「阿久津先生、直ちに教壇を降り、教室を出なさい。あなたは本日付で、副担任の職を辞めてもらいます」
午後の授業が始まって間もなく、6年3組の教室に見慣れぬ顔がなだれ込んできた。
先頭に立つのは、市教育委員会の幹部・久保田。仕立ての良いスーツに身を包み、その胸元には仰々しい議員バッジが光っている。背後には、責任追及に怯えて顔面を蒼白させた校長と数名の事務職員が、まるで処刑執行人のように控えていた。
真矢は手にしていたチョークを静かに置くと、乱入者たちを汚物を見るような目で見据えた。その視線だけで、教室内を支配していた空気の温度が数度下がった。
「解雇? 理由を述べなさい。……私が子供たちに、誰かの奴隷ではなく、一人の人間になれと教えたからですか?」
「黙れ! 君は国の指針を真っ向から無視し、科学的根拠のない暴言で子供たちを危険にさらした! これは明白な職務規定違反であり、教育者としての資質を疑わざるを得ない重大な裏切り行為だ!」
久保田が教卓を激しく叩き、教室中に乾いた音が響く。久保田は生徒たちの方を向き、懐から取り出した新品のマスクを突きつけた。
「いいか、君たち。この女は狂っている。今すぐその危険な思想を捨て、マスクを着けなさい。アクリル板を元に戻すんだ。今すぐ指示に従えば、君たちが犯したこれまでの過ちはすべて不問に付してやる。元の『安全な学校』に戻れるんだぞ」
数人の生徒が、久保田の放つ「権威」の重圧に肩を震わせた。
「不問」という名の免罪符。これまで外側から受け続けてきた攻撃と差別から解放されるという誘惑。数人の手が、机の奥に隠していたマスクへと、縋るように伸びようとした。
「動くな!」
真矢の鋭い一喝が、教室の空気を一瞬にして切り裂いた。
彼女は久保田の眼前に歩み寄り、その胸ぐらを掴まんばかりの距離で言い放った。
「指針? 科学的根拠? ……笑わせないで。あなたたちが守ろうとしているのは、医学的な真実ではなく、ただの『自分たちの体裁』でしょう。イメージしなさい。ウイルスは、あなたたちの机上の空論や忖度に従って、都合よく動きを止めますか? 止めない。そんなことは、この部屋にいる子供たちですら本能で分かっている!」
「な、何を……! この生意気な……!」
「あなたたちは、自分が仕事をしたという報告書作りのために、子供たちから表情を奪い、肺を弱らせ、心を壊し続けている。イメージしなさい。その自分勝手な役人根性のせいで、この子たちの二度と戻らない時間がどれほど汚染され、今しかできない貴重な経験の機会を奪っているのか! あなたたちがやっているのは教育ではない。上から降ってきた命令を、自分の頭を介さずに垂れ流すだけの、ただの『スピーカー』だ! そこに魂はあるのですか?」
真矢は怯える生徒たちを見渡し、さらに冷酷に追撃した。
「いいですか。今、この男の言葉に従ってマスクを着ける者は、一生、権力者の言いなりになる道を選ぶことになります。……自分で調べ、自分で考え、自分の意志で立つ。その苦しみから逃げ、寄らば大樹の陰で安心を得ようとする卑怯者。そんな人間に、私の教え子を名乗る資格はない!」
久保田は顔を真っ赤にし、随行員たちに真矢を連れ出すよう怒鳴り散らした。
「連れて行け! この女は危険だ! 職務停止どころか、即刻罷免だ!」
職員たちが真矢の両腕を掴み、力任せに教室の外へと引きずり出そうとする。
その暴力的な光景に、生徒たちは息を呑み、椅子を鳴らして立ち上がった。
「先生……!」
最前列の里中が、消え入るような声でその背中を呼んだ。
真矢は職員たちに腕を掴まれたまま、足を止めた。
彼女は、生徒たちの助けを求めるような、あるいは何かに縋るような瞳を、氷のような冷たさで見据えた。
「……何を見ているのですか」
その声は驚くほど低く、だが教室の隅々にまで染み渡るような威圧感を持っていた。
「私がいなければ、何もできないのですか? 誰かに守られなければ、自分の顔を出すことすらできないのですか? ……イメージしなさい。あなたたちが今、その手で握りしめているものは何ですか。私がいなくなれば、またその布切れで自分の意志を覆い隠し、家畜の群れに戻るのですか」
久保田が「いい加減にしろ!」と叫び、真矢をさらに強く引っ張る。
真矢はスーツの乱れを直すこともせず、最後に出入り口の戸口で、生徒たちに冷徹な宣告をした。
「……せいぜい、賢いふりをして生きなさい。誰かの用意した檻の中で、一生自分を騙し続けながら。それが、あなたたちにお似合いです」
それが、彼女が3組に残した最後の言葉だった。
扉が乱暴に閉められ、廊下を去っていく真矢の硬質な足音が、次第に遠ざかっていく。
静まり返った教室には、久保田の勝ち誇ったような荒い鼻息だけが響いていた。
彼は「さあ、教室を元通りにするんだ」と生徒たちを急かした。だが、生徒たちは誰一人として、彼が差し出した白くて甘いマスクに、手を伸ばそうとはしなかった。
(第5話へ続く)