死滅回游 泳者 八百歳比名子   作:螺旋坊主

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第27話 虎杖悠仁と八百歳比名子 (前)

 

 

 

 ――卑怯者という言葉が、頭の中で反響する。

 

「……………………」

 

『君を殺そうとする私を、君がその手で殺してください』

 

 ――契約者が死ぬことは確かに、呪いの契約を破棄するには一番簡単なやり方だ。

 このまま比名子が呪術師として働いて、多くの人から感謝されて。それで心から笑えた時、汐莉は血の“契り”に従い、比名子を狙う殺戮人形と化すのだろう。

 かといって、今の比名子が汐莉の歯を、爪を受け入れたところで、契約の内容「絶対的な力で汐莉が比名子を喰らう」を満たしたことにならず、契約不履行による“(ペナルティ)”を汐莉が受けることになる。

 

 比名子が喰われようが喰われまいが、汐莉の心も体も無事では済まない。

 だったらいっそ、契約自体をなかったことにしてしまおう――汐莉がそう考えるのも、分かる。そして、今の比名子が汐莉を殺せるだけの力を持っているのも、分かる。

 

 けど、ダメだ。それは、ダメだ。

 汐莉の言葉を、汐莉の意思を、呑み込もうとして、呑み込めなくて。理解しようとして、理解できなくて。受け入れようとして、受け入れられるわけがなくて。

 ダメって言わなくちゃ。なんでダメなのかはわかんないけど、でもダメなものはダメ。ダメだからダメ、ダメったらダメ、ダメなんだってば、ダメ、ダメ、ダメダメダメダメダメダメダメダメ――って、言おうとしたのに、口がうまく動かなかったから。

 

 だから、比名子はその場から逃げた。

 

「……………………」

 

 術式を起動させ、高専の壁を勢いで突き破り。まだ何か言いたげだった汐莉の視線を引きちぎり、わけもわからぬまま空を飛び。

 めちゃくちゃのめちゃくちゃになった頭の中をもっとごちゃごちゃにしながら、どこに行くでもなく、どこに着くでもなく、すごい速さで空を泳いだ。

 

 そうして、自分がどこにいるかもわからなくなって、どこにあるのかもわからない森の、何の木とも知れない木の下に座って(うずくま)っているのが今の比名子だ。

 

「…………あぁ」

 

 小さな吐息。木の葉がささめく微かな音にすら呑まれて消える、そんなか細いため息に、自身に対する呆れと蔑如がありありと込められている。

 

 ――涼しい木陰で頭が冷えて、混沌としていた脳内がようやく整理できたことで、分かった。

 正確には、思い出せた。なんで比名子が汐莉の言葉をあれほど否定したかったのか。受け入れられなかったか。

 

 ――――少し前。9月の文化祭準備の時、比名子が校舎の内で妖怪に襲われたことがあった。

 

 比名子がまだ呪いに目醒めていない時期の話だ。当然、そんなものに襲われれば比名子は喰い殺される。

 とはいえ、ソレは側にいた汐莉に比べれば大したことのない妖怪。小鼠を払うくらいの労力で蹴散らすことのできる、そんな程度の存在だった。

 

 しかし、それにもかかわらず汐莉は――汐莉の心臓は、比名子を喪う恐れに早鐘を打っていたのだ。

 

「私は――――」

 

 馬鹿な比名子は、心のどこかで勘違いしていた。妖怪(しおり)は自分とは異なると。長命である彼女が比名子の死に悲しんだとて、それはほんのひと時にすぎないのだろうと。

 でも、違うのだ。比名子が家族を喪って10年、片時もあのひとたちを忘れられなかったように。

 ――比名子が家族を愛していたように、比名子を愛する汐莉は、比名子の喪失を決して忘れられないのだ。

 

 そんな簡単なことにも気づかず彼女を傷つけてきたこと、それを自覚した比名子はどうしようもなく罪悪感を抱き、そして自責した。

 

 ――自責した。後悔した。申し訳ないと、比名子は汐莉にそう思ったのだ。

 もしも比名子が彼女のことを、人とは違う妖怪(ひとでなし)にすぎないと。その程度の認識をしていたなら、汐莉が何を想っていようと何の感慨も抱かなかったろう。

 

 でも、比名子は後悔した。それはなぜか。そんなこと、分かり切っている。

 

 だって、比名子は。たった数ヶ月の間でも、大切にされ、優しくされたから。自分のことを、ひたすらに想ってくれたから。

 そんな汐莉のことが、比名子は――、

 

「――こんなにも、大切なのに」

 

 ああ、自分はなんて浅はかなのだろう。なんて恥知らずで、卑怯で、唾棄すべき存在なのだろう。

 汐莉は、約束してくれたのに。汐莉の抱く想いの大きさを理解して、それでもなお死を選ぼうとする比名子を、彼女は受け入れてくれたというのに。

 

 いざ立場が逆になって、汐莉に命を委ねられた時。

 

 ――比名子は、それを、受け入れることが出来ない。

 

「…………最低だ……もう、消えたい…………」

 

「――随分嫌なこと言うんだな、八百歳先輩」

 

 際限なく心が沈む比名子に、不意にかけられる声。

 ゆるゆると泣き腫らした顔を上げた時、目に入ったのは明るい髪と、目元と口に残る傷。

 

「……虎杖、君?」

 

「よ。多分俺が一番乗りかな」

 

 小さく手を上げ、軽い口調で笑いかける高専生――虎杖悠仁が、そこにいた。

 

 

--------

 

 

「先輩が近江と出ていったあと、残った俺達でどうするか話したんだよ。で、何か込み入った事情があったっぽいし、釘崎のことも心配だったから、とりあえず皆で待っとこうってことになったんだ。そしたら廊下からすごい音が聞こえてきてさ」

 

 比名子を気遣うとか、腫物を扱うとか、そんな様子は見せずに気さくに話してくれる虎杖。

 それはきっと、虎杖なりに気を遣ってくれている証拠だろう。心を病んでいる人にとって、それを下手に気にするような態度は毒になることがある。

 比名子もそう。事故の後も明るく接してくれた美胡のように、虎杖のその態度は、比名子にとって有難い。

 

「――そんで、見てみたら廊下に大穴開いてて。そこにいた近江に事情聴いたら、『お話してたら飛んでっちゃいました☆』とか言い出してさ。何やってんだー! って伏黒が怒っちゃって、大急ぎで動ける三人……俺と伏黒と近江で先輩を探してたんだ」

 

 一応釘崎の側には社がついてるよ、という補足もつけて、虎杖は比名子が逃げた後の事を説明してくれた。

 

「そうなんだ…………ごめんね。私、皆に迷惑かけちゃってる」

 

「いいよ。逃げたくなることも蹲りたくなることも、呪術師やってたらいくらでもあるし。――それに先輩は、仲間が大切にしてる人だから」

 

「――――」

 

 柔らかい笑顔で語り掛けられた言葉、その最後に付け加えられた部分。

 この死滅回游において虎杖と同行していた仲間、そして比名子を知っている者。該当する人物と言えば、それは汐莉しかいない。

 

 ――広島結界に侵入して12日目、襲来してきた禪院真希と死闘を繰り広げたことを思い出す。

 

 美胡が殺されかけていて、比名子が頭に血を昇らせていたのもある。だがあの戦いが起こった要因は、呪術師にとって「妖怪≒呪霊」の認識が成り立っているからだ。

 あの時はたまたま冥冥が、美胡の人助け姿という動かぬ証拠をビデオに収めていたからこそ、奇跡的に和解できただけだ。それほどまでに、妖怪に対する偏見は根深い。

 ――それでも、虎杖は汐莉を仲間と認めてくれている。

 

「――ありがとう。優しいね、虎杖君は」

 

 分けてくれた優しさに、比名子は素直に感謝する。

 だが、気持ちが沈んでいるせいで、浮かべた笑顔はぎこちなかった。

 

 そんな状態だから、今の比名子には会話のキャッチボールをする気力がない。

 比名子の感謝の言葉、それっきりで会話が停止する。空気が停滞し、気まずい沈黙が場に横たわる。

 ――不意に、空気を切り裂くように。

 

「――良ければさ。話してくれないか、先輩に何があったか」

 

「――――」

 

 蹲った名残で体育座りをしている比名子の視線に合わせ、しゃがみ込んだ虎杖。その眼差しに、まっすぐに射抜かれる。

 

 ――綺麗な、瞳だった。

 

 呪い呪われ、悪意に満ちた世界に身を置いているとは思えないほど、濁りが無く、迷いがない。

 意思を貫く強い人間だけが宿せるまっすぐな光が、目の奥で静かに燃えている。

 

「先輩の事情は、天元様や近江から少し聞いてる。でも、俺は先輩の口からも聞いておきたい。先輩がどんな人で、近江とどういう関係なのか」

 

「…………」

 

「これから一緒に戦う人のことは、できるだけ知っておきたいんだ」

 

 生い立ちも、彼女が抱く希死念慮のことも承知の上。それでも他人からの伝聞ではなく、本人の言葉からしかわからないものもある。

 その人が何者か、判断するならその人から。東京第1結界で、虎杖が汐莉を理解しようとしたように。

 今の虎杖は真剣に、比名子と話そうとしてくれている。

 

「――――」

 

 責められているわけではない。睨まれているわけではない。

 それなのに目を逸らしそうになるのは、その目があまりにも眩しかったから。

 言い訳も、誤魔化しも、そんなものを全部見透かして、心の奥底へ届いてしまいそうなほどに。

 

 かつての比名子の笑顔が、自らの心の内側に招き入れる輝きを持っていたのだとすれば。

 虎杖の瞳は、相手の心の内側に自ら入り込んでゆく眩さに満たされていた。

 

 ――その眩さに背を押され、ぽつりぽつりと、比名子は自らの事情を口にしていく。

 

「――――私は――――」

 

 

--------

 

 

「……そうして、汐莉さんの言葉を受け入れられなくて。汐莉さんを殺したくなくて……私は、ここまで逃げてきたの」

 

 ゆっくり、たどたどしく、つっかえながらも、比名子は事情を説明し終える。

 虎杖はその間、口を挟まずに黙って比名子の言葉に耳を傾け続けていた。

 

 生い立ちはともかく最後の方は、自分で言っていて反吐が出そうになった。

 大切なものをその手に掛けさせる辛さ。何も考えずにそれを汐莉に叩きつけ続けておきながら、自分がその立場になった途端それを拒絶する卑怯さ。

 

「善人だとか、恩人だとか。貴方達は、私のことを()()()()みたいに扱ってくれたけど……私は、全然そんなんじゃないよ」

 

「…………」

 

「そのひとが私のことを、本当に……私が家族(みんな)を想っているくらい、大切に想ってくれていることも。私を喪うことが怖くて辛くて悲しくて、どうしようもなく苦しんでいることも。心臓が早くなってるのを聴くまで理解出来なかった……最低のひとでなしで」

 

「…………」

 

「――だからもう、汐莉さんを助けられるなら、死んじゃったほうがいいのかな、って……」

 

 ――汐莉の言っていた、血の“契り”を破棄する。もう一つの条件。

『汐莉が比名子を喰べる以外の方法で、比名子が命を落とすこと』――それは、自殺であっても満たされるはずだから。

 

 

 何を言ってるんだろう、と思う。どれだけ恥の上塗りをするんだろう、とも思う。

 比名子は今、言ったのに。自分の死が、彼女たちを苦しめると。

 それなのに自決を選ぼうと口にするなんて、どうかしているのに。

 

 

「……………俺の爺ちゃんの病気は肺癌から始まったんだけど、結構早い段階で副作用が強いキツめの治療を拒否したんだ」

 

 長い沈黙の果て、虎杖が比名子に声をかける。話すたびに血の底に沈む心に合わせて下に落ちていった比名子の視線が、その声で再び前を向く。

 虎杖の目は、話を聞く時と全く変わらず、直視できないほど眩しかった。

 

 どんな善人でも心底軽蔑するであろう内容だった。あれほどまっすぐで眩しかった虎杖であろうと、きっと比名子の厚顔さを嫌悪し、罵声を浴びせるだろうと。

 そう思っていたにもかかわらず、かけられた言葉はそれとは全く違う、自分自身の家族の話で。――そして、心底穏やかなもので。

 

「俺は体が丈夫だから、そういう治療を拒むとか。たまに聞く安楽死の話とか、いまいちピンと来ないというか、どこか他人事だったんだ。俺なら我慢できるけど、本人は辛いんだろうな、って」

 

 その話の意味も、どうして今それを話しているのかも、比名子にはわからない。

 わからないけれど、虎杖の発言の一言一言が、心に強く訴えかけてきて。比名子はその言葉を、聞き逃すことが出来なくて。

 

「でも高専に来て、最悪の思いをいっぱいして。これが延々続くって考えたら、爺ちゃんとかどうしようもない現実にぶつかった人達の選択に共感できるようになった。――だから、」

 

 

 

「――だから八百歳先輩に、生きろなんて言えない」

 

 ――その言葉を、比名子は全く予想できなかった。

 

 

 




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