死滅回游 泳者 八百歳比名子   作:螺旋坊主

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第17話 泳者 近江汐莉について

 

 

「とりあえず自己紹介しとこう」

 

 と、いつものお調子者な笑顔を浮かべた虎杖の一声に、伏黒は“縛り”を結んでおきながら相手の名前すら認知していない状況を改めて認識する。

 

 正面、やつれ気味ながらも艶やかな様子で虎杖達の前に立つ人魚。彼女は自らの抱える激情を鉄面皮の下に隠しきり、先程の半狂乱が嘘だったかのように口元を微笑で彩っている。

 とはいえ、その万象等しく呑み込んでしまう海のような瞳をした人魚の双眸には、伏黒と結んだ“縛り”によって僅かに灯った希望の火がゆらゆらと揺らめいている。

 人間を騙し謀り誑かすことを性とする妖怪にしては随分と考えを読みやすい――そんな考えが、伏黒の脳内をよぎる。

 

 現在虎杖達は池袋の地下鉄、その線路上にいる。当たり前だが東京の交通網は何もかもストップしているので、これ幸いと三人で身を潜めているというのが事の経緯だ。

 身を潜める理由は当然、自分達を追う千年前の術師「天使」の目から逃れるため。空を飛び、上空からの索敵ができる天使を相手に地上を歩くのは愚策も愚策。故に伏黒達はできるだけ呪力と残穢を残さないように地下を行く。

 そのことは当然人魚にも説明済みだ。その際「大変そうですねー」と皮肉なのか他人事なのかよくわからないコメントをもらったけれど。

 

 地下に入った上で、できるだけ同じ場所に留まらないよう歩きながら、天使や他の術師を警戒。伏黒が神経を張り詰める中、冒頭の虎杖の言葉が発せられたのだ。

 それを受けて伏黒は、最初はそんな場合かとツッコもうとし、しかし即座にそんな場合だと考え直す思考の過程を挟んでいた。

 これは虎杖の言う通り、成り行きとはいえ手を組んでしまった以上、できるだけ必要な情報を簡潔に共有するのは何より優先される事項であると考えたため。

 いつもの自分であれば当然できていたであろう段取りができていない。やはり冷静さが足りていないと、伏黒は自省する。

 

 虎杖達は自分の名前、高専所属の術師であること、死滅回游の平定を目的としていること、および(泳者情報を閲覧すればすぐにわかる情報のため)虎杖が受肉体であることを話した。

 虎杖は特異体質であり、受肉体の意思を抑え込めることも話した。人魚は半信半疑だったが、追及はしてこなかった。どうでもいいらしい。

 

 ただ、受肉した存在が両面宿儺であることは話していない。宿儺の脅威を考慮したからだ。

 不老不死の人魚が相手だ。ともすれば宿儺が暴れまわっていた千年前から存在していたかもしれない。そうだった場合、両面宿儺の名を出すことがどれだけリスクになるか分からない。

 

 一通り話し終わった後、人魚が「次は私の番ですか」という声に続けて自己紹介をし始める。

 

「――私は近江汐莉。君達の知っている通り、不老不死の人魚です」

 

 人魚――汐莉が話す分には、かつて自分を助けてくれた人間・八百歳比名子が死滅回游に巻き込まれ、それを助けるために知り合いの妖怪と協力して結界の内部に侵入したとのこと。

 命の恩人に等しい存在である彼女を何が何でも、どんなものを犠牲にしてでも、助ける。それこそが汐莉の存在意義で、回游において戦う理由。

 

「必要な情報だけを共有したいというのなら、私にとって必要な情報はこれのみで、提示できるのはこれ以外に存在しません」

 

 一切の迷いなき口調で、汐莉は断言する。

 まるで――否、正真正銘、近江汐莉の中における八百歳比名子以外の存在は、比名子に比べれば取るに足らぬもののようだ。

 

「いや、まだある。近江がここにいる背景について知りたいことが、もう一つ」

 

 伏黒が、視線を汐莉に投げかけながら言う。

 次いで虎杖にも視線を向けると、虎杖は頷きかえす。まだ汐莉に関して掴みかねている情報がある、やはりその認識は同じだ。

 

「オマエはなんでこの東京第1結界にいる? 八百歳は広島結界だ。オマエらの住んでる愛媛と近い結界だろ」

「オマエはどうして、八百歳を喰べるなんて約束してるんだ?」

 

 ………………………………。

 

「2つありませんか?」

 

 至極まっとうな汐莉の指摘に、「オイ」と虎杖にツッコむ伏黒。

 心なしか視線も冷ややかになっている様子に、虎杖が「いやいや、聞いてくれ!」と慌てたように弁明する。

 

「俺達は近江と連携を組んで戦わなきゃいけないだろ。けど、組む奴に対して心情的に納得できない部分があったら戦闘に支障が出かねねぇ」

 

 心の中のわだかまりを解くのは、チーム戦において必要な儀式である、そう虎杖は力説する。

 それに対し、伏黒は心の中で小さくため息をつき、何言ってんだコイツ、とでも言いたげな温度を体から滲みだす。

 伏黒にとって、それが何の意味もないことに感じられるからだ。

 

 そも、術師にとって妖怪とは呪霊に等しい存在で、決して共存できぬ不倶戴天の存在だ。

 同時刻、こことは違う結界で、禪院真希が妖怪と歴史的な和解を成しているのだが、それは伏黒の与り知らぬこと。

 

 呪霊の行動は、その存在を形成する負の感情がどういった形質かに根差す。怒り、悲しみ、恥辱、とかく様々な情念によって突き動かされるものであり、そこに意味や理屈などない。

 妖怪も同じ。呪霊と成り立ちは違えど、そこに存在するのは人喰いとしての本能。人を喰うために奴らは動き、騙し、誑かすのだ。

 術師として破格の才能とはいえ、虎杖は経験が浅い。窘めたいが、張本人たる妖怪を前にしてどのように説得すべきだろうか。伏黒が頭を悩ませていると――、

 

「――業腹ですが、君達術師にとって妖怪は呪霊と同様の呪いに過ぎない。たかが呪いの行動に理解を求めようとする意味があるんですか?」

 

 手の甲を口に近づけ、可笑しそうに笑う汐莉。

 術師の認識は汐莉も承知していたらしい。彼女は伏黒が言いたかったことを全て代弁してくれた。

 

 だが、それでも虎杖は「いい」と汐莉に返答する。

 

「俺が術師になったのは大体半年前だし、妖怪(オマエら)のことは一言二言聞いたくらいしか知らん。でも人を喰うなんてことは普通は人間がすることじゃないから、妖怪(オマエら)が人とは違う存在なんだってことは分かってる」

 

 虎杖の、心境の問題なのだ。

 ここまでの汐莉の言動。か細い希望に縋ろうと、見ず知らずの人間に取引を持ち掛ける。大切な人と離れて、傷ついていないか心配している。その人を守らなければならないという信念がある。

 彼女がその人を喰おうとしていることを除いたら――あまりにも、人間臭すぎる。

 

 かつて虎杖が戦った呪胎九相図、壊相と血塗を思い出す。

 呪霊との混血であり、呪術規定ではまず間違いなく呪霊として扱われるであろう彼ら――でも、兄弟を想って涙する彼らを、虎杖は呪霊と同じだとは思えなかった。

 

 今、虎杖は汐莉を彼らに向けるものと同じような目で見てしまっている。

 だから――、

 

「だから、オマエの口から聞きたい。どうしてオマエは守りたい人のことを喰いたいのか。それで妖怪(オマエ)がどういう存在なのか――判断が、したい」

 

 妖怪は人喰いの本性があるから。そんな答えが返ってくるなら、それはそれでいい。妖怪と人間は相容れぬものだと結論付けるだけだ。

 だが、もしかしたら、それ以外の理由が存在しているかもしれない。何か違う思惑があって、汐莉は比名子を喰べようとしているのかもしれない。

 そんな思いが、こびりついて離れないのだ。

 

 冗談も、迷いもない。本気で虎杖は妖怪(ひとでなし)を理解しようとしている。

 ただ一点を射抜くように据えられた虎杖の視線。それに貫かれた汐莉は、長く、深く、息を吐き――、

 

「君達は、少し誤解をしているようですが」

 

「?」

 

「――私は別に、比名子が喰べたい、というわけではありませんよ」

 

 

 

--------

 

 

 

「数十年ほど前、私、手榴弾で吹き飛ばされまして。海に落ちて数十年、バラバラの状態でひたすら漂っていた時期がありました」

 

 近江汐莉の身の上話。その語り出しには聞き覚えがあり、虎杖と伏黒が眉をひそめる。

 薨星宮にて天元が、不老不死たる人魚の再生能力について例示していたこと。それがまさに汐莉の過去に一致していたからだ。

 天元が提示したモデルケースは汐莉のことだったのか――二人の思考が一致するが、それをこの場で言及するのは天元の存在に触れることに繋がるので、口は噤んだまま汐莉の話を促す。

 

「漂い、流され、その果てにたどり着いたのがとある浜辺――そこで出会ったのがあの子、八百歳比名子です」

 

 今でこそ比名子は物静かな少女であるらしいのだが、汐莉の言うところによると、10年前の彼女は快活でよく笑っていたそうだ。

 栄養が足りず肉体の再生途中で、本来の人魚らしい悍ましい姿を晒していた汐莉。幼さゆえか、そんな様相の彼女に対しても怖がることを知らず、それどころか弁当や菓子を汐莉に分けてくれたのだと。

 

 腕が再生していればその場で取って喰っていたろう。比名子は食物を分け与える際にわざわざ汐莉の口元に運んできてくれたので、喰おうと思えば首をもたげて容易く喰えていたろうと語る。

 

「それなのに、私は、その子を喰えなかった――それはあの子が、世界で唯一、私を内側に入れてくれた人間だから」

 

 不老不死。その肉体的特性ゆえ、人々は汐莉を恐れ、畏れ、崇める。ともすれば、神のように扱われていたのかもしれない。

 かつての汐莉はそれに対して何の感慨も抱いていなかったが、今は違う。あれらは、汐莉の望むモノではなかった。

 

 適当に住み着いていた入り江の漁村から定期的に投げ込まれる子供を喰らっていた時。爆弾に吹き飛ばされ、海底から世界を眺めていた時。そんな過程を経て、汐莉は悟った。自分はありとあらゆる生命と心を通わせることのできない、世界の()()にいる存在であると。

 

「けど、比名子だけは違う。彼女だけは、私を()()に招いてくれた」

 

 6歳の少女にはあまりに大きく、鋭い爪の生えた醜い腕。その腕を手に取り、あろうことか頬に寄せ、語った。

 

『お魚さん、この海みたいでとってもきれい! だからね……お魚さんのこと、怖くなんてないよ』

 

 ――彼女が触れた瞬間、まるで、別の世界に放り込まれたような感覚がした。

 

 あの子が、比名子だけが、汐莉を内側に招き入れてくれた。それを、魂から理解した。

 

 一点の穢れもない、比名子のあの輝きを――汐莉は、失いたくなかった。

 

「私が比名子に思っているのは、こんなところでしょうか」

 

 にぱっ、という擬音が聞こえてきそうな笑顔。

 とてつもない重さを秘めた感情の濁流のような比名子への想い、それと全く釣り合わない軽さの笑みを、汐莉はその顔貌に張り付けている。

 

「………………んー、まあ、オマエが八百歳に対してものすごい気持ちを持ってるのは分かったけどさ」

 

 顔を顰め、虎杖が頭をガリガリと掻いている。奥歯に何か食べ物が挟まったような微妙な表情を浮かべながら、さらに言葉を続けた。

 

「まだ、肝心なことを聞いてない。そんなに大切なら、何で近江は八百歳を喰う約束なんてしちまったんだよ」

 

 掻き毟る手は止まったとはいえ、虎杖はなぜかまだ頭の上に手を置いたままだ。

 しかめっ面のまま汐莉に向けられる視線――それでもその瞳には迷いはなく、妖怪(ひとでなし)の言葉を真剣に待っている。

 長い生の中、術師という人種にはかつて向けられたことのなかった、揺るがぬ眼差し。

 それに汐莉は一抹の眩しさを覚えた気がして――気のせいだと切り捨てながら、彼の望み通り話を続ける。

 

「――私と比名子の出逢い。その直後彼女は事故に遭い、比名子だけを残して居合わせた家族が皆死に――以来10年間、彼女は希死念慮を抱いているのです」

 

 本当は、汐莉は二度と比名子に関わるつもりはなかった。自身の存在が万が一にでも輝く比名子の人生の憚りにならないよう、呪いによって記憶まで消去して。

 

 ――その後、ひょんなことから再び交差することとなった二人の運命。そこで出会った比名子は、かつての眩い少女から限りなく変質してしまっていた。

 虚ろな目。失った表情。海の水面を眺め、今にもふいと身を投げてしまいそうな儚さ。

 彼女を一目見て、汐莉の感じた印象通りに、彼女はひたすらに自らの死――自らの命を終わらせてくれる、圧倒的な力を持った存在を望んでいた。

 

 ――――そんなことは、許容できない。

 

 汐莉は望んでいるのだ。比名子が健やかに、一秒でも長くこの世界に存在し続けることを。だからこそ10年前、汐莉は血を分けたのだ。彼女がその生涯にわたって健康を損なわないように。

 とにもかくにも、死んでほしくない。生きていてほしい。

 そんな思いから、死にたがる比名子に対し、おそらく最も望んでいるであろう願い――いずれその肉を喰らうという言葉をちらつかせ、この世界に引き留めようとした。

 

「……でも、うまくいかないものですね。……結局そんな虚言はあの子にばれてしまって」

 

 10年の地獄から漸く救ってくれそうだった、差し出された希望。それがまやかしだったと知り、比名子の絶望はいよいよ手の施しようがないほど深まってしまった。

 取るに足りない、海の怪異にすらその命を投げ出そうとするほど、あの時の比名子は感情の許容限界を超えていて。

 

 だから。だからこそ、汐莉は――。

 

「比名子と正式に、契約をし直しました。君達の言う、“縛り”みたいなものです」

 

 ――比名子が、生きて、生きて、生き続け、その果てにかつての彼女のように笑えたら。

 今の彼女から変われたら――汐莉は、彼女を喰わねばならない。

 

 そうしたら、その希望を抱くまでの間だけは、比名子を延命することができる。

 

 ――その代わり、汐莉は、いずれ必ず、避けられぬ絶望に吞み込まれることになるけれど。

 

「………………………………」

 

 ――もっと、何かあったんじゃないのか。そんな陳腐な言葉が思わず口から出そうになり、慌てて呑み込み、形のない存在の反芻を数度続ける。

 

 なぜ、そうなった。なぜ、そうなってしまった。

 それほどまでに比名子に抱き続ける汐莉の想いが、なぜそんな一時しのぎと最悪の絶望しか齎せない。こんなもの、本末転倒ではないか。

 その瞬間、別の選択があったんじゃないか。見落としていた一手が、確かにどこかに転がっていたんじゃないのか。

 脳裏が勝手に思考を繰り返して、同じ場所をぐるぐると回り続ける。

 

「………………伏黒」

 

「……なんだよ」

 

「今の近江の話を聞いて……俺、コイツのこと、呪霊と同じだと思えねぇんだけど」

 

「……………」

 

 顔を手で覆い、絞り出すように呟かれた虎杖の言葉。伏黒はそれを、否定することができない。

 

 ――妖怪に情を寄せるな。その言葉全てが奴らの欺瞞だ。

 

 そう、否定の言葉を出してしまうことは簡単だ。

 それができないのは――伏黒にとって、彼女の言葉があまりにも想定外だったからだ。

 

 伏黒は、近江汐莉を折本里香と同様の存在であると思っている。存在の核が特定の他者に依存している呪い。その他者が消えた瞬間致命的に崩れる、ある種の脆さを抱えた存在。

 ゆえに、ソレが呪いであれど、その特定の他者に関する言葉や、愛だけは嘘が無い。乙骨憂太との関わりで、なんとなく理解している。

 

 そんな彼女が実際に、比名子を喰べる約束を結んでいるのだという。

 それを聞いた時、伏黒は彼女が「比名子が美味しそうだったから」という程度の理由で約束を結んだのだと思い込んだ。たとえ大切だと考えていようと、結局は妖怪の本能に根差したものであると。

 だが、得られた答えは全く違う質のもの――何もかも、徹頭徹尾、全てが比名子に関係した、比名子のためを想って結ばれた、愛に満ちた、嘘偽りないものだった。

 

 ――あまりにも、伏黒の認識と乖離した、答え。

 

「――――――わかった」

 

 長く深い沈黙ののち、伏黒の喉から出たのは、虎杖に対する肯定の言葉。

 

「少なくともコイツに関しては、呪霊と同じように扱えとは言わない。今はそれを否定する材料が無い」

 

「伏黒……」

 

「けど、警戒はさせてもらう。オマエら妖怪が、人間の五感を狂わす呪いを使えることには変わりないからな」

 

 硬い口調で断言する伏黒。その言葉に汐莉が目を見開く。

 伏黒の発言は言う必要が全くない、ともすれば信頼を損なってしまいかねないものだからだ。

 ここまでの言動でよく頭が回りそうだという印象だった伏黒。その彼がこんな迂闊に見える発言をしたということは、逆に、

 

「それを受け入れてもらえると考えてくれる程度には、私に気を許してくれた……君なりの誠意を見せてくれたということですか?」

 

「うるせぇ。それよりも、まず俺の質問に答えろ」

 

 からかうようにくすりと笑った汐莉の言葉をバッサリと切り捨て、伏黒は言葉を促す。

 

「――何で、私がこの東京第1結界にいるか、でしたね」

 

 ――その言葉を言い放った瞬間、彼女の表情に浮かんだ微笑み、その一切が消え去る。

 

「君が私に誠意を見せてくれたなら……私もまた、誠意を見せるべきでしょう」

 

 まるで、無表情という言葉を加工して作り上げられた能面。しかし虎杖達の目には、そこに確かな怒りと嫌悪感が浮かんでいるのが見えて――、

 

「私がここにいる理由――それは、この忌々しい殺戮の遊戯を開催した下種、羂索が関わっています」

 

 

 

 

 




次回、ちょっとだけ羂索サイド。

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