突然、病院から電話がかかってきた。
曰く、「井芹宗一郎が階段から足を踏み外して頭を打って入院中」らしい。
私は思わず頭を抱えた。
なんてことをしてくれたんだ。この不安定な時期に。ただでさえ仁菜の問題で手一杯だというのに、親に迷惑をかけないことだけが取り柄じゃなかったの? 宗一郎。
そもそも、なぜ私のスマホに電話がかかってきたのか。どうやらあの子、緊急連絡先を私に設定していたらしい。……確かに、宗一郎も両親との関係性は微妙だ。だからって私に回さないでほしい。疲れるから。
だが、これはある意味で考えればよかったかもしれない。
今の両親にこれが伝わってしまったら、きっと慌てて東京に行ってしまうだろう。そうなれば、その足で仁菜と接触してしまうかもしれないからだ。
「私が行くしかない、か」
仁菜のことも心配だし、というか私の当面の心配はそこだ。宗一郎は頭を打ったくらいで死にはしないだろう。あのサイボーグ人間が。
つい面会に行くと言ってしまったが、まあそれは仕方ない。親の介入を防ぐための防波堤だと思えば安いものだ。
さて、東京に行くために新幹線を買わなきゃだなー。
スマホで料金を検索して、思わず声が漏れた。
「……うげ、たかー」
私は眉間の皺を揉みながら、深いため息をついた。
「婚期、逃げそうだなぁ……」
悲しい独り言が部屋に響く。
仁菜がいなくなった部屋はやけに寂しい。ふと、宗一郎が家を出た時はどんな感じだったっけ、と記憶を探ってみる。
しばらく考えても思い出せなかった。きっと、ろくに顔を合わせることもなく、業務連絡のように出ていったのだろう。そうに違いない。私は勉強机に大体備え付けられている椅子から立ち上がった。気分は乗らなかった。
*
私の家系は遺伝子的に不器用である。十中八九お父さんが原因だと思う。お母さんは良くも悪くもお母さんって感じだし、絶対的君主として我が家に鎮座しているあの堅物様の影響がほとんどだ。
家訓に、家族揃ってのご飯、家族会議。同年代の友達と喋ると絶対にいじられる。だから自分の家が普通じゃないって気がついたのは早くて、でもそれに対してどうにかしようと思ったことはない。
だってそのうち家からは出ていくことになるし、家から出た人生の方が長い。それに人は完璧にはできていないから、親が親としての役割を果たすとき、それが子供にとって最善であるかどうかなんてわからない。
誰もが手探りで進んでいるのだ。だから、まあ、ある意味期待してないとも言えるのかも。
私は新幹線に乗りながらそんなふうに考える。博多で乗り換えて東京に向かう中で、私は家族について考える。
お父さんと仁菜は似ている。不器用で、お互いを想っているのにそれをうまく伝えることができない。仁菜のお父さんに対する態度は、思春期の女の子あるあるの反抗期とはまた違う。
それは期待の裏返しだろうな。私はそんな不器用さが好きだ。だから私は期待とかじゃない、好きなのだ。家族が。
そう思うたびに、脳裡には、私の弟の顔が思い浮かぶ。宗一郎だ。
あいつを思い出す時に必ず付随してくるものは、全てを見下したような冷淡な目と、地を這うような声だった。
いつからそうなったのかはわからない。ただ、中学受験をし始めた時期からだっただろうか。お父さんはその道では有名な教育者であり、最近は本まで出版している。その火付け役になったのが多分宗一郎だったんだろうな。
宗一郎は口数の少ない子だった、しかし少なくとも幼少期までは人を下に見るようなやつではなかった。中学高校と、家にいる時間が少なくなってからだろうか、宗一郎は次第に私や仁菜をいないものとして扱い出した。
両親に対しても、必要以上のコミュニケーションを取ることがなくなった。
「宗一郎、学校はどう?」
「……どうって?何を答えればいい?成績ならそこの紙に書いてあるとおり」
「そ、そう。友達とかはできたの?」
「……」
お母さんのコミュニケーションも不発だ。私はそれを居心地悪く聞いていた。反抗期にしろ、もっといいやり方があるだろうと思いながら聞いていた。
「おい、宗一郎。無視か」
「……問題ありません、何も。もう寝ます」
「宗一郎!」
お父さんも、宗一郎との距離感は計りかねていたような感じがある。息子の態度は最悪とは言えないが、それなりに悪い方に向かっている。しかしお父さんの立場を支えているのは間違いなく宗一郎の存在だった。
仁菜と私を同部屋にして、宗一郎には一人部屋を割り当てていたことからもわかる。と言っても私たちも一緒の部屋にされていたら困ったけど。
「お兄ちゃん、どうしちゃったのかな…」
私たちの部屋で、眠りにつこうとするその直前に仁菜はつぶやいた。その声には不安が多分に含まれている。
「反抗期でしょ、ただの。気にすることないわ、どうせすぐ元通りになる」
「ほんとかな、何か悩みとかあるんじゃ……」
「あいつに?私らの中じゃ一番悩みなさそうでしょ。仁菜の方が心配なんだけど」
「う……、でも」
「早く寝なさいよ、明日に響く。お肌の調子ただでさえ悪いのに」
私はそう言って眠りについた。その後、小学生の仁菜が宗一郎のために渡したお守りを作ってあげたようだった。結果的にそれがどうなったかは私はもう思い出したくない。泣いている仁菜を慰めたのは一回だけではないが、あれほど心を痛めたことはない。私はもはや宗一郎は手の施しようがないと思った
「宗一郎、あんた本気?」
「…何が?」
「もういい、あなたはそうしてればいい。ずっと一人で閉じこもってなさい、死ぬまで」
「それだけ? じゃ、勉強の邪魔だから出て行ってくれん?」
私は無言で部屋を出て、乱暴にドアを閉めた。バタンという乾いた音が、私たち姉弟の間に引かれた決定的な境界線のように響いた。少し言い過ぎたと思ったが、これくらい言わなければ気が済まなかった。
私はこれみよがしにその手作りのお守りをカバンにつけていた。せめてもの抵抗だった。
期待をすることは虚しい、もう何も考えずに三人で笑い合うことはできない。
——「まもなく、品川、品川です」
車内アナウンスにハッとして、私は窓の外へ目を向けた。いつの間にか外は、灰色のビル群が立ち並ぶ東京の景色に変わっていた。
小さく息を吐き、重い体を座席から起こす。
階段からの転落事故。病院からの電話を受けた時、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
死ぬほど嫌いになったが、死んでほしかったわけじゃない。命に別状はないと聞いて、座り込むほど安堵したのも事実だ。家族というものは、本当に厄介にできている。
けれど、東京の病院へと向かう私の足取りは、ひどく重かった。
病室の前に立ち、私は一度だけ深く深呼吸をした。
目を覚ました彼は、一体どんな顔で私を見るだろうか。「わざわざ熊本からご苦労なこった」と鼻で笑うだろうか。それとも「見舞いなんて非合理だ」と追い返してくるだろうか。
どんな毒を吐かれても耐えられるよう、心の準備をして、ためらいがちにノックをしてドアを開けた。
病室のドアを開けた先に、真っ白な空間の中央に、宗一郎は座っていた。春風が窓から入り込んできて私の頬を撫でる。そこには心地よさはなく、ただただ不快だった。
目の前にいるのは確かに宗一郎に違いない。しかし以前は冷たい侮蔑が混ざっていた目にはなんの感情もこもっていない。何か奇妙な感じがした。
『……やぁ、姉さん』
「そう、いちろう? 宗一郎なの?」
「姉さん」、宗一郎が私のことをそう呼んだのはいつぶりだろうか。もはや思い出せないほど遠い過去のように思われた。というより言われたことがないのではなかろうか。そして声色も少し違う。前のような低く底冷えするような声ではない。それは、機械が人間の真似をしているような気持ち悪さを感じさせた。
私は目の前の人物が宗一郎であるということに確信が持てなかった。
『……他にどう見える?』
しかし、この声は昔の宗一郎そっくりで、私は不安が確信へと変わった。こいつは間違いなく宗一郎だと。
「ああ、そうね。ごめんちょっと疲れてて」
私は正直にそのように告げる。仁菜の状況を事細かに伝えてもこいつには意味がないだろうし、何より何か変な行動をとられても困る。宗一郎だと確信したはいいものの何か、不吉な予感がした。
私がそんなふうにまごついていると、宗一郎が口を開いた。
『僕のことなんか心配してる暇あるなら、仁菜のことを心配したら?』
「……え? 今なんて?」
『仁菜を心配したらって』
『大変な状態なんだろう?あいつは』
そう言って、宗一郎は顔を歪ませた。笑って、いる?歪だがあれは確かに笑顔だ。私は宗一郎が笑っていた場面を記憶から引っ張り出す。あいつが笑っていたのは、確か「優秀」だとか「天才」だとか言われていた時だけだ。父親と一緒にいる時に、よく言われていた。だがその笑みは、誇らしいとか嬉しいとかそういうものからくるものではなかった。あれは、明らかな冷笑だった。
「なんで、仁菜のこと」
『メールに書いてあっただろ?』
そうだ、私は確かに仁菜のことをメールで言及した。でも、それは本当にわずかな情報だったはずだ。もしかしたら私の知らないところでお母さんが宗一郎に知らせた可能性もある。余計なことを、と思ったがお母さんのことを責めることはできなかった。
起きたことよりも、これから起こることの対策をしなければいけない。宗一郎がなんの意図もなく仁菜の心配をするはずがない。
「一体、どういうつもり?」
『どうもこうもない。言葉通りの意味だ』
言葉通り、って?心配してる?こいつが?いや、そんなはずはない……。忘れたはずがない、あの日々を。まさか記憶喪失で全てを忘れている?いや、それにしては宗一郎のまんますぎるし、何より隠す意図がわからない。あいつからしたら隠すメリットなど何もないからだ。私が思考の波の中に沈みかけていたその時、宗一郎の声がそれを引き裂いた。
『姉さん』
「な、何っ!?」
つい大きな声をあげてしまった。
ビクッと肩が跳ねる。見上げた宗一郎の目は、やはりひどく暗く、温度がなかった。
『僕のことについて姉さんが何か考える必要はない、父さんと母さんにもそう言っておいてくれ』
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
何か予想もつかないようなことが起きようとしている感覚。
「何も、するな……? ねえ、宗一郎。あなたが何を考えてるかはわからない。でも、お願いだから、仁菜をあまり刺激しないで」
これ以上、あの子を傷つけないで。せめて私からのお願いの形をとって、私は防波堤になろうとした。しかし、返ってきたのは、身の毛のよだつような穏やかな肯定だった。
『わかってる。姉さんも気をつけて』
気をつけて。何を?これ以上かかわるなということ?気遣うようなセリフと、醸し出す雰囲気のミスマッチに嫌悪の感情ではなく、別の感情が渦巻く。
「……っ、これ、りんご。自分で剥いて食べなさい」
震える手で、サイドテーブルに紙袋を押し付ける。こんな不格好な家族の真似事なんて、何の意味もないとわかっているのに。
『ありがとう』
「…じゃあ、私はいくから」
『ああ、じゃあまた。体に気をつけて』
私は後ろの方で何か言っている宗一郎から逃げるように、病室を後にした。振り返ることはなかった。そのままの足で仁菜の住んでいるアパートに向かったのだった。
川崎の端、多摩川を越えればすぐ東京という立地。アパートの部屋の前で、私はじっと妹の帰りを待っていた。
あの不気味な病室を逃げるように後にしてから、ずっと胸の奥がざわついている。
宗一郎はまだ病院のベッドの上にいるはずだ。物理的に彼が今すぐここへ現れることはない。頭ではそう理解しているのに、あの男が這い寄ってくるような正体不明の不安を持て余し、私はただヤキモキと時間を潰すしかなかった。
やがて、見慣れた小柄な影が歩いてくるのが見えた。
「――お姉ちゃん!? 何でいるの!?」
私を見つけるなり、仁菜は目を丸くして大声を上げた。
「心配だからに決まってるじゃない」
努めて冷静な姉の顔を作って応じ、私は半ば強引に彼女の部屋へと上がり込んだ。
部屋の中は、予想に反してしっかりと整頓されていた。家を飛び出していった時の危うさを思えば、まともな生活を送れていることに少しだけ安堵する。
天井で無惨にバキバキに割れているシーリングライトを指差しながら、世間話をした。宗一郎と話しているときの何倍も気の休まる時間だった。自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
「バンドやるの? あなたが?」
「……うん」
「へぇ、何歌うの?演歌?」
「バンドって言ってるじゃん!ロックだよロック!」
「ごめん、ごめん。でも予備校はちゃんと行ってるの?約束、忘れたわけじゃないわよね」
「わかってるってば」
仁菜は頬を膨らませる。私はそんな仁菜を見て笑う。
「で?なんでこっち来たの?……お父さん?」
私は本当のことを言おうか言わないか迷ったが、言わないことにした。きっと動揺させるだろうと思ったからだ。あいつが仁菜に残した傷は深い。
「ま、そんな感じ。予備校の手続きとか、荷解きとかちゃんとできてるかどうか見に来たの」
「別にそれくらい一人でできるから。子供じゃないし」
「子供でしょ、誰がアパートのお金出してるの?」
「う、それは……」
バツが悪そうに目を逸らす仁菜に私はため息をつく。
「ま、いいわ。改めて足りなかったものとかあるでしょ。買い物行くから服着替えなさい」
「わかった!」
弾んだ声でクローゼットへ向かう妹の背中を見つめながら、私はいくらか憂鬱な気分が晴れていった。そして同時に、この子を大切にしなければとも思った。
次回宗一郎視点。中間管理職涼音の苦労は続く。