退院の日。私はナースステーションで返却された自分のショルダーバッグの中身を必死に漁っていた。血眼になって、そう、文字通り。
というのも、現状私は住む場所も何も覚えていないのだ。東京の地理についてはなんとなく知っているが、井芹宗一郎のパーソナルな情報は綺麗さっぱり消え去っている。
記憶喪失を自称している手前、わざわざ熊本に帰った姉さんに「僕の家どこだっけ?」と電話で聞くのは不自然極まりないし、何より無用な心配をかけたくない。私という男は、なんと出来た弟なのだろう。しかしちょっと後悔。
幸い、無機質な黒い革財布の中に入っていた運転免許証が、私を導く羅針盤となってくれた。
「東京都世田谷区北沢……下北沢か」
思わず呟く。前世でも行ったことがある。免許証の住所欄を見る限り、既に住民票も移しているらしい。熊本の実家へ帰る退路を物理的にも絶っているあたり、彼の並々ならぬ独立心が窺える。まあ、確かに一度東京に出てしまえば、九州に頻繁に帰ることもないだろう。
私は無事に退院手続きを済ませ、小田急線の揺れに身を任せながら、最大のミッションに取り掛かった。
そう、妹井芹仁菜の動向確認である。
世間一般ではこれをストーカーと呼ぶのかもしれない。だが断じて違う。これは私の目標達成に必要な情報収集のプロセスである。そう、井芹仁菜さんの家族との和解の手助けと、おそらく関係性があまり良くないであろう私自身の印象改善である。
涼音さんとは異なり、現状私には仁菜さんと連絡を取り合う手段がないということは、宗男さんまでとはいかなくても、私とも折り合いが悪いはず。異性の兄妹、そしてそれなりの偏差値帯の大学という立場であり、宗男さんからの信頼も宗一郎は厚かったのではないだろうか。
せっかく仁菜さんの兄というポジションにいるのだ、なんとかかんとか、その幸せをまっすぐに享受したい。
涼音さんにも言われたので、まずは影から見守るあしながおじさんを目指してみよう。
手元のスマートフォンを顔の前に掲げる。さて、まずはSNSだ。現代の神託はすべてここから得られる。……が、画面をスワイプして、私は目を疑った。
「冗談だろ……」
無い。エック◯(旧Tw◯tter)も、Insta◯ramも、Tik◯okはおろか、若者が入れそうなアプリが一切インストールされていない。画面にあるのは、ニュース、株価、スケジュール帳、そして大学のポータルアプリのみ。どうやって現代社会を生きているんだ、こいつは。
仕方ない、1からアカウントを作るしかない。私はため息をつきながらアプリをダウンロードした。
メールアドレスの入力で一瞬詰まったが、メモ帳アプリの奥底に、パスワード管理ツールが軍隊の如き整然さで並んでいるのを発見した。ありがとう、過去の宗一郎。
無機質な英数字の羅列で構成された捨てアドレスを使い、アイコンも初期設定のまま、プロフィールも空白。フォローもフォロワーもゼロの完全な『観測用アカウント』が完成した。
傍から見れば、特定個人の監視目的で作られた業者のスパムアカウントか、ヒットマンの端末にしか見えないだろう。だが、私にとってはこれが推しを応援するためのVIPチケットだ。
早速、検索窓に打ち込む。
『新川崎(仮)』
『トゲナシトゲアリ』
『井芹仁菜』
結果は……ヒットゼロ。
思わずガッツポーズが出そうになるのを、周囲の目を気にして必死に堪えた。まだだ。彼女たちはまだ、あの伝説のスタートを切っていない。最初のライブは、確かラゾーナ川崎プラザのルーファ広場だったはずだ。前世では関東近郊にいたおかげで、土地勘はそれなりにある。
問題は、それがいったい「いつ」なのか、全くわかっていないことだ。しかし、SNSに一切の痕跡がない以上、まだ終わっていない可能性に全額ベットしていいだろう。
電車内のアナウンスが目的地についたことを知らせる。私は気持ちが昂っていることに気がついて、笑みを浮かべた。目の前の学生がドアの前に陣取っていたが、私の顔を見た瞬間すぐに退いた。気分がいいとこんな小さな親切にも幸せな気持ちになる。私はそっと会釈した。
そして下北沢の駅から徒歩十分。閑静な住宅街にある単身用アパートの二階角部屋。そこが、今の私の城だった。
ドアの鍵を開け、中へ入った瞬間、私は言葉を失った。
「……なんだ、これ」
部屋が汚いわけではない。むしろ、異常なまでに整然としていた。埃一つ落ちていないフローリング。だが、何より驚愕すべきは、その圧倒的なまでの『生活感の欠如』だった。
ベッドと簡素なデスク、そして本棚。本棚には大学の専門書が背表紙の高さまで揃えられてきっちりと収まっているが、娯楽の類は一切ない。壁にポスターの一つも貼られていなければ、観葉植物もない。
まるで、人間が住むための部屋というより、一時的な仮眠所か、刑務所の独房のようだった。
恐る恐るクローゼットを開けてみる。
そこには、ハンガーに掛けられた数着の服が、等間隔で並んでいた。
カッターシャツのみ。色は白、黒、そして淡いブルー。どれもシワ一つなくアイロンが掛けられている。下には、黒のスラックスが三着。以上だ。
「……マジかよ」この種類の驚きは本日二回目。
Tシャツも、ジーンズも、パーカーもない。休日はどうやって過ごしているんだ、この男は? 一年中、この銀行員のようなスタイルで下北沢を歩いているというのか?
洗面所へ向かってみる。歯ブラシ、歯磨き粉、石鹸、そして無機質な化粧水が一つ。整髪料はおろか、ドライヤーすら見当たらない。
洗面台の鏡に映る自分を見る。
元々少し癖のある髪質だとは思っていたが、退院直後ということもあり、全くセットされていない髪は、重たく鬱陶しい印象を与えていた。冷たい瞳と相まって、どことなく近寄りがたい、陰気な雰囲気を醸し出している。
「これじゃダメだ。完全に怪しい奴じゃないか」
私の最優先事項は、仁菜さんを見守り、美味しいポジションにつくことである。
こんな隙のない、それでいて底知れない薄気味悪さを漂わせた格好でライブハウスになんて行ったら、それこそ一発で「ヤバい奴」認定されてしまう。何より、仁菜さんに正体がバレるリスクを極限まで減らさなければならない。兄妹である以上、些細なことで気づかれる。せめて、外見の印象だけは『かつての井芹宗一郎』から大きくかけ離れたものにする必要がある。
「よし、まずは身だしなみだ」
私は気合を入れ直し、スマホのメモ帳アプリを再度開いた。
まずは資金調達だ。銀行口座の情報を確認する。
そこには、地方出身者の心強い味方、「ゆう◯銀行」の口座番号と暗証番号が、他のパスワード類と同じく几帳面に記録されていた。
引き出しを開けると、通帳とキャッシュカードがすぐに見つかった。本当に良かった。もしこの記憶喪失(という名の憑依)状態で、現金を引き出せなかったら、初日からゲームオーバーだった。
通帳の記帳履歴を見ると、毎月決まった額の入金がある。両親からの仕送りだろうか。いや、それとは別に、『〇〇ゼミナール』という名目での入金履歴もあった。どうやら塾講師のアルバイトをしているらしい。
なるほど、だが、塾講師……。これは後でシフトや担当生徒の状況を把握しておかなければならない。最悪、記憶喪失を理由に辞めるか、休職するしかないだろう。だがなるべく収入源は途切れさせたくない。
私は財布とスマホだけをポケットに突っ込み、下北沢の街へ繰り出した。
目指すは、誰もが知る国民的ファストファッションブランド、ユニ◯ロだ。さすがサブカルの街下北、しっかり網羅しているな。
休日の下北沢は、古着屋巡りをする若者たちでごった返していた。そんな中を、白のカッターシャツに黒のスラックスという、明らかに浮いた格好で早歩きする私。
店内に入ると、私は手当たり次第にカジュアルな服をカゴに放り込んでいった。
無地の白Tシャツ、ゆったりとしたシルエットのパーカーなどなど。完全に私の好みである。まあこれでいいか。
服を買い終えると、次は薬局だ。ドライヤー、ワックス、ヘアスプレー、そして洗顔料。これでようやく、現代の若者らしい身だしなみを整えることができる。
家に帰り、買ってきたばかりの服のタグを切り、早速風呂場へ向かった。
シャワーを浴び、買ってきたばかりのドライヤーで髪を乾かす。
癖毛を活かしつつ、ワックスで軽く動きをつけてみる。前髪を分けて左右に流す。ああ、清潔感があって爽やかだ。
そういえば、洗面所の引き出しの奥に、埃を被ったコンタクトレンズの箱があったのを思い出した。度数を確認すると、今の私の視力に合っているようだ。
なぜ買ってから一度も使っていないのかは謎だが、好都合だ。眼鏡を外し、コンタクトを入れる。
最後に、買ってきたばかりの白Tシャツにネイビーのパーカーを羽織り、デニムを履く。
そして、改めて洗面台の鏡の前に立った。
「……うん、悪くない」
鏡の中にいたのは、どこにでもいる、無害そうな大学生だった。目つきが厳しいが頑張ればどうにかなる。
あの、冷酷で隙のない「井芹宗一郎」の面影は、ぱっと見ではわからないレベルにまで薄れている。これなら、ライブハウスの最後尾でペンライトを振っていても、誰も不審に思わないだろう。
「よし、完璧な変装だ。これで準備は整った」
私は鏡に向かって、満足げに微笑みかけた。
さあ、外見のアップデートは完了した。
次は、社会生活のリカバリーだ。
大学のポータルサイトにログインし、履修登録の状況とシラバスを確認する。そして、学務課へ提出するための『公欠届』のフォーマットをダウンロードし、病院でもらった診断書をスキャンする。
塾のアルバイト先にも連絡を入れなければならない。
宗一郎視点は長い。