井芹仁菜の兄になりました、助けてください   作:占地

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第四話 Again、というよりリブート(宗一郎and桃香視点)(2)

 こうして、新しい肉体での『普通の大学生』としての生活基盤を整えるためのタスクに忙殺されているうちに、あっという間に数日が過ぎ去っていった。生活のインフラ整備という名のタスクに忙殺され、私は危うく地球に帰還する軌道計算を忘れるところだった。いや、例えが少し大げさかもしれないが、私にとってはそれほど重大なミッションをすっぽかす寸前だったのだ。

 

 ふと我に返り、新しくセットアップしたばかりの無機質なスマートフォンで、ラゾーナ川崎プラザ・ルーファ広場のイベントスケジュールを検索する。

 

 画面をスクロールする私の指がピタリと止まった。

 

「……今日じゃん」

 

 しかも平日。時計を見れば、これから向かえばちょうど夕方の出番に間に合う時間帯だった。しかし、私の手元にある大学のシラバスには、この後に出席必須の専門科目が鎮座している。

 

 私は迷わずきる決断をした。当然である。

 

 それに、大学の人間関係については、そこまで悲観する状況でもなかったのが救いだ。

 

 先日、学務課に公欠届を出しに行ったついでに、私が所属しているらしい音楽サークルの部室を覗きに行ったのだ。どうやら私はそこで「学生指揮者」というとんでもない重役を任されていたらしいが、サークルの面々は本当にいい奴らだった。

 

 私がひょっこりと部室に顔を出すと、彼らは一様に顔を青ざめさせ、震える声でこう言ってくれたのだ。

 

『お前……頭、大丈夫か?』

『今のお前の席はない。自分の状況をよく考えろ』

 

 入院中、一件のメッセージすら来ていなかったのは、私が重篤な状態かもしれないと気を遣って、あえて連絡を控えてくれていたのだろう。「頭大丈夫か?」という直球の気遣いには少し照れたが、彼らなりの男同士の不器用な優しさだ。さらに「今の席はない」と、無理に復帰して負担をかけないよう、休養を促してくれたのだ。

 

 おそらく以前の私は、一匹狼気質でストイックな指揮者だったに違いない。カリスマ性ゆえに距離を置かれていたのだろうが、いざという時にはこうして心配してくれる。実に温かいコミュニティじゃないか。

 

 少し休んでいいと言われた言葉に甘え、私は当面休ませてもらうことにした。

 

 小田急線から南武線を乗り継ぎ、JR川崎駅へ降り立つ。

 

 改札を抜けて直結の巨大商業施設、ラゾーナ川崎プラザへと歩を進める。円形の広大なオープンスペースであるルーファ広場には、すでに仮設のステージが組まれており、夕暮れの風が吹き抜けていた。

 

 ネイビーのパーカーを堂々と着て広場の端に陣取った。こういう時、バレるかもとビクビクしてはならない。え、何か?ぐらいの方が良いのである。

 

 そして、ステージを見る。

 

「あー、あー、業務連絡。仁菜が絶対嫌がる衣装の方がいいと思ってさ」

 

 桃香さんの声が響く。ここで私は奇妙な納得感を得る。ああ、現実なんだ、と。

 彼女の声がダイレクトに空気を揺らし、それが私に到達する。なんて幸福なんだろう。

 

「仁菜は、自己矛盾でコンプレックスの塊で……」

 

「うれしくないですっ!」

 

「ニーナ、そろそろ出番だよー!」

 

 桃香さんの仁菜さん評は間違っていない、というかよくこの期間で彼女の本質に近い部分を見通せたものだと感心までする。二人は似たもの同士なんだろうな、となんだかエモーショナルな気分になる。

 

「鬱屈したエネルギーがある。それは、紛れもないロックだ」

 

 井芹仁菜、ロックンロールである。すばるさんがと桃香さんが楽器の音を鳴らし始める。そこに仁菜さんが声を上げながら入ってくる。

 そのままの勢いでマイクの前で叫ぶ。マイクチェックだろうか?とんでもないハウリングで耳がいたい。でもそれは心地の良い痛みだ。

 

 毎回アニメを見るたびに思っていたが、なぜ初ライブで彼女にあのフリフリのメイド服ともアイドル衣装ともつかない服を着せたのだろうか。桃香さんは素晴らしいギタリストだが、性癖についてはお世辞にもまっすぐとは思えない。だがそれがいい。

 

 ステージ正面の、少し距離はあるが全体が見渡せるベストポジションを確保する。

 

 ふと、これを記録に残さなければという使命感に駆られた。スマホのカメラを起動するが、勝手に撮影していいものか迷う。私は隣で足を止めていた会社員風の男性に、軽く会釈をして声をかけた。

 

「すみません。このライブ、動画で撮影しても問題ないかご存知ですか?」

 

 極力、爽やかで丁寧なトーンを意識したつもりだった。しかし、男性は私の顔を見た瞬間、ビクッと肩を震わせ、「あ、はい、たぶん……」とひきつった愛想笑いを浮かべて、足早に数メートル先へ逃げてしまった。

 

 都会の人はシャイだな、と私は思いつつ、ありがたく撮影の準備を進めた。

 

 やがて、ドラムのカウントからギターのノイズ音が広場に響き渡り、演奏が始まった。

 

 桃香さん、すばるさん、そして仁菜の三人編成。

 

 生で聴く彼女たちの音は、鼓膜を直接揺さぶるような圧倒的な熱量を持っていた。ボーカルの荒削りだが突き刺さるような高音、それを支える重厚なギターリフと、正確無比なドラムのビート。

 

 すごい、アニメのまんまじゃないか!

 

 いや、現地の空気の振動が加わっている分、それ以上の完成度だ。私の心拍数は跳ね上がり、気づけば無意識のうちにリズムに合わせて小さく首を振っていた。

 周囲の人々は少しずつ足を止めており、注目する人々もいる。しかし、そうでない人々の方が明らかに多い。ここからだ、ここから始まるのだ、井芹仁菜の物語は。

 

 よし、決めた。

 

 私は今日から、「新川崎(仮)」の非公式SNS担当だ。

 

 現状ただの妹の背中を追う不審者だが、焦らず距離を縮めていく。そのために彼女を陰で支えるものとして働かなければいけない。私はステージ上で必死に歌う妹の姿をスマホのレンズ越しに見つめながら、静かに、しかし熱く決意を固めた。

 

 あ、でも本当に動画撮っていいか不安だから一応桃香さんに聞いておこう。仁菜さんの目につかないように、離れた時にそーっと、だ。

 

 *

 

 ラゾーナ川崎のルーファ広場での初ライブ。客はそんな多くなかったけど、今の私たちに出せる熱は全部ぶつけたつもりだ。

 機材を片付け、一足先に着替え終わったあたしは、すばると仁菜の二人を待っていた。この後、どっか適当な店で飯でも食いに行くか、なんて考えながら、自販機で買った缶コーヒーを開ける。

 

「たくっ、なんで着替えにこんな時間かかるんだ? 汗拭いて服着替えるだけだろ」

 

 あのフリフリの衣装に手こずっているのだろうか。そんな悪態をつきながらスマホを取り出そうとした、その時だった。

 

「すみません。先ほどライブされてた方ですよね」

 

「うぉ、っと……」

 

 背後から不意にかけられた低く落ち着いた声に、私は思わず肩を揺らした。ズシリと背負ったギターのギグバッグが肩に食い込む。

 驚くのもそこそこに振り返ると、そこにはスラリと背の高い男が立っていた。

 

 センターパートに分けた少し長めの髪。ネイビーのパーカーにデニムというラフな格好は、どこにでもいる大学生のようにも見える。顔立ちも整っていて、一見すると中性的で爽やかな印象すら受ける。

 

 だが――その目は、異様だった。

 

 薄暗いガラス玉のように、光も、感情も、何も映っていない。ただひたすらに冷え切った双眸が、瞬き一つせずにあたしを見下ろしていた。

 

 なんだ、こいつ。

 

 背筋をぞわりと冷たいものが這い上がる。本能的な警鐘が鳴り、私は少し気圧されそうになったが、初対面でビビったらバンドマンとしては負けだ。

 

 ヤバい奴に絡まれるのには嫌というほど慣れている。私は努めて不敵な笑みを浮かべ、相手を正面から見据え返した。しかしおよそロックやバンドに興味のなさそうな奴がライブなんて聴きに来るんだな……、なんて思ったが仁菜を思い浮かべてまあそういうこともあるか、と思い直す。

 

「そうですけど、なんですか? バンド間違えてません?」

 

「新川崎(仮)の、ギターの方ですよね」

 

 淡々と、機械のように正確な発音が返ってくる。

 

「そうです。じゃ、間違ってなさそうですね。何か用事ですか? それとも、文句でもつけにきました?」

 

 少しだけ意地悪に威嚇してみる。だが、男の表情は微塵も揺らがなかった。むしろ、口元だけでひどく歪な三日月型の笑みを作ると、静かに首を横に振った。

 

「いいえ。素晴らしい演奏でした。動画を撮ったのですが、ご本人の許可をいただこうかと」

 

「ん? ああ……そういうことですか」

 

 なんだ、ただの熱心なファンか。

 あまりにも堂々とした佇まいと底知れない雰囲気のせいで、てっきりヤクザか怪しい芸能スカウトにでも声をかけられたのかと思った。私は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「まぁ、別にいいですよ。曲自体は上げるつもりでしたし」

 

「そうですか、ありがとうございます。ライブ動画を上げることは?」

 

 男の言葉に、私は少し考え込む。

 自分たちの演奏が広まるのはありがたいが、どこの誰とも分からないアカウントに勝手に上げられるよりは、公式としてコントロールできた方がいい。

 

「んー、それはちょっと……。あ、今送れます? 私らがアップロードしたいって思ってて」

 

「はい。曲の頭からしか撮れていませんが」

 

「……うん、全然大丈夫そう。送ってもらってもいいですか?」

 

 男は無言で頷き、ポケットからスマホを取り出して手慣れた様子で動画のデータを送信してくる。

 受け取ったプレビュー映像は、素人が撮ったとは思えないほどブレがなく、構図も完璧だった。こいつ、微動だにせずにあのライブを録画してたのか。ちょっとキモいな……。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとうございます、わざわざすみません」

 

「いえ、こちらこそ寛大な処置感謝します」

 

 相変わらず、声のトーンはひどく丁寧だ。丁寧すぎるがゆえに、どこか得体の知れない圧迫感があった。

 

「はは、どうも。それにしても、ウチを撮るなんて見る目ありますね」

 

 私が冗談めかして笑いかけると、男はスッと目を細めた。

 その瞬間、あの感情の抜け落ちた冷たい瞳の奥に、何かドロリとした異様な執念のようなものが一瞬だけ垣間見えた気がした。

 

「いえ、今後の活動を期待しています。いい演奏と、そして歌声でした」

 

 男はそれだけ言うと、深く一礼し、踵を返して夜の広場へと消えていった。歌声、そういった時のあいつの目は、何か得体の知れない色が浮かんだ気がした。

 その後ろ姿を見送りながら、私は深く息を吐き出した。

 

 ……なんか、不気味な感じだな。

 

 喋っている内容は極めて紳士的だし、行動も普通のファンそのものだ。だが、あの目の奥にある「本心」は、絶対に言葉通りのものじゃない。もっと何か、ヤバいものを隠し持っている気がしてならない。

 

「……うーん、変なことにならなきゃいいけど」

 

 手元のスマホに保存された高画質のライブ動画を見つめながら、私はポツリと独り言をこぼした。と、同時に遠くから忙しない足音が二つ聞こえてくる。

 

 

 

「よーし桃香さん、ご飯食べ行こ!」

 

「すばるー遅いんだよお前は。制服着るのに何手間取ってんだ」

 

「桃香さん、お待たせしました」

 

「仁菜も……ってなんかご機嫌だな」

 

「えー?そう見えます?」

 

「……ライブ前とはえらい違いだな」

 

「作戦どうりでしょ?桃香さん?」

 

「はっ、まあな」




宗一郎「あー緊張したぁ。仁菜さんが帰ってくる前に終わらせなきゃ意味ないから早めに切り上げたけど、もったいなかったかな。サインでももらえばよかったかも」

桃香「そういえばあいつ、私のことは知らなさそうだったな。そっちの方がいいけど」

次回仁菜視点。原作三話から五話の間くらい。宗一郎はアホです。
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