死滅回游 泳者 八百歳比名子   作:螺旋坊主

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第45話 私と生きたい、ひとでなし

 

 

 

「………………………………は?」

 

 ――呆然。

 

 比名子のその言葉を聞いた瞬間、社美胡は初めて比名子の血を嗅いだ時よりも、死滅回游にて比名子と再会した時よりも、鹿紫雲一に自らの過ちを突きつけられた時よりも、呆けた。

 

 800年――800年と、今、比名子は言ったのか。自らに流し込まれた人魚の血が、非常識な呪術的成長速度に呼応して変質し、極端に寿命が延びてしまったのだと。

 

「いや……ちょっと、待ってよ。そんな、そんなの、人間に……」

 

 耐えられない。そんなもの、人間の精神が耐えられるはずがない。

 人間の寿命が短いのは、肉体の構造的限界だけが原因ではない。寿命とは、精神的な許容を超過しない防衛機制だ。

 一つの別れが胸に棘を残し、十の後悔を重ね、百の喪失を抱え、千の涙を飲み込んで――それが積み重なれば、人の心はすり減っていく。

 そうした摩耗の果てに心が壊れ、人間としての在り方を失うのを防ぐために、人の寿命は短いのだ。

 

 それが800年。人が人として在ろうとするには常軌を逸した寿命――否、これは寿命ではない。刑期だ。

 比名子の口にした数字は、人間として生まれた少女に一方的に言い渡された、あまりにも長すぎる執行猶予だった。

 

「…………っ」

 

 美胡は思わず額を押さえる。頭が痛い。

 生きることをあれほど厭っていた少女に。家族を喪い、毎日死にたいと願っていた少女に。――800年。

 祝福などでは断じてない。まさしく呪いのような余命を前に、美胡の脳はずきずきと軋んでいた。

 

「――虎杖君と、話したんだ。野薔薇さんを治した日」

 

 噛み締めるように、比名子が呟く。その目はどこか遠くを見ていて、郷愁に満たされている。

 

 比名子が言ったことは、美胡も知っている。確か数日前、呪術高専に集結した時のことだ。

 千年前より黄泉返りし宿儺の暴威に震え上がり、何もできなかった役立たずの自分。釘崎の病室でその無力感に苛まれていた時、唐突にとんでもない轟音と共に比名子がどこかへ飛び去ったことは記憶に新しい。

 

 そのあと比名子が汐莉と虎杖を伴って帰ってきた際、何がしかの会話をしたことは聞いていたが――、

 

「話したことは、私の生い立ち。汐莉さんとの最初の出逢い、事故のこと、希死念慮のこと、汐莉さんと再会するまでとしてから、死滅回游に巻き込まれてからのこと――そして、汐莉さんとの血の契約のこと」

 

「――――」

 

「契約内容――『絶対的な力による私の殺害』が果たせなくなって、契約破棄のためには私が汐莉さんを殺す必要があるって言われて。それが嫌で逃げたこと」

 

 そのすべてを、比名子は虎杖へ吐き出した。

 大切なものを手にかける辛さ。それを押し付けておきながら、自分はそれを受け入れられない。

 そして汐莉の命を助けるためには、比名子が自死を選ぶほかない。だったら、そんな自分が生き続ける意味なんてあるのか。

 

 ひどく醜い本音も、反吐が出そうな胸中も、全部、全部、吐き出した。

 

「私は最初、怒られると思ってた。お前のことをこんなに想ってくれてるひと達がいるのに、最低だって」

 

 呪い呪われ死に満ちた世界に身を置きながら、比名子には直視できないほどに眩い目をした少年、虎杖悠仁。

 そんな彼であろうと、きっと比名子の厚顔さを嫌悪し、侮蔑と罵声を驟雨のように浴びせるものだろうと、勝手に思い込んでいた。

 

 ――けれど。

 

『八百歳先輩に、生きろなんて言えない』

 

 虎杖は、真っ直ぐにそう言ってくれた。

 家族を喪い、生きる意味を見失い、自らの生が汐莉(大切な者)の死に繋がる状況に陥った人が、何を選ぼうと責められないと、彼は言ってくれた。

 

 慰めでも、ましてや励ましでもない。それは比名子という少女を、その苦しみごと認める言葉だった。

 

「……嬉しかった」

 

 比名子は、ぽつりと呟く。

 

「『死ぬな』じゃなくて、『そう思っちゃうよね』、って」

 

 ただ、それだけで。

 少しだけ――本当に少しだけ、胸の内に張り付いていた何かが、軽くなった。

 

「その時、私、あと少しだけ、って。あと少しだけ、頑張ろうって思えたの」

 

 そう言って、比名子ははにかむ。

 その笑顔は弱弱しい。けれど以前――美胡が友として歩んできた10年、その中で見てきた比名子の笑顔よりも、ずっとずっと芯があった。

 

「私ね。そんな、『あと少しだけ』『ほんの少しだけ』『もう少しだけ』を、ずっと繰り返していけば――」

 

 

「――案外、800年くらいならもつんじゃないかって…………今は何となく、そんな気がしてるの」

 

 

 そもそも、回游に参加する前の比名子は、似たようなやり方で日々を耐え忍んできた。

「汐莉に喰べられる」というゴールを目指して、地獄の海底のような日常を騙し騙し生きてきた。

 それができていたなら、ひょっとしたら――比名子は、そう言葉を締めくくった。

 

 美胡は、言葉を失う。

 ――あの比名子が。毎日のように生きたくない思いを滲ませていた少女が、未来を口にしている。

 800年という、とてつもなく長い未来を。

 

「…………でもね。私、やっぱり今も、生きたくないって思っちゃうよ」

 

 口に手を当て、比名子はくすりと苦笑した。

 今まさに口にしたのとは、まるっきり逆の言葉。それでも、その言葉には嘘はない。

 

「朝起きて。昨日のご飯の残りを食べて。高専の皆とミーティングして。気が抜けた時に、家族のことを思い出して。――ああ、死にたいな、って」

 

 笑顔が浮かぶ。思い出が蘇る。

 そしてその全部が、もう二度と戻らないことも思い出してしまう。

 

「でもね。そんなときは必ず――不思議と、」

 

 世界が、違って見えるようになった。

 空。風。木漏れ日。揺れる木々や花々。光に満ち溢れた景色。

 比名子を包み込む何もかもが、美しく見えるのだ。

 

「ただただ、この世界が心地良い――そう、思えるようになったの」

 

 ――天上天下、唯我独尊。

 

 黒閃を打ち、自分を中心に世界が廻っていると確信できた全能感。

 自己存在を世界の全てに肯定されたかのような、あの感覚。

 

「あの時のあれは、きっとハイになってただけなのかもね」

 

 比名子は、照れくさそうに頬を掻く。

 

「――でもね。あの時の、心地良いって思えた気持ちだけは、今でも時々帰ってきてくれるの」

 

「茫洋」により歪んだ世界。その向こうにある夕日もまた、腐った海の底から眺めるが如くグロテスクに揺らいでいる。

 比名子はそんな濁った夕焼けすらも愛おしく思うかのように、優しく目を細めていた。

 

「この先、私がどうなるかはわからない。長い寿命に耐え切れずに、結局死んじゃうかもしれない。――けど、生きていけるかもしれない」

 

 未来とは、未だ来ていないから未来と言うのだ。口頭で何を語ろうと、それは仮定の話にしかならない。

 

 それでも、前者であれ後者であれ、この先比名子が永く生きることは定まっているのだろう。

 

「――けど、けどね」

 

 比名子の口からするすると滑り落ちていた言葉の数々。それが急に押し留められたかのように口ごもる

 夕日を見ていた比名子の頬を、一筋の涙が伝った。

 

「その、長く永く進んでいく道の、その隣に――」

 

 

「――――貴女がいないと寂しいよ、美胡ちゃん」

 

 

--------

 

 ――その言葉は。

 

 その言葉は、叫びでもなければ、懇願でもない。

 ポロリと零れ落ちただけの、本音だった。

 

「――――」

 

 知っている。

 社美胡は、この涙を知っている。

 

 蘇るは数日前――全身の筋肉を潰され、骨という骨を砕かれ、臓物を撒き散らし、頭だけ辛うじて形を保っていたあの時の記憶。

『――見ろ』と、汐莉に髪を掴まれて、無理矢理顔を向けさせられた、その先にいた少女。

 

 ――そうだ。比名子が、泣いていたのだ。

 美胡が死ぬことを、悲しんで、泣いていた。ぼろぼろと涙を零していたのだ。

 

『美胡、ちゃん…………』

 

 ――その瞬間、自分の体がどうなっているのかなんて、どうでもよくなった。

 死ぬことも、痛みも、全部どうでもよかった。

 

 ただ一つ、比名子が泣いていること。その事実だけが耐え難かった。

 あの涙を止めたい。笑っていてほしい。そのために、自分にできることがあるというのなら。

 

『…………だ』

 

 喀血の止まらない口から、震える声が漏れる。

 息も絶え絶え、まさしく風前の灯火。そんな命から発されたとは思えないくらい、意志の宿った言葉。

 

『……嫌だ……死にたくない……!!』

 

 ――理屈では、ない。それは腹の底から迸る、本物の叫び。

 

 零れ行く自らの命を運命と受け入れていた美胡は、比名子の涙を拭うという確かな信念を得て、汐莉の肉を食したのだ。

 

 

--------

 

 

 ――生得領域。

 沈む夕日に照らされる長閑な村の真ん中で、美胡ははっと息を呑んだ。

 拳を握る。ぎりりと爪が掌に食い込み、生じた傷から一筋の血が伝った。

 

 なんて馬鹿なのだ、社美胡。

 どうして忘れていたのだ、社美胡。

 呪いが強いから? 解けるイメージが湧かないから? そんな程度の理由で、社美胡が、比名子の隣を諦められるわけがないというのに。

 

「――何百年生きようが、何百人喰ってきた外道だろうが、呪いがどれだけ厄介だろうが、」

 

 まず今ここで考えるべきは、その事ではないだろう。

 

 握り込んだ拳で胸を叩き、心臓のあたりを強く掴む。滲んだ血が服に染み込み、赤いシミを形成した。

 

「比名子が泣いてるなら隣で寄り添う。苦しんでるなら支える。笑ってるなら一緒に笑う――」

 

「――それが!! 社美胡(このあたし)だろうがッ!!!」

 

 勢いよく顔を上げる。

 美胡の瞳に宿る先程までは無かった光に、あざみは忌々しげに目を細めた。

 顔を顰めたあざみを、美胡は真正面から見返す。

 

「あたしは戻る。比名子のところへ」

 

「茫洋」への恐怖も、身を苛んでいた諦念も。

 全てを振り払い、美胡は一切の迷いなく宣言する。

 

「……でも! 何をどうすりゃ解呪できるのかはさっぱりわかんない!」

 

 腰に手を当て、どんと胸を張る。

 あまりにも堂々と弱音を吐かれ、比名子とあざみは揃って吹き出しそうになった。

 

 それでも比名子は笑みを浮かべ、美胡の隣へ並ぶ。

 そして、そっとその手を握った。

 

「――大丈夫だよ。私が手伝うから」

 

 それは優しくて、けれど勝利を確信した力強い笑顔。

 その笑顔を向けられただけで、美胡は百万人の助力を得た気持ちが湧いてくる。

 比名子は美胡の手を強く握りしめたまま、醜悪な極彩色に塗り固められたあざみの幻影に向けて言い放つ。

 

「これから貴女の呪いを解きます。構わないですよね?」

 

「…………好きにすればいいんじゃない。どうせ私、何もできないもの」

 

 顎杖をついたまま、けれどどこか不貞腐れたように、あざみは二人にぼやいている。

 その半ば諦めたような――否、完全に勝利を捨てている態度に、美胡は怪訝さを覚えた。

 

「そもそも狐だけならともかく、比名子ちゃんが入ってきた時点で手遅れだとは思ってたのよ」

 

「……殊勝だね。でもいいの? 呪いを解く過程で、お前の術式の弱点もわかっちゃうかもよ」

 

「あら、氷山の一角を観察したところで全容は把握できないものでしょう?」

 

 ふんと鼻を鳴らすあざみは、まさに余裕綽々といった態度だ。これから比名子達が何をしようが、自分の術式の核心を掴むことは出来ないのだと、本気で確信している。

 八百歳比名子を前にしてよく言えたものだ――などと美胡は呆れていたが、当の比名子はあざみの言う通りだと考えていた。

 

 美胡を解呪する前、五条悟達と「茫洋」について議論していたことを思い返す。

 あの時も「茫洋」について、ある程度の成り立ちとスペックを把握することこそ成った。

 が、結局弱点を見出すことはできず、「魔虚羅ぶん投げ」という大雑把な手段に頼らざるを得ないという結論に至った。

 

 今回の解呪に関しても、その過程で得られる結論は議論の時と似たようなものになるだろう。特級術師としての直感だ。

 そも「物への呪いの移植」という解呪手法は、「わからないもの」をわからないまま手中に収める手法。取得できる情報などたかが知れていると、比名子はそう考えていた。

 

「…………?」

 

 ふと比名子は、あざみの視線が異なる色を孕んでいることに気づく。

 

 これまで相対した時のどれとも異なる、比名子を射抜くその眼差し。妙なむず痒さを覚えるソレは、何だろう、まるで比名子を憐れんでいるような――、

 

「まるでじゃなくて、憐れんでいるの。――800年だなんて、そんなのあんまりでしょう」

 

 ――先刻比名子が告げた刑期。それに対する衝撃は、美胡だけでなく、あざみにもしっかりと響いていた。

 

 汐莉によって不死者となったあざみには、分かる。人の心では到底正気を保っていられぬ、その長さ。その重さ。

 あざみは決して認めぬだろうが――汐莉へ他責でもしていなければ頭がおかしくなるその年月を過ごさねばならぬことを知って、あざみは自分を重ねているのだ。八百歳比名子という少女に。

 

「ここからの800年に幸せなんてない。ああ、いえ、最初だけはあるかもしれないけど……そこから先はきっと、喜びも楽しさも憎悪の渦に投げ捨てる作業の繰り返し。『なんで私がこんな目に?』『あの人魚さえいなければ……』」

 

 目の前にいるあざみは「茫洋」により形成された幻影だ。

 けれど今比名子を真っ直ぐに見つめる彼女の姿には、生者にこそ宿る温度が確かに感じられて。

 

「ねえ、哀れな比名子ちゃん。――貴女は、それでいいの?」

 

 嘘偽りばかりのあざみが、これだけは嘘がないと言い切れるだけの熱量を持った言葉だった。

 それでいいの――それは、文字通り何百年と折り重なった情念が凝縮された一言。そんな言葉を向けられて、比名子は――、

 

「さっき言いましたよ、あざみさん」

 

「――――」

 

「――この先私がどうなるかは、きっと誰にもわからない、って」

 

 

--------

 

 

「――物へ移植するったってどうすりゃいいのよコレ。まずあたしを侵す呪いの循環定義を明確にしないことには……」

 

「通常の呪いならそのアプローチで問題ないかもしれないけど、今回は煩雑なベクタパラメータを一方向にまとめる所から始めた方が……」

 

 あざみの目の前でわいきゃいと繰り広げられる「茫洋」解呪のための会話。そこには呪術的な専門用語が飛び交い、あざみには理解できない。

 それでも、この生得領域内では物理的時間が経過しない。解析も徐々に進んできており、呪いが解かれるのも時間の問題だろう。

 

「――比名子ちゃん。宿儺から一つ伝言」

 

 順調に分析を進めていた二人。その顔があざみの言葉で跳ね上がる。

 あの忌々しい怪物――宿儺の名前は、この少女達にとっても重い意味を持っているのだと改めて理解し、腹立たしさに眉がつり上がる。

 

「五条悟に伝えて。――12月24日」

 

 

「幾千万の呪い解き放たれし渋谷の地にて、決戦の時を待つ――だそうよ」

 

 

--------

 

 ――現実。生得領域の外。

 美胡の体は静かに横たわっていた。

 

 数百年前、有り余る獣性を抑えるために坊主から渡された呪具は数珠の形をしていた。

 そのような特別な呪具ではないが、美胡が慣れ親しんだ道具である数珠は最も呪いを込めやすいだろう――そう考えられ、その手首には術師達の用意した数珠が装着されている。

 

 ――その数珠から響く、ぱきりという小さな音。

 

「! 罅が……!!」

 

 釘崎野薔薇が目を見開く。

 数珠に一本、二本、三本、亀裂が入る。

 

 しかし、数珠は砕け散らない。

 その形を形成する輪郭が、ゆっくり――ゆっくりと、世界に溶けていく。

 

「……まずい、数珠が呪いに耐えきれていない……!!」

 

 伏黒恵が息を呑む。

 数珠は砂にも塵にもならず、存在を失うように、空気へ、景色へ、溶解していく。

 ――そして、最後の輪郭が消えた、その瞬間。

 

「――――ぅ」

 

 美胡の、指先が動いた。

 

「あ…………」

 

 ゆっくりと瞼が開き、やがて体を起こす。

 あたりを見渡すその瞳は、しっかりと焦点が合っている。

 そこには、先程までの虚ろな少女はいなかった。

 

「……美胡、ちゃん」

 

 存在を取り戻した美胡の姿に、比名子の肩から力が抜ける。

 

「よかった…………」

 

 目尻に溜まった涙が、ぽろり、ぽろりと零れ落ちていく。

 その涙を見た美胡は、苦笑しながら手を伸ばし、指先でそっと拭った。

 

「――やっぱりあたしは、どんなことがあっても、比名子と生きるのを諦められないよ」

 

 社美胡。心の底から優しくて、心の底から比名子を想う、親愛の(ひとでなし)は、少しだけ照れくさそうにして、けれど迷いなく断言する。

 

 一件落着――美胡の悪因が巻き起こした一連の騒動が、二人の笑顔に収束したのを見届けた近江汐莉は、いつの間にやら人間の形態に戻っていて。

 

「――世話が焼けますね、本当に」

 

 と、長い溜め息を吐きながら、そう締め括ったのだった。

 

 

 




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