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――人は、正しさだけでは救えない。
八百歳比名子が10年前に家族を喪っても自殺を選べなかったのは、彼女の頭に残る「――比名子だけは生きて」という家族の声に縛られていたからだ。
家族の声。最期に残された願い。呪いにも似た祈り。その言葉だけが、壊れた少女を世界へ縛り付け。その言葉を裏切りたくないから、死にたくても死にたくても、比名子は深海のように冷たい世界をただ生きてきた。
――だからこそ、その声が幼少の頃に出会った近江汐莉の願いによるものであったと知った時。
家族の願いだから守ってきた、家族の言葉だから裏切れなかったものが嘘っぱちだと知った時、比名子はその命を自ら投げ出そうとした。
比名子の心がそんな絶望の底に堕ちた時、社美胡はただ抱きしめ、寄り添った。
下手な慰めの言葉をかけずに比名子を気遣い、家族を想ってくれる優しさは本当に、本当に、本当に、本当に嬉しくて、有難いものだったけれど――それでは、比名子の命綱にはならなかった。
そうして命を
それは、比名子がかつてのように笑えば喰うという、期限付きの一時しのぎ。誰かを救おうとする手段としては落第どころか論外で――それでも、その約束だけが比名子の手を掴んだ。
心の壊れた人間に正しく接しろと問われた時、どちらの行動が正しいかと考えたら、それは間違いなく美胡の方だろう。
それでも。――それでも、結果的に効果があったのは、汐莉の行動の方だった。
正しい行動をしても、人間は正しい方向に行くとは限らない。
――世界が求める正解と、目の前の誰かが求める救いは。
時として、恐ろしいほど食い違うのだから。
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『八百歳先輩に、生きろなんて言えない』
虎杖が顔を歪ませながら零したそれは、比名子の心の中にするりと入り、染み渡る。
罵倒ではなかった。死ぬなと、比名子を想ってくれている人達のために生きるべきだと、そういった叱咤激励ではなかった。
きっと、褒められたものではない。その言葉は無力さが滲んだ不器用な本音でしかなくて。
生きろと言う方が、言葉としてはきっと正しくて。
――それでも、それは、どうしようもなく比名子の心を震わせた。
「貴方、は…………」
「――――」
「私が……自分で命を絶っても、いいと思うの? そのせいで、汐莉さんや美胡ちゃんが苦しんでも……傷つけちゃってもいいって、そう思うの?」
目を見開き、震える声で、虎杖の思いを確かめるように。
自分でも気づかぬうちに、縋るような響きを混じらせながら、比名子が問う。
――否、それは問いかけではなく、確認だった。ずっと自分を縛り続けてきた鎖、「自分を想う人のために、自殺しちゃいけない」という信念を否定してくれる人間など本当に存在するのか、比名子は確かめたかった。
「…………いや、そりゃ、良くはないだろ」
頭を掻きながら虎杖が放った言葉。
ばつの悪そうに答えられたそれは、拍子抜けするほど普通だった。
断罪でもなく、肯定でもなく、ただの飾らない本音だ。
「近江は俺の仲間だし、アイツは先輩が死んだら寂しいだろ。そういう思いをさせるような真似は、できればしないでほしい。俺だって本当はそう思ってる」
「…………」
ぽつりぽつりと一つずつ、虎杖悠仁は石を積むみたいに言葉を並べていく。
比名子はじっと、息をすることすら忘れたみたいに、聞き続ける。
「でも、先輩だって、どうしようもない現実にぶつかった人だ。家族が死んで苦しいのに、その上友達を殺すしかなくなって、それは自分が死ねば回避できるっていう状況で。そんな所まで追い詰められた人が最後に何を選択しても、責められねぇよ。……少なくとも、俺は」
一つ一つ、言葉を選んで話してくれる虎杖。表情は苦々しげだけど、その口調は穏やかだ。
強い肯定でも、絶対的な支持でもない、弱弱しい寄り添い。――けれどその寄り添いが、沈んだ比名子の心を、ほんの少しだけ浮上させる。
虎杖が、比名子の「生きたくない」という思いを肯定したと、比名子は最初そう思った。
そうじゃなかった。虎杖は死を肯定したわけではない。ましてや生を肯定したわけでもない。
彼はただ、比名子の苦しみを否定しなかった。ただ、それだけだった。
汐莉と比名子の、二人きりの話し合い、その2回目を思い出す。
――汐莉はあの時、「生きていてほしいが、比名子の願いは変えられないから仕方ない」と言った。
きっと、汐莉と虎杖の違うところはそこじゃない。
汐莉は比名子の死にたい思いを「最悪だ」と言った。
――でも虎杖は、「良くはないが、悪くもない」と、言ったのだ。
比名子が今まで断腸の思いで切り捨て続けた自死の選択肢――それを選ぶことは、許されないことではないと。
虎杖は、そう言ったのだ。
「――勝手なことを言ってくれますね、悠仁」
不意に虎杖の背に突き刺さる、凍てつくような冷たい声。
わずかに和らいだ空気にぬるりと滑りこんだその声に虎杖が振り返ろうとし――鋭く長い人魚の爪が彼の喉にあてられ、動きを封じられる。
ぞっとするほど美しい笑みを浮かべながら、虎杖の命を握る者――言うまでもなく、比名子を探しに現れた汐莉だった。
「比名子が自死を選ぶことを、悪いことではないだなんて」
声音は静かなのに、そこに含まれた圧力は尋常ではない。
海の底、何千何万トンもの海水が頭上から押し潰してくるような重さ。その感情の全てが、虎杖という少年へ向けられていた。
「……そこまでは言ってねぇよ。ただ、死に方に良いも悪いもないって、今はそう思ってるだけだ」
押し当てられた爪をぐい、と手で押し返し、虎杖は言葉を返す。
「犬の散歩とか家族を養うとか、生きる役割なんてなんだっていい。そんなもの無くても、病気で寝たきりでも、自分の人生で何も残せなかったとしても」
虎杖は言葉を探す。
決して器用な人間ではない。だから綺麗な理屈は出てこない。ただ、自分の中にあるものを一つずつ拾い上げる。
「その人を形作る、思い出よりも小さな記憶の欠片がどこかに漂っているだけで――人の命に価値はあるんだよ」
「…………私に喰われようと、自ら命を絶とうと。私が比名子を記憶している限り、比名子の命に価値はあると?」
「……今は、そんな気がしてる。これが本当に正しいかは分からんし、間違ってるのは俺の方かもしれないけど」
虎杖はあくまで自分の主張を提示するだけに留め、それが正答だとは決して言わない。
ただ、まっすぐに自分の言葉を重ねる虎杖に対し、汐莉は「は」と嘆息し、
「私は、そうは思いません」
即答だった。
迷いの欠片もない。
「人間とは、喰えばなくなってしまう。なくなれば、輝きも失われる。思い出が私の中で微笑んでいても、それは所詮思い出です。誰かを“内側”に招き入れてくれることはない」
記憶では足りない。回想では足りない。写真でも足りない。長い長い孤独の果てに辿り着いた結論は、何人たりとも崩せない。
「何より、思い出はこの世界を生きていない。――私の願いは、比名子が1秒でも長く存在し続けること。存在していなければ、意味がない」
虎杖に爪を立てながら、ばっさりと虎杖の言葉を切って捨てる。
二人の思想は水と油だ。死んでも残るものに価値を見出す虎杖と、生きていることそのものに全ての価値を置く汐莉――比名子という界面を背にして、二人の思いは二つに分断されている。
けれど、その両方に触れた比名子だけは知っている。
――虎杖の言葉も、汐莉の言葉も。誰かを傷つけるためのものではなく、ただ、自分という人間を想って差し出された、不器用な手であることを。
「ところで、八百歳先輩が言ってたけど……高専から逃げる前、
「……この状況でそれ聞きますか?」
ふと思い出し、ぽいと投げかけられる素朴な疑問。
喉に爪の先を突きつけられながら虎杖が尋ねたそれに、汐莉は呆れ、それからほんの一瞬迷ったような色を浮かべて。
「――自嘲です」
「……?」
ぽつりと一言、零れ落ちるように漏らされた言葉に、虎杖と比名子は揃って首を傾げる。
汐莉の言葉の意味が分からない。彼女が自分を貶めるようなことを言った覚えなど、比名子にも虎杖にもなかった。
そんな二人の様子を見て、汐莉は「だって」という硬い言葉に続け、
「――『君が私を殺せ』と言ったことが、君の笑顔を遠ざけてしまったんでしょう?」
「――――」
――ああ、そうか。
汐莉が欲しているのは、あの時のように比名子が汐莉に笑いかけることだ。海辺で出会った頃のような、何も知らなかった頃のような、比名子のあの笑顔だ。
たとえそれが、汐莉の死に繋がろうとも。そんなことはどうでもいいくらい、彼女はあの笑顔を欲していた。
なのに、比名子が大切にしている汐莉を、比名子自身が手にかけることを強制してしまっては。
――笑えるものも、笑えなくなってしまう。そんな当たり前のことに気付かなかったことを、汐莉は自嘲しているのだ。
「私は……
「え……?」
「思っていた以上に私は、君に大切にされていたみたいですね?」
笑顔で、汐莉はそんな当たり前のことを言った。
漫画であれば、にぱっ、という擬音が横に出てそうな能天気な笑顔。それに、比名子はきょとんとした顔を晒す。
目を丸くして、口を少し開けて、何を言われたのか理解が追いついていない子供みたいな顔。虚を突かれ、びっくりした時、比名子はこういう顔をする。
――ただ、今の汐莉の目についたのは比名子の顔ではなく、
「えー…………」
思いっきり顔をしかめ、呆れ、困惑、若干の引き気味、全部混ざったような表情をする虎杖であった。
「何ですか悠仁、その顔は。喉笛を掻き切りますよ?」
「いや、オマエ……今まで分かってなかったの? そんなことも?」
会ったばっかの俺でも分かってたぞ、それくらい。と、虎杖。
雨の中でずぶ濡れになりながら「湿っぽいな」と真顔で言いだす馬鹿を見たような、そんな呆れ切った表情の虎杖に、汐莉のこめかみがぴくりと動く。
明らかに腹が立っている。けれど反論できない。そんな微妙な沈黙の中、
「――ごめんね」
「……? 何の謝罪ですか?」
「…………私の、気持ち。汐莉さんは私に、あんなにたくさん大切だって伝えてくれてたのに。私は、全然だったから」
体育座りのままスカートをぎゅうと握りしめ、比名子が頭を下げる。
心底申し訳なさそうに、情けなさそうに、けれど誤魔化しのない謝意を伝えられた汐莉は、少しだけ目を細める。
そして、
「いいんですよ」
いつも浮かべている明るい笑顔で答えた。
無理をしていない自然な笑顔。だからこそ比名子は顔を上げる。
「…………」
「比名子の気持ちは、私への想いは。――今、十分伝わりましたから」
――ああ。
汐莉の笑顔を見て。汐莉の比名子への気持ちを改めて受け止めて。
今、決めた。わかった。はっきりと確信した。
自分が何をすべきで、今生きている役割がなんなのか、正しく理解した。
私は。
――生きなければならない。
「やっぱり私、自殺はしない」
「――――」
「私のことを、こんなにも大切に想ってくれてるひと達がいるから」
かつて比名子が信じていた「比名子だけは生きて」という、家族の声だと思っていたものを、裏切れなかったように。
でも――、
「今日、私が取ろうとしかけた誤った方法を。虎杖君は否定しなかった」
比名子は正面、未だ汐莉に喉を握られたままの虎杖をまっすぐに見る。
「それも一つの選択だって、本音で言葉をかけてくれて」
「――――」
「そういう寄り添い方もあるんだって……私は知ることが出来た」
たとえ、比名子が死を選んでも。汐莉や美胡の心の傷を無視し、ただ自分が楽になる道に走ったとしても。
今を生きる誰もが軽蔑し、糾弾し、屍を晒す惨めな比名子を指さし嘲笑ったとしても。
――世界中で、少なくとも一人。
かつて汐莉に
あと少しだけ、ほんの少しだけ、もう少しだけ、頑張れる。
美胡のようにただ寄り添うのが悪いと、そう言いたいのでは決してない。
ただ、大切な存在を殺すしかなくなって、自分が死ねば回避できるという限界状況に追い込まれた人間をどうにかしなければならない。そういう場合に限って言えば――今回は、虎杖のやり方が有効だった。
ただ、それだけの話だ。
「――君の言葉が比名子にどう影響したか知りませんが……ま、比名子が今にも死にそうな所から戻ってきたので、良しとしましょう」
そう言って、汐莉は虎杖の首から手を離し、爪も腕を覆った鱗も元に戻す。
虎杖は首の爪が接触していた部分をさりさりと触り、血が出てないことを確認する。それでもかすり傷は出来ていたのか、少し痒そうにカリカリと患部を掻いた。
その様子に比名子が少しだけ笑って。
それから立ち上がり、服に付いた埃を払う。
「――さっきまで、私の事ばっかり話しちゃったけど」
高専へ向け、歩き出す三人。横に並んで歩く中、その左側にいる虎杖に、真ん中の比名子が腰を曲げて顔を合わせ、柔らかく微笑みかける。
「私より年下なのに、どうして虎杖君は、あんな風に人に寄り添えるの?」
「…………」
「私と共闘するのに事情を知っておきたいなら……良ければ、今度は貴方のことを教えてほしいな」
「……まあ、俺だけ何も喋らないのもフェアじゃないよな」
そんなことを言って、虎杖は高専に着くまでの間にゆっくりと話す。
生まれのこと。
祖父のこと。
宿儺のこと。
自分のせいで人が大勢死んだこと。
――そのあまりの壮絶さに比名子の顔が再び死に、隣を歩いていた汐莉ですら笑顔を引きつらせていたのだった。
Q、伏黒どこ行った?
A、あいつ空飛べるから逆に遠くまで行っちゃった。ごめんな伏黒。
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