2020年9月。半田市立半田小学校6年3組。
かつては子供たちの歓声が響いていたはずの教室は、今や透明なアクリル板と白いマスクに支配された「音のない空間」と化していた。
窓は不自然に細く開けられ、湿り気を帯びた秋の風が、絶え間なく鳴り続ける換気扇の音にかき消されていく。
生徒たちは机の三方を囲むプラスチックの檻の中で、隣の席の友人の顔すら満足に見ることができない。ただ、真っ白なマスクの上にある感情を失った瞳だけが、所在なげに宙を彷徨っていた。
「残念ですが、修学旅行は中止に決まりました。みんなの安全を守るため、そして家族に迷惑をかけないためです。わかってくれますね?」
担任の寺尾は、自身の口元を覆う二重のマスクを蒸れさせながら、申し訳なさそうに、だが拒絶を許さないトーンで告げた。
「安全」という名の免罪符。それに異を唱えられる子供は一人もいない。彼らはただ、アクリル板の反射をじっと見つめ、静かに頷くだけだった。彼ら自身、それがこの「新しい生活様式」における最も正しいと思われる、生存戦略であることを知っていたからだ。
その時、静寂を切り裂くように、廊下から鋭い足音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ――。
軍靴のような正確さで刻まれるその音は、教室の入り口で止まった。
スーーッ。
教室の引き戸が不気味なほど音もなく開き、一人の女が入ってきた。
隙のない黒いスーツ。乱れのないひっつめ頭の黒髪。そして、すべてを見透かすような氷の眼光。
「今日から副担任としてこの教室を受け持つことになった、阿久津真矢です」
彼女の声は、低く、冷たく、アクリル板の迷宮を通り抜けて、生徒たちの鼓膜に直接突き刺さった。驚愕する寺尾を無視し、真矢は教壇の横に置かれた大きなボトル――自動噴射式のアルコール消毒液を無造作に掴み上げると、それを迷わず教室の隅の鉄のゴミ箱へと叩き落とした。
ガランッ! と乾いた音が、静かな教室に銃声のように鳴り響く。
「あ、阿久津先生! 何を……! それは学校の備品で、対策に不可欠な……!」
慌てふためく寺尾を一瞥し、真矢は氷のような声で言い放った。
「全員、今すぐその汚らわしいマスクを外しなさい! 机に立てられたその醜いアクリル板も、今すぐ後ろへ片付けなさい」
教室に戦慄が走った。子供たちは互いに顔を見合わせることもできず、ただ固まった。
「……でも、先生、ルールだし。それにもし感染して、誰かにうつしちゃったら……」
生徒の進藤が、震える声で精一杯の抵抗を試みた。真矢はゆっくりと彼に歩み寄り、わずか数センチの距離まで顔を近づけた。進藤は、真矢の瞳の中に、自分の怯えた顔が映っているのを見た。真矢はマスクなどしていない。その剥き出しの唇が、残酷な言葉を紡ぎ出す。
「イメージしなさい。空気中を漂うウイルスが、その程度の布きれで止まると本気で信じているのですか? ……愚かですね。それは科学ではなく、ただの『儀式』です。大人たちが、自分たちはちゃんと対策をやっていますと世間に見せるための、安っぽく、幼稚な演劇です。あなたたちはそのエキストラとして、一生を使い潰されるつもりですか?」
「でも、外すなんて怖いです……。みんな着けているし……」
「怖い? ……いい加減、目覚めなさい! あなたたちが今恐れているのは、ウイルスではなく、『周りと違うこと』でしょう! 自分の頭で考えることを放棄し、首輪を繋がれた家畜のように、命令に従うだけの人間に、生きている価値などありません」
真矢は教壇に戻ると、チョークを手に取り、綺麗な文字で黒板に大きく書いた。
【思考停止】
「私の授業では、マスクの着用は一切認めません。アクリル板を立てることも許しません。私に従えない者は、今すぐこの教室から出ていきなさい。……あなたたちを一生『マスクをした羊』のまま、この学校から卒業させるつもりはありません」
真矢は震える生徒たちを慈悲の欠片もない瞳で射抜いた。
それは、偽りの安全という名の皮を剥ぎ取り、地獄のような「自由」へと引きずり出す、彼女なりの宣戦布告だった。
(第2話へ続く)