小さくて私は聞き取れなかった。お父さんとお母さんは気がついてもいなさそうだった。

 

「……とりあえず、こっち来なさい。夜遅かったし、お腹空いとるでしょ」

 

 結局お母さんが沈黙に耐えきれなくなったように声をかけ、ダイニングへ促す。

 深夜の食卓。温かいうどんと小鉢が並べられたテーブルで、私たちは奇妙な観察会を始めていた。斜め向かいから見る宗一郎の横顔は、少し痩せたようにも見えた。

 

 壁に飾られた『食事は家族全員でとること』という家訓が、今の私たちの関係を皮肉っているようで痛々しい。お母さんが恐る恐る口を開いた。

 

「……味、薄くないね?」

 

 それは、ひどく神経質な声だった。相手の出方を伺うように、卑屈だとも思える声でお母さんは聞いた。昔の宗一郎なら、「別に」とか無視するなり、冷たく突き放していただろう。

 

「いや、ちょうどいいよ。美味しい」

 

 耳を疑った。

 宗一郎は、うどんを啜りながら、確かにそう言ったのだ。お世辞でもなんでもなく、本当に心底安堵したような、しみじみとした声で。

 

 その瞬間、お母さんの顔がパァッと明るくなった。目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。たった一言「美味しい」と言われただけで、お母さんは救われたような顔をしたのだ。それが逆に、今までの宗一郎がいかに家族に対して氷のように冷酷だったかを物語っていて、私の胸を締め付けた。

 

「そ、そう? よかった……! 足りなかったらまだあるからね。大学の方はどう? 忙しいの?」

「忙しいよ。でも、それなりに」

 

 会話が、成立している。

 あいつが、親の問いかけに対して、無視も反発もせずに答えている。

 しかし、その態度はやはりどこか不自然だった。でもその不自然さの原因を私は突き止められなかった。

 

 私は狐につままれたような気分で、どんぶりを空にしていく弟を見つめていた。

 なんだ、これは。

 一体、東京であいつに何があった?

 

 ふと、一つの可能性が頭に浮かんだ。

 挫折、だ。

 

 エリートだと思っていた自分が、東京という巨大な街で、あるいは大学の厳しい競争の中で、ポキリと折られてしまったのではないか。

 それも、ただの挫折じゃない。

 今までの自分の価値観が全てひっくり返るような、そんな挫折。田舎から出た宗一郎のような人間にはよくあると聞く。東京に出て、天才の中でもさらに競争をして、自分が絶対に勝てないような相手に出会う。

 

 私はその考えに、何か確信めいたものを感じた。

 

 その後、お父さんが不器用に「……宗一郎」と声をかけた時のあいつの返答は、昔を思い出させた。敬語だった、しかしその後すぐに訂正した。何かが変わっている。

 私たち三人は顔を見合わせた。

 

***

 

 翌朝。

 私は重い足取りで大学へと向かった。お父さんもお母さんもでかけている。

 しかし、駅に着いてカバンを開けた瞬間、私は舌打ちをした。今日どうしても必要な書類が、自室の机の上に置きっぱなしになっていたのだ。

 仕方なく、私は実家へとトンボ返りをした。

 

 静まり返った家。玄関の鍵を開け、そっとリビングを覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。

 和室の押し入れから引っ張り出された分厚いアルバムが、何冊も床に散乱していたのだ。

 

 ページが開かれたままになっているのは、私たち三姉弟がまだ小さかった頃の写真。仁菜が宗一郎に笑いかけ、宗一郎もまた、優しいお兄ちゃんの顔をして笑っている、あの色鮮やかな時代のページ。

 

「……あいつ、これを見てたの?」

 

 私は胸の奥がギュッと苦しくなるのを感じた。

 なぜ、アルバムを?今になって、あいつは写真を見て昔を懐かしむような人間ではない。そんなものは不要だ、というようなタイプだったはずだ。

 

 私は困惑を押し殺して静かにアルバムを閉じ、二階へと続く階段を見上げた。

 上から、かすかな物音が聞こえる。

 

 私は書類を取りに行くついでに、あいつが何をしているのか確かめようと、足音を殺して階段を上った。

 宗一郎の部屋のドアが、少しだけ開いている。中を覗き込むと、誰もいなかった。

 

 次に、自分の部屋へ向かう。

 開け放たれたドアの向こう。そこに、宗一郎が立っていた。

 

 あいつは、私のベッドの横に置かれたバッグを見つめ、微動だにせずに立ち尽くしていた。

 その視線の先にあるのは――あの、不格好な手作りのお守り。

 かつて、仁菜が宗一郎の受験の時に一生懸命作って、でも宗一郎の手に渡ることがなく、巡り巡って私が持つことになった、あの悲しいお守りだった。

 

「……宗一郎、何しとん?」

 

 私は、自分でも驚くほど冷たく、低い声で問いかけていた。

 

 ビクリと、宗一郎の肩が大きく跳ねた。振り向いた弟の顔には、勝手に姉の部屋を漁ろうとした気まずさよりも、もっと深い、得体の知れない動揺が張り付いているように見えた。

 何かを言い訳しようと口をわずかに開いたものの、結局何も言葉を発せず、あいつはスッと視線を床に落とした。そして、逃げるように私の横をすり抜けて部屋から出て行こうとする。

 

「ちょっと待ち。あんた、何なんほんとに」

 

 私は反射的に手を伸ばし、すれ違いざまに宗一郎の腕を強く掴んだ。

 その瞬間、私はハッとした。掴んだ腕が、昔の記憶にあるあいつの腕よりも、随分と細く、そして小刻みに震えているように感じたからだ。切実な、何かから逃れようとするような弱々しい震え。

 

「何で、急に家に帰ってきた? 何を探しとるん?」

 

 私は問い詰めた。まさか実家の金を漁りに来たわけではあるまい。

 宗一郎は視線を泳がせ、ひどく重い口を開いた。

 

「……休みたかったんだ」

 

「は?」

 

「忙しいって言ったろ、大学。……手につかなくなって、少し、何も考えずにゆっくりしたかった」

 

 その声は、かつて私や仁菜を理詰めで追い詰めていたあの冷徹な声とは似ても似つかない、ひどく掠れた、暗く沈み込んだ声色だった。顔はうつむき加減で、完全に疲労困憊している。

 

 その姿を見た瞬間――私の内側で張り詰めていた怒りの糸が、プツンと音を立てて切れた。

 

「宗一郎……」

 

 私の声から、自然と棘が抜け落ちていた。

 

 『手につかなくなった』『何も考えずにゆっくりしたかった』。

 それは、心の限界を超えてしまった人間が発する、典型的なSOSのサインではないか。

 

 私の出した推測が、裏付けられていく。アルバムに関しても、精神を病んだ人間は反芻思考に陥りやすいと聞く。多分それの一環なのだろう。私の頭の中にぐるぐると、思考が駆け巡る。

 

「……大学が、忙しくて疲れたんだ。それだけだよ」

 

 宗一郎の顔はひどく疲れているように見えた。それだけじゃないはずだ。私は悪いとは思いつつ問い詰めるのをやめられなかった。

 

「本当にそれだけ? 何か隠してることがあるんじゃないの?」

「何もない」

 

「……」

 

 私たちは、家族だったはずだ。それでも、言えないのだろうか。いや、今更家族だなんていうのは虫がいい話だ。私は宗一郎の苦労に気が付かなかったのだから。

 

 

「…いや、今は言えない」

 

 私が自責していると、宗一郎はポツリと、言葉を漏らした。

 まさか、私が気にしていることに気がついたのだろうか。そして気を遣ったのだろうか。

 

 私は嬉しいんだかムカつくんだか、わからなくなった。でも、今ここで私まで沈むわけにはいかない。宗一郎は「今は」と言ったのだ。いつか、私に話してくれるということ。

 私は心が熱くなるのを感じた。

 

「じゃあ、それでいい。言える時に言いなさい、その代わり包み隠さず話すこと! 仁菜にもね」

 

「ああ。……勝手に入ってごめん」

 

 私は、努めていつもの調子を取り繕って言った。

 「ごめん」だなんて、素直すぎる謝罪。

「ううん、いいよ。……でも、リビングのアルバムは片付けときなさいよ。出しっぱなしだし」

 

「わかった。昔のことが、少し懐かしくなって」

「……」

 

 私はその言葉を聞いて、やはり驚いた。ほんと、この弟には驚かされてばかりだ。

 

「……覚えとる? あんた、昔はよく仁菜に絵本の読み聞かせしてあげとったの。あの子、あんたの膝の上から離れんかったよね」

 

 私は、残酷だとわかっていながらも、あえてその言葉を口にした。宗一郎はピクリと体を強張らせ、そっと目を逸らした。

 

 何も答えない。答えられないのだ。以前は自分を慕ってくれていた妹を、精神的に追い詰めたという事実を今更悔やんでいるのだろう。

 遅すぎる、なんていう思いもある。ただ、私は宗一郎のことを「何の苦労もなさそう」だと、勝手に思い込んでいた。

 こいつがこうなってしまった原因は私にもあるのかもしれない。

 

「……そのお守りも」

 

 私は、自分のバッグにぶら下がっている、不格好なフェルトのお守りへ視線を移した。

 仁菜が、宗一郎の受験のために、不器用な指を血だらけにしながら作ったお守り。宗一郎への意地悪半分、戒め半分で私がずっと身につけているものだ。

 先ほど、宗一郎はこれを立ち尽くして見つめていた。自分が何を踏みにじったのか、今更になって気づいて、その重圧に耐えきれなくなっているのだろう。

 

「……」

 

 宗一郎は、やはり一言も発しなかった。ただ目を逸らし、ひどく苦しそうな、暗い顔をしているだけだった。

 私は小さく息を吐いた。これ以上、あいつの傷口をえぐるような真似はよそう。

 私は静かに道を譲り、あいつが部屋から出ていくのをただ黙って見送った。

 

***

 

 その日から数日間、宗一郎は実家で本当に「何もせずに」過ごした。

 昼過ぎまで部屋から出てこず、起きてくるとお母さんが用意した食事を黙々と食べ、時折また古いアルバムを無表情で眺め、そして夜は誰よりも早く自室に引きこもる。

 抜け殻のようだった。

 

 しかし、そんな異常な状態の息子を見て、両親は全く別の解釈をしていた。

 お母さんは、「宗一郎がまた家のご飯を美味しいと言って食べてくれる」「反抗せずに、ありがとうと言ってくれる」というただそれだけの事実で、毎晩キッチンの隅で嬉し泣きをしていた。

 

 お父さんはお父さんで、リビングでテレビを見ている宗一郎の背中を、なんとか会話の糸口を見つけようとソワソワしながら見つめていた。結局、自分から気の利いた言葉をかけることなどできず、不器用に咳払いをするだけだったが、その顔には確かな安堵が広がっていた。

 

 宗一郎の心は、摩耗しきってしまっているのだ。

 でも、私はそれを両親に言うことができなかった。

 

 もし「宗一郎の心は病んでいる」なんて告げれば、ただでさえ仁菜のことで神経をすり減らしているお母さんは完全に崩れ落ちてしまうだろうし、お父さんもきっとショックを受けるだろう。

 だから私は、何も知らないふりをして、ただ静かにあいつの動向を監視し続けるしかなかった。

 

 そして、あっという間に帰省の最終日がやってきた。

 結局、宗一郎は自分から何一つ胸の内を語ることはなかったし、仁菜の名前を口に出すこともなかった。ただ、傷を舐める獣のように、実家の空気に身を浸して、そしてまた東京へと帰っていく。

 

 玄関先。

 宗一郎は、見送りに並んだ私たち家族の前に立った。

 やはり、その目はどこか虚ろで、焦点が合っていないように見える。表情筋は強張り、無理に作ったようなひきつった微笑みを浮かべていた。

 

「それじゃあ、帰るよ。短い間だったけど、世話になった。……ご飯、美味しかった」

 

 ボソボソと、しかし丁寧な言葉遣いで宗一郎が言う。

 お母さんが、また目元をハンカチで押さえた。

 

「気をつけてね。ちゃんと、ご飯食べるのよ。またいつでも、帰ってきなさいね」

「ああ」

 

 お父さんは腕を組み、一つだけ重々しく頷いた。

 私は、あいつの背中を見つめながら「無理はしなさんなよ」とだけ声をかけた。宗一郎は私をチラリと見て、小さく息を吐き、そのまま振り返ることなく駅の方へと歩き出していった。

 

 その背中が角を曲がって完全に見えなくなるまで、私たちは誰も玄関の扉を閉めようとしなかった。

 

「宗一郎、行ったね」

お母さんが、涙声のままポツリと呟いた。

 

「ああ」

お父さんが、深く、重い声で応じる。

 

「ええ……。本当に良かった、また、私たちと喋ってくれて。ねぇ、あなた」

 

 お母さんは、まるで長い冬が終わったとでも言いたげな、心底ホッとした声で微笑んだ。何も知らず、ただ目に見える「大人しくなった息子」の姿だけを素直に喜んでいる。

 

「……ああ、だが、結局謝れずじまいだった」

 お父さんが、絞り出すようにそう言った。

 

「大丈夫よ、きっと」

 お母さんが、お父さんの背中を優しく撫でる。

 

「そうだろうか……。涼音、私は」

 

 お父さんが、すがるような目で私を見た。どうすればいいのか、正解を求めている迷子の顔だった。

 私は、胸の奥底に渦巻く重たい暗雲――宗一郎の心が病の淵にあるかもしれないという疑念を、ぐっと飲み込んだ。今ここでそれをぶちまけても、誰も救われない。

 私は一つ大きなため息をつき、わざと明るく、呆れたような声を出した。

 

「もう、シャキッとしてよお父さん。私だって色々大変なんだから」

 

 私にまで面倒を見させないでよ、というニュアンスを込めてそう言うと、お父さんはハッとして肩をすくめた。

 

「す、すまない」

 

 不器用に謝る父親の背中を押して、私は二人を家の中へと促した。

 

 玄関の扉が閉まる直前、私はもう一度だけ、宗一郎が消えていった道の先を見つめた。昔のようにはいかないかもしれない。でも、私にも、宗一郎に何かできることがあるならば。

 

 仁菜は大丈夫かしら。そうして私はもう一人の家族のことを思った。




お読みくださりありがとうございます。
もう少しお付き合いください。
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