今回箸休め回です。
――光。
柔らかい、春の日差しのような光。それが少女の顔をそっと包み込んでいた。
痛みを溶かすように。苦しみを癒すように。
淡い燐光は呼吸に合わせて静かに明滅し、その度に張り詰めた空気が少しずつ和らいでいく。
「…………」
長い睫毛を伏せたまま、少女は病室のベッドに静かに横たわっている。
起きていた時のエネルギッシュで苛烈な彼女とは比べるべくもない、壊れ物みたいに儚い姿。
――その指が、微かに動く。
「――――!」
その瞬間、誰かが息を呑んだ。
同時に、治癒の光が優しく揺れる。まるで、起きても大丈夫だよと伝えるみたいに、温かく少女を包み込みながら。
――やがて、その睫毛がゆっくりと震える。
眠りの底から浮かび上がってくるみたいに、少しずつ、少しずつ、瞼が開いていき――、
「良かった。ちゃんと、起きてくれた」
そんな。安堵の声が耳に届くのを感じながら。
少女――釘崎野薔薇は、目を覚ました。
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比名子とあざみ、両者による未曽有の大衝突の果て。
空を焼き、街を砕き、世界の法則そのものへ爪を立てるような、神話の再演。その決着がどういうものだったのか、今なお誰にも断言できない。
ただ一つ確かなのは、戦いの終わりにその場へ残っていたのが、崩れ落ちた比名子と、全身を血で濡らしながら撤退していくあざみだったということだけ。故に、高専側はそれを“痛み分け”と呼称している。
あの戦いの後、その場にいた虎杖悠仁一行はすぐさま二人を回収。
あざみ、宿儺、それとあの白髪の坊主の姿が見えなくなったのを確認し、ひとまず安全が訪れたと判断したうえで、死滅回游の結界を素通りできる真希が広島結界を離脱。
そのまま各地の結界を転々とし、攻撃的な泳者と呪霊、妖怪を一掃したところで、比名子や乙骨達が獲得していた得点を合算。
その得点で<総則>13――結界の出入り可能を追加し、高専勢力が再び、呪術高専東京校に会したわけである。
そして、今。11月15日の正午。
釘崎野薔薇の病室では、ひどく穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む冬の日差しは白く淡い。消毒液の匂いと、静かな機械音。死滅回游という地獄を潜り抜けてきた人間達が集うには、あまりにも平和すぎる空間だった。
その病室にいるのは六人。ベッドへ身を起こした釘崎野薔薇。そのすぐ傍に立つ八百歳比名子。壁際には近江汐莉と社美胡。そして窓際には、虎杖悠仁と伏黒恵。
「ごめんね。失った眼球までは戻してあげられなかった」
その声音に、誇りも、自慢も、酔いもない。あるのはただ純粋な気遣いだけ。
釘崎に申し訳なさそうに謝る少女――八百歳比名子は、先の神話的戦闘における後遺症は何一つないように見える。
世界の法則への反逆とも言うべき破壊と再構築、その爆心にいたせいで、戦闘終了時はズタズタの満身創痍だった。だったが、彼女は起きるや否や反転術式でその傷をさらりと全快させる。
普通なら術師でも死んでいそうな傷だろうが、死んでなければかすり傷とでも言わんばかりに平然と修復してしまう比名子の呪術のスケールには舌を巻くばかりだが――それは今は関係ない話だ。
「――アンタが、私を治してくれたの?」
起き抜けで、未だぼんやりとしている意識を現実に揺り戻しながら、釘崎は比名子に尋ねる。
新田新の術式――肉体の進む時間を止める能力で
左目が欠け、右目だけとなったせいでなかなか焦点の合わない視線。その瞳が数度の瞬きとともに比名子の像をはっきりとさせる。
隻眼となってなお揺るがぬ光を宿す目に、比名子は釘崎野薔薇という人間の強さを感じる。腕力でも呪力でもない、人間としての芯の強さを。
比名子はゆっくりと頷いた。
「……片目、欠けたまま治癒しちゃったの、怒ってる?」
「まさか。恩人に対してぶーたれるほど性格終わっちゃいないわ。――ありがと、助けてくれて」
唇を緩ませ、目を細め、先程とはうって変わって柔らかい言葉でお礼を言う釘崎。
いかにも気の強そうな彼女の、飾り気のないまっすぐな感謝。それを受けた比名子は、ふわりと心が暖かくなる感覚がする。
「あ゛ー、でも最悪だったわマジで。死んだ状態固定されるのってなんつーか、金縛りに近いのよね。意識ははっきりしてる感じなのに声も出せないし、なんかが乗っかってるみたいに体がクソ重いし。そっから救い上げてくれたって時点でもう感謝しかないわよ……えーっと」
「あ、私、八百歳比名子って言います。縁あって呪術高専の人達の仲間になりました」
「比名子ね。私は釘崎野薔薇、よろしく」
軽く手を上げて返し、それから釘崎は少しだけ真面目な顔になる。
「……で、比名子。一つ聞きたいんだけど……アンタはどうやって私の傷を治したの?」
私の目、魂を歪める呪霊にやられたから、反転術式が効かなかったと思うんだけど……釘崎は、自分の肉体を癒したカラクリを尋ねる。
高専の仲間入りをする縁だったり、釘崎の仲間である虎杖達が何かに巻き込まれている雰囲気を感じていたりとか、聞くべきことは他にもある。だが、釘崎は魂を攻撃する専門家だ。自らの顔を破壊した術式――特級呪霊・真人の「無為転変」がどういった類の攻撃だったかも、なんとなく察しがついている。
その傷をどう治したか。それが気になって仕方がなかった。
釘崎の素朴な疑問に比名子は「うーんと」と考えを整理して、
「野薔薇さんの魂のほつれたところを知覚しながら、そこを反転術式で修復したんだよ」
「…………???」
釘崎の顔が、芸術的なまでに変顔になった。
いや待て。待て待て待て。
魂の知覚? 修復? 釘崎の脳内で総ツッコミが発生する。釘崎の認識では、そもそもそういう術式や呪具でもなければ、魂への干渉など不可能なはずだ。
変顔を固定したまま、彼女はゆっくり虎杖と伏黒を見る。
「……説明」
「俺に求めるな」
即答だった。伏黒である。
「魂への理解ならオマエの方が深いだろ。……まあ、八百歳さんなら出来てもおかしくないんじゃないか?」
「だなー」
隣で虎杖が頷く。
あまりにも雑な納得。
「あっ、そういう括りなのね比名子……」
釘崎は遠い目をして、規格外の担任の姿を脳裏に浮かべる。
できないこともできて当然。あり得ないこともあり得て当然。不条理を人型にして長身と整った顔をオプションで付けたような
「あ、でも魂の知覚なら俺もできるよ!」
「うるせぇこれ以上話をややこしくすんな」
ぽややんとした笑顔で爆弾発言をぶっこむ虎杖は快刀乱麻に切り捨てた。
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「――日本を襲った未曽有の呪術テロ、死滅回游。アンタ達はそれを平定するために動いてるってわけね」
伏黒恵によって話された現況――死滅回游とその総則、覚醒型と受肉型の千人の泳者。
それらが混沌と入り乱れる殺し合い―― 正気とは思えない単語のオンパレードだったが、彼女は案外すんなり飲み込んでいた。
「そんな地獄みたいな状況で
「あはは……それはただ、降りかかる火の粉を払ってたらいつの間にかそうなってたっていうか……」
釘崎の感嘆の言葉に気恥ずかしさを覚え、比名子は苦笑いを浮かべる。
別に、総合病院にいた人達を助けたいと思って助けたわけではない。ただ、自分の身を守る過程で手を伸ばせる範囲にたまたまいたから、手を伸ばしただけだ。
――だが。その
「そんなとこで謙虚になんなくたっていいと思うよ。結界の中の敵を根こそぎブチのめしたのだって、回游に巻き込まれた何十人もの一般人を助けたのだって、全部比名子なんだから」
釘崎のベッドを囲む面々、その中で背もたれに腕と顎を乗せる美胡がそんな風に比名子を励ます。
なぜかは分からないが、比名子に向けたその笑顔は硬く、軋んでいる。
――今の美胡は、無理をしている。いつもの屈託ない笑顔とは異なる無理に作った表情に比名子が疑問を浮かべるが、それをぶつける前に、
「っていうか、何言ったって誤魔化しが効くもんじゃないでしょ、比名子の功績は。回游に入った初日から100点集めて、特級呪霊を単騎で祓って2週間で280点集めて、
「チートかなんか使ってる??」
美胡が列挙する比名子の戦績にドン引きする釘崎。その反応に、虎杖が吹き出す。伏黒は疲れた顔で目を逸らした。
比名子としても、改めて指摘されると自分のしたことの馬鹿みたいな大きさに呆れそうになる。どう考えたって術式に覚醒してたった2週間でやれることではない。本来なら呪力操作に慣れるだけで精一杯の期間で特級戦力へ到達してしまっている異常さ。
「でも、私は別に――」
虎杖達のようなただひたすらに人を助ける強い意志など持ち合わせてはいない。
比名子はただ汐莉との“契り”を違えぬため、そして近しいごく数人の安寧を保つために動き続けただけ。だから胸など到底張れないし、人を救った英雄みたいに扱われるとどうしても居心地が悪い――そんなことを考えていると。
「――動機が自己中心的なものであるにしろ、八百歳さんは津美記を助けてくれました。姉と語らう機会を再び与えてくれた八百歳さんは俺達姉弟の大恩人だ。そうやって自分を卑下する必要なんて無いですよ」
「あぁ、俺もそう思う。ここで釘崎を治してくれたことだって感謝しかないしな。つーか、俺だって宿儺を抑えきれなかったケツを拭いてもらったし」
――伏黒の迷いなき支持。次いで虎杖の申し訳なさ混じりの感謝。
彼らの一切曇りなき尊敬に、比名子は言葉を失う。一拍遅れて胸に広がったのは、先程釘崎にお礼を言われた時の暖かさ。
雪の中に小さな春が落ちてきたかのような熱に少しの戸惑いを覚え、視線を彷徨わせ――ふと、彼女の姿が目に入る。
「――――」
社美胡。
かつて人食いの化け狐として
幼いころから彼女を知る比名子の目にはいつも、周りの困った人に全力で手を伸ばす、おせっかいで優しい彼女の姿が映っていた。
対して、過去のトラウマに囚われ続けた比名子は、劇や合唱、学校の催事にはあまり参加していない。これ以外にも、他人と関りあったことがほとんどない。他人に近づけば、腫物のように扱われる。それを、身をもって知っていたからだ。
だから、比名子は今まで、誰かを助けて感謝されたなんて経験が、殆どありはしなかった。
――比名子は、ぽつりと零す。
「……美胡ちゃん」
「……何?」
「私、なんだか……」
少し照れくさそうに。
でも、どこか嬉しそうに。
「美胡ちゃんに、追いつけた気がする」
その言葉に、美胡の表情が一瞬だけ止まった。
息を呑む音がして、それから――、
「……………………比名子はもう、あたしなんてとっくに追い越してるよ」
空気が漏れるように、美胡の口から零れる声。
その声音には、どうしようもなく苦い感情が滲んでいる。
自嘲。自分への怒り。役に立てなかった、比名子に降り注ぐ身の危険に馬鹿みたいに突っ立っているしかできなかった、後悔。
病室の空気が、ほんの少しだけ重たく沈む。
「――随分、自然に笑えるようになりましたね、比名子」
不意に、その空気を、これまで黙っていた汐莉の柔らかい声が切り裂いた。
東京第1結界や広島結界の時とはうって変わって、その美貌を余す所なく彩る満面の笑み。
「野薔薇、君の目はもう痛くないですね?」
「え? ああ、まあ」
「反転術式で完治して、これ以上比名子の補助も必要ないですね?」
「何だアンタ、急に喋り出した割に馴れ馴れしいわね……いや、確かにもう大丈夫だけどさ」
釘崎が眉をひそめる――すると、汐莉はにっこり笑った。
「じゃあ、私が比名子を借りても問題ありませんね」
「え?」
次の瞬間ぐいっ、と比名子の腕が引っ張られた。
そのまま問答無用で立ち上がらされ、病室の外へ連行される。
「わぷっ、ちょ、汐莉さん?」
「行きますよ」
「ど、どこに!?」
「内緒です」
有無を言わせぬ速度。
病室の面々がぽかんと見送る中、比名子は半ば引きずられる形で廊下へ出される。
ドアが閉まる。静かな廊下に冬の白い光が差し込んでいる。
そのまま廊下をしばらく歩き、そこでようやく汐莉が足を止めた。
「……汐莉さん?」
比名子が首を傾げる。
――汐莉は、ゆっくり振り返った。
その瞳には、先程までの柔らかな笑みとは違う、どこか張り詰めた色が宿っている。
真っ直ぐに、逃がさないみたいに比名子を見つめて。
――そして、言った。
「――君と、話がしたい」
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