フロントガラスを打ち据える雨粒が、街灯の光を乱反射しては川崎の夜に溶けていく。
私は、エンジンをかけたままのワンボックスカーの運転席で、ワイパーが一定のリズムで視界を切り開くのをぼんやりと眺めていた。エアコンの微かな駆動音だけが響く車内は、外の冷え込みが嘘のように守られた空間だった。
ダイヤモンドダストと、トゲナシトゲアリの対バン。
結末は、全くもって想定通りのものだった。奇跡の逆転劇なんて、そう簡単に起きるものではない。プロ一発目の勝負として書き上げられた新曲は、チャートのランキングでは振るわず、今日のクラブチッタのチケット売り上げも、ギリギリ半分に届くかどうかといったところだった。
私も「ファン1号」の皮を半分脱ぎ捨てたとはいえ、持ちうる限りの分析力と文章力を駆使してSNSで宣伝を打ちまくったが、それでも世界という壁は高く、厚く、そして厳しかった。
だが、そんな厳しさを彼女たちはものともせず、いや、結構ものともしてた気がするけど、それでも、立ち止まることなく前に進んでいっている。
フロアの最後方、腕組みをして見届けた今日のステージは、凄まじかった。
客席に空席が目立とうが、ダイダスとの格の違いを見せつけられようが、関係なかった。彼女たちは泥だらけの感情をすべて乗せた『運命の華』を叩きつけてきた。
私は無事に、彼女たちの始まりの目撃者になったわけだ。
ふと、左頬に手をやる。
数日前、多摩川の河川敷で彼女に思い切り張られたビンタの跡は、とうに赤みは引いているはずなのに、まだジンジンと痛むような気がした。
『忘れるなんて、絶対に許さない!』
私の記憶喪失を知り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら彼女が放った、渾身の一撃。あの痛みが、私の中に残る唯一の「彼女との繋がり」だった。
綺麗にリセットして、ただの都合のいいファンとして生きることは許されなかった。私は、彼女にとって最もムカつく兄として、そして一番厄介で熱心なファンとして、この痛みと共に生きていくしかないのだ。
……それもまた、悪くない人生だろう。
私は今、ライブハウスの裏手で彼女たちの帰りを待っている。
私の現在の肩書きは、大学生でも、ただのファンでもなく、トゲナシトゲアリの「非公式マネージャー(兼運転手兼雑用係)」である。
この奇妙な立ち位置を提案したのは、誰あろうルパさんだった。
多摩川での決戦の後、私が彼女たちの機材車の手配や、法的な契約書のチェックなどを(勝手に)手伝っていたところ、ルパさんがにこやかに「せっかく免許もお持ちで、分析力もあるのですから、私たちのマネージャーをやっていただけませんか?」と言い出したのだ。
当然、仁菜さんは思いっきり険しい顔をして「絶対に嫌だ!」と猛反発した。しかし、ルパさんが持ち前の圧倒的な笑顔と圧力を見せつけ、最終的には「……私の一番近くで、私の歌が世界一になるのを見せつけてやるためだから」という、よくわからない理屈をつけて渋々と納得していた。
不器用な妹なりの、それが精一杯の「許容」なのだと分かっているから、私はこのワンボックスカーの運転席を自分の居場所として受け入れた。
そんなことを考えながら、雨に煙る夜景を眺めていると、コンコン、と運転席の窓ガラスが叩かれた。
ハッとして顔を向けると、雨よけの軒下に、ギターケースを背負った桃香さんが立っていた。その後ろには、すばるさん、智さん、ルパさん、そして……少しだけ目を逸らして不満げな顔をしている仁菜の四人が並んでいる。
私は急いでロックを解除し、自動ドアのボタンを押した。
ウィーンという音と共にドアが開き、湿った外気と一緒に、ライブを終えたばかりの彼女たちの圧倒的な「熱」が車内へと流れ込んでくる。
「よぉ、マネージャー。お待たせ。……どうだった、今日のライブ」
髪から滴る雨水もそのままに、桃香さんがニヤリと挑戦的な笑みを浮かべて問いかけてきた。後部座席に次々と乗り込んでいくメンバーたちも、私の言葉を待っているのがわかる。
私は、ハンドルに置いた手を少しだけ握り直し、フロントミラー越しに彼女たちを見た。そして、一切の小細工も、ファンとしての取り繕いも捨てて、心の底から出た本音を口にした。
「……ええ。最高でした」
薄く笑って答えた私に、四人は「当然だ」と言わんばかりに、満足げにニヤリと口角を上げた。桃香さんが「だろ?」と鼻を鳴らし、すばるさんが「やったー!」と無邪気に喜ぶ。
ただ一人、仁菜さんだけが「フン」と口をへの字に曲げてそっぽを向いていた。
荷物を詰め込み、わちゃわちゃと席を陣取っていく後部座席。しかし、ここで一つの問題が発生した。
五人乗るには十分な広さの車だが、後部のスペースは機材でかなり埋まっており、必然的に誰か一人が助手席――つまり、私の隣に座らなければならないのだ。
「ちょ、ちょっと! なんで私が助手席なんですか!」
外に取り残された仁菜が、後部座席にぎゅうぎゅうに収まった四人に向かって抗議の声を上げた。
「座席は早いもん勝ちだろ。お前がボヤボヤしてるから悪い」
桃香さんが一番奥でふんぞり返りながら言う。
「そうですね。機材の配置上、これが最も合理的かと」
ルパさんが涼しい顔で同意する。
「ニーナの負けー!」
すばるちゃんが窓から顔を出してからかう。
「すばるちゃんは黙ってて!」
仁菜が顔を真っ赤にして怒鳴り返すが、智さんがやれやれとため息をついた。
「……バカみたい。さっさと座りなさいよ、風邪引くわよ」
四対一。完全に分が悪い。
私はポリポリと気まずさをごまかすように首を掻きながら、その様子を見守っていた。
仁菜は、怒り、恥ずかしさ、悔しさ、そして諦めが入り混じった見事な百面相を繰り広げていたが、誰も自分に席を譲る気がないと悟ると、バンッ!と親の仇のように強く助手席のドアを開けた。
「……っもう!」
ドカッと音を立てて、私の隣のシートに乱暴に腰を下ろす。。
彼女は腕を組み、私の方を一切見ようとせず、窓の外の雨を睨みつけている。その横顔は、かつての写真で見たような世界を呪う目ではなく、どこか年相応の、ただいじけているだけの可愛らしいものに見えた。
「……シートベルト、したか?」
「……うるさいな。今からやる」
仁菜さんは不貞腐れた声で返し、乱暴にシートベルトを引き出して、カチャリと音を立てて金具を差し込んだ。その不器用な手つきが、なぜか少しだけ昔の不格好なお守りを作っていた小さな手と重なって見えた。
「じゃ、出発します」
私はウインカーを出し、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
ワンボックスカーは、冷たい雨の降る川崎の街へと滑り出していく。
後部座席からは、今日のライブの反省や、桃香さんとすばるさんのくだらない言い争い、智さんの鋭いツッコミ、ルパさんの穏やかな笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
助手席の仁菜さんは相変わらず黙り込んだままだが、その肩の力は少しだけ抜けて、窓ガラスに映る顔はほんの少しだけ口角が上がっているように見えた。
**
そうして、いくつもの月日を重ねた。
あの泥だらけの対バンライブから、一年くらいは経ったはずだ。私は大学院生になり、仁菜は十八歳になった。
彼女たちのバンドは、セルフでの全国ライブハウスツアーを強行したと思えば、仁菜が高卒認定試験を取るだのなんだのと言い出して一悶着あったりと、相変わらず騒がしい日々を送っていた。まあ、そのあたりの細かいことは置いておいて、私たちはそれなりに濃密な時間を共に過ごしてきた。
今、私は、熊本の実家に向かっている。
東京から熊本へと向かう新幹線の車窓は、見慣れたコンクリートの景色から、徐々に緑深く長閑な風景へとその姿を変えていった。
私のスマートフォンには、涼音さんからのLINEのトーク画面が開きっぱなしになっている。以前のような事務的でよそよそしいものではなく、家族としての距離の近さを感じさせる緑色の吹き出し。
そこには『今週末、みんな揃ってるから。顔、出しなさい』とだけ、短いメッセージが記されていた。
やっと、私は彼女たちから「家族」の輪の端っこに触れることを許されたのだろうか。その事実が嬉しくもあり、同時に、あの重苦しい実家の敷居を跨ぐことへの微かな緊張が、胃の腑をちりちりと焼いていた。
すっかり日が落ちて、夜の冷気が肌を刺す熊本の住宅街。意を決して、見覚えのある実家の重たい玄関の扉を開けた。廊下は薄暗かったが、その奥にあるリビングの扉の隙間からは、オレンジ色の暖かな照明の光が溢れ出していた。
そして、鼻腔をツンと突く、スパイスと和辛子の入り混じった強烈な匂い。熊本名物を無理やり家庭料理にアレンジしたような、お母さんの特製「辛子蓮根カレー」の香りだ。どこか不器用で、けれどひどく懐かしいその匂いが、私の強張っていた肩の力をふっと抜いてくれた。
そっとリビングの扉を開けると、そこにはお父さんとお母さん、涼音さん、そして先に東京から戻ってきていた仁菜の姿があった。
「宗一郎、おかえりなさい」
エプロン姿のお母さんが、少しだけ目を潤ませたような安堵の笑みを浮かべて出迎えてくれる。その声の響きに、過去の私がどれほど冷たい態度でこの人を傷つけてきたかを思い出し、胸がチクリと痛んだ。
「……ただいま」
私がぎこちなく頭を下げると、テーブルで頬杖をついていた仁菜が、あからさまに不機嫌そうな、けれどどこか照れ隠しのような声を出した。
「ちょっと、早く手、洗ってきなよ。お兄ちゃんが席につかないと、カレー冷めちゃうじゃん。ご飯食べられないでしょ」
「あ、ああ、ごめん……すぐ洗ってくる」
彼女の口調は相変わらず棘だらけだが、そこにはかつてのような絶対零度の拒絶はない。私は、得も言われぬくすぐったさと困惑を抱えながら、そそくさと洗面所へと向かった。
冷たい水で手を洗い、鏡を見る。
そこには、過去の井芹宗一郎という『僕』がいて、転生者としての『私』がいた。ふたつの人間が混ざり合い、なんだか奇妙な感覚で、まだ完全に慣れたとは言い切れない。けれど、鏡の中の男は、かつてのような氷のように冷たい目つきはしていなかった。
手を拭いてリビングに戻ると、テーブルの上座に座っていたお父さんと、真っ直ぐに目が合った。
教育者として厳格に生き、家族を型にはめようとしていた父。そして、その期待を完璧にこなしながら、内心では彼を冷淡に見下していたかつての私。
二人の間には、普通の親子が交わすような温かい記憶のストックが、決定的に欠如していた。
「お父さん」
私が静かに呼びかけると、お父さんは手元の新聞から目を離し、少しだけ姿勢を正した。その顔に刻まれたシワが、私の知っている記憶の中よりも少しだけ深く、老いて見えた。
「ああ、宗一郎」
「……ただいま」
「お帰り。……大学のほうは、どうだ」
お父さんの口から出たのは、やはり学業の探りだった。かつての私なら「問題ありません」とだけ冷たく切り捨てて、自室にこもっていただろう。お父さんにとって、私と繋がるための唯一の共通言語が『教育』と『成績』しかなかったのだと、今の私には理解できた。不器用なのだ、この人も、私も。
「ああ、悪くないよ。院の研究も刺激が多くてさ。それに……」
『僕』は、まっすぐにお父さんの目を見返した。
「行かせてくれて、感謝してる。東京で色んな人に出会えて、自分を見つめ直すことができた。ありがとう」
「感謝」という言葉に、お父さんはわずかに目を見開いて、何かを言い淀むように口元を震わせた後、深く、静かに頷いた。
「……そうか」
「ああ」
私とお父さんの間に、静かな沈黙が降りる。
しかし、それはかつてこの家を支配していた、息の詰まるような冷たい沈黙ではない。お互いがどう距離を測ればいいのかわからず、それでも確かな歩み寄りを模索している、ぎこちなくも温かい空白だった。
キッチンに立つお母さんと、テーブルに座る涼音さんは、私たちのその不器用なやり取りを、まるで壊れ物を愛でるような優しい笑顔で見守っている。
しかし、うちの気性の荒い末っ子は、その感動的な沈黙の余韻に付き合ってくれるほど気の長い性格ではなかった。
「ほら、お兄ちゃん! 突っ立ってないで早く座ってよ。ここ、私の隣でしょ。これじゃ本当にご飯食べられないじゃん!」
仁菜が、自分の隣の空いた椅子をバンバンと叩く。あんなに見下し、憎み合っていた彼女が、自分から私の居場所を指定してくれている。その事実が、私の目頭を不意に熱くさせた。
「ああ、ごめん。今座るよ」
私が椅子を引き、仁菜と肩が触れそうな距離に腰を下ろすと、テーブルの上に人数分の辛子蓮根カレーが並べられた。湯気とともに立ち上るスパイスの香りが、家族全員の顔を優しく照らしている。
「じゃ、食べようか」
向かいに座る涼音さんが、クスッと笑って私の方を見た。それは間違いなく、「あなたが号令をかけなさい」という長女からの合図だった。かつて家族の輪から自ら外れ、孤高を気取っていたこの私に、家族の中心としての役割を委ねてくれているのだ。
私は、この信じられないほどの暖かさに困惑しながらも、自分に向けられる四つの視線を、心地よい毛布のように感じていた。院で目覚めてからの苦労が全て吹き飛んでしまうような、そんな気分になった。
『僕』は今、間違いなくこの不格好で愛おしい家族の、長男なのだ。
私は、上手く動くようになった頬を緩め、テーブルの上の家族をゆっくりと見渡した。
そして、腹の底から湧き上がるような、確かな実感を持って口を開いた。
「うん。じゃあ……いただきます」
ここまで読んでくださった読者の方への感謝いたします、ありがとうございました。
後書きは活動報告の方にします。