阿久津真矢が赴任して、二日目。
6年3組の教室は、昨日以上の緊迫感に支配されていた。
朝の校内放送からは、いつも通り「適切な距離を保ちましょう」「こまめに消毒しましょう」という、念仏のような呼びかけが流れている。だが、この教室だけは、その「世界のルール」から切り離された異界となっていた。
黒板の横。そこには、真矢が持ち込んだ模造紙に、一分の乱れもない美しい筆致で「新規則」が掲示されている。
『一、教室内でのマスク着用を一切禁ずる』
『二、アクリル板を使用する者は、欠席扱いとする』
その文字を生徒たちは、まるで死刑宣告か何かを見るような目で見つめていた。
「阿久津先生、これは明らかな虐待です! 子供たちが怖がっているのが分からないのですか!」
担任の寺尾が、顔を真っ赤にして教壇の真矢に詰め寄った。彼は昨日、真矢がゴミ箱に捨てた消毒液をわざわざ拾い出し、今はそれを守るように胸に抱えている。
真矢は手にした出席簿をパタンと閉じると、寺尾をゴミを見るような目で見据えた。
「イメージしなさい。子供たちが根拠のない不安に震え、何の役にも立たない布切れにしがみつく無残な姿を。それがあなたたち教師がこれまで心血を注いできた『教育の成果』ですか? ……あまりに滑稽で、反吐が出ます」
彼女は教壇から一歩踏み出すと、手に持っていた数枚の資料を最前列に座る里中の机に叩きつけた。重苦しい紙の音が教室に響く。
「里中さん、読みなさい。そこに記されている製薬会社の利益、そして国が対策の名の下に投じた血税の額を」
里中は震える手でその紙を掴んだ。そこには普段の生活では決して目にすることのない、桁違いの数字が並んでいた。
「これ……一、十、百……。兆……って、書いてあります……。会社の利益が、何倍にもなってる……」
「そうです。あなたたちが友達と笑うことも、給食中に楽しく会話することも禁じられ、終わりの見えない息苦しさに耐えている間、誰が一番笑っていたのか。……答えなさい。この巨額の金は、一体どこから湧いて、最終的に誰の懐に入ったのですか?」
「それは……世界中の人を助けるための、薬を作るために必要な……」
「愚かですね」
真矢の冷徹な一言が、里中の言葉を断ち切った。
「もし、この騒動が明日収束すれば、この巨大な金の流れは止まる。つまり、彼らにとってこのパンデミックは、決して終わらせてはならない『最高のビジネス』なのです。あなたたちの貴重な子供時代の思い出も、健やかな成長も、すべては彼らの利益を最大化するための生贄にされたの。……それでもまだその『ビジネスの片棒』を担ぐ、薄汚い不織布を、誇らしげに顔に着けていたいのですか?」
「でも、国が言ってるから! 専門家だって、みんな……!」
中段に座る進藤が、声を荒らげて叫んだ。その頬は、怒りか、あるいは自分たちが騙されているという事実への拒絶か、激しく紅潮している。
真矢は一歩も引かず、今度は廊下から様子を伺っていた学年主任の野口を指差した。
「国? 専門家? 彼らはあなたたちの奪われた時間に責任など取りません。野口先生、あなたもそうです。あなたはただ上から降ってきた指示に従うことで、自分の地位と退職金を守りたいだけ。その保身のために、子供たちの脳を酸欠状態に追い込み、思考を奪い、無気力な操り人形に作り変えようとしている。……そんな人間は教育者ではなく、人殺しと呼ばれても仕方のない卑怯者です」
「な、何を……! 侮辱だ、撤回しなさい!」
野口が絶句し、廊下で体を震わせている。
真矢は再び生徒たちに向き直った。その瞳は逃げ場をすべて塞ぐように鋭い。
「いいですか。明日から、マスクをして登校した者は教室に入れません。アクリル板を片付けない者は、私の授業を受ける資格はありません。……私を訴えたければ訴えなさい。だが、私はあなたたちを、誰かの金儲けのために魂を売る『思考停止の奴隷』にはさせません。自分の顔を隠して安心を得るような人間に、未来を語る資格などないからです」
静まり返った教室に、真矢の冷徹な宣告だけが重く響き渡った。
生徒たちは、自分たちがこれまで「正義」や「思いやり」だと思って信じ込んでいた壁が、内側からボロボロと腐り落ちていくような、初めて感じる恐怖に震えていた。
(第3話へ続く)