――雷鳴が響いていた。
轟音、轟音、また轟音。
まるで積乱雲が地上に降りてきたかのように、一定の間隔もなく落雷に似た破壊音が道場の外から響き渡る。
地面が砕ける音。骨が砕ける音。肉が潰れる音。
そんな不快なノイズが耳に届く度、社美胡という妖怪の呪力が削り取られていくのを、日車寛見は感じていた。
命の灯が消えていくのを感じる。
外で何が起きているのかなど見なくても分かる。
鹿紫雲一は本気だ。
そして、社美胡は抵抗していない。
「――――」
視線を巡らせると、その場で頭を抱えている八百歳比名子が目に入る。
耳を塞いで、目には涙が滲んでいる。外から響く轟音を聞く度、肩がびくりと震える。
日車が訳も分からず広島結界に飛ばされた時、比名子が宿儺やあざみと戦う姿はこの目で見た。
だからこそ断言できる。比名子がその気になれば、鹿紫雲一など鎧袖一触にしてしまえると。
彼女だって、それくらい分かっているはずだ。――だが、それは出来ない。出来るはずがない。
だって、今美胡に降りかかっている暴虐は、紛れもなく彼女の自業なのだから。
助けられるが、助けられない。止められるが、止めるわけにはいかない。そんな矛盾に押し潰された顔をしていた。
「――いいんですか?」
ふと、地獄の底に沈んだような道場の空気を、場違いなほど普段通りな声が切り裂く。
せわしなく彷徨わせていた日車の視線は、その声の出どころ――いつもと変わらぬ様子の微笑みを浮かべる近江汐莉に止まる。
「へ…………?」
頭の中の歯車が止まったかのような無理解を携え、比名子が顔を上げる。
彼女は、ぽかん、という擬音が聞こえてきそうなくらい、何を言われたか理解できていない子供の顔をしていた。
「このままだと、美胡は死にますよ」
その無理解に構わず、汐莉は容赦のない追撃を加える。
現実をそのまま言葉に変えた一撃に、間の抜けた比名子の顔がはっきりと引き歪む。
「ぁ…………わ、私は………………」
頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃと乱し、先程以上に強く強く葛藤する比名子。
悶え苦しむように思い悩む比名子を見ていられなくて、大人のくせに何もできない自分が情けなくて、日車はまた視線を逸らす。
腕を組み、無表情を貫く禪院真希は何も言わず、汐莉の言葉を止めもせず、ただ比名子達を横目で見ている。
彼女とて、仲間として行動してきた美胡が惨殺されるのを歓迎するはずはない。彼女はただ比名子の意思を汲み、鹿紫雲への介入をしないというだけ。
であるなら、比名子にも美胡にも近しい汐莉が、比名子の意思を曲げさせる分には構わない。そういう事なのだろう。
そうだ。ここにいる誰しも、こんな悲劇を心から望んでいるはずがない。
少し視線を動かせば、釘崎はぎりりと手を握りしめているし、虎杖は暗く目を伏せているし、それに――、
「――――ぁ?」
待て。
今、自分は何を見た?
日車がその目にした光景に、今、何か致命的な違和感を覚えた。
苦悩する比名子――違う。
微笑み、選択を迫る汐莉――違う。
二人の動向を見守る真希――違う。
やるせない思いに支配される釘崎――違う。
暗く目を伏せる虎杖――そうだ、オマエだ。オマエの、その目だ。
あれほど眩く、とても見られなかった目を――今、日車は普通に見ているのだ。
『ああ、俺が殺した。これは嘘でも否定でもない』
思い出す。東京第1結界、そこで起こった虎杖の戦い。
虎杖の裡にいた悪魔・両面宿儺が引き起こした大量虐殺。
その罪を、自分が弱いせいだと、一身に背負った、あの目を。
逃げず、誤魔化さず、弱さという罪に向き合いながら歩き続ける君の目が、眩しかった。
醜く弱い、尊ぶべきその穢れと共に在る君の目の眩さに、自分は目を向けられなかった。
だのに、何だこれは?
今の君の姿は、あまりにも陰っている。
あれほど直視できなかった眩さが、嘘のように息を潜めている。
それに、気づいた瞬間――、
――体が、勝手に動いた。
「日車?」
虎杖が顔を上げる。他の面々も顔を上げる。
だが、もう遅い。術師の成長速度は一定ではない。ふとしたきっかけで、心境の変化で、全てが繋がることがある。
日車の足が空を踏む。真希が駆使する、空の“面”を捉える移動法。
それを一瞬でマスターした日車の前では、誰の制止も間に合わない。
視界が流れる。木々が置き去りにされる。
轟音の中心へ、鹿紫雲一と社美胡の元へ、一直線に飛んでいく。
――これでよかったのか?
――八百歳の意思に反していないか?
――自分ごときが、あの場に介入する資格があるのか?
頭の中はぐちゃぐちゃで。
それでも、足だけは止まらない。
「領域展開――」
何を裁く。誰を裁く。そんなことすら決まっていない。
それでも――、
「――――誅伏賜死」
世界が反転する。空が消え、森が消え、雷鳴が遠ざかる。
――そして、その場にいた全員を、迷いと混乱と後悔ごと、裁判の領域が吞み込んだ。
--------
――自らの指先と美胡の頭を走る紫電が消えるのを感じ、鹿紫雲一は舌打ちをした。
「……何の真似だ?」
不機嫌に唸るように、鹿紫雲の
ただでさえ腹の虫が治まらない鹿紫雲は、その彼の姿を見てさらに苛立ちを深める。彼の表情が、あまりに苦悶に満ちていたからだ。
戦場において、迷いを宿しながら相手と相対することは即ち死を意味する。呪術においては尚更だ。
戦いの世に生き、己が強さを重んじ、己が強さゆえに葛藤を続けてきた鹿紫雲にとって、日車の姿は自分への侮辱そのものだった。
「……別に、体が勝手に動いただけさ。ただ」
自らを嘲るように笑う顔。震え、つっかえ、絞り出すような声音。全てが癪に障る。
暴力を禁じるという領域効果も含め、鹿紫雲の顔には再び青筋が刻まれ――、
「――ただ、動いたからには最後まで責任を取るのが、大人というものだろう?」
「……へえ?」
日車の、言葉。そこにあった揺らぎが、一瞬で凪ぐ。
言葉に出して、本人もようやく確信できたのだ。自分の為すべきことが何だろうが、最後までやらねばならぬと。
目の前に立つ男の視線に、もう揺るぎはない。鹿紫雲は獰猛な笑みを浮かべる。
「オマエの術式……確か、領域が内蔵されてるタイプだったな」
日車の後ろ、両目が縫い付けられた天秤の式神「ジャッジマン」が目に入る。
――日車寛見の領域「誅伏賜死」では、ジャッジマンが相手の犯してきた罪状をランダムに提示し、裁判が行われる。
被告側による「黙秘」「自白」「否認」の3つの主張、そしてジャッジマンより日車に提出される証拠をもとに判決が下され、それに応じた“
被告側が「
しかしもし「
集結した高専勢力による情報共有の場において、鹿紫雲が聞いた日車の術式効果はこんなところだ。
「没収に、処刑人の剣。好きにやれよ。言っとくが俺は術式を没収されたところで微塵も鈍らねぇぞ」
最後の言葉は強がりではなく、確信だ。
術師の多くは術式を失うと勘が鈍り、基礎的な呪力操作もグダグダになる。
だが鹿紫雲の術式「幻獣琥珀」は一度使えば死に至るため、彼の戦闘スタイルは術式に寄らぬ呪力特性の応用――術式が抜けたとて、その動きに影響が出るはずもない。
そもそも鹿紫雲ほどの練達の術師であれば、たとえまともな術式を持っていようと呪力操作に些少の揺るぎも生じはしないだろう。
「……戦いを始めるなら、その前に裁判をせねばならない。始めてもいいんだな?」
「構わねぇよ。オマエは歯ごたえがありそうだ」
バキバキと拳の骨を鳴らす鹿紫雲は、もはや裁判の行く末などに興味はない。
日車の横に目を向ける。そこには変わらず、血塗れの
とっとと判決を出させたら、まずは日車だ。思う存分戦った後、鹿紫雲と美胡がまだ生きているようなら改めて美胡を殺してやる。
日車がどれほど自分とやれるのか、今はそれのみに思いを馳せながら、鹿紫雲は裁判の開始を急かし――、
[鹿紫雲一は1553年4月5日、母親に重傷を与えた疑いがある]
――――呼吸が、止まった。
--------
「――――」
――裁判など、聞き流すつもりだった。
過去の自分がどんな罪をほじくり返されようが、適当に自白するなり何なりして終わらせてしまおうと。
提示される罪の重さなど、「処刑人の剣」があるかないかの違いでしかないと、そう思っていた。
なのに。
なのにその言葉は。
その、ジャッジマンの言った罪だけは、聞き流せなかった。
「――――」
その通りだと、言ってしまえばいい。
元から、そうするつもりだったはずだ。こんな下らない裁判などすぐに終わらせて、楽しい死闘を始める算段だったはずだ。
だというのに、何故。何故、自分は思考を巡らせている。400年以上も昔のことを思い出そうと、考えている。
考えている。考えている。考える。考える。
――思い、出せない。
「――――」
思い出せない、理由は分かる。言うまでもなく、社美胡だ。あのクソ狐のせいだ。
記憶に残るもっとも古い過去。鮮血と父母の悲鳴、狐の哄笑と家中に刻まれた爪の跡。
あの家に顕現した地獄があまりにも鮮烈すぎて、それ以前の記憶が消し飛んでしまっているのだ。
だからこそジャッジマンの提示した罪状に関して何も答えられず――違う、そうじゃない。鹿紫雲がそれに答えられないのは、そんなことが理由なのではない。
弁論をするだけなら、別に思い出さずともできる。この領域は嘘を否定・禁止できる効果はないからだ。
わからない。ジャッジマンのあの言葉の何が、鹿紫雲の心に引っ掛かっている。
そもそも、母親への重症とは何で与えたというのか。鋤か鍬か、両の指で数えて足りる年齢のガキが農具を振るうことが出来たとでもいうのか。
あの当時のことは、とかくあの狐のせいでなにも思い出せない。家族が惨殺される前はおろか、自分が強いことすらもある日ふと気づいたくらいで――、
……自分が、強い。
――いつから、強かったのだろうか。
「――――」
鹿紫雲の強さ、その理由。触れれば人を破壊する、強力すぎる雷の呪力。
――それが、あの狐の襲ってくる前に発現していたとしたら?
鹿紫雲がジャッジマンに答えられない理由。あの当時の鹿紫雲が、母親に重傷を与えたとすれば。
それが、本当だとすれば――それは、雷の呪力が原因だとしか考えられない。
だってあの年齢のガキが、雷の呪力などという扱いの難しい物を制御できるわけがないのだから。
そして。もし、鹿紫雲が、呪力の暴発によって母親に危害を加えていたのだとすれば――、
――鹿紫雲は、母親を殺していた、その可能性もあったということで。
「――――――――」
言葉が、出ない。
肯定も、否定も、できない。
だって、鹿紫雲は知っているから。戦乱の世を生きる中で、嫌というほど見ているから。
――呪術の暴走で家族を殺してしまった子供を、嫌というほど見ているから。
「アイツらと、」
自分が、同じだとするならば。
あの狐が襲って来ようと、襲って来なかろうと、自分は、家族を、殺してしまっていたのではないか。
家族から、人を慈しむ方法など、教えてもらえやしなかったのではないか。
狐が戯れに、家族の命を毟らなかったとしても、
どっちみち、自分は、孤独だったのではないか――――。
――――――――。
――――――――――――。
――――――――――――――――――――。
「……黙秘を、選択するんだな?」
「………………」
「なら、俺は証拠を提示する。この封筒に入っている証拠、その内容は――」
--------
「――美胡ちゃあん!!」
日車寛見が鹿紫雲の元へ駆けて行って、少し遅れて比名子もそれに続いた。
比名子の意思に反した日車を止めるためか、それともやっぱり美胡を助けたくなったか。自分の行動の意味は分からない。
わからないけど、とにもかくにもがむしゃらに走る、走る。走る。
――鹿紫雲達がいるであろう場には、領域が展開されていた。
その結界を構成する呪力から、術師は日車だろう。彼の術式がデフォルトで領域の内蔵されているものであることは知っている。
その中では暴力行為が禁止されていることも知っている。だがおそらく、中にいたところで、傷が癒えることはないだろう。
「この領域を……」
破壊するか、あえて内部に入り、美胡を治療するか。
比名子ならどちらも容易い。だが、破壊したらその隙に鹿紫雲が美胡を殺すかもしれない。内部に入った場合は領域の主が日車だから、果たして美胡に近づくことが出来るかもわからない。
ほんの僅か、比名子は頭の中で逡巡し――行動に移す間もなく、領域が崩壊した。
「――――」
出てきたのは、三人。
驚きか、困惑か、色々な感情が雑多に混ざり合った表情をしている日車。
どういうわけか、感情が全て抜け落ちてしまったような無表情を晒す鹿紫雲。
そして――、
「あっ…………あぁ…………」
――無残に損壊した美胡を見て、比名子はその場に崩れ落ちた。
「……………ひな、ご……………?」
ごぼごぼと、喉からせり上がる血に溺れながら、美胡が比名子の名を呼んでいる。
一目見れば、分かる。頭以外、余すところなく破壊された体。左腕が吹き飛ばされ、体中の血液が抜けて肌は文字通りの蒼白。
あれはもう、治せない。いかな反転術式だろうと、この状態では治癒できるキャパシティを超えている。
「――おい、待て! どこ行く!」
比名子の後ろ、遅れて駆けつけた真希が声を上げる。
振り返れば、虎杖、釘崎、汐莉も駆けつけてきていた。
その、真希が声をかけた人物――鹿紫雲一は、所在無げに立ち去ろうとしていて。
「……………………帰る」
そう言って、ふらりとその場を離れようとしていた。
その背中はまるで、魂をどこかに置き去りにしてしまったような頼りなさ。道場で格闘術を教えてもらっていた覇気のある様子とはかけ離れていた。
一体、どうしてそんな状態になったのだとか、領域の中で何があったのかとか、いろいろ聞きたいことはあるけど、
「………………いいの?」
そう、尋ねずにはいられない。
だって、美胡は鹿紫雲にとって、決して許し得ぬ怨敵のはずだ。
比名子はそう思っていたからこそ、鹿紫雲の暴虐を止められなかったのに。
「……だから、俺は、コイツを恨んでねぇんだって」
空気が抜け落ちるように、そう吐き出す鹿紫雲。
嘘ではない。何度も言うが、あの戦いの日々の中で、復讐したいという思い自体は擦り切れて消えてしまっている。
鹿紫雲が美胡をズタズタにしたのはそれが理由じゃない。
――かつて、何十年もの間求め、求め、焦がれ、焦がれ、手を伸ばし続けた、人を慈しむ方法。
簡単に、言い換えてしまえば。
「ただの
「……鹿紫雲。君に下された、判決は」
「いい。どうでもいい」
本当に、どうでもいい。有罪だろうと、無罪だろうと。
ただ、ジャッジマンから親に危害を与えた疑いをかけられて。鹿紫雲は、それを“あり得ること”だと思ってしまって。
社美胡がいなかろうと、自分は人と触れ合えなかった可能性を認識してしまった。
その時点で、美胡に八つ当たりをする気力が無くなった。
恨みの感情が残っていたなら、鹿紫雲は迷わず美胡を殺した。
でも、鹿紫雲は、ただ八つ当たりをしていただけだった。
その理由がなくなった。だからやめた。ただ、それだけ。
「じゃあな。ソイツのことは好きにしろよ」
「……え、でも、」
好きにしろって、言われたって。美胡の体はもう、ミンチよりひどい状態で。
ここまで破壊された肉体に施せる治療術なんて、この世界に存在するはずが――、
「――人魚の肉」
絶望と困惑に包まれた比名子の頭蓋に、その言葉が飛び込んでくる。
「――そこにいる人魚の一部でも食わせりゃ、簡単に治せんだろ」
――鹿紫雲は後ろを振り向くことなく、ぶっきらぼうに言い放った。
本作の鹿紫雲一は原作の描写からできるだけ乖離しないよう、個人的に「似たような過去があって、こんな考え方をしても矛盾はしないんじゃないか」と判定できる程度にした…………つもりです。
色々な部分をかなり作者の妄想で保管しているので解釈違いの方もいらっしゃると思いますが、あくまで作者個人の解釈なので、どうかご容赦を。
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