死滅回游 泳者 八百歳比名子   作:螺旋坊主

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 今回、わたたべ原作における(まじな)いに関して、かなーり独自に解釈してます。
 今回の内容があまりよくわからなかった方は気軽にコメント下さい。

 そして今、☆9の投票をしていただいた方が49人です。
 ……また生殺し?? 投票数1足りないのこれで2回目よ??
 し、親切な方々。どうか☆9を! ☆9を私に下さい!
 ☆10はいいので☆9を! どうか評価バーの2ゲージ目を私に見せてください!

 ……やっぱり☆10も下さい!!



第26話 あの時と、立場が逆転しましたね

 

 

 

 11月の陽光は、どこか淡い。

 

 夏のような暴力的な熱はなく、冬のような刺す寒さもまだ薄い。

 曖昧な温度をした日の光が、高専の長い廊下へ静かに差し込む。

 

 遠くから響く誰かの足音も、部屋から漏れる誰かの話し声も、どこか現実感が薄い。

 二人の少女――八百歳比名子と近江汐莉がいるこの場所だけ、外の世界から切り離されているかのようだ。

 

「こうして君と話し合うのは、これで三度目ですね」

 

 比名子に話し合いを持ち掛けた時から少し経ち、汐莉の表情からは張り詰めた硬さが抜けている。

 まだ正午でありながら、夜の海へ月明かりが落ちる様を幻視させる静かで美しい微笑み。その笑顔の裏にはかつて比名子と交わした、胸の奥を抉って投げつけ合うような激情の衝突がよぎっている。

 

 一度目は降りしきる雨の中、絶望に涙する比名子を引き留めるための必死の対話。

 これまで守ってきた家族の願いが嘘っぱちだと知った彼女の心には、何を言っても響かず、理解されず。

 挙句僅かな時間を稼ぐためだけに、かつての祈りを切り捨て一時しのぎの“契り”を結ぶ羽目になった、最悪の日。

 

 二度目は優しい日差しの降る9月の朝、比名子から伝えられた贖罪の言葉。

 汐莉達の心を占める比名子という存在、その大きさをひたすら軽んじ続けたことが耐えがたいほどに彼女らを傷つけていた事実を実感し、自らの厚顔さを比名子が泣いて恥じていた日。

 

 二つの対話と、今日の対話。これらに共通するのは、比名子と汐莉、二人だけの時間であること。

 違うのは――、

 

「うん……なんだか私、もうずっと遠い昔みたいに感じてるよ」

 

 違うのは、比名子が涙で頬を濡らしていないこと。

 これまでの話し合いの時よりかは、少なくともポジティブな感情を抱いて、比名子は汐莉と向き合っていた。

 

「――汐莉さん、なんだか嬉しそうだね」

 

 比名子ほどではないとはいえ、違うのは汐莉の様子もそうだ。

 気持ちを受け入れてくれない比名子に無力感を抱いた一回目や、いたって平常の心の時に比名子から話しかけられた二回目。

 それらのどちらとも違い、今の汐莉は明らかに上機嫌だった。

 

 なんだかんだ言って、汐莉とはすでに数か月間関わり続けた間柄。彼女の笑顔にもいくつか種類があるのを見分けられるようになっていた。

 例えば誰かに対する揶揄い、心の痛みを紛らすための欺瞞、本当に何も考えてない能天気。

 今回の笑顔はどれでもない、実に珍しい本当に喜びが満ちているもので――、

 

「嬉しいに決まっているじゃないですか。――君が、あの頃と同じ顔で笑ってくれたのですから」

 

「――――」

 

 変わらぬ笑顔のまま、後ろに手を組み遠い眼差しをする汐莉。彼女が不意に差し込んだ言葉に、比名子は虚を突かれたように瞬きをする。

 汐莉の言葉が脳に浸透するのに一秒。中途半端なタイムラグを経て、ああ、あのことかと比名子はそれに思い当たる。

 

 比名子がかつてのように満面の笑みを浮かべていて、かつそれを汐莉が目撃した時といえば、間違いない。汐莉に受肉した両面宿儺と死闘を繰り広げた時だ。

 汐莉の心が最も弱って燃え尽きかけ、へし折れようとした、まさにそのタイミングを狙い、虎杖悠仁の肉体から汐莉へ引っ越ししてきた宿儺。圧倒的な呪力量の差に加え妖怪の種族特性を悪用した「呪言」の効能もあって、汐莉の魂はほぼ完全に肉体の裡へ沈められてしまっていた。

 

 それでも、魂というのは基本的には死なず、消滅しない。奥深くまで抑えつけられていても汐莉の魂は存在を保っていたし、ごくわずかながら外の世界も認識できていた。

 とはいえ、それでも外で何かが起こっている程度にしか知覚できなかったであろうその状況。にも拘わらず、「比名子が太陽のように笑っていた」、そのことだけははっきりとわかって、その上それをこの目で見るために宿儺の魂すら押しのけてしまうのは――ひとえに、比名子のことを何よりも、世界中の何よりも大切に想っているから。

 

 今ここに汐莉が無事に在って、嬉しそうに笑いかけてくれていることがその証左であり、比名子の笑顔に何よりも価値を見出してくれていることの証明。

 それを比名子は本当に嬉しく、そして本当に申し訳なく思うけれど――同時に、汐莉の喜んだ様子に対して違和感を覚える。

 それは今汐莉に言われた言葉、それを咀嚼するのにわずかなラグが存在した原因でもあって。

 

「――あの時の私は、私じゃなかった」

 

 宿儺との戦い。最初こそ優勢であったものの、老獪で狡猾な宿儺の話術と呪術の魅せ方で心を揺さぶられ、あわや敗北というところまで追いつめられ。そこで目の前に現れた、幼い比名子の形をした――アレは、一体何だったのか。

 

 遊ぶように世界を破壊し、はしゃぐように万物を押し流す。無邪気の残酷を体現したかのような、純真無垢な暴力の化身。

 結果的に、比名子はアレに身を委ねたからこそ宿儺に打ち勝つことが出来た。だがそれは決して持ち合わせた能力が増強されたからではない。

 それは単純に、手加減がなくなったから。成長するにしたがって自身の欲望や行動に歯止めをかけるようになる自制、自重、自律。そういった心のくびきが一切なくなったからだ。

 

『……なんも、なくなっちゃった』

 

 広島の住み慣れた故郷がある日突然死地と化し、いつ終わるかもわからない呪いの螺旋に怯えながら、家に帰りたいと泣いて鬱屈していた人々。比名子がその幼い情動のままに蹂躙しつくした街の風景を見た彼らの一人の言葉、それが耳にこびりついて離れない。

 死人こそいなかった、ただそれだけ。壊れてぐちゃぐちゃになった景色はきっともとには戻らない。それくらい、比名子だって分かっていたはずなのに。そういう悲しみを少しでも減らしたいから、比名子はできるだけ街を破壊しないように力を制御していたはずなのに。

 

「あの子は……」

 

 本当に、自分だったのだろうか。

 

 力を振るうことを楽しむ、幼稚さと破壊の結びついた怪物。自己認識とあまりにも乖離した性格の存在。あんなものが、本当に自分の内側にあったモノなのだろうか。

 考えられるとすれば、過酷な環境で発生した人格分離か。妖怪が側にいることを除けば平穏な暮らし、そこから唐突に殺し合いの場に放り込まれ、心が摩耗したところで黒閃を放ち、全能感に狂うほど恍惚に満たされ。感情が極端から極端に振れたことによる過剰な精神負荷による異常が幼い姿を取って現れたか。

 

 あるいは――、

 

「……私の本性は、元からああだった、か」

 

「――――」

 

 脳内をよぎり続ける嫌な想像、それを口にしてさらに嫌な気分になり、それが苦い表情になってありありと現れる。

 そんな比名子の様子を静観していた汐莉。しばらくは凪いだ海のような穏やかな笑みを浮かべるだけだったが……比名子のその言葉を聞いた途端、汐莉は勢いよくその両肩を掴む。

 

「わっ、し、汐莉さん?」

 

 動揺して目をしばたたかせる比名子、その顔に自分の顔をずずいと寄せる汐莉。

 そこに浮かぶのは先述の、なにも考えていない能天気な笑顔と同じ形の笑い。しかし今はそれに加え、言葉にできない妙な圧を感じる。怖い。

 

 呪術師の区分としても文句なく特級術師に相当する今の比名子すら竦ませる凄みを醸し出す汐莉は「あのですねー」という導入に続けて、

 

「解釈違いです」

 

「えっ」

 

 肩にかかる握力を強めながら、言葉に力を込めて話す。

 その言葉の、意味が汲みとれない。きょとんと首を傾げる比名子に、()()()をした子供に「いいですか?」と言い聞かせる先生のように汐莉が続ける。

 

「私は10年前のあの日から、ずーっと、ずーーーーっと、君の笑顔を覚えています。それはもう、片時も頭から離れたことはありませんとも。あの時の君の笑顔は、幸福で、満ち足りていて、屈託なく、生きる喜びに溢れた……というだけなら宿儺戦で見たアレも同じですが……」

 

「…………」

 

「でも、忘れてしまいましたか? かつての君は堪らなく優しかった。悍ましく損壊した人魚の姿を晒していた私にすらその優しさを分け与えた。そんなあたたかな想いが込められていたからこそ、君の笑顔は何よりも輝いて見えたのですよ」

 

 腕を組み、うんうんと頷きながら、汐莉は自分の認識の正しさを再確認している。

 

「宿儺の時の顔も悪くなかったんですが、ちょっと足りないんですよねー。もちろん、奴の支配を振り払えるだけのパワーはあったんですが……いざこの目にした時、長いこと待ち望んでいた笑顔にしては、コレ?? って思ってしまったというか。大トロを注文したら中トロが出てきた感じに近いですかね」

 

「えっ何その例え」

 

 汐莉さん、お寿司食べるんだっけ。というか汐莉さんってそんな例え方するひとだったっけ。

 

 比名子が会わぬ間に何かあったのだろうか。何かしらの術式の悪影響すら疑ってしまいそうならしくない例え話だが、とはいえ、あの時の比名子の笑顔は汐莉にとって()()()()であるということは理解した。

 

 ――ならば、どうして。

 

「どうして、汐莉さんはそんなに嬉しそうなの?」

 

 この二人きりの場に至るまでに比名子が感じた疑問、その最初の起点に回帰する。

 近江汐莉の望みは、「あの頃のように」比名子が笑いかけること。たとえそれが耐えがたい絶望に繋がるものだとしても。

 宿儺戦の比名子の笑顔がそこに至っていなかったのなら、落胆こそすれ喜ぶことはないように思える。

 

 比名子の胸中に芽生えた、そんな疑問に答えるように。

 

「――君は、今もまだ、生きたくないと思っていますか?」

 

「――――」

 

 ――告げられたその言葉に、頭を殴られたような錯覚を覚える。

 口を押え、目を見開き、早鐘を打ち始める心臓の痛みに胸を押さえる。

 

 ――図星だった。

 

「…………私は」

 

「――――」

 

「…………私は、生きたい…………」

 

 か細く、たどたどしく、喉の奥につっかえながらの弱い言葉。

 それでも、口に出してしまえばわかる。――それが、腹の底から出た本音であると。

 

 幼い比名子の姿をしたナニカに身を委ねてから、ずっとそうなのだ。

 

 景色の全部が柔らかな色をして見える。音の一つ一つがさざ波のように心を撫でる。呼吸をするだけで胸の奥が穏やかになる。

 あれほど暗く、冷たく、深い海の底に沈んだように見えていた世界が――今は、こんなにも心地良い。

 

 こんな世界を、生きていたいと。

 

 ――間違いなく、比名子は、そう思っていて。

 

「まったく、君の願いは本当に頑固ですね」

 

 仕方がない子だ、そう言うように、汐莉が軽くため息を吐く。

 

「生きたいと、そんな当たり前のことを思えるようになるために……まさか、呪いの頂点にまで至らなければならないなんて」

 

 冗談めかし、穏やかにくすくす笑う汐莉だけれど、比名子の心中は全く穏やかではない。

 確かに汐莉の望み通り、比名子は変わった。黒閃や幼比名子との邂逅を経て、比名子を包む世界が心地良いものだと知ってしまった。

 

 身に余るほどの強大な呪いが、比名子の在り方を強引に捻じ曲げた――曲がった先は、確かに汐莉の望む方向ではあるけれど。

 

「君がこのまま生きていれば……あの頃のように、笑えるようになりますか?」

 

 何気ない会話のようなトーンで投げかけられた質問。されどその内容は、汐莉の祈りの根幹を直接問いかけるような重大なもの。

 そんなことをさらりと問えたのは、きっと汐莉が比名子の答えを確信しているから。

 

 ――比名子は思い出す。先ほどの釘崎と伏黒、虎杖の感謝の言葉を。その時感じた暖かさを。胸の奥に溜まった澱が静かに解ける感覚を。

 それはかつての、人との関りを避けていた比名子じゃ決してわからなかったもの。

 

 たとえ関わりの薄い人でも、その人を助け、その人から心の底からお礼を言われることが、こんなにも心を温めてくれるなんて。

 

 今の比名子には力がある。それも、伸ばそうと思えば世界の端々にまで手を伸ばせるだけの大きな力だ。

 このまま呪術師として働き続ければ、きっと感謝してくれる人はもっと増えるだろう。そうしたら――、

 

 ――そうしたらいつか、比名子は心の底から笑うことが出来ると思う。

 

「……でも……それじゃ、汐莉さんとの“契り”が……」

 

 眩暈にふらつく頭を抱え、比名子は強く目を瞑る。

 彼女の瞼の裏に激しく交差するのは、あの雨の日に結んだ、汐莉との血の“契り”。

 

 比名子があの頃のように笑えたら、汐莉は比名子を喰べなければいけない――そんな、残酷無比な契約だ。

 

「まあ、君が途方もなく強くなってしまったので、この“契り”は決して果たせないものとなってしまいましたが」

 

 そう言って肩をすくめ、ゆるゆると首を振る。まるでこの契約が子供の指切りのように、取り返しのつくものだとでも言っているかのような軽さで。

 そんなことは、決してないというのに。

 

 ――呪いによって繋がれた比名子と汐莉の“契り”は、呪術で言う“縛り”と似たような強制力がある。一度喰うと契約したならば、汐莉は比名子を喰わなければならない。

 

 喰う以外の選択肢を、取ることが出来ない。――あの時結んだ血の“契り”は、そういう類のものだ。

 

 ――それなら、いっそ。

 

「汐莉さんは、勘違いしてるかもしれないけど……」

 

「?」

 

「……私は、まだ、生きたくないとも思ってる」

 

 比名子は今、生きたいと思っている。これは事実だ。どうしようもない。認めざるを得ない。

 ――けれどそもそも、比名子が生きたくないと思っていたのは、家族を大切に想っていたから。家族の死を、10年もの間悼み続けていたからだ。

 

 その哀惜の念は、世界に優しさを感じたところで消えることなどあり得ない。

 だから比名子は今も、生きたいと思う心と同じくらい、死にたいと思っているのだ。

 

「だから、だからね。私は、汐莉さんに食べられるなら……」

 

「――いいえ。勘違いしているのは、やはり君の方ですよ」

 

 楽な道を選択しようとし、頭の中で下そうとしていた妥協の結論。その逃げ場を塞ぐように汐莉が言葉を重ねてくる。

 有無を言わさぬ言葉の圧に思わず比名子が口ごもる。二の句が継げなくなってしまった彼女を後目に、汐莉は頬に指を当て、「ふーむ」と考えるそぶりをした。

 

「“縛り”と違って、言葉を介さぬ誓約だったからわかりにくいんですかねー」

 

「…………? 汐莉さん、それはどういう……」

 

「比名子。あの時結んだ“契り”は、妖怪と人とを結ぶ、血と血でつながる誓約です」

 

 汐莉が唇に寄せた人差し指。あの降りしきる雨の日、汐莉はその指に自らの歯を立て、血を流していたのを思い出す。

 

 ――妖怪は、“縛り”とは異なった方法で自他の間に契約関係を結ぶことが出来る。

 

 呪霊と似て非なる存在、妖怪。人ならざる姿を持ち、しかして肉体が呪力ではなくれっきとした血肉で構成されているそれらは、「その血でもって」人間と呪術的な契約関係を結ぶ手段を有している。

 

 具体的には、妖怪側が人間にその血を分け与え、人間の血を妖怪が取り込むという儀式を経て誓約を結ぶ。

 

 血は呪術的に非常に大きな価値を持つため、血を分け合うことによって成立する“契り”は強い力を持つ。

 それこそ、言葉を介して約束を交わし、“縛り”であることを明言する――そういった儀式を必要としなくとも、“縛り”と同等の制約力を持つほどに。

 

 ――だが、“縛り”と血の“契り”との間には、まだ異なる点がある。

 

「比名子。君は私が、あの時の契約に()()()()()()()()()……それを理解していますか?」

 

「え……それは、私があの時みたいに笑えたら、汐莉さんが私を喰べるっていう……」

 

「それ以外に、です」

 

 ――言われて、ふと思い至る。確かに比名子は、あの時汐莉が結んだ()()()契約内容を知らない。

 

 基本的には似たようなものである“縛り”と血の“契り”において、最大の違いはここだ。――すなわち、契約内容は「結ぶ側」だけが認識していればよく、「結ばされる側」はそれを理解している必要がないということ。

 

 契約内容の細部の詰め込みも、契約が果たされたと判断する匙加減も、全てが妖怪に委ねられている。そういう、理不尽な契約なのだ。

 

「……それじゃ、汐莉さんが盛り込んだ条件って……」

 

 手で口を覆い、深刻な顔で考え込んでしまう比名子。なぜだかそれを可笑しそうに見ている汐莉が、「ふふ」と微かに笑い声を漏らして。

 

「すぐわかると思いますよ。あの時の私の言葉を思い返せば」

 

 意地悪にもすぐに答えを教えず、比名子に回答させようとする汐莉。その口ぶりはまるで、幼子のような無垢な悪戯心がそのまま言葉になったかのようだ。

 

 言われるがままに、比名子はあの日を回想する。

 ざあざあと体を濡らす大粒の雨。比名子の絶望と失望をそのまま投射したような天気と、その時比名子に投げかけられた汐莉の言葉を、少しずつ――。

 

 

『君は絶望を耐えた先に希望を手に入れる。それに引き換え私は希望を育んだ後絶望を迎える。どちらが得をしているかわかりますね?』

 

 

『君が君自身で命を絶つことも、他の者に命を委ねるのも、私には耐えられませんからね』

 

 

『一度手放した君を、ちゃんと……喰べてやると言っているんですから』

 

 

『――幸福で、満ち足りた人生を、ある日突然為す術なく奪われる。それが君の望みだったはずでは?』

 

 

『君は言いましたよね。人の力ではどうにもならない、君の家族を飲み込んだ海のような、自らの命を絶対的に奪っていく何かを望んでいると』

 

 

 ……………………………………まさか。

 

 汐莉が、あの時盛り込んだ条件とは、まさか。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……?」

 

 空気が漏れるように、ぽろりと口から転がり落ちる、掠れかけた比名子の言葉。

 

 その答えに得心したかのように、汐莉は一つ頷いて。

 

「本当に。……あの時と、立場が逆転しましたね」

 

 

--------

 

 

「待って、待って、待って、待って、待ってよ……!!」

 

 足音が遠く響く、静かな高専の廊下。正午の陽光が線となって窓から差し込む穏やかな場所で、混迷と焦燥に満ちた比名子の声が乱反射する。

 手で髪をぐしゃぐしゃにし、全身から滝の汗を流す彼女の姿は誰がどう見ても正常ではなかった。

 

 彼女がこれほど取り乱している原因。それは、

 

「私を喰べたとしても、汐莉さんは……」

 

「契約条件未達成による“(ペナルティ)”を受けるでしょうね」

 

 途切れ途切れの比名子とは対照的に、汐莉の言葉ははっきりとしていた。

 

 きっとそれは、本来ならば取るに足りなかったもののはずだ。

 人が妖怪を超えることなど本来はあり得ない――そんな誰でも理解できる常識に根ざした、あってもなくても構わなかった、そのはずだった、誓約。

 それが今、どうしようもなく汐莉の首を絞めている。

 

 儚げな笑みで遠くを見つめる汐莉の姿は、月光を受けた夜海みたいに穏やかで、どこか寂しくて。

 

「…………駄目」

 

 汐莉が迎えようとする終わり――それを当人が受け入れていても、比名子はそれをどうしても、どうしても、受け入れられない。

 

 自分を死なせてくれるから、そのために利用できるから、そんな話ではないのだ。

 

 だって比名子にとって汐莉は、とっくに――、

 

「まあ、あるんですけどね。この契約をなかったことにする方法」

 

「ぇ――――」

 

 遠い目をしていた汐莉が不意に振り返り、しれっと言った。

 嘘吐きでひとでなしな彼女だけれど、今頬を彩るにっこりとした笑顔には、嘘が宿っていないように思える。

 

「ほ、本当に?」

 

 比名子は呆然と汐莉の顔を見返し、ただ無意識に確認の言葉を零すことしかできない。

 汐莉と交わした血の“契り”、それをどうやって踏み倒すのか、比名子には全く思い浮かばないからだ。

 

 望んだわけではないが、比名子は呪いの才を、おそらく歴史上でも五指に含まれる程に持ち合わせた傑物だ。

 その実力が高いのは勿論、呪力自体の応用や“縛り”の有効な使い方、そういう呪術に関連する事象を最善に、最適に活用する方法を感覚で理解できる。

 だから――わかる。汐莉との契約はれっきとした呪いで、如何なる存在でも決して逆らうことのできない絶対の摂理であると。

 

 ――それとも、実はあるのだろうか。

 

 比名子が契約の仔細を知らなかったように、汐莉だけが認知している、契約破棄の手段があるのだろうか。

 呪いの頂点に指をかけた比名子にすら思い浮かばない、何か画期的な手法を、汐莉は考案してくれているのだろうか。

 血の契りを結んだあの日のように、たとえ一時しのぎであっても、比名子の心を和らげてくれる何かを――、

 

「一つには、私が君を喰べる――それ以外の方法で、君が命を落とすこと。もう一つは、」

 

 

 

「――私が、命を落とすことです」

 

 

 

 ――――――。

 

 ―――――――――。

 

 ――――――――――――――――――え?

 

「例えば、式神や呪いを術師が調伏しようとする際、それらの片方が破壊されてしまった場合、その調伏の儀は無かったことになります。当然ですよね、物理的に契約を結べなくなるわけですから」

 

「何を……何を、言って、るの……?」

 

「呪いによる契約関係は、大体がそんな感じ。“縛り”であっても特殊な結び方でなければ破棄されると思います。――妖怪と人による血の“契り”も、勿論例外ではありません」

 

 言葉の意味は、分かる。一つ一つの単語も聞き取れている。

 なのに。汐莉が何を言っているのか、何を言われているのか、それらが頭で繋がらない。脳のどこかが、必死で拒絶している。

 

「とはいえ、私は不死身です。たとえ超強力な攻撃で粉々に粉砕されたとしても、厳密には死んではいません。まあ、再生にはどれほどかかるかわかりませんが」

 

「ぁ…………ぅ…………」

 

「けど君の術式反転、あれはいい。あの、太陽のような熱と光の顕現……灰すら残さず消滅してしまえば、いくらなんでも死ねるでしょうし」

 

 

「――どうせ死ぬなら、私の命は君に委ねたいですし」

 

 

 脳が、心が、本能が、それだけは認めるなと絶叫しているのに。

 比名子の口だけは、縫い留められたように動かない。

 

 否定しなければ。それは駄目だと拒まなければ。

 なのに、その言葉が絶望的過ぎて。その未来が恐ろしすぎて。比名子の喉はその恐ろしさに凍り付いてしまったように、言葉を奥に閉じ込める。

 

 やめてと、心の中で強く叫んだ。心の中でだけだから、汐莉には届かなかった。

 汐莉に届かないから、汐莉の言葉も止められない。

 

「――家族と同じくらい愛したものを、手にかける悲しみを。傷を――君にも背負ってほしい」

 

 そして、ついに、それが口にされる。

 比名子が今まで、汐莉と育んできた、かけがえのない関係性。

 

 ――そこに致命的に爪を立てる、決してあってはならない言葉が。

 

「君が心の底から笑った時。血の“契り”に従い、私が君を喰べに来た、その暁には」

 

 

 

「――君を殺そうとする私を、君がその手で殺してください」

 

 

 

 




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