初めてのライブから何日か経って、ふわふわと宙に浮いていたようなあの高揚感は、ようやく少しずつおさまってきた。空気を震わせた自分の声、指先に残る痺れ、マイクを握りしめた時の熱……それらが今は、確かな重みとなって胸の奥に沈んでいる。
すばるちゃんが急に「バンド辞める」なんて変なこと言い出して、頭の先から冷水を浴びせられたような気になったこともあったけれど。でも、それも話し合ってなんとかなった。家庭の事情は複雑で、誰かを守る嘘もある、んだろう。納得はできないけどそういうものがあるとわかった。だから多分大丈夫、だよね?
そんなこんなで、いまだに私たちのバンド「新川崎(仮)」は、不格好ながらも続いている。
いつものレンタルスタジオでの練習。休憩時間になり、私は少し重たくなった息を吐き出しながら、スタンドにマイクを戻した。そして、ずっと言いたくてうずうずしていたことを切り出す。
「あのね、昨日エゴサしてたら……」
私の言葉に、アンプのツマミをいじっていた桃香さんが、ジロリとこちらを振り返った。
「仁菜、エゴサなんかしても良いことないぞ。無駄に凹むだけだ。それに、私らはそんなに有名じゃないだろ」
「エゴサなんかしてるの? なんか意外かも」
ドラムセットの奥で、タオルで汗を拭いていたすばるちゃんが目を丸くする。
「すばるじゃあるまいし」
「桃香さん、私のことどう思ってるのかなー?」
すばるちゃんは不満げに頬を膨らませてみせたけれど、桃香さんは鼻で笑って肩をすくめた。
「別に? ただ、仁菜よりはお前の方がそういうの気にしてこそこそやりそうだと思ってな」
「まぁ、間違ってはないけどさ」
図星だったのか、すばるちゃんは小さく舌を出してシンバルのネジを弄り始めた。
「ちょっと、聞いてってば!」
話が逸れそうになったので、私は慌ててパンッと手を叩いて二人の注意を引く。
「はいはい、で? 何を見つけたんだよ」
「この前のライブで、私たちのファンができたんですよ! みてください、これ。名指しで褒めてますよ!」
私はポケットからスマホを取り出し、昨日から何度も読み返してすっかり暗記してしまった画面を、二人の目の前に突き出した。
桃香さんとすばるちゃんが、少し呆れたような、でもどこか興味を惹かれたような疑いたっぷりの顔をして、小さな画面を覗き込む。
「『川崎発のスリーピースバンド。作曲のレベルも高く、個々の楽器のレベルも申し分ない』……」
桃香さんが低い声で文章を読み上げる。その顔は、ただの身内贔屓や冷やかしのコメントではない、思いの外まともな音楽評に少し驚いているようだった。
「『ボーカルはややアマチュアを感じさせる不安定な発声。しかしそれを補ってあまりある表現力。この不安定さは武器になりうるため、ファンとしては直さないでおいて欲しいところ』……ねぇ」
「あ、あとはこんなのも書いてあるよ」
すばるちゃんが、スワイプして次の投稿を指差す。
「『生々しさが持ち味のバンド。欲を言えば、ベースやキーボードといった楽器の生の奏者が欲しいところ。しかしこのバンドの良さを消してほしくはないので難しい。良いメンバーを選んで欲しい』……だって。私も同意だなーこれは」
「ご丁寧に、うちの音源のURLにまで誘導してるな……」
桃香さんが感心したように呟く。
その反応を見て、私はえっへんと胸を張った。
「どうですか! やっぱり桃香さんの曲はすごいんですよ! 」
私が鼻息荒く言うと、桃香さんは少し照れくさそうにそっぽを向いて、首の後ろをかいた。
「よく読め。私だけの力じゃないだろ。それに、このファンはどちらかというとお前の声にお熱みたいだぞ」
「え〜? そうですか〜?」
自分でも顔がにやけてしまっているのがわかる。誰かに、それも全く知らない誰かに自分の歌声が「表現力」として肯定されたのだ。あの時の、すべてをぶち撒けるような叫びが届いた。それが嬉しくてたまらなかった。
「なんだこいつ……」
「調子乗っちゃってるね、完全に」
すばるちゃんが面白そうに、シャーンと軽くクラッシュシンバルを叩く。その明るい音が、スタジオに響いた。
「これが噂の承認欲求てやつ?」
「そんなんじゃないよ、すばるちゃん。私は、私の想いが届いたことに感動してるんだよ! まぁ、すばるちゃんみたいな人には、この感動はわからないかもだけど……」
私が首を振りながらそう言うと、すばるちゃんの目がスッと細くなった。
「……ねえ、桃香さん」
「ああ、ちょうどおんなじこと考えてた」
二人の声が重なった瞬間、嫌な予感がして私が後ずさるよりも早く、桃香さんが背後から私の首に腕を回してヘッドロックをかけ、すばるちゃんが正面から私の両頬を容赦なくつねり上げてきた。
「いたたたた! ぼ、暴力反対!」
「調子のんなー! この不器用ボーカルが!」
「浮ついてる暇あんなら、発声練習でもしてろ!」
二人の容赦ない攻撃に、私はジタバタと暴れる。
「ふあんていさが、わだしのぼちあじれすよ!(不安定さが私の持ち味ですよ!)」
「バカ言え! お前のそれはただ安定してないだけだ! 基礎ができて、上手くなればその不安定さも意図的に出せるようになるんだよ!」
「それにニーナはもっと体力つけなよ。これから一回のライブで何曲も歌うんだからね」
「わ、わかったから離して〜!」
私が涙目で桃香さんの腕を軽く叩くと、ようやく二人は手を離してくれた。
私は真っ赤になった頬をさすりながら、ぜえぜえと息を整える。危ない、窒息するところだった。二人とも、手加減というものを知らないんだから酷いよ……。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
「で、でも……」
私は乱れた息を整えながら、スマホの画面に目を落とした。そこに並ぶ整然とした的確な文章。
「どんな人なんでしょうね? 私たち、あれが初めてのライブだったのに。こんな長文で熱く語ってくれるなんて」
「あ、そういえば思い出した。ライブ終わったあと、私に声かけてきたやつがいたんだよ」
あんな印象強かったのに忘れてたな、って言いながら桃香さんが、アンプの上に置いてあったピックを手に取りながら言った。
「へぇ、なんて?」
「『良い演奏でした。動画を撮ったのですが、ご本人の許可をいただこうかと』ってな。やけに礼儀正しいやつだったよ」
「どんな人だったんですか? バンドマン?」
私が興味津々で身を乗り出すと、桃香さんは少し思い出すように眉をひそめた。
「うーん、およそロックなんか聴きそうにないやつだったな。身長高くて、まあ、なんか不思議なやつだったかな」
「不思議って?男、それとも女の人?」
「男だったな」
「かっこよかった?」
すばるちゃんが面白そうに横槍を入れる。
「あ? まあ、暗いやつぽかったけど、それなりに顔は整ってたんじゃないか?」
「へぇー、桃香さんの好みかー」
「それなりっていっただけでなんでそうなるんだよ! だいたい、私はあんな顔色悪そうな弱々しいのはタイプじゃねえ!」
桃香さんが顔を赤くしてムキになる。その反応が面白くて、私とすばるちゃんは顔を見合わせてニヤニヤ笑った。
「桃香さんの好みってどんな感じなんですか? やっぱりゴリゴリのロッカー?」
私はニコニコしながら問いかける。ちょっといじってやろうといういたずら心半分、本当に気になるが半分。
「……時間の無駄だ。さっさと練習するぞ」
桃香さんはあからさまに話を逸らし、ギターを抱え直してシールドをアンプに繋いだ。
「あ、逃げた」
「逃げましたね? 桃香さん、私のこと彼氏いないってバカにしたくせに、自分は都合が悪くなると逃げるんですか!」
「逃げてねえ! さっさとマイク握れ、スタジオ代も時間も無駄だろうが」
「この後のご飯の時に、絶対詳しく聞きますから覚悟してくださいね!」
私は宣言し、マイクスタンドの前に立った。
謎のファン第一号。どんな顔をした人かはわからないけれど、その言葉は確かに私の背中を押してくれた。そのことに感謝しながら、私は大きく息を吸い込んだ。もっともっと、自分の声が苦しんでいる誰かに届いたなら。そんなふうに思った。
*
私は毎日(バンド練習があっても)、家に帰ったらそこからすぐに予備校の課題を始める。英語、数学、国語、理科、社会……。これをやって何になるんだろう、こんなことやるくらいならもっとバンドに時間使いたい。でもこれが約束なんだ。高校を辞める代わりに自分の力で大学に入る。そう言う約束。
これをこなせなきゃ、私はお父さんに負けたことになる。私をいじめたやつに負けたことになる。そして、私は、あいつに、負けたことになる。
勉強、勉強、勉強。勉強について考える時、私はいつもあいつの背中を思い出す。ドアから漏れ出す光を辿って行った先には、小さい頃から使っている学習机の前で丸まっているあいつがいた。
時計の秒針が12時を回ってもなお、ペンの音は途切れない。私はその音を、ただ聞いていた。
むかつく。勉強をしているとあいつを─ ─宗一郎のことを思い出す。そんな調子だから私は全く勉強に集中できない。家での勉強は苦手だ。いろんなことを考えてしまって手が動かない。
宗一郎は、お父さんの期待を背負い、まるで自分の手柄のようにあたりに言いふらしていた。それになんだか納得がいかなくて、嫌だった。お父さんも、それに対して何も行動しようとしない宗一郎に対しても、イライラしていた。
当初、私が家を出て東京に行くにあたって、あろうことか宗一郎の住むアパートの近くに住ませようという馬鹿げた話が持ち上がっていた。
ある夜、お母さんが宗一郎に電話をかけているのを、私は壁越しに聞いてしまった。
「ねえ、宗一郎、仁菜についてなんだけど……」
「……、そんな……、ば……い……、愚かしい……」
電話越しに漏れ聞こえる声はひどく低く、ノイズにまみれてよく聞き取れなかった。けれど、私のことをあいつがどう思っているかなんて、分かりきっていたことだ。厄介者、出来損ない、自分の完璧な人生の邪魔になるノイズ。
あいつの明確な拒絶と、私の「あんなやつの近くに住むくらいなら死んだほうがマシだ」という猛烈な反発によって、両親はついにその提案を折ったのだった。
「あー!むかつくむかつくむかつく…!」
私は枕に顔をギュッと押し付けた。叫べないのがもどかしい。もどかしくって、死にたくなる。あの投稿を見た後だから、なおさらギャップで消えたくなる。
私は靴下を履き、そのままの勢いで靴を履いて外に飛び出した。
静かな住宅街に私のスニーカーの地面の蹴る音が響く。
むかつく、イラつく、悔しい!
「あああああああぁぁぁあ!」
誰もいない高架下に差し掛かった瞬間、溜め込んでいた叫びが口をついて出た。
息が上がり、心臓が痛いほど早鐘を打ち、足がもつれる。体力がない。歌を最後まで支えきる技術もない。桃香さんとすばるちゃんが言った通りだ。
でも、歌いたい。早く歌いたい。肺の底に溜まったこの真っ黒な感情を、全部声に乗せて吐き出したい。
私は、バンドがやりたい。
散々夜の街を走り回って、肺が千切れそうになる頃、私はやっと自分のアパートに戻ってきた。汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を洗い、熱いシャワーを浴びてから真新しいジャージを引っ張り出し、倒れ込むように布団に寝転がる。
結局、今日の分の勉強は全く手についていない。けど、今はもう無理だ。明日の私がなんとかする! そう自分に言い聞かせて強引に目を閉じる。
その日はとても疲れて、夢を見た。久しぶりの、遠いどこかにいるような、夢。
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「にな、外で遊ばん?」
「……おうちがよか」
「わかった。何ばすっと? 本でも読む?」
「あれが聞きたか」
「あれ? ああ、こん前のやつ? ふーん、になは大人ばいね。おれはそれより……まあよか。えーっと」
「『上の雪 さむかろな。つめたい月が……』」
「……雪ん中、かあ。ねえ、雪ってどんなと?」
「うーん? おれも見たことなかけん分からんけど、なんか冷たくて白からしかよ」
「すっごく綺麗かろうね」
「でも、ちりが集まってできとるけん、汚からしかよ」
「えーっ」
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パチリと、目が覚めた。なんかすっきりしない目覚めだ。すごく嫌な夢を見ていた気がする。うわぁ、寝汗がベッタリで気持ち悪い……、シャワーしなくちゃ。
私は机の上の勉強道具をまとめてカバンの中に無造作に詰め込む。
カーテンは開きっぱなしになっているので、勝手に朝日が差し込んで勝手に一日が始まる。どんなに憂鬱な始まりでも私にはバンドがある。それに、ファンからの言葉も。
「あ、更新されてる!」
私はスマホを見て新着投稿に気がついた。簡素な作りのアカウントだから、フォローしとかないと見落としちゃう。
嫌な夢を見た気がするけど、そんなことも吹き飛んでしまった。このアカウントが紹介するバンドは、どこか私の好みと似通っていてなんとなくシンパシーを感じる。色々と歌い方の勉強にもなる。
「よし!やるぞー!」
私はほっぺを叩いて気合いを入れる。そうだ、私には歌がある。桃香さんに言われた通り、このモヤモヤを歌にこめればいいんだ。
そう考えると希望が湧いた。
うちの仁菜は走ります。次回宗一郎と誰か視点。原作五話から六話までの間くらい。
引用 金子みすゞ
「積もった雪」
上の雪 さむかろな。 つめたい月がさしていて。
下の雪 重かろな。 何百人ものせていて。
中の雪 さみしかろな。 空も地面もみえないで。
評価、読了ありがとうございます。日間ルーキーにランクインしていました(99位)、励みになります。
感想も返信できていませんがしっかり読んでいます。ありがとうございます。