死滅回游 泳者 八百歳比名子   作:螺旋坊主

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 前回のコメント数11件。やっぱり皆髙羽ワールド好きね。
 それはそれとしてさっき確認したら総合評価数減ってるしコメント総数も減ってるし何コレ髙羽の呪い?
 髙羽? 評価値減っても誰もウケないよ髙羽?? 「超人」の使い所間違ってるよ髙羽???

 ……親切な皆様、どうか高評価のお恵みを……


第44話 八百歳

 

 

 

 それは、数日前。

 かつての邪妖・社美胡が、400年前に戯れに喰らった片田舎の家族の生き残り――鹿紫雲一の怒りをその身で受け、頭以外の全てをぐずぐずに破壊され、焼き焦がされ、雷により吹き飛ばされた直後のことだった。

 

 日車寛見との問答の果て、美胡を殺す気を無くした鹿紫雲はその場から去り。

 残されたのは、比名子の反転術式ですら治す事のできない悲惨な状態の美胡。

 ミンチよりも酷い致命傷を負った彼女を唯一救う方法は、不老不死化――すなわち人魚の肉を食すしかない、という状況だった。

 

『――喰べなさい』

 

 頭から下の筋肉を潰されたせいで首が座っていない状態の美胡を、人魚・近江汐莉は髪の毛を掴んで引きずり起こす。

 そうして、あらかじめ引きちぎっていた自分の肉を口の前に突きつけ、言い放ったのがその言葉だ。

 

 無理に動かされたせいで、彼女の体の至る所から筋や腱、内臓が千切れる音が耳に刺さる。

 ぶちぶちという不快な雑音を、しかし汐莉は意にも介さず、醜態を晒す美胡を冷たく見下ろしている。

 

『ぁ、ぅ、…………』

 

 ――最初、美胡はその肉を拒んだ。

 

 唇を固く結び、わずかに残った首の力を振り絞り、髪を掴まれたまま、ふるふると首を振って。

 ひとでなしで、比名子以外の誰の“内側”に在ることもできない汐莉であっても、その理由は分かる――ああ、こいつは心が折れているのだ、と。

 

 無かったことに出来ないと嘯いておきながら、その実とっくの昔に消え去ったと思っていた過ちが眼前に現れ、それを直視することが出来ないのだと。

 そして今身に降りかかった暴虐を運命として受け入れ、なにやら満足して逝こうとでもしているのだと――苛立ちにぎりりと歯を鳴らし、眉間に皺の溜まった顔で汐莉は美胡に言葉を浴びせる。

 

『私だって本当は、もう誰にも血肉なんてあげたくありません。私が過去そうしたせいで、今の今まであざみに恨まれ、命を狙われ、比名子にまで手を出されたのですから』

 

『……………………』

 

『けれど、そんな躊躇は比名子のためなら紙の壁です。あの子の心が翳るなら、私は何の逡巡もなくそれを破り捨てられる。――ほら』

 

 引き掴んだ美胡の髪、汐莉はそれを強く引っ張り、ある方向へ顔を向けさせる。

 

『見ろ』

 

 酷薄に、乱暴に、鬱陶しげに吐き捨てられたその言葉が耳に入った瞬間。

 風前の灯火の命となり、視界の全てが白く霞んでいるのに、美胡の目にはっきりと、それが飛び込んできた。

 

『……美胡、ちゃん…………』

 

 ――ぽろぽろと涙を流す、比名子の姿が飛び込んできた。

 

『――――』

 

 美胡は知っている。汐莉の血にも肉にも、比名子はいい思い出なんてないことを。誰かにそれを喰べさせるなど、比名子が歓迎するはずもないことを。

 

 それでも、美胡がその肉を拒んで、死を受け入れようとしているのを見て。

 美胡は分かった。分かってしまった。――比名子が、悲しんでいることを。

 

 自分が血を飲まされたせいで、今も身を苛む苦しみも。その苦しみが今、親友に齎されるかもしれない状況も。

 何もかも関係なく、比名子は悲しんでいたのだ。

 

 ――美胡が死んでしまうことを、ただ、悲しんでいたのだ。

 

 

--------

 

 

「――穏やかな、生得領域だね」

 

 片田舎の小さな農村、木々の葉を散らして吹き抜ける秋風を肌に感じながら、沈みゆく夕焼けに比名子は目を細める。

 小さかれど手入れの行き届いたお社に寄りかかりながら、美胡もまた口を綻ばせた。

 

 ――美胡に降りかかった「茫洋」の呪い。それを解くため、比名子は高専の術師や死滅回游の泳者達に呼びかけた。

 その中の一人、髙羽史彦の術式「超人」の力を借り、比名子と美胡の魂を共鳴させた結果――比名子は今、美胡の心の内側へと訪れている。

 

 生得領域とは、すなわちそのものの心の中。そこで見えるものは、すなわち心象風景。

 比名子は、自分の心の裡が暗く深い海の底であることを知っている。

 だからこそ美胡のそれを見て、「私のとはすごい違いだなぁ」と思うし、「美胡ちゃんらしいなぁ」とも思う。

 

 友達想いで、優しくて、お節介で、太陽のような彼女らしい、温かな生得領域――その真ん中で、美胡は明るく笑っている。

 

「――ここさ、比名子が住んでる町の昔の姿なんだよ」

 

 遠い目をした美胡が、お社の注連縄を優しくなぞる。

 そのお社は比名子がよく知る、家の近所にあるそれと同じだ。“オキツネ様”と呼ばれる土地神が古来より祀られている社。

 比名子が旅行先の事故で家族を亡くす数日前、道中の安全祈願のためにお参りをしたそれと同じ――故に、比名子もこのお社に見覚えがあるし、美胡の言葉にも何となく察しがついていた。

 

「小さな農村でさ。畑を耕して、収穫した作物で日々を過ごして。汗水たらして働いている人間(あのこ)達を見てると、どうしようもなく温かい気持ちになったっけ」

 

 鍬を担いだ若い衆が土塗れの顔を見合わせ笑う。あぜ道では転んで泣いている幼子が母親に頭を撫でられる。

 井戸端では年嵩の女達が世間話に花を咲かせ、その隣では老人が孫へ季節の草花を教えている。

 

 朝になれば畑へ出て、日が傾けば家路につき、囲炉裏を囲んで飯を食う。

 今日を生き、明日もまた生きる。そんな人々の営みが、かつて繰り返されていたのだろう。

 

 ――この生得領域を、美胡は気に入っていた。

 

 凶作があれば皆で支え合い、誰かが病に伏せれば米を持ち寄り。

 貧しくても温かで、泥臭くても美しくて。在りし日のそんな光景を思い出させてくれるここは、美胡にとってひどく居心地の良い場所で。

 

 だからこそ――、

 

「最期は、この景色を見ながら迎えたいんだ」

 

「――――」

 

 吹き抜けた風が稲藁を鳴らす心地よい音を耳に感じながら、美胡は寂しげな瞳で夕焼けを見つめている。

 ぼんやりと遠くを眺める彼女を見ていると、否が応でも、比名子は感じ取ってしまう。美胡がもう、生得領域の外に出ることを……生きることを、諦めてしまっているのを。

 

「――あのね、美胡ちゃん。美胡ちゃんはあざみさんの呪いが強いから死ぬしかないって思っているかもしれないけど……でも、そんなことはない。美胡ちゃんの心ひとつで、この呪いは解けるんだよ」

 

「物への呪いの移植」という方法がある。

 呪具に代表されるように、呪いとは須らく物に憑いていた方が安定するという性質がある。その性質を利用し、自らを苛む呪力を少しずつ物へと移植し、支配する。

 かつて乙骨憂太が祈本里香にアプローチした解呪方法と同じやり方だ。

 

 祈本里香は極めて膨大な呪いを背負った特級過呪怨霊だった。完全顕現すれば町一つ消えかねないほどの力で、五条悟をして祓うことはほぼ不可能と言わしめた怪物。

 その上、当時の里香は出自不明。あれほどまでに大きな呪いが呪術師の家系に連なるものではないという、異質で理解不能な存在だった。

 

 そんな恐るべき呪いに対しても、物への移植は可能なのだ。

 だからきっと、今美胡を苦しめている「茫洋」の呪いに対しても、解呪は叶うはずで――、

 

「……その方法は、あたしだって知ってる。前も言ったでしょ? 妖怪に転じて数百年だから、知識だけは無駄に蓄えてるんだよ」

 

「――ッ、だったら!」

 

「でも」

 

 呪術的法則と術師達の経験知を土台にした論理的な説得を行う比名子。

 けれど美胡は微かに目を伏せ、顔に影を差したままゆるゆると首を振る。そして、短い言葉で比名子の感情を叩き伏せ、ゆっくりと夕焼けの景色を指差し――、

 

「――――あれは、どうにもならないよ」

 

 ――その瞬間、太陽が歪んだ。

 

 夕暮れの風とは違う生臭い海風が、この穏やかな世界を撫でる。

 耳に届くはずだった虫の音が一拍遅れて消え、木々を染めていた夕日の朱が濁った水底から見上げた鈍い橙へと変質していく。

 目の前に広がる田畑や稲穂がじわりじわりと輪を描いて揺らぐ様は、まるで水面へ墨を一滴垂らしたかのよう。

 風景という風景が境界を失い、輪郭を溶かし、空と大地の区別さえ曖昧になっていく。

 

 ――「茫洋」。

 その名を体現するように、どこまでも続く海へと世界が沈んでいく。

 

「――――」

 

 美胡の生得領域に顕現した歪み――そして、その中心に居る、女。

 輪郭だけは人間のそれでありながら、極彩色の絵具とドス黒い墨汁とを混ぜ合わせたような異常な色彩をその身に纏う存在。

 

「……いたんですか」

 

「いたわ。最初からね」

 

 少し前にも見た、嫋やかな笑みを湛えて。

 美胡に呪いをかけた張本人――あざみは、生得領域の中心に立っていた。

 

 

--------

 

 

「確認しなくたって、私が見ていることくらい分かっていたでしょう。広島結界で領域を展開した時に」

 

 見る者の美的感覚に鉤爪を立てるかのように醜悪な色で構成されたあざみ――否、正確には「茫洋」があざみの姿形を模ったものなのだろう。

 顔貌以外の全てがおぞましいあざみの偽物は、ころころと振る舞いだけは上品に嗤っている。

 

 勿論、比名子とてあざみの言う事は理解している。頭に浮かぶのは数日前、禪院真希との死闘の際の背筋が凍るような声。

 

『――あら。貴女、私を感じられるのね』

 

 殺すとか死ぬとか、物騒な単語は何一つとない言葉。けれどそこに込められた途方もない残酷さと狂気に、まだ未完成だった比名子の心は握り潰された。

 心の中を結界内に投影し、対象を強固に閉じ込めるのが領域――その裡に平然と干渉してくるというあり得ない事態への恐怖感は、今も比名子の脳裏に焼き付いている。

 

 比名子の呪いへの理解が深まったこと、および仲間たちとの交流によって「茫洋」の能力がおおむね理解されたことで、汐莉の肉の摂食により形成される魂のバイパスを通して語り掛けていたことは分かっている。

 そして、

 

「貴女は、それ以外のことが出来ないのも分かっている」

 

「……………………」

 

「心に対する干渉の限界は、それこそ語り掛けるのと、生得領域を歪ませるくらい……そうなんでしょう」

 

「茫洋」とは、現実世界に存在するあらゆる境界を曖昧にする権能だ。

 汐莉の肉体を破壊したり、比名子の肉体を削ったり、美胡の肉体を遠隔からぐずぐずにしたり。「茫洋」の物理的な破壊力は今まで嫌というほど見てきている。

 だが、それでも、比名子達の精神に影響はない。もし「茫洋」が精神にも攻撃できるのだとすれば、あざみとのタイマンであれほどダメージを喰らった比名子が無事にここにいるわけがない。

 

 元々誤魔化すつもりもなかったらしく、比名子の推測に「ご名答」と返すあざみ。

 余裕に満ちたその態度は、あざみが比名子と美胡に対して言葉を投げかける以上が出来ないことに対する開き直りもあるだろうが……一番は、美胡が挫けていることに起因しているのだろう。

 比名子が語った、物への呪いの移植――被呪者の覚悟が必要不可欠であるそれは、「茫洋」の強大さに心折れた美胡には叶わないと理解しているのだ。

 

 現れた時と変わらない上品な微笑みで、ただ比名子達の動向を観察しているあざみに対し、比名子は――、

 

「――美胡ちゃんとのお話、続けてもいいですよね」

 

「……この状況で?」

 

 夕焼けを呑み込んだ「茫洋」の歪みはなおも世界を侵し続けている。空は巨魚が暴れた後の海底のごとく濁り、稲穂は海藻のように揺らめく。

 村全体が水槽へ沈められたような状況で、心の折れた妖怪と対話している暇があるのか、あざみには理解できない。

 

「この状況だから、です。貴女は私達に干渉できない。だったら、目の前で話し合ったところでどうすることも出来ないですよね」

 

 真っ直ぐにあざみの瞳を見つめる比名子に、あざみは艶やかに微笑んだまま閉口する。

 沈黙――それは、言うまでもなく答えを示しているのと同じだ。

 あざみは肩をすくめ、小さく息を漏らす。

 

「好きにするといいわ。私も何か、興味出てきちゃった。――死を望む貴女が、死を受け入れた妖怪にどんな言葉をかけるのか」

 

 適当な岩に腰掛け、肘を膝について顎杖をつくあざみは、純粋な好奇心を孕んだ視線を比名子にぶつける。

 幼子の成長を見守る母親のような不気味な眼差し。それに加え、何気なくあざみが言い放った言葉を聞き逃せず、比名子は目を大きく見開く。

 

「なんで私が死にたがっていること……能力で知ったんですか?」

 

「あら、そんなもの必要ないわ。だって1年も家族として接してきたんだもの。比名子ちゃんの言葉に滲む悲しみ、苦しみ、願い。汲み取れないほど、私は鈍くないわ」

 

 たとえそれが、(まじな)いによって造られた偽りの関係だったとしてもね――あざみの微笑みの形は、艶やかなまま変わらない。

 数百年生きたあざみにとっては、生まれて十数年しか経っていない比名子の思考を読むなど、赤子の手を捻るほどに容易いのかもしれない。

 

 ともすれば、広島結界であざみが比名子を殺そうとしたことすら、あざみなりの慈悲だったのではないか――そんな錯覚すら覚えてしまうが、

 

「今、それは関係ない」

 

 人心を誑かすあざみの魔言を頭を振って拒絶し、美胡に向き直る。

 再度比名子の目に映った美胡は、俯いたまま小さく笑っていた。

 

 彼女もまた千年の時を生きた妖怪であり、そして比名子とは10年来の付き合いがある。比名子が何を話したいかなどとうに悟っていた彼女は、比名子がかけようとした言葉に先んじ、風に紛れそうなほどか細い声で呟き始める。

 

「……そりゃ、あたしだって戻りたいよ。一刻も早く起きて比名子を安心させてあげたいし……あと、半魚人がうるさそうだし」

 

「美胡ちゃん……」

 

「けど、駄目なんだよ。どうしても、アレを見てると」

 

 震える指先が、歪み続ける空を差す。

 世界の裂け目。夕焼けを塗りつぶす濁流。存在を曖昧にする呪い。そしてその中心で嫋やかに微笑む悪魔(あざみ)

 

「覚悟を決めようとしても、『呪いを解こう』って思おうとしても……解呪できるイメージが、全然湧いてこないんだ」

 

 美胡の顔に浮かぶ笑みはひどく乾いていて、弱弱しい。比名子は返す言葉を失った。

 

 ――呪術とは、解釈の世界。そしてイメージとは、術の土台である。

 術式も、反転術式も、領域も、“縛り”ですら術師のイメージに従い、呪力を燃料に世界へと顕現する。

 

 それ故に、想像できない事象を意図的に起こすことなど、叶わない。

 地図にない場所へ辿り着くことのできないように、解ける姿を思い描けない呪いは決して解けることはないのだ。

 

 それは理屈ではなく、法則だった。

 正しい知識を積み重ね、論理を組み立てようと、最後に必要なのは「できる」と信じる像。

 その像が砕け散っている美胡の前では、どんな正論も単なる文字列でしかない。

 

 ――比名子は、静かに息を吐いた。

 

「……ごめんね、美胡ちゃん」

 

 瞳に影を落とし、短く謝る比名子。その謝罪を向けられる意図が理解できず、美胡は目をしばたたかせる。

 

 ――直後、掲げられた比名子の掌で、濃密な呪力が渦を巻く。

 生成されるは、一切の不純物のない透明な水。

 海を削り取ったかのような呪いの水流が手首に収束し、高速で回転を始める。

 

「な――!?」

 

 美胡が思わず漏らした驚愕の声、それが響いた瞬間――比名子の左手首が割れた。

 刃物ではない、高圧水流による橈骨動脈の切断。真っ赤な血が勢いよく噴き出て、白い指先を伝う。

 

 その程度なら反転術式で容易く癒せる比名子は、表情に一切の乱れを見せず、その傷口を美胡の眼前に差し出した。

 

「――ッ!」

 

 美胡の喉がごくりと鳴った。

 妖怪である彼女にとって、人間の血とは食欲を刺激する香り。まして比名子の血は、常人のそれとは比べ物にもならない。

 甘く、濃く、豊潤で、妖怪の本能を無遠慮にかき回す抗いがたい蜜の芳香。

 

「ひ、比名子! 何を!!」

 

 湧き上がる食欲を抑えつけながら、美胡は狼狽した声を上げる。

 そのうろたえる姿に目を細める比名子は――何故だか、ひどく穏やかな微笑みをしていて。

 

「――美味しそう?」

 

「は……?」

 

 比名子の、言っている意味が分からない。

 美味しそうって、それは美味しそうに決まっているだろう。あの、脳の偏桃体を炙られるような暴力的な香り。ふとした瞬間に湧き起こる食欲を我慢するのに必死になっていた10年間は忘れたくても忘れられない。

 にもかかわらずとくとくと滴る赤い雫を見せつけられて、美胡が冷静でいられるはずが――、

 

「…………あ、れ?」

 

 そう思った次の瞬間、美胡はその血の違和感に気づく。

 ――おかしい。比名子の血を見ているはずなのに。あれほど本能を刺激したはずの芳香が、思ったほど腹を空かせない。

 

 勿論、普通の人間とは比較にならない。それは確かだ。

 だが、それでも、以前のような、理性が焼き切れるほどの飢餓感までは感じなかった。

 代わりに鼻腔をくすぐるのは、どこか覚えのある匂いで――、

 

「……ぁ」

 

 記憶をさらうまでもない。この匂いを、美胡は知っている。

 

 ――人魚の血。それも、これは誰よりも近くで嗅ぎ続けた匂いで。

 

「……半魚人……?」

 

 我知らず口から零れた呟きに、比名子はゆっくり目を伏せる。

 

「初めて黒閃を打った、あの時。私の体……多分、変質したの」

 

 穏やかで悪意のない、ただ事実を説明するだけの比名子の口調。

 それでも、そこに隠しようのない不吉が潜んでいるように感じてしまい、美胡は頬を硬くする。

 

「元々私の体には、汐莉さんの血が混ざってた。旅行の事故の時、その血が私の体を変えて、妖怪を引き寄せる体質にしてしまった」

 

 そこまでは美胡も知っている。美胡が得体の知れない不穏を覚えたのはそこではない。

 無意識に目で話の先をせがむ美胡。比名子は未だ垂れる自分の血を見下ろす。

 

「――黒閃が出て、呪いの核心に触れて。私は一瞬で、呪いの世界の頂点に至る道を駆け抜けた」

 

 自らの死を強く願う比名子にとっては、生存そのものがリスクとなる。比名子は無意識のうちに“生きること”そのものに対する縛りを結んでしまっていた。それにより、比名子の術師としての成長効率は呪術界に類を見ないほど高くなっていた。

 この世界に在る呪いの神髄を、黒閃を一発打つだけで理解してしまうほどに。

 

 無論それは、そもそも比名子が宿儺に比肩するほどの才覚を有していたことが前提ではあるが――、

 

「“魔”に、近づいた。そう言えばいいのかな。……私は、あまりにも急に“魔”へ近づいてしまったんだ」

 

 自身に生じた不可逆の変質。

 その根源をうまく言葉に表すことが出来て、比名子は何かを得心したように頷く。

 

「――そのせいで。私の中にあった汐莉さんの血も、引っ張られて変わっちゃったみたい」

 

 そうして納得を得た比名子は再び笑う。

 けれどそこには、先程とはまた違った苦さが滲んでいた。

 

「私は多分……人魚と人間の間に迷い込んじゃったんだと思う」

 

 ――その言葉を聞いた瞬間、美胡の顔から血の気が引いた。

 

 比名子が何を言おうとしているのか、何を伝えるためにわざわざ自分の血を見せたのか。

 その答えに辿り着いてしまったからだ。

 

 比名子はそんな美胡を見つめて、ほんの少しだけ困ったように笑って。

 静かに、告げた。

 

「――おそらく今の私は、老化のスピードが極端に遅くなってる」

 

 ――沈黙。

 

 世界が止まった。

 風も、虫の音も、美胡の耳から遠ざかる。

 妖艶なあざみの微笑すら、その言葉の衝撃によって、消し飛んでしまっていて――、

 

 

 

「――私はあと、800年は生きると思う」

 

 

 

 




 美胡との話し合いは続く。

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