――来るべき五条悟との激突、その幕開けにて、両面宿儺は初手を見誤った。
呪術高専京都高教師、庵歌姫。彼女の術式「
その発動において定められている手順、すなわち呪詞、掌印、舞、楽。今、彼女はそれら手順の一切を省略せず、戦闘では隙以外の何物でもない行為をあえて一つずつ積み重ねる。
そうして、術式を儀式として昇華させることで、術の効力を極大――120%まで引き上げる。
その恩恵を受けた現代最強の術師、五条悟は、自身最大の大技・虚式「茈」を発動。
歌姫と同様、詠唱に掌印、普段の戦闘であれば経ることのないそれらを律儀に踏破し、ただでさえ規格外の出力をさらに引き出す。
「単独禁区」も含めば、本来であれば120%止まりであった技の威力は単純計算ですらない領域――200%にも達していた。
――そして、呪術高専補助監督・伊地知潔高が命を削るような覚悟で張った結界が、極限まで増強された出力を見事に隠蔽する。
五条から宿儺までの距離、およそ4キロメートル。術の発動の視認、判断、回避、いずれを行うにしても充分すぎる隔たりだ。
けれど今解き放たれたのは、現代最強の術師が放てる最高火力の絶技、それも超越的な速度を伴い撃ち出される仮想の質量。
その前では――4キロという距離など、距離ですらない。
「――――!!」
――刹那、世界から一本の線が消えた。
五条悟から宿儺の居る地点まで、その間に存在していた建造物も道路も瓦礫も、何もかも塵芥のように粉砕しながら「茈」が突き抜ける。
破壊音が届くよりも、爆風が生まれるよりも速く突撃した破壊の権化は、狙い過たず宿儺に直撃。
彼がその第二右腕・第二左腕で「茈」を受け止めたにもかかわらず、居座っていた高層ビルはその衝撃に耐えられない。
巨体を支えていた骨組みが軋み、積み重なった階層が轟音と共に一斉に崩落した。
「――勘違いしてるみたいだから言っとくけど」
――4本のうち2本の腕を破壊されながら、倒壊したビルから噴き上がる粉塵から悠々と歩み出た宿儺に、彼以上に余裕綽々な様子で五条悟がそう話す。
己が最強の生得術式「無下限呪術」の順転「蒼」、その応用による空間と座標の圧縮。五条は瞬きよりも早く宿儺の眼前に姿を現していた。
「そっちが
軽薄な、人を小馬鹿にする笑みと共に指さし、五条悟が断言する。
それは平安の世、呪術全盛の時代に呪いの王として君臨した史上最強の術師に対する不遜の極み。
「クソガキが」
自身を前に傲慢さを隠そうともしない悪童を、四つの目で睨め付けながら宿儺が嗤い――それが、来るべき決戦の幕開けとなった。
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「五条悟。貴様は俎板の上の魚だ。多少他より活きが良く、鱗が硬いだけの魚」
「――まずは貴様を捌くための、下拵えから始めようか」
ゴキゴキと指を鳴らし、獰猛に唇を歪める宿儺。
先程の五条の意趣返しのように挑発の言葉をぶつける彼。侮ったような口調だが、そこに一切の油断は無い。
頭の中で意識しているのは、硬い鱗――体表に張り巡らされた“無限”による絶対不可侵の打破、その策謀。
そして――、
「くっくっ、無理すんなよ痩せ我慢。
五条悟は「茈」の直撃を受けた宿儺を見て、喉の奥で笑っている。相変わらずの傲岸な態度、しかし決して根拠のない蛮勇からくるものではない。
それは確信。この戦いに向けて自身が仕込んできた策、それが結実したことに対しての。
「茈」を受け止めた第二右腕および左腕――それら二本の腕が未だ再生していないことが、何よりの証明だった。
「生徒達から聞いてるよ、オマエは人魚の肉で不死身になったって。――だからちゃんと持ってきたさ、不死身を殺す策を」
――瞬間、五条と宿儺の姿が消え去る。
否、消えたのではない。蹴り足を爆発させた二人があまりにも速すぎて、視界に収めることが不可能なのだ。
五条と宿儺が対峙していた距離、数メートル。それが一瞬で滅失し、極大の呪力が乗せられた拳と拳が轟音と共に衝突――とはならず、激突する寸前でその動きが不自然に停止する。
絶対不可侵。彼我の距離を無限大に引き延ばす力。それは単に相手の攻撃を止めるのみならず、対象の行動すらも制限してしまう。
拳撃、蹴撃、肘鉄、そのどれもが“無限”の前に阻まれ、対して五条はその“無限”を拡大解釈して引斥力を発生させて宿儺の体を自由自在に振り回す。
現代から見ても十二分に大柄な上背、その余すところなく筋肉を引き締めた鋼の肉体、それがそよ風に飛ばされる木の葉のように為す術なく投げられ、叩きつけられている現実。
全くもって、面倒な術式――心の中で宿儺がぼやく。
しかし今、宿儺の胸中を最も大きな疑念の陰で覆っているのは「無下限呪術」ではなく、未だ治癒のし切らない二本の腕だ。
「――奴の言う通り、俺はあの人魚の肉で不死者となっている」
ひと月前、広島結界にて体を乗っ取った妖怪、近江汐莉。
本来なら器としての強度が高い伏黒恵を乗っ取る計画だったが、奴の心が安定したタイミングで都合よく汐莉の心が折れたため、これ幸いと彼女の体に受肉したのだ。
八百歳比名子の手により汐莉からは引き剥がされてしまったが、離れ際に毟り取った肉を使ってあざみの配下の妖怪・エリカに再受肉することに成功。
エリカは元々存在として弱すぎたため、肉体を保つためには完全受肉する必要があったが――それでもその結果、宿儺の手には不死身の体と、妖怪特有の「五感を狂わせる
また、不死身の体の副産物として、呪力による自己再生能力をも宿儺は手にしている。
生まれのルーツがおおよそ呪霊と同じである人魚は、呪霊が呪力で肉体を修復するのと同じ要領で傷を癒すことが出来る。人魚の肉を喰らった者も同様だ。
その最大の利点は、反転術式と通常呪力操作の同時運用という複雑な動作を一括化できるという点もあるが――やはり、反転術式による回復に比べて呪力消費が大幅に抑えられることだろう。
そもそもの呪力効率が限りなく高い上、さらに低コストで治癒を可能にしているのだから、今の宿儺にとってはもはや死以外の外傷などかすり傷にも満たない。
「にもかかわらず、未だ腕が再生しない」
――宿儺の「解」が五条悟の頭上を抜け、射線上にあったビルを袈裟斬りにして落下させる。
そも肉体の再生、ましてや腕の先が二本飛んだ程度など、反転術式を使っていた頃でさえ宿儺にとっては朝飯前なのだ。
呪霊が呪力を使って再生する場合を考えたとしても、木っ端特級呪霊ですら数秒も経たずに復元してみせる、そんな低難度な技術でしかない。
ましてやそれら二つの技能を習得した宿儺にとっては簡単も簡単。「茈」が直撃した直後にはもう復活していなければおかしいと断言できるようなもので。
――思案する宿儺の死角、背後に出現した五条が急襲を仕掛ける。
「蒼」の引力を利用した拳に呪力強化を重ねた必殺の一撃を、宿儺は腕を滑り込ませることで防ぐ。
避けられなかったわけではない。あえて受けた。宿儺が抱いていた疑念を検証し、五条が言っていた「不死身を殺す策」とやらを見極めるために。
――結果、宿儺の視界がぐらりと揺らぎ、眩暈に近い現象が起こる。
その現象には覚えがある。そう、先程思い返した広島結界、そこで八百歳比名子が宿儺を引き剥がすために繰り出してきた――、
「――――『沈め』」
そんな、簡潔な命令――妖怪の持つ「五感を狂わせる
――瞬間、砕け散ったはずの腕が再生した。
「……まあ、そりゃ気づかれるわな」
元通りの形を取り戻した腕をゴキゴキと慣らし、少し振るって調子を見る。その機能に何も問題はなく、僅かのぎこちなさすら存在していない。
せっかく決めた「茈」の不意打ち、それによるダメージの一切を無為にされた――にもかかわらず、五条は予測済みといった様子であり、平然とした態度を崩さない。
――不死身の肉体を得た宿儺に対抗する手段、その正体。
八百歳比名子と
魂の輪郭の知覚――それは一つの肉体に複数の魂を同居させねば可能にならない特殊技能。宿儺ですら、現在のようにエリカの肉体に寄生していなければ出来ないことだった。
であるならば、それは宿儺に最も近しい存在である五条悟も同じのはず。
その意味するところは、五条は何かしらの外部手段で魂の輪郭を認識しているということに他ならない。
すなわち――、
「――そうか。飲んだな、人魚の血を」
五条の性格を鑑みて、それは自然と頭から外していた選択肢だった。
「茈」と背後からの拳、そのたった二撃で正答に至った宿儺に、五条は「ご明察」と軽く返答する。
人魚の肉は、喰えばたちまち不老不死となる。
その現象は、広義的には「受肉」の一種だ。受肉された器は宿った術師に合わせて形状を変態させるのと同じ、人魚が生来有する「不老不死」という性質が被受肉者の肉体に顕現する。
それ故、人魚およびその肉を喰った者の間には魂の繋がりが発生するのだ。
――そしてそれは、人魚の血を取り込んだ程度であっても例外ではない。
「貴様のしたことは、まさに八百歳比名子と同じだろう。魂の輪郭を知覚できる程度に、貴様は奴の血を飲んだ。肉を喰らう、までは行かなかったのだろうが」
「そりゃあ、汐莉の肉食べたらあざみが介入してきちゃうだろうし」
五条も宿儺と同様に不死身になれれば最善だったかもしれないが、そうしたらまず間違いなくあざみの「茫洋」の毒牙にかかる。
先月の復活の際、「茫洋」による概念の津波は五条の“無限”を突破し、その腕を溶かした。あざみの有する概念は、五条の振るう概念よりも強い。
術式対象の自動選別、それによって五条はニュートラルな“無限”を常時発動可能としているが、おそらくそれすらあざみの前では無意味。社美胡と同様、五条も為す術なく戦闘不能にされてしまう可能性が極めて高い。
まあ、比名子達の献身により、美胡は無事呪いを解いて復活できたのだが――、
「再現性がなさすぎる。髙羽の術式で魂を共鳴させた上で親友が10年ぶりに大笑いするとか、解呪の仕方がオンリーワンにも程があるだろ」
その条件を五条に当てはめるのならば、まず間違いなく隣には夏油傑が必要だ。
すなわち「茫洋」の脅威から逃れ、なおかつ魂の輪郭をとらえるには、取り込む汐莉の一部をもっと少量にする必要がある。
宿儺の予測通り、五条は宿儺との決戦に臨むにあたり、汐莉から数滴血を分けてもらっていた。
「血を飲むくらいなら『茫洋』は届かない。根拠はまさに、オマエが今言った比名子だよ」
広島結界において、比名子はあざみから監視されていたらしい。「茫洋」によって、汐莉との魂の繋がりを辿られて。
だが、比名子が受けた「茫洋」による遠隔の被害はせいぜいその程度。現在、五条悟の居るステージに指をかけるに至った比名子に対し、もし美胡と同じような肉体破壊を行えるなら、やらないという手段は無い。
である以上、あざみは比名子を直接害することは出来ない。それを確信した五条は、「肉を喰らって不老不死になる」ことに対する次善の策――生き血のみを取り込む手段をとったのだ。
「ま、汐莉は結構渋ってたんだけど」
はっきり言ってそんなことを議論している場合ではない。
不死身となった史上最強を相手取るのに、何の準備もなしではジリ貧で敗北する。
「……成程な。貴様の想定している作戦は理解した」
少しの間五条と向き合って話を聞いていた宿儺は、五条悟が一体何を狙っているのか、得心したように一つ頷く。
強力な攻撃で一気に引き剥がす、というだけなことはないだろう。「呪言」によって即座にエリカの魂を沈めなおし、「茈」の一撃すら瞬時に癒したことが何よりの証左だ。
エリカから宿儺を引き剥がすには、強力な攻撃を、
すなわち――、
「――『無量空処』を俺に叩き込み、行動不能になった隙を突く。そんなところだろう」
「――――」
五条悟の領域「無量空処」。
その必中効果は「無限回の知覚と伝達の強制」。知覚、伝達、行動のサイクルのうち最初の二つが永久にループすることで脳内に膨大な情報を流し込まれ、その果てに対象の脳を破壊する。
僅か0.2秒の滞在であってもおよそ半年間に相当する情報量を無理やり詰め込まれれば、さしもの宿儺とて脳をショートさせてしまう可能性が高い。
故に――、
「――乗ってやろう」
――不敵に笑った宿儺が一切の迷いもなく掌印を結び、領域展開の準備をした。
分かっているはずだ。広島結界で“閉じない領域”を使用した以上、それを目撃した者達の口から五条に伝わり、一ヶ月の間に対策が練られていることくらい。
驚いたように片眉を跳ねさせる五条。しかし宿儺はそれに対し、自分の態度を小動もさせず、
「――この状況で領域を展開しないのは、己の領域に自信が無いと言っているようなものだろう?」
「……くくっ」
五条側が立てているであろう、宿儺の“閉じない領域”に抗するための策。宿儺はそれを承知の上で、その策ごと踏み潰そうとしている。
その事実を目の当たりにし、五条は隠し切れない愉悦に頬を歪める。
「「――領域展開」」
宿儺と五条の声が重なる。
死者を裁く冥界の王の掌印・閻魔天印、天界の最高位に座する神の掌印・帝釈天印。それらを中心にして、二つの莫大な呪力が渋谷に一極集中する。
そして――、
「――『伏魔御廚子』」
「『無量空処』」
次の瞬間、世界を刻む斬撃に満ちた絶死の空間と、その中心に極小の黒い球体が顕現した。
「――――『下げろ』」