更新に1週間以上間を置いてしまい申し訳ありません。
活動報告にも投稿しましたが、先日の豪雨災害の後始末に追われていたため、執筆が滞っておりました。
本日からはまた通常通りに投稿していきたいと思います。
これからも本作をよろしくお願いいたします。
――五条悟と両面宿儺の天地分け目の決闘が始まったのと同時刻。
「“閉じない領域”で領域勝負に対して圧倒的優位に立てる宿儺に対し、五条は想定通り極限まで結界の半径を絞った領域で対抗した」
「1ヶ月の鍛錬期間で“閉じない領域”を習得できなかったことで考案せざるを得なかった苦肉の策だけどな」
高専勢力の呪術師達は、特級術師乙骨憂太の式神「リカ」の体内で、二人の怪獣大決戦を観戦していた。
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――11月16日から12月24日までの間、五条悟を含めた高専術師は対宿儺戦に向けた鍛錬を行っている。
憂憂が術式を拡大解釈したことで体得した「魂の入れ替え」の技術を惜しみなく――姉の冥冥は通常ならここぞとばかりに金をせびってくるが、世界滅亡の瀬戸際ではそんなことは言っていられない――利用した、短期間での呪術の半強制的習得法。
すなわち、精緻な呪力操作、簡易領域、反転術式など、呪いの王と相対するのに絶対不可欠な技術をあらかじめ有する術師の魂と、使用のできない術師の魂を入れ替える。そうして入れ替わった術師がその肉体で呪術を使用することにより、肉体自体に呪術の経験が蓄積されるのだ。
この修行によって、例えば虎杖や釘崎は反転術式および簡易領域の基礎、伏黒は領域を閉じる技術を体得したのだが――困ったことに、最重要課題であった五条の“閉じない領域”の習得は為せていない。
というのも、これは五条の呪術センスが悪かったわけではない。単純に“閉じない領域”を味方側で唯一使用できる術師、八百歳比名子との入れ替えが出来なかったことが原因だ。
呪物および受肉される器は、裏梅のように羂索に頼み込んだ場合を除き、性別は統一される。
男女では身体機能や筋力差が大きく、受肉前後で生じる肉体動作の齟齬をできるだけ低減するため、というのももちろんある。だが呪物は、虎杖のように器としての強度が極めて大きい場合を除き、その肉体構造自体を呪物自体のものにリメイクすることが可能である。
にもかかわらず羂索がわざわざ性別を選んで呪物を受肉させたのは、そもそも男女では魂の相性が悪いことが一因だ。
肉体の形が違えば魂の形も違う――上述の筋量のほか、ホルモンの働きや脂肪のつき方、骨格からして形態が異なる男女では、魂の形を構成する土台がそもそも違う。
故に、魂について知り尽くした羂索の手が加わらない限り、男の肉体に女の魂を、女の肉体に男の魂を入れることは極めて難しいのである。
「比名子の肉体に三十路間際の男の魂を入れるなんてありえないので結果オーライですかねー」
「笑い話じゃないわよ、気持ちは分かるけど」
五条と比名子の入れ替え修業が失敗に終わったことを知った汐莉がけらけらと笑い、釘崎が頭を抱える。勿論汐莉とて五条が“閉じない領域”なしで宿儺と戦う羽目になっているのはかなり不味いと分かっているが、それはそれ、これはこれである。
――比名子による五条への“閉じない領域”のレクチャーは混迷を極めた。
結界術に重要なのは何より“具体的なイメージ”――“閉じない領域”は結界術を用いないので厳密には当てはまらないのだが、どちらにせよその発動には世界を生得領域で塗り替えるイメージが無ければ話にならない。
入れ替え修業が不可能であった以上、当然比名子は口頭と実践でそのコツを教示しなければならない。が、そもそも比名子は十数日間で五条や宿儺の域に片足を突っ込む感覚派の天才。
「初めからなんでもできる天才タイプはマジで教えるの向かない」とは高専教師の日下部の言だが、比名子も例によってこのタイプである。
それ故、自身の感覚的な理解を前提とした技術の説明は途端に困難になる。「領域を結界で閉じずに展開する」とかいう意味不明な技術、極めて高度な感覚的理解が必須となることは説明するまでもなかろう。
勿論、基礎事項や論理の通った推察を筋道立てて解説することは出来るのだが――、
『えっと、えと、その、自分の心の中をその、ぶわーって世界に広げるみたいな……それで、世界の全部は自分のものだって確信するような感じで、それで、えっと……』
『わがんね』
『ご、ごめんなさい……』
こんな会話がありながらもあれこれ努力し、家入が横から『センスねー』と軽口を叩いてくるのを後目に練習を重ねるも、一向に成果は上げられなかった。
――その果てに編み出したのがバスケットボール以下のサイズの極小領域だ。
通常の“閉じる領域”は体積次第で精度・強度が変わる。小さくすればするほど閉じ込められるオブジェクトの数も減るが、その分強い結界になる。
ただバスケットボール程度の容積の結界に人間を閉じ込めるなど、具体的なイメージが重要な結界術では普通成り立たない――が、手のひらサイズの「獄門疆」に閉じ込められたことのある五条は、その時の経験を活かして無理な条件設定を可能にしている。
そのような経緯で習得した、現状五条悟のみが展開可能な小さい領域は――、
「……耐えてるね」
真剣な面持ちで人外共の戦闘を観察する術師達の静寂を切り裂く冥冥の声。モニターの先、宿儺の「伏魔御廚子」によって猛烈な勢いで削られる「無量空処」の外郭は、その形を保ったまま持ちこたえている。
高専勢力は、固唾を呑んでその様子を見守りながら思考を巡らせていた。
「現状最硬の結界でも為す術なく破壊されるってことが起こらなくて、一先ず安心……でしょうか?」
「なんか、オーバースペックな気もするけど。あの模擬戦の後も色々やってたけど、悟ちゃんが領域の対内外条件を逆転させるだけでヒナちゃん太刀打ちできなくなってたじゃん」
「宿儺対策にオーバーなんて概念は無いよ。いくら今の比名子がヤバくても、宿儺は絶対その上を行く」
「負の信頼がすげぇな。……ともあれ、現状の五条は領域内での殴り合いに勝つ以外に勝ち筋がない。
「悟には『無下限呪術』による絶対不可侵があるでしょう。前提となる殴り合い自体成立しないのでは?」
「しゃけ、しゃけ」
「近江さんと狗巻君の言うとおりだと思います。領域の押し合いで消えるのは領域付与された必中術式だけ。ニュートラルな“無限”は変わらず使用できるはずです」
「いや、先程の戦闘でも見た通り、宿儺は領域展延によって“無限”を中和できるだろう。俺の感覚でしか言えないが、領域を展開したからといって展延が使えないなんてことは無いと思うぞ」
「五条悟が魂の輪郭を捉える技術を得ているとはいえ、そもそも
「腕の数が倍ある宿儺は、単なる格闘戦ですら優位性を保てるわけか。やっぱ俺も一辺戦ってみてぇな」
「五条と言い宿儺と言い、最強って言われる奴は当然二物も三物も与えられてるっちゅーことか……おい、どうした社。隅っこで縮こまって」
「あたし分かるよ。昔傷つけた
途中、余計なことを言った椿が美胡にねじ伏せられるハプニングが挟まれる。
時折軽口を叩き、くだらないことで罵り合い、世界の命運がかかった戦いの最中だというのに妙に騒がしいその光景は、さながら吞気にスポーツ観戦をしているかのようだ。
勿論、誰一人として遊んでいるわけではない。
五条悟が敗北した場合、その瞬間からこの場の全員が戦闘要員になる。
両面宿儺は、万全であれば「リカ」の中の術師・妖怪全員をまとめて相手取ったところで鎧袖一触だ。
故に、五条悟には宿儺に勝ってもらわねばならない。勝てなくても、少なくとも極限まで……残りの面子と戦いが成立する程度には、消耗させてもらわねば。
そうして、五条によって弱った宿儺に、間髪入れずに追撃を叩き込む――それが、限りなく細い勝利の糸を掴むための唯一の術だ。
「だからこそ、領域内での殴り合いが重要になる」
「リカ」の体内に用意された小さな椅子、それにどっかり座って足を組む秤が重々しく呟く。
画面の向こうでは、「無量空処」と「伏魔御廚子」が互いを喰らい合っている。
領域の外殻を削ぎ削る「伏魔御廚子」の対抗で、外周を極限まで縮める縛りで強度を底上げされた「無量空処」。
ならば、結界が耐えている間に、領域内で五条が宿儺を叩き伏せられるか――勝負の焦点は、そこに集約される。
「……2分」
両者の領域が展開された瞬間から時間をまめに測っていた冥冥が、手持ちの時計をちらりと見やる。
「2分20秒」
「まだ保ってる」
極小の黒い球体と、それに絶え間なく浴びせられる斬撃のギャリギャリという音。
モニターから得られる視覚情報と聴覚情報がそれ以外になくなり、変わらない状況にじりじりと精神が灼かれる感覚を、この場のほとんどが感じ始める。
――そして、領域勝負が始まって、2分30秒が経過したその時。
「――――マジかっ!?」
虎杖の、驚愕と悲痛が綯い交ぜになった叫び声が響く。
――直後、モニターの中で世界が砕けた。
「無量空処」の外殻、それまで何とかその形を保っていた結界が、限界を迎える。
斬撃により僅かに入った切れ込み、それが伝播するように全体に広がり、次の瞬間にはガラス細工のように砕け散ったのだ。
無数の結界の破片が、光を反射しながら宙を舞う。
その中心から――、
「――――ッ!!」
苦鳴を漏らす暇もなく、何かが勢いよく吹き飛ぶ。
否、何かではない。人だ。長身に白い髪、その者を見間違えるはずがない。
「五条先生……!」
それは、現代最強の術師が、凄まじい勢いで領域から弾き飛ばされる姿。
その光景が示す、明白な答え。
――領域内の殴り合いで五条悟が敗北したという、認め難い真実が如実に表されていた。
「――ケヒッ、クックックッ」
そして、無様な姿を晒した敗北者に、呪いの王が容赦をすることは無い。
宿儺の「伏魔御廚子」。領域が健在である以上、その必中効果たる斬撃もまた健在。
「無量空処」が崩壊した瞬間、待ち構えていたかの如く五条悟の全身に斬撃が殺到した。
「――――」
無数の斬撃、それは目に見えるものではない。ただ、結果だけが五条の体に刻み込まれていく。
肩。
胸。
腹。
足。
腕。
次から次へと走る傷口から血が噴き出し、黒い服と白いズボンを瞬く間に赤く染め上げる。
領域展開直後の術式の焼き切れ。「無下限呪術」の使用困難。
それは即ち、五条悟を最強たらしめる絶対防御――“無限”による絶対不可侵の不在を意味する。
「宿儺の領域は結界を閉じないから、逃げ切るのは比較的容易だろうが……」
「そんなもの、比名子がやって見せたように逃げるところを妨害されて終わりでしょう」
脹相が口にした言葉を、直後に汐莉がばっさりと切り捨てる。
“閉じない領域”の弱点は、領域の外に逃げられること。ならば領域を展開している術師自ら逃走経路を潰す。比名子との模擬戦で、五条自身が経験していることだ。
故に――、
「――『落花の情』」
五条の周囲で呪力が揺らぐ。御三家に伝わる領域対策、触れた物を自動的に弾く呪力操作のプログラムだ。
「簡易領域」とは違い、相手の領域自体の干渉によって剥がされることがない。故に、物理攻撃が直接飛来するタイプの必中術式に対しては極めて有効だ。
それは、以前比名子の「死累累湧軍」による式神攻撃を完璧に防ぎ切った恐るべき防壁で――、
「けど、宿儺相手じゃ比名子と同じようにはいかない」
確かに、肉を刻むほどであった斬撃は幾分か和らいでいる。
だが、完全に無効化は出来ない。威力が高すぎる。速度が速すぎる。弾き切れなかった斬撃は、なおも五条の体へ食い込んだ。
頬を断ち、腕を斬り、背中を裂き、細かな傷を全身に刻み付けていく。
――それでも、五条悟は止まらない。
「反転術式……!」
「だが宿儺の領域の中にいる限り斬撃は続く!」
失われた肉が反転術式により戻り、流れ出した血が止まり、傷口が塞がり、なおも対応できない勢いで切り傷が増え続ける。
――当然、そんな状態をただ放置する宿儺ではない。
「終わりだな」
天上天下唯我独尊。現代最強の術師に向け、呪いの王は尊大に終焉を叩きつける。
そして、その言葉が放たれた瞬間――対峙する今昔の最強達の距離が消滅し、筋肉に膨れ上がった四本の腕が世界を震撼させる。
拳、拳、拳。互いの肉体を叩き潰すような、純粋極まりない近接戦闘――だが、それを観戦する全員が、その殴り合いの行く末を理解している。
「……クソッ!」
五条悟には明確な不利がある。
「無下限呪術」が使えない――それは、“無限”の防御が使用できないことだけを意味するものではない。
術式順転「蒼」――空間を引き寄せる吸い込みの反応を応用した、五条悟独自の格闘術もまた、今は使えない。
すなわち、純粋な肉弾戦。術式による補助を失ったただの殴り合い――そしてその条件において、宿儺は四本の腕を持つ。
四腕に生まれた宿儺の肉体は、四腕を振るうに最も適した肉体を形成している。それを基幹とする戦闘技術の前には、一撃を放てば体が開いて隙が生じる常識も、片腕を防げばそちらに回り込んで死角を得られる常識も通用しない。
四肢を操る普通の人間とは、宿儺の格闘術は前提から異なるのだ。
拳が交差する。五条の拳を宿儺が受け止め、そのまま宿儺の別の腕が五条の腕を掴む。
五条の両腕を封じ、なおも残った二本の腕。そこから繰り出される拳が、五条の顔面に直撃する。
次の瞬間には、五条の長身が地面を跳ねながら吹き飛ばされていた。
「五条先生!!」
再び「リカ」の中に響く虎杖の叫び。モニター越しでも、今の五条が明らかに押されていることがわかる。
魂を捉えるどころではない。汐莉の血を飲んで魂の輪郭を打つ技術を得ても、そもそも攻撃を当てるための間合いに入れない。
防御を失い、攻撃手段を削られ、純粋な格闘で史上最強の術師と戦わされる絶望的な状況に、誰もがどこかであり得ないと思っていた“五条悟 敗北”の可能性が脳裏に強く駆け巡る。
――と。唐突に、五条の反転術式による傷の回復が止まった。
「反転術式での治癒が……?」
「呪力の限界? いやこれは……」
「八百歳と戦った時に五条さんがやってたやつか!」
弾かれたように顔を上げた猪野が口に出した可能性。
五条が比名子との模擬戦で見せた、あまりにも正気からかけ離れた術式修繕法――右脳の前頭前野辺りに存在する術式の刻印を自らの呪力によって破壊し、即座に反転術式で治療する。
そうすれば、オーバーヒートしていた術式も再び使用可能な状態に戻る。
――理屈を並べれば単純だが、実際にやるとなれば狂気の沙汰でしかない。
「……あれ、もう一回やる気ですか?」
「やる気っつーか……やらなきゃ死ぬんだろ」
口を押さえ、顔を青くして呟く来栖の言葉に返す虎杖の声は低い。
脳のスクラップアンドビルドと言って過言ではないそれは、使えば逆転できる技でもなければ、成功する保証があるわけでもない。
むしろ、術式を再使用できるようになる前に自分自身が致命的な損傷を追う可能性すらある。
そんな、一回だけでもリスクの高すぎる技術を躊躇なく切る五条――その狂気の戦術を目の当たりにしてもなお、宿儺の精神は平静だ。
「――――」
圧倒的な呪力量と出力、呪力効率に術式運用。呪いの王を王たらしめるそれらの能力――だが両面宿儺の有する能力において最も恐るべきは、その学習能力だろう。
羂索の手を借り魂を呪物として切り分けた宿儺は、その一度の機会で呪物の成り方を学習した。当然、五条が披露した術式復旧の原理も、一度見ただけで理解している。
――そして、その上で宿儺は対応可能だと判断している。
「無下限呪術」が復活したとて、今の状況が覆ることはない。
拳で戦えば、四本の腕を十全に扱える宿儺に分がある。
術式で攻撃しても、宿儺には領域展延がある。
ならば、五条が術式を戻すことは、宿儺を追い詰める決定打にはなり得ない。
故に宿儺は拳の勢いを緩めず、弱る五条の顔面を叩き潰すに十分な威力の一撃を――、
「――――『動くな』」
――声が、した。
間違いなく、五条の口から漏れた音だった。
しかし、それは、五条悟の声では断じてない。
それは凛としていて、美しく、それでいてぞっとするほど呪いを孕んだ女の声で――、
「――――?」
宿儺の体が止まった。
振り下ろされるはずだった拳が、空中でぴたりと停止する。
糸を切られた人形ではなく――まるで、糸で中空に縫い留められた操り人形のように。
「――“位相” “波羅蜜” “光の柱”」
悠々と掲げられた五条の右手。
その指先に生まれる赤。
圧縮され、凝集され、逃げ場を失った呪力が、一個の真紅の球体へと収束していく。
「術式反転――」
宿儺の目が見開かれる。
依然維持される領域展延。だが詠唱によって威力を底上げされたうえ、魂を捉える技を上乗せされたソレを、展延で中和しきれるはずもなく――、
「――『赫』」
――瞬間、紅い光が炸裂し、生じた無限の発散が宿儺の体を呑み込む。
為す術も、抵抗も、その全てが許されず、2メートルを優に超す宿儺の巨体はもんどりうって衝撃に弾き飛ばされた。
「――――ッ!!」
吹き飛ばされたその先に存在するは「伏魔御廚子」によって顕現した調理場。
骨と歯と呪い、人が本能的に嫌悪するモノを無秩序に積み上げ、組み合わせ、形にした禍々しい御廚子――その中央に勢いよく叩きつけられ、背中から血がしぶく。
そして、領域展開で生じる単なるシンボルである故、破壊不可能なオブジェクト――そうであるはずの御廚子が、宿儺が激突した箇所を起点に、轟音を立てて揺らぐ。
柱が折れ、屋根が崩れ、瞬く間に崩落していく。
――おそらくもって、史上初。
史上最強の呪いの王の領域が、それを維持できなくなるほどのダメージによって破壊された瞬間であった。
「――今の、一撃……」
食らうはずのない攻撃だったと、宿儺は思案する。
当然だ。詠唱という隙を晒す行為を挟んだ一撃、宿儺の機動力であればいとも容易く回避できる。
食らった理由はただ一つ、五条悟の口から発せられた女の声。
宿儺を縫い留めた、「動くな」のあの言葉。
その声を、宿儺は知っている。
何故ならほんの1ヶ月前、宿儺はまさにその女の体に受肉していて――、
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「がほ、ごぼ、げぼっ……」
絶望的な戦況に再び均衡が戻ったその瞬間、「リカ」の中に唐突な咳が響き渡った。
――否、それは咳などではない。肉体に尋常ならざる負荷が走り、喉を起点として全身が張り裂けた少女が、溢れた血にむせながら発した苦鳴だ。
「――近江!!」
誰もがその苦鳴に振り返る中、いち早く虎杖が彼女に駆け寄る。
弾け飛んで血飛沫に全身を汚すその有様にこみ上げる吐き気を無理やり呑み込み、虎杖はそのまま介抱しようとする。
そんな状況にあってなお、宿儺を縫い留めた彼女――近江汐莉は、笑っていた。
「…………く、くくくく」
五条悟が宿儺に叩き込んだ「赫」。
その直前に、宿儺の動きを完全に停止させた「――『動くな』」。
あれこそが、この一撃を成立させるための切り札だった。
妖怪という種族が押し並べて有する
その性質を利用すれば、狗巻家相伝術式「呪言」と似た使い方をすることもできる。
ひと月前、宿儺が汐莉の肉体を乗っ取った時。
汐莉の肉体は、宿儺が彼女の肉体を使って放った「呪言」を――その使い方ごと、記憶していたのだ。
「――戦いの前、ボイスレコーダーに汐莉の『呪言』を仕込ませた」
それを僕が飲み込んでおいて、今起動させたのさ――五条の声が、戦場から響く。
狗巻棘の「呪言」は電話越しでも、録音された音声でも、術式として成立する。――ならば、妖怪の「呪言」でも同じなのではないだろうか。
五条悟はそう着目し、宿儺の想定の外側から飛び込む一手として用意したそのレコーダー――その秘策は、完璧に炸裂した。
当然、それはノーリスクではない。
存在の格に天と地の差がある宿儺と汐莉。にもかかわらず動きを止める「呪言」などを叩き込めば、反動として降りかかる代償は――、
「普通なら、死んでる」
家入が静かに告げた。
反論は、ない。肉体が爆ぜている汐莉を見れば、それは明らかだろうから。
――だが、汐莉は人魚だ。
傷つけば戻り、壊れれば再生する不死身の肉体。それ故に、通常ならば死を免れない反動を、彼女は生きて踏み倒せる。
「げほっ……!」
また、汐莉が苦しそうに咳込む。人魚としての再生能力によって急速に修復される肉体は、なおも癒しきれないダメージに血を流し続ける。
それでも、彼女は笑っていた。何度も呼吸を繰り返し、震える体を支えながら――嬉しそうに。
ようやく。
ようやく叩き込めた。
忌々しい宿儺へ、明確な有効打を。
絶望しかなかった戦場に、漸く確かな光が差し込む。
「……仕切り直しです」
――音には、ならなかった。
壊れた喉では、言葉として発することすらままならない。
けれどその声は、確かに「リカ」の中にいる全員へ届いていた。
――五条悟と両面宿儺。
その天地分け目の決闘は、今、その天秤をほんの僅かに傾け始めていた。
「――――『下げろ』」
「――『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』『下げろ』」