すりガラスのはまった引き戸から、白く明るい昼下がりの陽光が差し込んでいる。
桃香さんの暮らす古いアパートの一室。畳の匂いが微かに漂うその部屋で、私はチェック柄のカバーが掛けられたソファに深く体重を預けていた。
「ねぇ、桃香さんは不安じゃないの?」
天井まで届きそうな本棚にぎっしりと詰め込まれたおびただしい数のCDや、壁に無造作に貼られたポスターをぼんやりと眺めながら、私はぽつりと口を開いた。
「何がだ?」
床の畳の上に胡座をかき、愛用の青いサイケデリズムのギターを抱え込んでいた桃香さんが、顔を上げずに聞き返してくる。アンプには繋がれていない、ペチペチというくぐもった生音だけが部屋に響いていた。
「ニーナのこと。……ちゃんと帰ってくると思う?」
家族との確執にケリをつけるため、一人で地元の熊本へと帰省していった私たちの不器用なボーカル。その小さな背中を思い出し、私はソファの上で膝を抱え込んだ。
「……なるようになる。いつだってそうだっただろ」
香さんはコードを押さえる指を止めず、淡々と、自分に言い聞かせるように答えた。
「そうだねー。桃香さんとのあの殴り合いみたいな喧嘩も、いつの間にか終わってたし。なんか二人だけの世界作り上げてたもんね」
私はわざと意地悪なトーンを作って、身を乗り出した。
「何あれ? 『私の歌が作った私の歌が聴きたい』だっけ? アハハ、そろそろあれ、真面目に説明してくれる?」
「う、うるさいな! 『私の歌』っていうのはなぁ、あれだ、比喩だよ。私の作った歌を、あいつが本気で歌ってくれるっていう……」
「へぇー。なーんか、見てるこっちが恥ずかしくなるような、付き合いたてのカップルみたいだったけど。自分たちだけがわかる電波な言葉で喋りあってるような、痛い高校生カップル」
「高校卒業してない奴が高校生語んな!」
顔を真っ赤にしてギターのネックをこちらへ向けてくる桃香さん。私は肩をすくめてみせた。
「……それ、私たち全員に特大のブーメランじゃない?」
「…………」
痛いところを突かれた、みたいな顔をして桃香さんは気まずそうに黙り込み、再びギターへ視線を落とした。
「まあ、いいけどさ」
「自分が不安だからって、私をいじってストレス解消しようとするのやめろよな。お前も暇ならドラムの練習しろ、練習」
桃香さんはジロリと私を睨みつける。
「わかってますよーだ」
私はソファの上で軽く伸びをしてから、改めて部屋の壁を覆い尽くすラックを見渡した。
「でも、桃香さんってほんと真面目だよね。この床から天井までのCDの数でしょ、それに大量の本。意外だな、ちゃんと活字とか読むんだこういうの。作詞の参考にでもしてるの?」
「別にそういうんじゃねーよ。音楽は基本好きなやつを片っ端から聴いてるだけ、で、本もとりあえず目についた古本を手当たり次第に読んでるだけだ」
「にしてもすごい量だよこれ。桃香さんも、実は頭脳派の分析家だったか」
からかうように言うと、桃香さんは少しだけ得意げに鼻を鳴らした。
「誰でもやるだろ、本気で音楽やるやつだったら。……にしても、分析ねぇ」
そこでふと手を止め、桃香さんは何かを思い出したように窓の外へ視線を向けた。
「そういえば、あいつのSNS、ピタッと更新止まってたな」
「そうそう。あの『謎のファン1号』さん」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
無機質なアイコンと、的確すぎる長文のコード解説。そして、私たちを誰よりも熱狂的に後押ししてくれていた、あの奇妙なアカウント。
「まあ、ネットのファン活動なんて流動的なもんだしな。ポンと熱が冷めて飽きても、別に普通じゃない」
「普通だったらね。でも、それがあの人だと異常事態なんだよねぇ。わざわざ長野の諏訪まで新幹線代払ってやってきておいて、そこから全く音沙汰なしでしょ? 絶対普通じゃないよ」
「ファンの動向をいちいち気にしてたら、プロなんかやっていけないぞ。離れていく奴は追わないのが筋だろ」
「そういう正論は、私じゃなくてニーナに言ってあげてよ。あの子、あの人の更新が止まってから、目に見えて凹んでたじゃん」
「言ってるよ。でも素直に私のいうことあいつが聞くと思うか?」
「思いません」
桃香さんが、忌々しそうに、けれど心配そうに息を吐く。
ニーナにとって、あのファン1号さんはただの観客ではない。自分が間違っていないと肯定してくれた、絶対的な味方であり、心の支えのようになってしまっているのだ。
「そこもちょっと心配なんだよね。だって私たちは、ネットのファンなんていつ消えてもおかしくないってある程度はドライに理解できるけどさ。……ニーナは、そうやって割り切れる子じゃないじゃん」
「……まぁな」
桃香さんは静かにギターを床に置き、立ち上がった。
私たちは一緒のタイミングで、すりガラスの向こう、明るい昼間の窓の外を見た。
「心配だね」
「……まあな」
不器用なボーカルが、今頃遠い故郷でどんな顔をしているのか。
そして、私たちを導くように現れ、突然姿を消したあのファンは、今どこで何をしているのか。拭いきれない不安が、静かな部屋の中にぽつりと落ちた。
**
新幹線の座席に身を預け、私は窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
熊本へ向かった時の、あの張り詰めた、今にも爆発しそうだった心持ちとは、何もかもが百八十度変わっている。
正直に言えば、最初は最悪だと思った。
お父さんが私を学校に連れて行き、今さら過去のいじめの事実を認めさせた時、私は怒りで目の前が真っ暗になった。「どうして今さらそんなことを」と、お父さんの首根っこを掴んで叫びたかった。私がやって欲しかったのは、そんな形式的な謝罪や事実確認じゃない。そんなことのために、私はわざわざ熊本に帰ってきたわけじゃない。
モヤモヤとした泥のような感情が、胸の奥底に溜まって、呼吸を苦しくさせた。
でも、違ったのだ。
お父さんは、お父さんなりに、ずっと私を見ていた。私が学校で死んだような目をしていた時も、家を飛び出した時も、ずっと。
その見つめ方が、たとえ私の納得できる形ではなかったにしても。ひどく不器用で、一方的で、私の心を無視したものであったにしても、そこには確かに、私を守ろうとするあの人なりの必死な思いがあったのだと、今はわかる。
家で食べた、久しぶりの辛子蓮根カレー。鼻に抜けるツンとした刺激と、どこか懐かしい実家の味。
そして、お姉ちゃんの言葉。
「生きている」という、ただそれだけの事実を、何の条件もなく真っ直ぐに受け止めてくれる人がいるということ。
最後に、うちを出る時に見送ってくれたお父さん。
その瞬間、私の中でカチカチに凍りついていた心のどこかが、音を立てて緩むのが聞こえた気がした。私はそれがなんだか悔しくて、そして怖くて、慌てて表情を引き締めたけれど、目頭に集まった熱をごまかすことはできなかった。
でも許したわけじゃない。それでも私たちは繋がっているんだ。
そうして、窓ガラスに映る自分の顔を見つめていると、不本意ながら、もう一人の家族の顔が頭に浮かんだ。
あいつのこと。井芹宗一郎のことだ。
部屋でカレーを食べている時、お姉ちゃんはあいつのことを話題にあげた。
『宗一郎、この前家に帰ってきとったんやけど』
『……そうなん。で? それが私となんか関係あるん?』
私は努めて冷たく言い放った。あいつの名前を聞くだけで、胸の奥にチリッとした苛立ちが走ったからだ。
『……アルバムを、見返してたわ』
『は? なんの?』
『家族のやつしかないでしょ。昔の、あんたや私が写っとるやつ』
『なんで、そんなこと……』
『……何にも言ってくれんかった。けど、あいつも、変わったんだと思う。そもそもなんか、雰囲気自体も変わってた。表情は変わらないんだけど、なんというか……ただの、疲れた大学生って感じの』
『……ふぅん』
『仁菜』
『何?』
『……ううん、何でもない。カレー、美味しかった?』
『うん、ありがとう』
その時、私はどう思ったんだろう。
「そんなはずがない」「あいつがそんな人間らしいことをするわけがない」って、心のどこかで強く否定した。あいつは冷酷で、合理性の塊で、私を見下すためだけに存在しているような奴だったから。
でも。
絶対に分かり合えるはずがないと、あんなに憎んで、拒絶していたお父さんとも、か細いけれど、確かに一本の糸を繋ぐことができたのだ。
だったら、あいつとも、いつかそうなれるのだろうか。あの冷たい目をした兄とも、また同じ食卓を囲める日が来るのだろうか。
お父さんのことは許したわけじゃない。あいつのことも、簡単に許せるわけがない。
けれど、以前のように「思い出すだけで窒息しそうになる」ような、暗くてジメジメした憎しみは、もうそこにはなかった。
私の好きな歌が、お父さんにもわかってもらえた。
言葉を尽くしてもダメだったのに、歌が、私の思いをあの頑固な人に届けてくれたのだ。
歌があれば、誰かと繋がることができる。どんなに分厚い壁があっても、その振動で壁の向こう側を震わせることができる。だったら、宗一郎とも、いつの日にか分かり合えるようになるのかもしれない。まあ、今じゃないけどね。
その思いに至った瞬間、あんなに鉛のように重く、白紙のままだった私の頭の中に、言葉が溢れ出してきた。
完全に解決したわけではない。理不尽に対する怒りも、自分自身の未熟さへの苛立ちも、鬱屈した感情は今も私の中にどろどろと残り続けている。
それでも、そのままで走っていけばいいのだ。
綺麗に浄化なんてされなくていい。泥だらけの感情を全部ひっくるめて、私は私の歌を持って、全速力で走ればいい。
今度のフェス。私たちは、絶対に証明してみせる。
私たちが間違ってないってことを。私の歌が、誰かの心に風を穴を開けるってことを。
私はスマホのメモ機能を目一杯使って、震える指で歌詞を書き上げた。
最後の一行を打ち終えた時、憑き物が落ちたような深い安心感に包まれた。歌詞もできて、家族にも会うことができて、そこには確かな安堵感があった。
でも、大きな問題が一段落ついたからか、私にはあの『ファン1号』さんへの心配が大きくなっていた。
長野のライブ後、私たちのライブに一度として現れていない。桃香さんは「ファンの動向なんかいちいち気にするな」って言ってたけど、でもやっぱり妙だよね。
何か気に触ることしちゃったかな?でも全く心当たりがないし、どうしよう。心なしか智ちゃんも少し寂しそうだった。自分のアレンジに気がついてくれているかどうか確認していたらしい、というのはルパさんが言っていた。
智ちゃん、それを赤くなって否定してたから多分ほんとなんだと思う。
できることなら今度のフェスは見にきてほしい、私の書いた歌詞と、桃香さんの作った曲と、私たちの演奏。全てを出し切るつもりだからだ。
そんなことを考えながら、少しずつ眠気が襲ってくる。思えば熊本にいた時はしっかり睡眠が取れていなかった気がする。どれだけ悩みがあっても、睡魔は、どうにもできない…。
私は気がついたら眠ってしまっていたらしく、目的の駅を通り過ぎていた。
…ああ、しまった! 最初にこっちきた時とおんなじことやっちゃってる!
「またあなた? …でも前よりいい顔してる」
「ごめんさい! ありがとうございます!」
「ふふ、忙しい子ねぇ」
清掃のおばさんにぺこりとお礼をしてから駅のホームに降りる。状況した時と、おんなじルートで川崎を目指す。みんなが待つ、あの街へ。
**
照明が眩しくて、私は思わず目を細める。ダイヤモンドダストのライブ、悔しいけどめちゃくちゃ上手くて、認めたくないけど、あれはロックだった。
それでも私たちが勝つ。
何もかもをぶち壊して、私たちが正しいのだということを証明する。
怒りも、悲しみも、過去も、嘘も、何もかも歌にぶち込んで、届かせる。
今回のライブは、この上ない出来だった。私たちの全てを込めたものだったし、プロになれるかどうかも、そのステージの熱の前では瑣末なものに思えた。
日が傾き暗くなったフェスの会場、パラパラと雨が降り始める。
ボルテージが上がる、緊張感が高まる、その瞬間に、見覚えのあるあの人が見えた、気がした。
ファン1号さんだ。
雨と、人混みと、暗闇に塗れていてもその人だけは鮮明にわかった。
私は思わず笑ってしまう。やっぱり、いた。見ていてくれたんだ、そう思うと、マイクを握る手に力が入った。勢いはそのままに駆け抜け、ついに曲が終わる。
ライブの余韻と、降りしきる雨の冷たさが混ざり合って、私の体温はおかしくなりそうだった。
全身を突き抜けるような高揚感。ステージから見た、あの光景。客席の最後方、雨に打たれながらも微動だにせず私たちを見つめていた、あのシルエット。
「ファン1号さん、いました! ちょっと行ってきます!」
叫ぶなり、私はスタッフやメンバーの制止も聞かずに走り出していた。
「おい仁菜!」
「ちょ、ちょっと勝手な行動はって、早い!」
「すみません、うちのボーカルが」
背後で桃香さんやすばるちゃんの声が響く。追いかけてくるスタッフさんの足音も聞こえるけれど、今の私には関係なかった。あのアカウント。あの言葉。あの、諏訪の湖畔で私の背中を押してくれた声。
どうしても、今、直接言わなきゃいけない。「ありがとうございました」って。「私、歌えたよ」って。
関係者エリアのゲートを飛び出し、一般客の波をかき分けて進む。泥に足を取られそうになりながら、私は確信を持って一人の男の背中を追いかけた。
ようやくその距離が数メートルに縮まった、その時だった。
「気を付けてくださいよほんと。ちょっと待ってくださーい……って、あれ」
私を追いかけてきたフェスのスタッフさんが、私の目の前に立つ男の顔を見て、不意に足を止めた。その声は、驚きにひっくり返っていた。
「おい、お前……井芹か? 井芹宗一郎」
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てた。
雨音にかき消されそうなほど小さなその名前が、私の耳の奥に、鋭い針のように突き刺さる。
「……え?」
男の肩が、わずかに震えた。
ゆっくりと、彼は振り返る。その視線の先には、呆然と立つスタッフさんの姿があった。
「……佐藤」
男の口から漏れたのは、低く、お腹の底の方から冷えるような、ひどく落ち着いた声だった。
「お前……こんなフェスになんか来るのか? 大学じゃあ、クラシック以外頑なに認めなかったくせに。それに、その……」
佐藤と呼ばれたスタッフさんは、男と、そしてその横に立ち尽くす私を交互に見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「そのボーカルの子。宗一郎、お前……何かまた企んでるんじゃないだろうな。サークルでやったこと、まだ許してないからな」
脳内が、真っ白に弾けた。
降り注ぐ雨が、急に冷たい氷の粒に変わったような気がした。
井芹。
宗一郎。
クラシック以外認めない。
私の、お兄ちゃん。
「え……ちょっと、待って……嘘でしょ」
震える声が、自分のものじゃないみたいに頼りなく空気に溶ける。
私は、目の前に立つ「ファン1号」の顔を、穴が開くほど見つめた。
雨で濡れた黒い髪が、重たげに額にかかっている。
整った、けれど血の通っていないような白い肌。
そして、何よりも。
かつて私を見下し、絶望の底に突き落とした、あの感情の読めない……冷たい、暗い、瞳。
「あなたが……宗一郎って。そんなの、嘘、ですよね? だって、あなたは……私を、応援してくれてた、ファン1号さん、で……」
否定してほしかった。
人違いだと言って、いつものようにロジカルな解説を始めてほしかった。
「何を言っているんだ、井芹さん」って、赤の他人のふりをしてほしかった。
けれど。
彼は、何も言わなかった。
ただ、濡れた髪の隙間から、逃げることも隠れることもせず、真っ直ぐに私を見つめ返してきた。
その瞳に宿っているのは、かつての傲慢な光ではない。
もっと深くて、暗くて、出口のない迷路のような……ひどく、痛ましい沈黙。
「……ごめん」
雨の音に混じって届いたその一言は、紛れもなく、私の知っている「兄」の声だった。
けれど、私の知らない「優しさ」が、毒薬のように混じっていた。
あいつは、背を向けて走っていった。
私は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
世界が、ぐにゃりと歪んでいく。
一番信じたかった人が、一番信じたくなかった人だった。
降りしきる雨は、私たちの間に引かれた他人という境界線を、無情にも洗い流していった。