神様に「リリカルなのは『みたいな』世界に転生したい」って要望したら「幼女戦記」の世界に入った話。   作:スレ主

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遅れて申し訳ないです。


第39話:『北方講和 ―― その選択は未来の形』

 

激しく降る雨が、王国の煤けた首都の街並みを叩きつける。

 

初冬。

 

世界を覆う大戦の足音が近づく中、海に囲まれた大国の首都は、濃厚な霧と、それを遥かに凌ぐ政治的猜疑心に包まれていた。

 

港湾地帯にあるパブの店内。

安煙草の煙と湿った外套の臭いが充満する。

混雑するカウンターの片隅で、初老の荷揚げ人夫が、泡の薄い黒ビールのグラスを乱暴に置いた。

 

「冗談じゃねえ。新聞じゃ、帝国軍がとうとう北海の向こうまで兵を進めたって話だ。今朝から穀物船の保険料がどれだけ跳ね上がったか知ってるか?」

 

「ああ、海運会社の連中も真っ青な顔で右往左往してたぜ」

 

隣の若い船乗りがパイプに火をつけながら応じる。

 

「だけどよ、この記事を読んだか? 『狂犬、次は我が国の海運を脅かす。海軍は直ちに出撃せよ』とよ。いよいよ大戦線の幕開けかもな」

 

同じパブの長テーブル。身なりの良い若者が経済紙の紙面を凝視していた。

 

「いや、この新聞社は違う。北方の資源の供給網が、帝国の主導で再編される可能性を示唆している。これは危機ではなく、新たな投資の好機だ」

 

王国は、帝国の真意を測りかねていた。

 

かつて南のダキアが侵攻してきた際、帝国はそれを迎撃したものの、最終的には相手を滅ぼすことなく、驚くほど良好な関係を結ぶ友好条約によって戦いを終結させた。

 

戦勝国が敗戦国をただ踏みつぶすのではない、あの奇妙な外交。

だからこそ、今回の北方戦線で帝国が協商連合をどう扱うつもりなのか。

労働者から投資家、官僚にいたるまで、誰一人として帝国の真意を掴めずに右往左往していた。

 

 

 

同じ時刻、外務省の奥深く。

 

 

 

重厚な机の上に、一通の書簡が置かれていた。

 

帝国大使館の特使が直接持参したというその極秘電文を、外務官僚たちは、まるで不発弾でも見るかのような目で見つめる。

 

「これだけ、か?」

 

次官補が信じられないといった様子で声を漏らした。

 

通常の外交文書であれば、慇懃無礼な前置きと、山のような要求、あるいは脅迫が書き連ねられているはずだった。

 

しかし、目の前の紙片に記された文字は、異常なほど短く、誠に冷淡だった。

 

『北方戦後処理における調停役を、王国政府に依頼したい』

 

賠償金の要求額も、割譲を求める領土の境界線も、提示は一切なし。

 

ただ、末尾に呪いのような一文だけが付け加えられていた。

 

『なお、本件を辞退される場合、我が国は合州国政府へ同様の依頼を行う予定である』

 

「罠だ」

 

一人のベテラン官僚が断言する。

 

「あの傲慢な帝国の軍部が、なぜ条件も提示せずに調停を我が国に投げる? 我々を巻き込み、西の共和国との離間を狙う小細工に決まっている」

 

「しかし」と、別の若い官僚が首を振った。

 

「条件がないということは、我が国が有利なように線引きしていいという意味にも取れる。それとも、単に戦後処理という面倒な泥沼を、我々に丸投げしたいだけなのか? 帝国の狙いが全く読めない」

 

「あるいは、我々を試しているのか……」

 

答えを出せる者は、その場に一人もいなかった。

莫大な戦果を前にして、あまりにも静かすぎる帝国。

 

 

翌日、議会の閉会後。外務大臣の執務室には、さらに不気味な報告が届いていた。

 

 

「進軍が、停止している……?」

 

大臣は、差し出された諜報機関の電文を読み返す。

 

帝国軍の先遣隊は、協商連合の物流と輸送を支える最大の重要拠点「オース」を、完全に射程に収めていた。

 

軍事的には、そのまま一気に蹂虙し、全土を直轄領として飲み込むための決定打を放つこともできるはずだった。

 

だが、彼らはその重要拠点の目の前で、不自然なほど進軍の足を鈍らせ、戦線を完全に固定していた。

 

帝国軍に補給不足の兆候はない。

鉄道輸送は正常。

海上封鎖も維持され、前線の士気も高い。

 

それでも彼らは、自らの意志で進撃を止めていた。

 

それだけではない。

 

帝国内部の世論を監視する部隊からの報告。

国内で協商連合の絶滅を叫ぶ大本営発表も、大規模な領土併合を要求する軍部の煽りも、一切見られないという。

 

勝者特有の、あの狂乱した熱気。

それがどこを探しても見当たらなかった。

 

「……理解できん」

 

外務大臣は低く呟いた。

 

窓の外の霧を見つめるその顔が、わずかに歪む。

 

「勝者とは、もっと醜悪なものだ」

 

領土を欲し、賠償金を要求し、敗者を踏み潰す。

 

それが国家というものだった。

あのダキア戦の時ですら、彼らは戦勝の熱に浮かされることなく友好関係を構築してみせたが、今回はそれ以上に不気味だった。

 

勝ってなお、何かを待つ姿勢。

 

まるで——戦争の先を見ているかのように。

 

「まるで……」

 

外務大臣は、誰に言うでもなく呟いた。

 

「帝国軍の奥に、軍人ではない何かが紛れ込んでいるようだ」

 

己の利益すら冷静に天秤にかける、底知れない異質な知性。

 

大臣は、姿もないその存在の輪郭を感じ取り、胸の奥底を突く深い恐怖を覚えた。

帝国の奥に潜むその影は、彼らが今まで対峙してきたどんな敵の野心とも一線を画していた。

 

 

 

深夜、外務省と海軍省による緊急合同暗室会議。

 

カーテンを閉め切った暗い部屋の中、大型作戦机の上に、北方の地図が広げられている。

 

なぜ帝国は、莫大な利権が転がっている北方の海を自分たちで独占せず、わざわざ王国に調停を頼み、しかも静観しているのか。

 

その最後のパズルが、ここでようやく繋がることになる。

 

高級将校が、無言で、その地図の海を挟んだ対岸に黒い駒を落とした。これまで誰も注視していなかった新興国の駒。

 

その瞬間、部屋の空気が一気に氷点下まで凍りつく。

 

「……合州国か」

 

誰かが、呻くようにその名を呼んだ。

 

「最悪のシナリオだ」

 

海軍将校が低い声で言う。

 

「もし我が国がこの調停を蹴り、帝国が本当に合州国を北方の仲介役として引き込んだらどうなる。海の向こうの新興超大国が、この海の喉元に、合法的な足場を手に入れることになるのだぞ」

 

合州国の資本が北方へ入る。

港湾、海上保険、海運金融。

王国が何世紀もかけて築いた海の秩序が、内側から完全に喰い破られる。

 

それは、海軍力による敗北よりも遥かに致命的だった。

 

「航路の保険料は、既に三割上昇しています」

 

次官補が、手元の書類を見ながら冷淡な数字を告げた。

 

「これ以上、あちらの海に波風を立てるわけにはいきません」

 

「三割で済んでいるうちに決断すべきだな」

 

外務次官が乾いた声で引き継ぐ。

 

「帝国は、我々に利益の交渉をしてきているのではないわけか。彼らはただ、選択肢を置いたのだ。合州国にこちらの海を差し出されたくなければ、お前たちが戦後処理という泥沼の座に座れ、と。我々に拒否権などない」

 

夜、激しくなる雨の中、一台の黒い馬車が外務省の裏口から出発した。

 

座席に深く腰掛けた外務大臣の膝の上。

特使としての全権委任状が収められた革の鞄がある。

王国は調停役を受けることを決定した。

 

そこに理想や正義、あるいは平和への願いなどは一滴も含まれていない。

ただ合州国という怪物をこちら側の海に入れないため。

最悪を回避するための、苦渋の消去法だった。

 

ガタゴトと揺れる馬車の窓ガラスに、冷たい雨水が激しく流れていく。

大臣は、自分が帝国の用意したレールの上へ、自ら進んで足を乗せてしまったことを自覚していた。

 

「ひどく嫌な予感がするな」

 

暗い車内で、大臣は誰に言うでもなくぽつりと呟く。

 

「彼らは、戦争の勝ち方ではなく——戦争の終わらせ方を考え始めている」

 

帝国の背後にいる何者かが、世界大戦という巨大な奔流を、力ではなく構造で制御しようとしていた。

 

王国は、その新しい秩序の最初の共犯者として選ばれたのだ。

 

「我々はその最初の一歩に、自ら喜んで首を突っ込んでしまったらしい」

 

その夜、王国は一つの調停依頼を受け入れた。

誰もまだ理解していない。

この夜、王国が受け取ったのは、単なる調停依頼ではない。

世界大戦そのものの形を変える、最初の一手だったということを。

 

馬車は霧の街へ消えていく。

 

その遥か北方、暗い海の向こうでは、歴史が決定的にその軌道を変えようとしていた。

 

 

 

激しく降る雨が、協商連合の中央議会の大きなガラス窓を白く叩いていた。

 

その雨はいつしか湿った雪へと変わり、冷たい不穏さを増していく。

 

「まだ終わっていない! 領土が削られようとも民族は死なん!」

 

若い強硬派の議員が、演壇を激しく叩きつけて叫んでいた。

 

「ただちに海を渡り、アルビオンに亡命政府を樹立するべきだ! 連合陣営の支援を取り戻し、山岳地帯に籠もってでも徹底抗戦を継続する!」

 

賛同の叫びが議場を揺らす。

 

彼らの瞳には、まだ祖国を殉教の美学で包み込もうとする熱が残っていた。

 

だが、最前列の席で泥まみれの書類をめくっていた老政治家が、低く、しかし驚くほどよく通る声で、静かに口を開いた。

 

「……その先は?」

 

水を打ったように、議場から音が消える。

 

「先、だと……? む、無論、帝国の侵略者を一人残らず我が土地から叩き出すまでだ!」

 

若い議員の反論に、老政治家はただ深くため息をついた。

 

その視線は、かつて南方のダキアが帝国との間で交わした、異様な顛末の記録に向けられている。

 

「ダキアを見ろ」

 

老政治家は掠れた声で続けた。

 

「あそこが帝国に無謀な戦いを挑み、一瞬でひざまずかされた時。帝国は彼らを滅ぼさなかった。行政機構を温存し、配給を整え、滞っていた物流を即座に復旧させた。……その後、戦争に疲れ果てていた民衆が、どちらを選んだか、君たちは忘れたのか」

 

「それは帝国の銃剣に脅されての従属下だったからだ!」

 

「違う!」

 

老政治家が初めて声を荒げる。鋭い眼光が若い議員を射抜いた。

 

「民衆が、飢えをしのぐための秩序を選んだのだ。……亡命政府を作れば勝てるだと? 違う。我々はただ、祖国を見捨てて海の向こうから戦えと煽るだけの、無責任な亡命者になるだけだ。ここに残された民衆が、どちらに転ぶか、まだ分からんのか」

 

誰も言葉を返せない。議場を満たしていた熱が、急速に冷えていく。

そこへ、軍務次官が青ざめた顔で壇上に上がり、最新の諜報報告を読み上げ始めた。

 

その内容は、軍事の常識を信じる者たちにとって、あまりにも異様なものである。

 

「帝国軍の進撃状況ですが……不可解な点があります。重要拠点であるオースの湾岸施設、および背後の鉄道分岐点は、ほぼ無傷。発電施設や大規模な食料倉庫への爆撃の形跡もありません。海上封鎖に関しても、商船の通行を完全に遮断せず、一定の臨検に留めています」

 

軍人の一人が、信じられないといった様子で頭を抱えた。

 

「連中は……国家のインフラを破壊していません。まるで、明日から自分たちがそれを使うかのように」

 

「いや」

 

財務大臣が、震える指で眼鏡を直しながら呟く。

 

「戦後も……我々に使わせる気だ」

 

「ならば、主要都市を放棄し、山岳地帯での遊撃戦に移行すべきだ!」

 

若い将軍が拳を握りしめて叫ぶ。

 

「広大な泥沼に引きずり込めば、帝国の胃袋とて破裂する!」

 

「その瞬間、我々は国家ではなく、ただの武装勢力になる」

 

老政治家は冷酷に言い放ち、手元の数字を読み上げた。

 

「難民は既に想定を三割超過。都市部の食料価格は倍に跳ね上がり、海上保険市場は完全に機能不全だ。これ以上の継戦は、地方での暴動を引き起こすだけだ」

 

老政治家は、窓の外の雪混じりの雨を見つめる。

 

「民衆がこれ以上の混沌に耐えきれなくなった時、彼らが求めるのは祖国の栄光ではない。最低限のパンと、命の保証だ。帝国軍は……銃弾ではなく、民衆の飢えが国家を裏切る瞬間を待っている」

 

強硬派の顔から、完全に血の気が失せた。

 

敵は、自分たちの民族主義など、とうに計算に組み込んでいる。

そこへ、外務省の通信課職員が飛び込んできた。

息を切らせた彼の手には、極秘の国際電文があった。

 

「アルビオン政府が……帝国からの要請に基づき、本戦線の戦後処理に関する調停役を正式に受諾しました」

 

議場が、今度こそ恐怖で騒然となる。

協商連合にとってアルビオンとは、最後まで帝国を止める側の国家であった。

 

そのアルビオンが調停役を引き受けた瞬間、協商連合は対等な盟友ではなく、システムの上で「敗者」として処理される側へ回ったのだ。

 

「連中……一体、何を考えている?」

 

若い議員が、掠れた声で椅子にへたり込んだ。外部への道は完全に閉ざされていた。

 

深夜。

 

議長室のランプの下、帝国から届いたばかりの極秘外交電文が広げられようとしていた。

 

集まった首脳陣は、誰もが最悪の覚悟をしていた。

 

莫大な賠償金、全土の割譲、あるいは屈辱的な占領統治と軍の完全解体。

 

国家の死刑宣告を待つような、重苦しい静寂。

室内に、封筒が破られ、紙片が擦れる無機質な音だけが響く。

 

誰も口を開かない。

 

財務大臣の眉が、深く寄せられる。

軍務次官の顔から、急速に血の気が引いていった。

 

若い強硬派の議員にいたっては、信じられないものを見るかのように、その紙面を何度も凝視していた。

 

「……なんだ、これは」

 

ページをめくる、乾いた音。

 

「……賠償額が、少なすぎる」

 

財務大臣の声は、恐怖で激しく掠れていた。

国庫を完全に破綻させるはずの、あるいは未来永劫にわたって搾り取るはずの無慈悲な数字。それが、そこにはどこにもないのだ。

 

老政治家は、差し出されたその条件をじっと見つめたまま、老いた唇を小刻みに震わせた。

 

「……これは、降伏文書じゃない」

 

誰も動けない。

そこに書き連ねられていた条項の数々。彼らが想定していた「野蛮なむしり取り」とはあまりにもかけ離れていた。

 

略奪でもなければ、明確な破壊でもない。

だが、読めば読むほど、背筋が凍りつくような不気味な違和感が部屋を侵食していく。

 

「なぜ、ここまで勝っておきながら……こんな条件を出せる……?」

 

誰も答えられない。

老政治家の顔から、ゆっくりと生気が消えていく。

 

「連中は……本当に何を欲している?」

 

窓の外。

激しかった雪混じりの雨は、いつの間にか止み始めていた。

 

遠くの港には、なおも行き場をなくした避難民の列。黒い影のように蠢く。

 

同胞たちが怯えるそのさらに奥、冷たい霧が立ち込める海の向こうには、進軍を止めたまま、不気味なほど静かに佇む帝国艦隊の影があった。

 

「我々は敗北した」

 

老政治家が、静かに、そして確信を込めて呟いた。

 

短い沈黙。

 

「……だが、これで終わりではない気がする」

 

誰もまだ理解していない。

 

この夜、協商連合が受け取ったのは、単なる講和の条件ではない。

世界大戦そのものの形を変える、最初の一手だったということを。

 

北方の暗い海。

帝国艦隊は、それ以上牙を剥くことなく、ただ波に揺れていた。

 

まるで——

 

戦争が終わった後の世界こそが、本番であるかのように。

 

そして協商連合は、その新しい秩序の最初の被験者となろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――帝国史講義『北方講和と帝国外交の転換点』

 

統一歴1967年。

現在では「北方講和」と呼ばれる一連の外交交渉は、後の世界秩序形成における最も重要な転換点として、今日でも激しい議論を呼んでいる。

 

当時の人々は、なぜ帝国が勝利を目前にしながら進軍を停止したのか、その理由を全く理解できていなかった。

 

帝国軍は協商連合の物流を支える最大の重要拠点「オース」を完全に射程に収めていたにもかかわらず、決定的な占領を行わなかった。

戦勝国でありながら、国庫を揺るがすような過大な賠償金も要求せず、大規模な領土併合も行わなかったからだ。

 

当時の新聞には、『狂犬が突然理性を持った』という皮肉な論説や、『不気味な休戦』といった困惑を隠せない見出しが踊っていた。

 

しかし、戦後になって公開された帝国枢密院の議事録や、当時の外交担当官たちの回顧録を精査すれば、帝国政府の狙いは極めて明確かつ冷徹であったことが判明している。

 

第一に、帝国は領土を欲していなかった。

 

正確には、領土を得ることで発生する政治的負債を嫌ったのだ。

 

もし協商連合を解体し、北方全域を併合していたならば、帝国は北方民族による果てしない抵抗と、維持困難な行政コストを永久に抱え込むことになっていただろう。

 

さらに、アルビオン、フランソワ、そして合州国を含む列強全てを潜在的な敵に回し、自らを「既存秩序の破壊者」として国際社会に位置付ける結果となる。

それは、目の前の短期的勝利と引き換えに、国家としての長期的敗北を購入する行為に他ならない。

 

一方で、帝国国内の世論も無視はできなかった。

 

北方戦線では数十万の将兵が死傷し、国民は耐乏生活を強いられていた。

戦後に『何も得られませんでした』という報告がなされれば、帝国政府は軍部からの反発と国民的な政治危機に直面したはずである。

 

そこで帝国は、非常に繊細な「戦果の演出」を行った。

 

当初提示された交渉案はオース周辺まで含む大規模な割譲だったとされる。

だが、帝国首脳部は、その過大な要求が連合側によって拒否されることを最初から見越していた。

 

案の定、交渉は難航し、最終的な妥協点として国境はノルデン相当の地域まで後退した。

 

帝国は「領土の獲得」という象徴的な勝利を国民に示しつつ、その実、北海の漁業権、港湾利用権、自由経済活動権といった「長期的な経済基盤」を合法的に毟り取ったのである。

 

さらに歴史家が注目するのは、王国への巧妙な対応だ。

 

北方講和以前、王国はフランソワとの協調路線を維持していた。帝国は、この強固な陣営の亀裂を突いた。

 

帝国が王国に対して送ったメッセージは、提案という名の最後通牒であった。

 

『講和に参加し、北方市場の利益を共有せよ。さもなくば、我々は合州国をこの戦後処理に引き入れる』

 

当時の王国にとって、東に帝国、西に合州国という二つの超大国を抱えることは悪夢そのものだった。もし合州国の資本が北方の港湾、保険、金融ネットワークに浸透すれば、王国が数世紀かけて築き上げた海洋覇権は内側から腐り落ちる。

 

王国に拒否権はなかった。

 

結果として王国は講和に参加し、フランソワ陣営から引き剥がされた。

 

後に外交史家は、この一連の動きを『帝国は一発も撃たずに、王国という重石を自陣営へ移動させた』と評している。

 

また、講和条約に盛り込まれた「民族自決」の原則も、帝国の支配を補強する道具として機能した。

 

実際には、この民族自決は無制限の独立権を意味するものではなかった。

住民投票と自治権拡大は認められたものの、その実施は帝国と王国の管理下で行われ、条約秩序を否定する革命政権や一党独裁体制の樹立は明確に禁止されていた。

 

そこには『武装革命による政権奪取は認めない』という、後の時代を予見したかのような有名な但し書きが存在していた。

 

帝国と王国、そして協商連合政府は共同で「反過激派治安維持機構」を設立し、必要に応じて共同駐留軍を配置する権利を得た。

 

研究者の間で「赤化防止同盟の原型」と呼ばれるこの機構は、帝国が自国のイデオロギーを世界標準として押し付けるための、非常に強力な法的盾となったのである。

 

北方講和の本質。

 

それは領土の再分配でも、賠償金の算出でもなかった。

帝国が勝利によって得た政治資本を利用し、敵を滅ぼさず、あえて味方を増やし、市場を広げ、革命を封じ、戦争そのものを管理可能な「システム」へ変換しようとした、最初の実験であった。

 

当時の人々は、この講和の先にある真の設計図を読み解けなかった。

彼らは、勝者と敗者が明確に分かれる古い戦争の記憶に囚われていたからである。

 

だが、帝国が冷酷に見つめていたのは、もっと先の地平だった。後に始まる世界大戦において、帝国は単なる「国家」として戦っていたのではない。

 

世界秩序という名の盤面を設計し、他国をそのコマとして躍らせる——帝国は、この北方の地で、既に「戦わずして勝つ」ための巨大な装置を完成させていたのである。

 

「もっとも、この外交が完全な成功であったかについては、現在でも議論が分かれている」

 

講師はそう言って資料を閉じた。

 

「確かに帝国は北方を併合せず、列強を敵に回すことも避けた。王国をフランソワ陣営から引き離し、市場を獲得し、革命勢力を封じ込める枠組みまで手に入れた。短期的に見れば、これ以上ない成功だったと言えるでしょう」

 

教室の後方で一人の学生が手を挙げた。

 

「なら、帝国は勝ったんですか?」

 

講師は少しだけ笑った。

 

「その質問こそが、この講義の核心です」

 

教室の壁に掛けられた大陸地図へ視線を向ける。

 

「帝国は勝利した。しかし、それは領土を奪う戦争の勝利ではありませんでした。帝国は、自らが作った秩序を維持し続ける義務を背負ったのです」

 

講師はそこで一度言葉を切った。

 

「ちなみに近年、この講和条約について興味深い発見がありました。戦後に公開された帝国軍の保管資料の中から、北方講和の雛形と極めて類似した文書が発見されたのです」

 

教室がざわつく。

 

「当時の外交官が作成した草案ではありません。発見場所は帝国軍参謀本部の資料庫でした。

……その人物について、現在も結論は出ていません」

 

講師は壁の資料を切り替えた。

 

「北方講和の草案。ダキア講和案。研究者たちはある共通点を指摘しています」

 

壁には複数の文書が並ぶ。

 

『限定的な領土要求』

『経済圏の形成』

『共同治安維持機構』

『戦後秩序の制度化』

 

「発想があまりにも似通っているのです。敵を滅ぼさない。市場を取り込む。秩序を作る。革命を封じる。文体すら酷似している。現在では、これらは同一人物によって起草された可能性が高いと考えられています」

 

一人の学生が尋ねる。

 

「その人は誰なんですか?」

 

講師は肩をすくめた。

 

「それが分からない。文書は残っている。提案書もある。会議録にも痕跡がある。ですが、肝心の署名だけが見つからないのです」

 

講師は窓の外の雨を眺めた。

 

「ただ一つだけ確かなことがあります。その人物は、戦争に勝つ方法よりも、戦争を終わらせた後の世界について考えていた」

 

講師は資料の端に映る古い書き込みを指差した。

 

「傷だらけの草案、そして奇妙なことに、その思想は四十年以上に渡って帝国の講和文書に現れ続けるのです」

 

学生たちは黙って耳を傾ける。

 

「まるで同じ人物が、帝国の未来を書き続けていたかのように」

 

短い沈黙。

 

「皮肉なことに――」

 

その声だけが講堂に響く。

 

「帝国で最も平和の値段を理解していたのは、誰よりも戦争を知る軍人だったのです」

 

冬の雨が窓を叩く。

 

「そして恐らく――北方講和が終わったその日から、彼は次の戦争ではなく、その次の平和を見ていたのでしょう」

 

 

 





仕事の出張で執筆する時間がなかったのと、今回の内容が政治パートで筆が進まなかったです。

主人公出てないし、ヒロインも出てない内容ですけど、ここ飛ばすのも何か違う気がするので、書いてたら「むずぅぅぅ」ってなりましたね。

架空戦記を0ベースで書ける人は本当にすごいと思います。

感想あると書くペース上がります。

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