井芹仁菜の兄になりました、助けてください   作:占地

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第九話 グラストンベリー(涼音and宗一郎視点)

 私は今日、夜の川崎の地を踏み締めている。

 

 ネオンの明かりと喧騒が入り混じるこの街にやってきた理由は、仁菜の通う予備校から実家に入った一本の電話だ。

 

『最近欠席が目立ち、成績も下降気味で……』

 

 そんな連絡が来たからには、あのお父さんが激怒する……もとい、不器用に心配して暴走するに決まっている。だが、今の冷え切った関係のままお父さんが直接ここへ乗り込んでも、仁菜にとっていいことなんて一つもない。

  またあの息の詰まるような口論が繰り返されるだけだ。だから、私が間に入って様子を見に行くことになった。というか、そうなるように私が必死でお父さんを説得したのだ。

 

 しかし、私が心配なのは仁菜だけではない。もう一人の厄介な弟、宗一郎のことだ。

 あいつの病室から、私が逃げるように去って以来、事務的な「退院した」というメッセージ以外、一切の連絡が来ていない。

 

 まさか死んでいるなんてことはないだろうとは思うが、あの時の感情がすっぽりと抜け落ちたような気味の悪い様子を思い出すと、一応の経過観察が必要だった。お母さんからも「東京に行くなら、宗一郎の顔も見てきて」と言い添えられているし、何より、直接口には出さなかったがお父さんもそれを望んでいるのが痛いほど伝わってきた。

 

 不器用すぎる父親だ、なんて思いながら、はるばる熊本から東京(ここは神奈川の川崎だけど)にやってくる私も大概だ。

 

『靖恵、私は、どうすればいい?』

 

『……もう寝た方がいいわ。クマがひどい』

 

 夜中、実家のリビングのドア越しに漏れ聞こえてきた言葉は、お父さんのひどく弱り切った後悔の声だった。

 強権的で、自分の正しさを疑わなかった父のあんな声を聞いてしまうと、放っておけない。あの暗く重たい空気感のままで家族がバラバラになっていくのは、やはり嫌なのだ。

 

 喧騒の中を歩きながら、ふと、幼い頃に三人で遊んでいた記憶が蘇る。実家のアルバムに残っている三人で写っている最後の写真は、私たち三人が小学生だった頃だ。中学校から宗一郎は別の場所に行ってしまったからだ。

 

 昔の宗一郎は、静かだが優しい子だった。仁菜は私よりも宗一郎の方に懐いていて、外で遊びたがる彼をよく引き留めては、自分の隣に座らせていた。

 

「あいつ、仁菜に本とか読んであげてたっけ……」

 

 ポツリと、ため息に混ざった呟きが夜の空気に溶けていく。宗一郎はもともと口数が多い方ではなく、少し捻くれたところのある子供だった。だけど、私や仁菜の言うことには文句を言いながらも黙って従うような、おとなしい弟だったのだ。

 それが、いつからあんなに冷たく、家族すら見下すような機械みたいな男になってしまったのだろう。

 

「あーあ、どうしてこうなったんだか」

 

 原因は分かりきっているから、余計に胸がきつい。

 仁菜は前言っていたバンド活動に集中し出しているようだし、家を出るなんて言い出した。ああ、考えただけで頭が痛くなってきた。

 

 ……そうだ、とりあえず宗一郎には連絡しておかないと。

 仁菜の時のようにアポ無しでいきなり突撃するのは、お互いにとってひどい事態を引き起こすと学習したからだ。もう夜も遅いが、一応メッセージを入れておく。

 

『今、川崎いるんだけど。明日家いる?』

 

 あいつのことだ、どうせ下北沢の無機質な部屋で一人、難しそうな専門書でも読んでいるか、もう寝ているだろう。そして『別に来なくていい』なんていうんだろうな、そう思っていた。

 しかし、予想に反してすぐに既読がつき、信じられない返信が送られてきた。

 

『今、川崎でバイトしてる。もうそろそろ上がるから。都合がいいなら『登利亭』って店に来てくれ』

 

「……はぁ!?」

 

 私は思わず、人目もはばからず道のど真ん中で素っ頓狂な声を上げてしまった。バイト? あの、効率と合理性しか頭にさそうな宗一郎が? しかもよりによって、仁菜の住むこの川崎で!?

 一体どういうことなの。もうわけがわからない。まさか、あの冷酷な弟が、仁菜の行動を監視するためにわざわざ川崎まで来ているとでも言うのか?

 

 と、とにかく行かないと。嫌な予感しかしない。

 私は慌ててスマホのマップアプリを開き、『登利亭』という店名を検索した。

 検索結果に表示された店舗の情報を見て、私の思考は完全に停止した。

 

「い、居酒屋!?」

 

 あの井芹宗一郎が、酔っ払いがひしめく大衆居酒屋でアルバイトをしている?

 私はスマホの画面を二度見、いや三度見して、もはや驚くことしかできなかった。

 

 

 *

 

 着替えを済ませ、店長に挨拶をしてから裏口を抜けて店を出た。

 

「また頼むよ」

 

「いえ、こちらこそありがとうございました。お疲れ様です」

 

 爽やかに頭を下げ、ガラリと店の扉を開けて夜の川崎へと足を踏み出した。

 すると、街灯の下にポツリと見覚えのある人影が立っていた。涼音さんだった。

 

 彼女は私を見た瞬間、なんだかいろんなものが入り混じったような、複雑な表情を浮かべていた。おそらく、熊本からの長旅でひどく疲労困憊しているのだろう。井芹家の調整役も楽ではないなと、私は密かに同情した。

 

「姉さん、遠いところまでご苦労様」

 

「あ、うん。あんたもバイトお疲れ……。なんでこんなところで?」

 

 なんで、とはどういうことだろうか。ああ、確かに、居住地は下北沢であり、わざわざ県を跨いで川崎の大衆居酒屋まで働きに来ていることが不思議なのだろう。

 

 私はなるべく論理的に自身の経緯を説明した。単純に自由に使えるお金が必要であること、塾講師の他に隙間時間で単発バイトを入れていること、ここは職場環境もよく時給もいいこと、などなど。健全な苦学生アピールとしては完璧な模範解答だ。

 

 もちろん、仁菜さんの追っかけをやっていることは絶対の秘密である。『仁菜を刺激しないであげて』と以前涼音さんから言われたのであれば、それは当然守るべきルールだ。私もその方がミッションを進めやすい。

 

「お金が必要、ね。暮らすのに十分なお金はあげてるはずだけど?」

 

「それだけではダメなんだ」

 

「……そんなに熱心になって、何をするつもり?」

 

「何も? ただ、最近面白いものを見つけたんだ」

 

 しまった、接客で長時間表情筋を酷使したツケが回ってきた。というのも頬のあたりがピクピクと痙攣して引き攣るのを感じたのだ。

 

「面白い、もの?」

 

 私の顔を見た涼音さんの顔が、サッと引き攣った。夜の闇で詳しくは見えないが、何かおかしいことを言ってしまっただろうか? しまった、さっきの痙攣がオタク特有のニチャッとした笑みだと思われたのだろう。身内とはいえ、引かれるのはきついものがある。私は慌てて話題を振った。

 

「ああ。……姉さんは音楽は好き?」

 

「人並みにはね。あんたもそんなに熱中してた覚えないけど? 子供の頃にやってたピアノだって、そんなに楽しくなさそうだったじゃない」

 

「…………」

 

 あ、マジか。新しい情報を手に入れたぞ。元の宗一郎は音楽にそんなに興味がないふりをしていたのか。じゃあなぜ大学では音楽サークルに入って指揮者なんてやっていたんだ? 好きなことを親や家族に隠していたのだろうか?

 

 いや、今はそれはどうでもいい。しまったな、ついつい久しぶりの家族との世間話の雰囲気で口を滑らせてしまったが、これ以上余計なことを喋ると設定のボロが出そうだ。

 ほらみろ、涼音さんもじっと黙って考え込んでしまっている。夜風も冷たいし、長旅の疲れが出ているのだろう。ここらで切り上げて、早くホテルに帰してあげた方が良さそうだ。

 

「まあ、そういうこと。姉さんはどうしてこっちに?」

 

 私が気遣って質問しても、涼音さんは下を向いて考え込んだまんまだ。無視だろうか? 悲しい。私は川崎の夜に紛れて消えてしまったのだろうか。あるいは今の一瞬で交通事故か何かで死んでしまい、浮遊霊にでもなってしまったのか。

 そんなふうに勝手に傷心していると、突然涼音さんが顔を上げた。

 

「……仁菜がバンドやってるって」

 

「ああ」

 

「……知ってるの?」

 

「いいや?」

 

「知ってるのね……?」

 

 アレェ? おかしい。完璧にポーカーフェイスで誤魔化せたはずなのに、どうしてだ。表情筋の制御も声色のトーンも、それなりに上手くいっているはずだ。それなのにどうして一瞬でバレた?

 

 私は無意識のうちに、顔に手をやっていた。

 

 そしてやってから「しまった」と気がついた。心理学的に、顔を触る行動は動揺や嘘をついているサインだ。自分の体であっても無意識のクセというのは制御できないのだから、他人の体であればなおさらだ。

 私も迂闊ではあるが、涼音さんも流石の洞察力だ。井芹家のバランサーは伊達ではない。カマかけが上手すぎる。

 

 涼音さんは一気に警戒心を強めたようだ。私が約束を破っていると思ったのだろう。

 私は咄嗟に、顔にやった手を誤魔化すように前髪のほうへと持っていった。そのまま自然な仕草で髪をかき上げ、前髪が目にかかって鬱陶しいだけだというアピールをした。これで誤魔化せないかな?

 

 その行動を見た涼音さんは、目尻を一層鋭くさせた。

 失敗。小手先の仕草では誤魔化せなかったか。もう無理だな。

 

「まあね、仁菜がバンドをやっていることは知ってる」

 

「どうやって知ったの?」

 

「たまたまさ。インディーズのライブをあさっていたらね」

 

「たまたま、ね」

 

「ああ」

 

「あんた、自分が仁菜に何したかわかっとん? 今仁菜は大変なの。お願いだから、近づかないで」

 

 ちくしょう、自分が何をしたのかが本当にわからないのだ。それが一番歯痒い。大学の友人に聞いた限りでは一匹狼でストイックな感じだったらしいが、家でもそんな感じだったのだろうか?

 

 でも、ここで「記憶がないからわからない」と動揺を見せれば、涼音さんのストレス値はマッハである。おそらく、仁菜さんの成績の降下を受けて様子を見にきている大事な時期だ。これ以上、彼女に心労をかけるわけにはいかない。

 ここは、毅然とした態度で安心させてあげるべきだ。

 

「……忘れたわけじゃない」

 

「じゃあ……!」

 

「僕は、仁菜に対して何もする気はない。姉さん、それだけは信じてくれ」

 

 私は未だ神経を尖らせている涼音さんを、嘘偽りのないまっすぐな目で見つめた。

 そうすると、涼音さんの瞳が少しだけグラリと揺らいだ。ん、何があったんだ? と思ったが、またすぐに元に戻った。

 

「信じられると思っとるん? そんなこと言って、そんな……。何があったん? あんたに」

 

「……何もないよ。だから心配しないで」

 

 私は、できうる限りの最高の、安心させるための微笑みを浮かべた。これでどうにか納得してやり過ごしてくれればいいのだが。

 それを受けて、涼音さんはなぜかハッとしたように息を呑み、完全に黙ってしまった。どうやら私の真摯な態度は効果覿面だったようだ。

 

 その後、無言のまま二人で駅のホームに辿り着き、電車が来るのを待った。姉さんは空港の近くにホテルを取っているらしい。新幹線でなく飛行機でも使うのだろうか。

 

 電車から降りる際、涼音さんは私に向けて何か言いたげな様子だったが、扉が閉まったせいで喋る機会を失ったらしい。私はその閉まったドアの向こうの彼女を、ぼんやりと眺めながら見送った。

 

 一人になった帰り道、私は決意した。

 今の今まで先送りにしていたことを、やらなければいけなくなった。それは、私自身の『記憶』に関することである。

 

 私は今の今まで、完璧なファンとして振る舞ってきた。しかし、今の私は彼女らの目の前にいる一人の生きた人間であり、いつまでも記憶喪失という事実を隠しておくのにも限界がある。姉さんの態度を見るに、元の宗一郎は家族に対して何か決定的なしこりを残しているはずだ。

 

 もちろん、私が井芹宗一郎ではないと明かすとしても、今ではない。せめて彼女たちの物語(原作)がひと段落した後だ。でなければ、私が特異点となって仁菜さんがどうなってしまうか全くわからないからだ。

 

 だから、今の私にできることは『なるべく過去の情報を取り戻す』ことである。と言っても、どうすればいいかは全く見当がつかない。

 

 とりあえずは、一度熊本の実家に帰ることが先決であろう。自分の部屋を探れば、過去の宗一郎の足跡が何か掴めるかもしれない。

 仁菜さんの帰省イベントと鉢合わせないように、さっと行ってさっと帰る。さて、私にそんなスパイのような真似ができるだろうか? 私はスマホで飛行機のチケットを検索し始めた。

 

 *

 

 実家に帰って己の過去を探る。そんな決意をしてから少し経って、私はひどく浮かない気持ちで長野県の諏訪にやってきていた。

 人間というものは、明確に「やらなければいけない重いタスク」がある時、無意識にそれから目を逸らしたくなる生き物だ。それは多分、ごく当たり前の防衛本能だろう。

 

 波一つない夜の諏訪湖をぼんやりと眺める。暗い水面を覗き込むと、そこには私の姿が映っている。いや、正確には私ではない。どこまでも冷たい目をした「井芹宗一郎」という青年の姿だ。

 はぁ、と白い息を吐く。自分が何者かわからない、他人の人生を間借りしているだけの存在。なんともモラトリアムな悩みだ。

 

 今日はどうやら花火大会があるらしく、湖畔には人々の姿がちらほらと見える。私は連れ立った相手がいるわけもなく、一人で冷たいベンチに腰を下ろしていた。

 せっかくの遠征ライブだ。あの「予備校やめます」の宣言が直接聞けるというのに、自分のルーツを探らなければいけないという憂鬱さのせいで、どうにも頭が上がらない。

 

「お、にい、ちゃん……?」

 

 背後から、不意に声が聞こえた。

 

 仁菜さんの声だ。ドクンと、私の心臓が嫌な音を立てて高鳴った。まさかバレたのか? 私は身体を硬直させ、そのまま振り返ることができなかった。

 足音が近づいてくる。仁菜さんは私の横を通り抜け、正面から私の顔を覗き込んだ。そして、ふぅっと安堵の息を吐き出した。

 

「あ、ああ、びっくりしたー……。ファン1号さんか」

 

「……どうも、仁菜さん。こんな時間に一人で、平気ですか」

 

「あ、はい。あいや、平気ってわけじゃないんですけど、その。なんとなくここに来たくなって」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

 そのまま、ぽつりと沈黙が落ちる。遠くで、祭りのざわめきだけが聞こえる。

 

「あの……」

 不意に、仁菜さんが湖を見つめたまま口を開いた。

 

「プロになりたいって言ったら、どう思いますか?」

 

 私は、迷うことなく答えた。

 

「応援しますよ。これまでと変わらず」

 

「……そうですか。笑いませんか?」

 

「笑いませんよ。真剣に生きようとしている人間を笑うほど、僕は人間を捨てていません」

 

「……ありがとう」

 

 ございます、と仁菜さんが言い終わらないうちに、ヒュルルルという音と共に夜空に大きな花火が二発打ち上がった。

 色鮮やかな光が暗い湖面を照らし、仁菜さんのどこか吹っ切れたような、嬉しそうな横顔が浮かび上がった。

 

「お兄さんが、いるんですか?」

 私は、静かに尋ねた。

 

「え? ああ、その、ごめんなさい。後ろ姿が似てて。……でも、あなたがあいつなわけないです」

 

「そうですか?」

 

「はい。あいつだったら、私がバンドやるとか言ったら、絶対に見下してバカにしてくるに決まってますから」

 

 仁菜さんの顔が、さっきまでの晴れやかさから一転して暗く曇った。

 花火は変わらず、夜空に美しい大輪の花を咲かせ続けている。

 

「そうですか。……それは、最悪ですね」

 

「本当ですよ! あいつは最低の……あ、すみません、みんなを待たせてるんです。もう行きますね!」

 

「ええ。気をつけて」

 

「明日はよろしくお願いします!」と叫びながら、暗がりの中を駆けていく仁菜さんの小さな背中を見送り、私は深くため息をついた。

 

 その次の日、ライブハウスで『トゲナシトゲアリ』が誕生した。

 彼女たちは、言葉通り渾身のライブをした。圧倒的な熱量がフロアを支配していた。

 仁菜さんはマイクを握りしめ、ステージ上で「予備校を辞める」という宣言をした。

 色んな意味で、私の記憶に永遠に刻み込まれるはずの、素晴らしいライブだった。

 

 しかし、私はそんなライブの中で上の空だった。仁菜さんや涼音さんの言葉が頭の中を巡る。「見下してバカにする」、「仁菜に何をしたのか」。涼音さんは原作では父親を不器用だと言っていた。確かに愛していた、とも。

 

 では、私は?

 

 事態は思ったより深刻なのかもしれない。私は、私の思うより複雑なのかもしれない。彼女らへのライブ後の挨拶も忘れて、私は東京に戻った。




涼音視点

 私は、ビジネスホテルのベッドに寝転がって今日起こったことを振り返る。
 『面白いものを見つけた』、そう言った時の宗一郎の顔は、ひどく歪んでいて、私がよく見ていたあの笑みだった。やはり何も変わっていない。あいつは、仁菜を陥れるつもりだろうと、そう思った。

 そして最初はそれを隠そうとしていた。しかし私にバレてからは開き直ったようだった。でも、あれは本当に何かを企んでいたのだろうか。

 『信じてくれ』と言ったあの瞳、『心配しないで』と言った時に浮かべたあの笑み。あれは、一体何なのか。私にはさっぱりわからない。
 
 でも、ダラダラ考えたとしても仕方がない。私たちには明日がある。宗一郎に対して嫌悪感を抱いていた、それは間違いない。でも、あの目と笑顔は、それを揺るがせるに十分なものだった。

 パチン、と音を立てて電気が消える。不思議と、悩みがあるにしては軽い心地がした。
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