井芹仁菜の兄になりました、助けてください   作:占地

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━━井芹家の肖像━━

ノイズ混じりの古い映像のように、その記憶は不意に脳裏へとフラッシュバックした。

――薄暗い自室。机に向かい、神経質にシャープペンシルを走らせる少年の背中に、恐る恐るかけられた声があった。

『お兄ちゃん、これ』

張り詰めた思考を途切らせられた苛立ちを隠そうともせず振り返ると、幼い妹が、小さな両手で何かを差し出していた。

『……何?』

『……勉強、大変でしょ。これ、お守り』

 彼女の小さな掌に乗っていたのは、フェルトを縫い合わせたような、ひどく不格好な手作りのお守りだった。不器用な指で、血を滲ませながら一生懸命に針を通したことが窺えるいびつな縫い目。
 しかし、重圧に心をすり減らしていた少年の冷たい瞳に、その込められた熱は一切映らなかった。

『何これ? これで何しようって?』

 少年は、ひどく無価値なものでも見るかのように目を細めた。

『これもらって、僕の何になるの? お守りで成績上がるん?』

『いや、そういうわけじゃ……』

『じゃ、早く出てって。勉強の邪魔』

 氷のように冷たく切り捨て、再び机に向かおうとする。しかし、妹は引かなかった。すがるように、もう一度その小さな手を伸ばしてくる。

『で、でも……』
『しつこい』

 鬱陶しさに任せ、少年は差し出された妹の手を、容赦なく強く払いのけた。

 パシッ、と。
 乾いた音が、狭い部屋に響く。

 宙を舞う、不格好なお守り。偶然、それはゴミ箱に落ちる。
 弾かれた手を庇うように抱え込み、絶望に歪む少女の泣き出しそうな顔。


第十四話 Nowhere Man(宗一郎and仁菜視点)

 バカなことをした。薄暗い自室の床に座り込みながら、私は今更のようにそう痛感していた。

 

 あのフェス、やはり直接見に行くべきではなかったのだ。

 熊本の実家に戻っても、結局失われた記憶に関する進展は何一つ得られなかった。ただ、かつての自分が家族に対してどれほど冷酷に振る舞い、どうしようもない断絶を生んでいたやつだという事実を、冷ややかに突きつけられただけだった。

 

 心身ともに、ひどく疲労していたというのもある。「ファンとしての活動は、この大舞台で最後にしよう」なんていう、自分を納得させるための都合のいい言い訳で武装して、私はあの雨の会場へと足を運んでしまった。

 

 ステージで演奏された『空白とカタルシス』を聴いた時、私は確かに圧倒された。

 記憶もルーツも持たない、他人の人生を間借りしているだけの空っぽの今の私。それでも、彼女たちの奏でる音楽には、魂の根底を揺さぶられるような深い感動があった。

 

 しかし結果として、私は仁菜さんにカタルシスを与えるどころか、最悪のタイミングで正体を知られ、ただただ彼女の心に致命的な負担を強いるだけの存在になってしまった。

 

 そして東京の雑踏でばったりと彼女たちに遭遇し、すごい剣幕で詰め寄られた時のことだ。

 激昂する彼女を前にして、私の中には果てしない自己嫌悪しかなかった。

 

 彼女のぶつけてくる痛切な怒りや悲しみに対して、私は気の利いた言葉を返すことも、過去を弁明することもできなかった。ただ「悪かった」と表面的な謝罪を口にするしかなく、当然ながら、その空っぽの謝罪は彼女を逆上させるだけで、決して受け取ってはもらえなかった。

 

 当たり前だ。私は有能なプロデューサーでも、純粋な「ファン1号」でもなんでもない。妹の人生に勝手に介入し、無責任に期待を持たせてからかき回しただけの、ただの厄介な異物に過ぎなかったのだ。

 

それでも。あの日、私を睨みつける仁菜さんの瞳に宿っていた感情は、単なる絶対的な嫌悪や憎しみだけではないように見えた。過去の「兄」に対する複雑な執着と、ファンとしての私に救われたという微かな事実への戸惑い。それらがぐちゃぐちゃに入り混じったような、ひどく痛ましい色。

 

 私は彼女のその矛盾した痛みを理解して、何かをしなければならないと思った。この決定的な溝を埋めるための、何らかの行動を起こさなければと。

 

 しかし、何もできない。

 記憶のない私には、彼女がかつての兄の何に絶望し、何を求めているのか、根本的な部分がすっぽりと抜け落ちているからだ。

 

 私は藁にもすがる思いで、下北沢のアパートの自室をひっくり返し、過去の手がかりとなりそうな書類を漁っていた。

 引き出しの奥、本棚の裏側。過去の「井芹宗一郎」が隠し持っていたであろう、彼の内面を示す真実を求めて。

 

 しかし、日記や手紙の類はどこからも出てこない。代わりに見つかったのは、机の一番下の鍵のかかった引き出しの奥底に隠されていた、一つの小さな紙袋だけだった。

 

 中に入っていたのは、謎の錠剤のシートと、日付の古い病院の診断書。

 しかし、それが直接的に私の過去を明かすものではなかったため私は枕元に放り出した。

 

「……はぁ」

 

 散乱した書類と、意味のわからない薬のシートを見下ろしながら、私はただ深く、ひどく重いため息をこぼすことしかできなかった。

 

 *

 

 東京都内、学生街の喧騒から少し離れた路地裏。湿り気を帯びたコンクリートの匂いが鼻を突く中、私たちは築年数の経った古びたアパートの前に立っていた。鉄製の階段を上るたび、頼りない音が足元から響く。

 

「……鍵は?」

 

 智ちゃんが、周囲を警戒するように声を潜めて訊ねてきた。私は黙ってポケットから、使い込まれたキーホルダーのついた銀色の鍵を取り出した。

 

「お姉ちゃんからもらった。実家から帰るときに、何かあったらって。……まさか、こんな形で使うことになるとは思わなかったけど」

 

「用意いいな、お姉さん……」

 

 すばるちゃんの呆れたような呟きを背中に受けながら、私は震える手で鍵を回した。カチリ、と硬質な音がして、扉がゆっくりと開く。

 

「では、失礼しましょうか。この時間帯、宗一郎さんは大学の図書館にいるはずですから、ここには戻ってきません」

 

「なんでそんなことまで把握してるんだよ、ルパ」

 

「ふふ、企業秘密です」

 

 桃香さんのもっともなツッコミをさらりとかわし、ルパさんが先に部屋へと足を踏み入れた。

 

 一歩中に入った瞬間、言いようのない違和感に襲われた。

 そこは、かつて実家で「天才」と持て囃されていた兄の部屋とは、似ても似つかない空間だった。カーテンが閉め切られた部屋は昼間だというのに薄暗く、埃っぽさと、僅かに鼻をつく薬品のような――病院の待合室に似た匂いが充満している。

 

 何より異常なのは、その「持たなさ」だった。

 家具は最低限。生活を楽しむための装飾は何一つない。あるのは無機質な机と、硬そうなベッド。まるで、明日には誰かが去っていくことを前提とした、空っぽの抜け殻のような部屋。

 

「……何よこれ。生きてる感じが全然しない。それに、日が当たらなすぎるでしょここ。暗すぎる」

 

 智ちゃんが顔をしかめながら、部屋の隅々を観察する。私は吸い寄せられるように、机の上に乱雑に積み上げられた紙の束へと歩み寄った。そこだけが、この死んだような部屋の中で唯一、何かが蠢いている場所のように見えたからだ。

 

 一番上の分厚い紙を拾い上げ、目を凝らす。それは、どこかの大学病院が発行した診断書のコピーだった。

 

「……外傷性脳損傷、および、それに伴う『逆行性健忘』……?」

 

 その不穏な医学用語を口にした瞬間、部屋の空気がさらに冷え込んだ気がした。それが正確に何を指し示しているか、私にははっきりと分からなかった。それでも、それが、私にとって一番望ましくないものだと言うことが直感的に理解できた。

 

「記憶喪失、ということでしょうか……」

 

 後ろから覗き込んだルパさんの声が、どこか遠くで響く。すばるちゃんは枕元に移動し、そこに置かれた無数の紙袋と薬の山を指し示した。

 

「見て、この薬の袋の数。睡眠導入剤に抗不安薬……いろんな種類の精神科の薬がどっさり出てる」

 

「…なんでわかるの、すばる」

 

「聞きたい? 智ちゃん」

 

「やめとくわ」

 

「……おい、仁菜。これ見ろ」

 

 桃香さんが、私の手元にある別の書類の束から数枚の紙を引き抜いた。その横顔は、いつになく険しい。

 

「警察の調書……いや、確認書のコピーか。……『救急搬送時の状況および現場検証の結果、背後から故意に突き落とされた第三者行為の疑いが強い』……?」

 

「え……突き落とされた?」

 智ちゃんが息を呑む。

 

「続きがある。『しかし、本人が「自分で足を踏み外しただけの単なる事故である」と頑なに主張。刑事事件への発展を望まず、被害届の提出を拒否』……だとよ」

 

 桃香さんが書類を机に投げ出した。

 階段から突き落とされた疑いがあり、警察が事件として動こうとした。なのに、あいつ本人がそれを突っぱねて、ただの事故として処理した?

 

「刑事事件になりかけたのに、なんで……犯人を庇ったってこと?」

 すばるちゃんが首を傾げる。

 

「……違う」

 

私は、震える声で否定した。そんな美談のわけがない。

 

「そんなわけがない、庇うなんてやるわけがない。あいつは自分の邪魔をする奴に対してそんな優しくするわけがない。何か企んでいるか、それか…」

 

 私は言いながら、先日の光景が思い浮かぶ。いろんなものが交雑して、わけがわからなくなってきた。

 

 記憶喪失。精神科への通院、異常な量の薬。

 あの、階段から落ちたという事故の裏側にあった異常な事実。そして、あの気味の悪い、けれどどこかぎこちなかった「お兄ちゃん」の振る舞い。

 バラバラだったピースが、私の頭の中で残酷な音を立てて繋がっていく。

 

「……記憶喪失って、どこまで忘れてるんですか?」

 

 私は震える声で、この場にいる誰にともなく問いかけた。

 

「わかりません。人間の記憶というのはあまりに複雑です。体験したエピソードの記憶だけが抜け落ちることもあれば、自分自身の性格やアイデンティティそのものを忘れてしまうこともある。ですが……」

 

 ルパさんが、診断書の日付を指でなぞる。

 

「仁菜さんが覚えているお兄さんと、今の宗一郎さんがあまりにかけ離れているのだとしたら。少なくとも、ここ十数年ほどの記憶、あるいは『彼自身』を形作っていたものはすべて失われているのかもしれません」

 

 私は、手に持っていた紙の束を握りつぶしそうになった。

 

 十数年。

 あいつが私を見下し始めたのも。お父さんの過剰な期待を、当然の権利のように冷淡に受け止めていたのも。いじめに遭った私を、助けるどころか「愚かしい」と断罪し、突き放したのも。

 もっと昔に、私に笑いかけていた、あの時も。

 そのすべてが詰まっていた、長い年月。

 

「……存在しないってこと?」

 

 あいつの中には、もう何一つ残っていないというのか。

 私を傷つけた記憶も、家族の痕跡も、何もかも。

 

「……ふざけんな」

 

「仁菜さん?」

 

 ルパさんが心配そうに顔を覗き込んでくる。けれど、私の胸の中に沸き起こったのは、同情でも悲しみでもなかった。それは、真っ赤に焼けた鉄のような、激しい怒りだった。

 

 あいつは、井芹宗一郎は。

 私の、大嫌いだったお兄ちゃんは。

 

「そんな、綺麗に終わらせない……っ! あいつは私を傷つけた! 踏みにじった! 見下してたんだ! お姉ちゃんも、お母さんも、お父さんも! あんな奴、大嫌い! 顔も見たくない、あんな、あんなの……!」

 

 視界が熱くなる。握りしめた拳が、怒りでガタガタと震えた。

 

「私がどれだけあいつを嫌ってたか……! どれだけ、羨ましかったか! 私にできないことを軽々とやってのけて……! 私のことなんか、これっぽっちも見てくれなかった! なのに、やっとあいつに文句を言ってやれる場所まで来たのに……!」

 

 記憶がない? 忘れてしまった?

 だから、これからは「優しいお兄ちゃん」として「ファン1号」として接します、なんて。

 そんな勝手なリセット、認められるわけがない。

 

「全部忘れて、優しくなりました、なんて。そんな都合のいい話、あってたまるか! そんなお兄ちゃんに、同情なんて絶対に、絶対にしてやらないから!!」

 

 私は泣き叫ぶように、誰もいないはずの部屋で吠えた。

 記憶をなくして、一人で苦しんでいたのかもしれない。なんとか積み上げた情報で、必死に「兄」としての役割を演じようとしていたのかもしれない。

 そんなこと、知ったことか。私の傷は、今もここに深く刻まれているのに。

 

「……ふぅ。全く、難儀な奴だなぁ、お前は」

 

 不意に、桃香さんの呆れたような、けれどどこか温かい声が響いた。顔を上げると、桃香さんがニヤニヤしながら私の頭を乱暴に撫で回していた。

 

「拗らせてんな。ファザコンでブラコンか。難儀だわ、ほんと」

 

「めんどくせーやつ」

 

「ええ……。仁菜、今の言い方だと、あいつに構ってほしくてたまらないようにしか聞こえないわよ?」

 

 智ちゃんまで、やれやれといった風にため息をつく。すばるちゃんに至ってはケラケラと可笑しそうに笑っている。

 

「もう何でもいいけど! でも、やっぱりあいつはムカつくんです! 忘れていいことと悪いことがあるんだよ!」

 

「はいはい、わかったから。とりあえず帰るぞ。お兄さん、そろそろ戻ってくる時間だし」

 

 桃香さんに背中を押され、私は最後にもう一度だけ、あの薄暗い部屋を振り返った。

 何もかもを失って、ただ一人生き直そうとしている、空っぽの抜け殻。

 

 私はあいつを許さない。

 忘れるなんて、絶対に許さない。

 あいつが全部思い出すまで、あるいは、今の「偽物」のあいつを私が完全に叩き潰すまで。

 私の戦いは、まだ始まったばかりだった。

 

「仁菜さん」

 

「なんですか?」

 

「私、応援してますよ!」

 

 ルパさんが振り返り、グッと小指を立てる。私も涙を拭い、ニヤッと笑ってそれに応える。

 みんなが呆れた顔をしたのが見えた。




━━ある日の幸せな思い出━━

明るい部屋の隅で、二つの小さな影が肩を並べ、一冊の本を覗き込んでいる。

『詩がすきなんて、おとなばい、にな』

少し得意げな少年の声に、おかっぱ頭の幼い妹が、もじもじと下を向いて答える。

『……おにいちゃんとおれるけん』

『……? どぎゃんこと?』

『なんでもなか。……ゆうくんと、あそばんでよかったと?』

『うーん、まあ、になのことも、しんぱいだけん』

 少年が頭をかきながらそう言うと、妹は少しだけ嬉しそうに『そっか』と小さく笑った。

『ばってん、になは歌うのも上手ばい。大きくなったら、すごか歌手になるかもな』
『……むりばい。みんなの前に立つと、はずかしかけん』

 照れ隠しのように顔を赤くして、妹は少年の服の袖をぎゅっと掴んだ。
 いつまでも続いてほしかった、優しくて、柔らかい午後の時間。
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