井芹仁菜の兄になりました、助けてください   作:占地

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 私は自室でスマホの画面を覗き込む。
 メッセージアプリに表示された送信者の名前は、仁菜さんからだ。

『本日17:00に多摩川見晴し公園にて待つ』

 どうして私のアカウントを持っているのだろうか?今追加したばかりのようだが、まあたぶん涼音さんだろう。

 文字の羅列から漂うこの緊張感。果たし状だろうか?
 あの時の「また会える」という私の言葉を受けて、まさか向こうからこんなにも早くアクションがあるとは思わなかった。いや、関係性の進歩としては手放しで喜ぶべきことだろう。しかし、なんとなく不穏な空気を感じざるを得ないのも事実だ。

 多分私は殺される
 いや、流石にないとは思うが、依然として私の記憶は戻らないままだし、周囲の断片的な話や反応を総合する限り、どうやら私は相当なレベルで「やらかしていた」ようである。

 しかしまあ、これがたとえ罠であろうとも、仁菜さんから自発的なアクションがあったのは喜ばしい一歩だ。
 いや、本来ならば私が真っ先に動くべきなのだろう。だが、馬鹿正直に『実は私は転生した別人でして』だなんて言えるわけがない。そんなことを言えば、ただでさえ拗れている関係が完全に崩壊してしまうだろう。今の私にできるのは、不格好でも「彼女の兄」として向き合い続けることだけだ。

 とにかく、そろそろ約束の時間だ。
 私はスマホの画面を閉じ、スウェットの上に白いコーチジャケットを羽織り、スニーカーの紐をきゅっと結ぶ。

 窓の外を見ると、まだ日は高いが、遠くの空に赤い夕焼けの気配が顔を覗かせ始めている。私は財布代わりに交通系ICカードだけを握りしめ、アパートのドアを開けた。

「よし、行くか」

 小さく呟いて、私は多摩川へと向かった。電車を乗り継いで、川崎駅で降りる。そうして私はアゼリア入り口を正面に見据えて、左に曲がって多摩川の方へ歩き出す。
 
 この人生で何度も通った道ではあるが、それでもどこか、遠いものとして考えていた。私は彼女らを観る側なのだと。だから現実として存在するこの川崎の街も、どこか聖地巡礼のような気持ちでいつっも歩いていた。

 公園に近づくにつれ、川から吹く風が少しずつ冷たさを増していく。これが現実だと、認識させる寒さだった。
 階段を降りた先、川のほとりに彼女はいた。

「……来たんだ」

『ああ』

 仁菜さんは、私が近づくまでじっと多摩川の水面を見つめていた。そして、私の足音に気がついて振り返る。
 夕日を背に受けた彼女の赤い髪は、普段よりもさらに深い色合いを帯びて燃えるように見えた。その一方で、私を射抜く瞳の色は、どこまでも冷徹で深く、青かった。

 そして、同時に感じる複数の視線。
 ……全員集合してるじゃないか。

 隠れるつもりならもう少しうまくやってほしい。明らかに不自然な茂みの揺れや、木の影からこちらを覗き込んでいる四対の視線。トゲナシトゲアリの面々が、しっかりとこの「果たし合い」を見届けるつもりらしい。
 妹のピンチ(?)に駆けつける仲間がいることは喜ばしいが、今の私にとっては完全に四面楚歌だ。

 私は少し怖気付いたが、もう一度真っ直ぐに仁菜さんの目を見つめ返し、気分を改めた。
 このような気後れは、彼女の鋭い感性にはすぐに見透かされ、丸裸にされてしまうだろう。ごまかしや小手先の取り繕いは通用しない。もはや私にできることは、ただ一つ、彼女の言葉を真正面から受け止めることだけだった。

「何か、話したいことがあるのか?」

 私は努めて穏やかに、けれど真剣なトーンで問いかけた。

「……うん、全部。思い出してもらうから」

 彼女の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
 その時、私は彼女の右手に、くしゃくしゃになった白い紙が何枚も握られていることに気がついた。
 
 あれは一体なんだろうか?
 果たし状の原本か、それともこれまでの私の悪行を記した告発文だろうか。
 全く見当がつかない。ただ、彼女がそれを強く、本当に強く握りしめていることだけはわかった。


第十五話 産声

 

 あいつの視線が、私の握りしめている紙の束に向いた。

 私はそれを黙って、あいつの目の前で乱暴に広げた。

 

「……それを、どこで?」

 

「この前、家に入った。その時に机の上にあった」

 

 宗一郎は、わずかに目を見開いた。

 

『どうやって入ったんだ?』

 

 それがあまりにも的外れで、暢気な質問だったから。私の中でギリギリ持ち堪えていた堪忍袋の緒が、一瞬でブチッと音を立ててちぎれた。

 

「そこじゃない!」

 

 私は吠えた。

 

「なんで黙ってた! なんで言わなかった、記憶喪失のことを!」

 

 川沿いの木々がざわざわと風に揺れる。私の荒い息遣いだけが、鼓膜をガンガンと叩く。少し離れた場所にいたカップルが、異様な空気を察してそそくさと逃げていくのが視界の端に見えた。

 

 しんと、あたりが静まり返る。

 

「それは……」

 

 気まずそうに、宗一郎が私から視線を逸らそうとした。

 

 逃がさない。

 

 私は地面を蹴り、勢いそのままにあいつの胸ぐらへ体当たりをした。ドンッ、と鈍い音がして、あいつの背中が地面に倒れ込む。私はそのまま馬乗りになって、あいつの服の胸元を力任せに掴みあげた。

 

 茂みの奥で、桃香さんが飛び出そうと動く気配がした。でも、すばるちゃんかルパさんがそれを無言で制止したのがわかった。

 

「目を逸らさないで……、私を見ろ!」

 

 私は、自分の声がひどく割れていることにも構わず叫び続けた。

 

「ここにいる、お前のことを死ぬほど嫌いな私を! 記憶喪失! 睡眠薬! 精神科の通院! 全部見たんだから! あんたが、過去の記憶を全部無くして、私に都合のいい『優しいお兄ちゃん』のフリをしてたこと、全部わかってる!」

 

 息継ぎも忘れて叫ぶ私の下で、あいつは目を瞬かせた。

 その顔は相変わらず無表情で、感情が読めない。でも、その奥にある瞳だけは、明らかに「困惑」の色を浮かべていた。

 

「私が知らないとでも思ってたの!? 階段から落ちて全部忘れて、自分の過去も、私やお姉ちゃんを見下してたことも、お父さんの期待に涼しい顔で応えてたことも、全部! 全部頭からすっぽ抜けてるくせに、なんであんな……あんな……!」

 

 言葉が詰まる。

 視界が急に滲んで、喉の奥が熱く焼けるように痛くなった。

 

「なんで、あんな……昔みたいに笑うの?……」

 

 絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。ポタポタと、自分の目から落ちた涙があいつの白いコーチジャケットに染みを作っていく。

 

 記憶がないなら、ないと言えばいい。

 それなのに、あいつは何も言わずに私に近づいてきた。ライブに通い詰めて、SNSで発信して、アドバイスなんかして、私に、応援するような言葉をかけて…。

 

「あんたは全部忘れてるかもしれないけど、私は一日だって忘れたことない! 助けてほしかった時に突き放されたことも、愚かしいって笑われたことも! それを、あんた一人だけ綺麗さっぱり忘れて、都合よくやり直そうなんて……そんなの、絶対に許さないんだから!!」

 

 私はあいつの胸を、何度も何度も叩いた。痛くもないだろう力で、ただ子供みたいに泣きじゃくりながら。

 黙って私に乗っかられたままの宗一郎の目が、ふっと揺れた。

 

「仁菜……」

 

 その言葉は。

 その温度のない、静かで、圧倒的な空気は。

 

 驚くほど、昔の言い方だった。

 あの、私を冷たく見下ろしていた宗一郎だった。私の、大嫌いだった「お兄ちゃん」そのものだった。

 

 あいつの瞳の中に、私が映り込んだ。

 

**

 

 私の口は、勝手に「仁菜……」と呼んでいた。

 

 これは完全に私の意図するところではなかった。仁菜さんにタックルされ、勢いよく地面に背中を打ちつけた時、どうやら後頭部も一緒に芝生へぶつけてしまったようだった。

 

 そして、その瞬間。脳の奥底で、頑丈に閉じられていたはずの蓋が緩み、一気に奔流が溢れ出した。傲慢と偏見にまみれた、『井芹宗一郎』の記憶が。

 

 幼い頃、無邪気に笑っていた涼音さんや仁菜さんの温かい記憶。それが成長とともに色褪せ、家族への関心が冷めきっていく過程。期待を押し付けてくる父親への薄暗い感情と、それに応えてしまう自分。

 

 周囲の人間を「本物の天才を知らない哀れな奴ら」と見下し、孤独を深めていったあの息苦しい日々。私が彼女の苦しみを「愚かしい」と切り捨てた時の、ひどく冷たい声。

 

 何もかもが、鮮明な熱を持って私の内側に蘇ってきた。

 

 その濁流の中で、『私』という転生者の意識と、『井芹宗一郎』という本来の魂のようなものが、確かに触れ合った。

 彼の中にあるのは、絶対に自分からは謝りたくないというひどく醜い意地と、そして、それに相反するわずかながらの後悔だった。

 

 脳裏に、彼の醜く歪んだ顔が浮かんだ気がした。そして、彼が『わかるよな?』と私に問いかけてきたような気がする。

 

 それが正確にどういうことを意味しているのか、私にはわからない。だが、多分、私のやりたいことと彼の根底にあった願いは、同じなのだろう。

 この不器用で、プライドばかりが高くて、一番大切な時に妹の手を引けなかった愚かな兄の罪を、逃げずに背負っていく。

 

 私は、今度ははっきりと自分の意思で右手を持ち上げ、私に馬乗りになって泣きじゃくる()()の頭にそっと手を置いた。

 

「全部、思い出した。いじめられていたと聞いたときに仁菜を、愚かだと言ったこと。勉強ができるというだけで、思い上がっていたこと。僕が受験をすると聞いて作ってくれたお守りのことを受け取らずゴミ箱の中に入ってしまったこと、そして、子供の頃のことも。本を読んであげたことも、家の中で遊んだことも。詩が、好きだったことも。

 

 引っ込み思案で、人見知りで、でも譲れないところ芯が一つあって、いつも自分の周りについて悩んでいた。年に似合わず古いものが好きで、歴史に興味があったんだろう?大学ではそれを勉強したいとも言っていた。

 

 清水の舞台に立って竦み上がってたこと、夜の八坂神社に行って僕の後ろにずっといたこと、日光・月光菩薩を見て感動していたこと。松田聖子とか、松任谷由美を歌っていたな。…お父さんの影響なんだろうな、古いもの好きなのは。何もかも、思い出した。

 

 そして病院で目覚めてから、今までのことも全部覚えている。新川崎から始まって、トゲナシトゲアリが結成されて、そしてプロになって…。どの曲も、すごくよかった。特に、仁菜の歌は。

 

 その上で、言わせてくれ。……ごめん、仁菜」

 

 私の口から出たその声は、もう記憶喪失の男の借り物ではない、私自身の言葉だった。私の長々とした語りを仁菜は黙って聞いていた。

 

 そして私が謝罪の言葉を口にした次の瞬間、右頬に星が散るような鋭い痛みが走った。

 数瞬遅れて、思い切りビンタされたのだと理解した。ビンタされたと認識された瞬間に、痺れるような熱さがじんじんと広がっていく。

 

「……許すわけないでしょ。一生、許さないから」

 

 私を睨みつける仁菜の目は、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、決して折れない強い光を放っていた。過去の私を憎み、今の私を叩き伏せる、真っ直ぐな怒り。

 

「ああ。……ありがとう」

 

 私は素直に礼を言った。彼女がここで「記憶がないなら仕方ない」と妥協するような人間でなくて、本当によかったと思う。

 

「……一生私に恨まれたまま、生き続けろ。じゃなきゃ許さないから」

 

「わかった」

 

 私は短く、力強く頷いた。

 

 井芹宗一郎が彼女に与えた傷は消えない。彼女は一生、私を許さないし、恨み続けるだろう。

 

 だが、それはつまり、これからの人生で「一生恨み続ける妹」と「一生恨まれ続ける兄」として、真正面から関係を繋いでいけるということだ。無関心で切り捨てられるよりも、そっちの方がよっぽど前向きで希望に満ちたスタートラインではないか。

 

 きっと、これでいいのだろう。何かが一つになっていくのを感じた。私は私であり、かつ『僕』でもある。それを意識した瞬間、喉元や顔を捉えていた重りがスッと外れたような気がした。

 

 これから私は、彼女にどれだけ拒絶されようとも、全力で兄貴面をしていくことになる。

 私はまだうまく動かない頬を少しだけ緩め、夕焼け空の下で泣きじゃくる不器用な妹の顔を、静かに見つめ返した。

 

**

 

 私は、自分の手のひらがじんじんと痺れているのを感じながら、しばらくの間、声にならない嗚咽を漏らして泣き続けた。

 

 頬を叩かれた宗一郎は、怒るでもなく、逃げるでもなく、ただ静かにそこに座り込んで私の言葉と涙を受け止めていた。その時のあいつの様子は、間違いなく昔の冷酷な『井芹宗一郎』の気配を纏っていたけれど、決して昔のままのあいつではなかった。

 

 あの頃のあいつなら、私の感情の爆発なんて「見苦しい」と鼻で笑って背を向けていたはずだ。けれど今、目の前にいる男は、不器用に歪んだ顔のまま、私の吐き出した泥水を正面から浴びていた。

 

 腹立たしいほど理解不能な存在。でも、前よりはずっとマシだった。

 

「あの〜……警察、呼びますか?」

 

 不意に頭上から降ってきた、ひどく遠慮がちで、かつ怯えきった声。

 私はビクッと肩を震わせ、ハッと現実へと引き戻された。

 

 涙でぼやけた視界を拭うと、数メートル離れた遊歩道から、いかにもサラリーマンといった見た目の眼鏡をかけた見知らぬ通行人が、スマホを片手にこちらを覗き込んでいるのが見えた。

 どう見ても、若い女性が男性に馬乗りになって殴りかかっている凄惨な事件現場の目撃者という顔をしている。

 

「あ、えと……! これは、そういうのじゃなくて!」

 

「はぁ……?」

 

 私が慌てて立ち上がり、必死に両手を振って弁明するが、相手の怪訝な顔は全く晴れない。むしろ、さらに複雑な疑念の目を向けられている気がする。どうしよう、本当に通報される。

 

「あー! すいませーん! 今、演劇の練習してて! すっごい迫真の演技だったでしょー? ご迷惑おかけしましたー!」

 

 絶体絶命の空気をぶち破ったのは、茂みの奥から満面の作り笑いを貼り付けて飛び出してきたすばるちゃんだった。まるで引率の先生のような手慣れた身振りで、通行人と私たちの間に立ち塞がる。

 

「なるほど……? そうでしたか。その、素晴らしい演技でしたよ。本当に喧嘩してるのかと」

 

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありません」

 

 すばるちゃんに続いて、ルパさんまでがしずしずと歩み寄り、完璧なまでに穏やかで品のある微笑みを浮かべて頭を下げた。その圧倒的なオーラと説得力に押され、通行人は「それなら邪魔をしてすみません」とそそくさと足早に去っていった。

 

 嵐が過ぎ去り、私は恥ずかしさと居心地の悪さで、乱暴に両手で目を擦った。見られた。全部、聞かれた。トゲトゲのメンバー全員に、私のこの泥臭くて情けない家族の痴話喧嘩を。

 

 ふと見ると、ルパさんが夕暮れの多摩川を見つめながら、……なんだか、とても嬉しそうに目を細めていた。

 

「ルパさん、なんでそんなに楽しそうなんですか……」

 

私が少しだけ刺のある声で尋ねると、ルパさんはゆっくりと首を振った。

 

「いえ、河原で本気で殴り合って、お互いの感情をぶつけ合う。なんと素晴らしい関係性なんでしょうかと、少し羨ましく思いまして」

 

「……一方的に殴ってただけだけどな」

 

 後ろから歩いてきた桃香さんが、呆れたようにため息をつきながらボヤく。

 

「そうね。完全に狂犬のそれだったわ」

 

 智ちゃんまで冷ややかな視線を送ってくる。

 

「もう! 人の深刻な悩みを面白がらないでください!」

 

「いえ、面白がっているわけではありませんよ」

 

 ルパさんの声が、ふっと一段階低く、そして優しくなった。

 

「こうやって、嘘偽りなく思いの丈を言い合えるのも、お互いが生きているからこそですから。それが例え、『私たちはどうしても分かり合えない』という絶望的な結果になってしまったとしても、です」

 

「ルパさん……」

 

 そう言って微かに微笑んだルパさんの横顔は、夕日の逆光も相まって、ひどく寂しそうに見えた。失ってしまったもの、もう二度と声を届けることのできない誰かへの思いが、その短い言葉の裏に透けて見えた。

 

 智ちゃんが何も言わず、ルパさんを見つめる。二人は目を合わせ、ルパさんはにっこりといつもの調子で笑った。

 

 私は言葉に詰まり、ただ唇を噛み締めた。

 

「……いてて……」

 

 しんみりとした空気を切り裂くように、背後から間の抜けた声がした。

振り返ると、芝生の上に転がっていた宗一郎が、のそのそと不格好に立ち上がるところだった。タックルされた背中と、真っ白なコーチジャケットは泥で無惨に汚れ、叩かれた右頬はうっすらと赤く腫れ上がっている。

 

 私たち五人の視線を一斉に浴びたあいつは、なんとなく気まずそうに視線を泳がせ、無意識に後頭部を掻いた。

 

「…………」

 

 完璧で、冷酷で、隙がなくて、私を常に見下していたあの『井芹宗一郎』。

 お父さんの期待を背負い、私にとっては絶対に手の届かない場所にいると思っていた巨大な壁。

 

 それが今、ただの不器用で、みっともなくて、場違いな白いジャケットを泥だらけにした情けない男として、夕暮れの河川敷に突っ立っている。

 

「……ばかじゃないの」

 

 そのあまりにも素朴で、人間臭い様子。

 私がさっきまで抱えていた、マグマのようにドロドロとした憎悪や、自分自身を苛み続けていた劣等感の毒気を、あっさりと抜いてしまいそうなくらい、拍子抜けする姿だった。

 

 あんなに巨大に見えていた化け物は、ただのちっぽけで、間抜けな人間でしかなかったのだ。

 

 私は、行き場を失った感情を誤魔化すように、わざと大きな声で吐き捨てた。

 

「何、その服。全然似合ってない」

 

「……そうか? 結構、自信あったんだけど」

 

 宗一郎が、泥だらけの袖を見下ろしながら心底不思議そうに首を傾げる。

 

「私は似合ってると思うけどな。仁菜が力任せに押し倒して汚したから、みすぼらしく見えるだけじゃないか?」

 

「なっ、桃香さん! どっちの味方ですか!」

 

「……クリーニング、出さないとな」

 

 宗一郎がポンポンと肩の泥を払いながら、困ったように独り言をこぼす。その呑気な態度に、また少しだけ苛立ちがぶり返した。

 

「……私、悪くないから! そもそも、そんな汚れるような真っ白で似合ってない服着てきたお兄ちゃんが悪い!」

 

 私はそっぽを向きながら、早口でまくしたてた。

 

「お姉ちゃんに服選んでもらったら? 絶望的にダサいから」

 

「……そうするよ」

 

 反論もせず、あいつはただ静かに頷いた。

 少し前なら「余計なお世話だ」と切り捨てていただろうに。今のあいつのその素直すぎる肯定は、私の調子を狂わせる。

 

 川面を撫でる風が、火照った頬を冷やしていく。空は完全にオレンジ色から群青色へと変わり始めていた。絶対に許さない。その気持ちに嘘はないけれど、私たちの間のひどく歪で、絡まり切っていた糸が、ほんの少しだけ、解け始めたような気がした。

 

**

 

 私は少し離れた公園の水道で、真っ赤に腫らした目元を冷たい水で洗い流しているうちの厄介なボーカルから視線を外し、泥だらけのまま突っ立っている男に向き直った。

 

 仁菜をあそこまで追い詰めていた巨大なトラウマの正体が、今はすっかり毒気を抜かれて、ただのうらぶれた青年のように佇んでいる。

 私はギターケースの肩紐を握り直し、少しだけ低い声を出した。

 

「なあ、宗一郎、だったっけ?」

 

「はい」

 

 こちらを見たあいつの目は、怯えも誤魔化しも隠していなかった。

 

「お前、うちのボーカルに変なことしたら承知しないからな」

 

「……わかっています」

 

 私が凄むと、横からすばるがひょっこりと顔を出して、これ見よがしに腕組みをした。

 

「言っとくけど、いろんな手段でニーナから遠ざけることできるんだからね?」

 

「ええ、いかに成人男性といえど、複数人からの闇討ちであれば無事ではいられませんからね」

 

 ルパが、いつも通りの涼しい顔と柔らかいトーンで、とんでもないことを口走った。

 

「ちょ、ちょっとルパ! せっかく丸く収まろうとしてるのに、物騒なこと言わないでよ!」

 

「ふふ、冗談ですよ」

 

 智が慌てて突っ込むが、私は内心で冷や汗をかいていた。

 

(ルパのは、冗談に聞こえないんだよな……)

 現に、ルパの目は全く笑っていない。本気で仁菜を守るためなら、川に沈めるくらいのことはやりかねない凄みがある。

 

「失礼ですね? 私はそんな、証拠が残るようなことしませんよ」

 

「……」

 

 私とすばるは、思わず顔を見合わせた。ルパは絶対に怒らせないようにしよう。心の中で固く誓い合う。

 

「ええ、ありがとうございます」

 

 そんな私たちの物騒なやり取りを聞いて、宗一郎はひどく自然な笑みを控えめに浮かべた。

 

 初めて会った時の威圧的な雰囲気や、淡々とライブ後の感想を言っていた時の雰囲気ともまた違う。肩の力が抜けていて、眉間のシワも取れ、眉は少し下がり気味。

 よく見たら、少し垂れ目で……なんだ、ただの人の良さそうな、少し抜けた顔立ちじゃないか。

 

「何が『ありがとう』だよ。命の危機だぞ、お前」

 

「別に、大したことはありません」

 

 宗一郎は、少しだけ自嘲するように目を伏せた。

 

「一度死んでいたようなものですから。それに、彼女の迷惑になるくらいなら、死んだ方がマシです」

 

 それは、記憶を無くした男の、空っぽなりの強がりでもあり、本音なのだろう。

 そう言って、宗一郎は水道で顔を洗い終え、タオルで顔をゴシゴシと乱暴に拭いている仁菜の方へ視線を向けた。その眼差しは、どうしようもなく「兄」のものだった。

 

「でも、死んでる暇もなさそうです。僕が勝手に死んだら、きっと胸ぐらを掴んで叩き起こされるでしょうから」

 

「ふふ、そうでしょうね」

 

「だろうな」

 

 想像に難くないその光景に、私とルパは顔を見合わせて笑った。あのイノシシなら、地獄の底まで追いかけていって往復ビンタを食らわせるに違いない。

 

「生き続けることが贖罪です。死んでいる暇などありませんよ、宗一郎さん」

 

 ルパの静かで、けれど確かな重みを持った言葉に、宗一郎は小さく首を振った。

 

「ありがたいことです」

 

「ま、でもSNSの匿名ファン活動なら歓迎だけどな」

 

「あの感想、みーんな楽しみにしてたんだから。ね?智ちゃん?」

 

「はぁ!?ちょっとすばる、勝手なこと言わないでよ」

 

「…そうなんですか?」宗一郎は少し目を丸くする。

 

「そうじゃない!」

 

「あ、すみません」

 

 智のやつ、素直じゃないからな。私はそんな気の抜けたやり取りを笑いながら見ていた。

 やがて、目元を真っ赤に腫らしたまま、仁菜がドスドスと足音を立ててこちらに戻ってきた。まだ完全に怒りが収まっているわけではない、ツンケンとした態度。

 宗一郎は、そんな妹の前に真っ直ぐに立って、口を開いた。

 

「仁菜」

「……何?」

 

 仁菜が、警戒心丸出しで睨みつける。

 宗一郎は、少しだけ照れくさそうに、けれど、ライブハウスで聞いた音を思い出すように言った。

 

「歌、上手くなったな」

 

「…………っ」

 

 その一言に、仁菜の時間が止まった。

 あいつの顔には、一瞬でいろんな感情が浮かんで消えた、ように見えた。驚き、戸惑い、過去のトラウマ、そして、ずっと欲しかった言葉をもらえた、ほんの少しの喜び。

 

 けれど、素直になれない不器用なボーカルが、最後に選び取った感情は、やっぱり照れ隠しの「怒り」だった。

 

「ふんっ!」

 

「い、った……!」

 

 仁菜は顔を真っ赤にして、宗一郎のすねを思い切り蹴り飛ばした。泥だらけの白いジャケットを着た男が、思わずと言った感じで声を漏らす。

 

 それを見て、仁菜は「自業自得だ」とでも言いたげにそっぽを向いたが、その耳の裏が限界まで赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

 

 全く、どいつもこいつも不器用で、手がかかって、難儀な奴らだ。

 私たちはそんな二人の不格好なやり取りを見て、夕暮れの河川敷で、たまらず声を上げて笑い合った。

 





 夕闇が少しずつ多摩川を包み込み、街灯がポツリポツリとオレンジ色の瞬きを始める頃。私たちは、泥だらけの白いジャケットを着た不器用な男を背にして、駅への道を歩き出そうとしていた。
 
「じゃあ、私たちこれから練習だから」

 私は振り返らずに、そっけなく言い放った。

「ああ」

 背後から、短く穏やかな声が返ってくる。
 桃香さんたちが少し先を歩いて気を遣ってくれているのがわかる。私はスニーカーのつま先で地面の小石を軽く蹴り飛ばし、ほんの少しだけ顔を横に向けた。

「……ライブ、聴きにきたかったら、別にきても良いよ。なんもしないけど」

 早口で、吐き捨てるように言った。
 別に、許したわけじゃない。応援してほしいわけでもない。ただ、あいつが本気で「贖罪」だのなんだのと言って私の前に立ち続けるつもりなら、私の歌で徹底的にねじ伏せてやる機会を与えてやってもいいと思っただけだ。

 背後で、あいつが息を呑む気配がした。
 そして、泥だらけの服のまま、深く、静かに頷く気配が伝わってきた。

「ありがとう。……行かせてもらうよ」

 その声には、記憶喪失の空っぽな男の響きでも、昔の冷酷な兄の響きでもない、ただの「一人の家族」としての、確かな温もりがあった。

 私はそれ以上何も言わず、足早に桃香さんたちの背中を追いかけた。体が熱くて、心臓がうるさい。
 
 そう、許さない。私たちはそうやって生きていく。
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